【R18】渾沌の七竅

無憂

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一竅

18、休暇のおみやげ

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 事件は、その十日後に起きた。

 例の末席の侍女、カリンは、その日朝から休暇だと言ってシウリンの部屋に来なかった。前日から、他の二人の侍女が給金の一部を渡して、あれこれと買い物を頼んでいるのを、シウリンは横目で見ていた。
 戒律によって僧侶は商売が禁じられ、貨幣に触れることができない。僧院は基本自給自足であり、足りない物は他の僧院と物々交換で調達するか、あるいは俗人の寄付に頼るのみ。聖地では、貨幣は〈港〉の周辺で通用するだけで、もちろん、シウリンは目にしたこともなかった。シウリンは、侍女たちがやり取りしているあの金属の丸い物はいったい何なのだろうと、不思議に思っていた。

 ゲルの担当の日、シウリンはゲルに尋ねる。あの金属の丸いひらぺったい物は何か。

「それは貨幣です。働くと給金として支払われ、欲しい物と交換することができます」

 何故、あの小さな丸い物を媒介するのか。

「一つには、労働は単純には物に換算できませんから、労働に対する対価としては、金銭の方が便利です。また腐りませんので、遠方に運んだりするも都合がよいです。例えば、生の魚は腐りやすいから遠方には運べません。魚を港付近で売って貨幣に替えてしまえば、それを持って南方の砂糖や、陶磁器を買うこともできます。魚のままでは南方に持って行く間に腐って価値がなくなってしまいます」

 なるほど、とシウリンは思った。帝国は広い。各地の産物が流通しなければ、大帝国の意味がない。

「こうして帝国の地理の話をしていると、閉じ込められているのは気にならないが、旅に出たくなるな。……でも、もう転移門ゲートは通りたくないけれど」

 ゲルも転移門に魔力酔いを起こしたクチなので、それに賛同した。
 ゲルはこの「新しい」ユエリン皇子の利発さには目を瞠っていた。そして同時に、デュクトのやり方に呆れていた。皇子が習字や絵画といった貴族の趣味を上手にこなさないことを責め、周囲の侍女や宦官との交流も制限しようとする。肉ばかり食べさせようと躍起になっているのに至っては、全く意味がわからない。

 ゲルは、デュクトが「かつてのユエリン皇子」を蘇えらせようとしているのではないかと、疑っていた。
 肉と甘い物が好きで、野菜が嫌いだったユエリン皇子。習字や絵画、音楽には天分を発揮したが、努力が嫌いで勉強はサボってばかりだったユエリン皇子。侍女や宦官を見下し、家畜か塵芥のように扱ったユエリン皇子。

 落馬事故以前、ゲルは何度も、皇子から故のない折檻を受ける宦官を見たことがある。名門ソアレス家の出身のデュクトや、曲がりなりにも貴種であるゲルには皇子も遠慮があったのか、暴力を振るったことはないが、その分の鬱憤はすべて周囲の宦官たちに向けられた。今思えば、皇子は何をあんなにイライラしていたのだろうか。何を焦っていたのか、何に怒っていたのか。高貴な血筋にか。輝かしい未来にか。溢れるほどの贅沢な物たちにか。

 自らが育った場所より理不尽に引き離された、新しいユエリン皇子は、宦官や侍女を同じ人間として扱い、彼らの働きに感謝し、彼らを気遣い、食事や菓子も分かち合おうとする。

 デュクトはそれを甘やかしだと批判するが、ゲルはそうは思わない。彼は今、皇子となって有り余る物を施そうとしているのではない。かつて僧院の見習い僧侶であったときから、少ない食べものを分け合って生きてきたのだろう。彼にとって、それは当然のことなのだ。

 食べ物を分け与えられ、親切にされた宦官や侍女がシウリンに心酔するように、ゲルもまた、すでにシウリンに心酔していた。
 
「今日は、ゲルも夕食を食べていってくれ」

 シウリンは邪気のない笑顔でゲルを誘う。ゲルは、一人で食べるのは味気ない、というシウリンの気持ちがわかるので、可能な限り申し出を受けることにしている。デュクトが自分は誘われないことに不満を漏らしているらしいが、マナーへの苦言しか呈さない人間と、皇子が食事をしたがるわけがない。ゲルは、デュクトの不満を単なるやっかみだと、無視した。

 運ばれてきた夕食は品数こそ多いものの、シウリンの好みに合わせて野菜中心に変えられつつある。シウリンが特に好んで食べるのは豆腐だ。それと卵。肉はあっさりした鶏肉か、もしくは魚を好んだ。

 今夜のメインは魚である。大きな淡水魚をまるごと揚げて、上からとろりとした野菜の餡をかけた料理。白身にとろみのある餡が絡んでうまい。

「ゲルを誘ってよかったな。こんな大きな魚、一人では食べられない」

 ゲルが海水魚と淡水魚の違いについて語り、帝都近郊の川へ釣りに行ったときの話をすると、シウリンは瞳を煌めかせて聞き入った。

「僕、船に乗って釣りをしたことはないんだ。やなを仕掛けてウナギはよく捕ったけれど」
「ウナギなんて捕まえて、どうするのです?」
「捌くのが上手い人がいるんだよ。西ではぶつ切りにして煮るらしいけれど、僕は東のやり方の方がすきだなぁ」
「夏になりましたら、帝都のウナギ屋から取り寄せましょう」

 夏になったら釣りに行こうとか、ゲルが楽しい約束をすると、シウリンは嬉しそうに笑った。あの堅物のデュクトが許可を出すとは思えなかったが、ゲルとしては、仲間や知り合いから無理矢理引き離され、皇宮の一室に虜囚のように軟禁されているこの皇子に、できる限りの楽しい時間を与えてやりたいと思うのだ。

 食後のお茶を運んできた侍女が、シウリンに言う。

「殿下、実は殿下にお渡ししたいものがあるんです」

 シウリンがきょとんとして聞いた。
 
「僕に? 何?」

 見ると、今日休暇だったはずのカリンも含めて、三人の侍女が並んでいる。そして、一番年若い、休暇帰りのカリンが、竹籠を差し出した。

「お母さんに頼んで、蕎麦粉入りの焼き菓子を焼いてもらったんです。あと、帝都の有名なお店のお菓子もいくつか、私たちのお給金を出し合って買いました。いつもよくして下さるほんの、お礼です」

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