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3、開戦に向けて

文官の戦い

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 女王国侵攻の最前線基地はシルルッサに置かれたが、兵站へいたんの基地と司令部はソリスティアに置かれている。恭親王は物資の輸送と兵員の補充を円滑に行うべく、シルルッサとソリスティアとを往復することにした。――というのは名目で、彼は出来る限り、アデライードの側を離れたくなかったからだ。そんな思惑など、悪友たちにはすっかりバレていて、自分だけ新妻とイチャついて不公平だと、ぶつぶつ文句を言う彼らを宥めるために、彼は飼っている蛇女たちをシルルッサに常駐させた。当たり前のように清談に誘われたが、頑として断る恭親王に廉郡王が目を丸くする。

「アデライード以外とするなんて、時間と精子の無駄だ。私はいいから、君たちだけでやってくれ」
「ユエリン、本気で言ってんのか? 骨抜きってレベルじゃねぇぞ!」

 廉郡王もかつて、偽のつがいとはいえ、唯一の女がいたはずなのに、彼の性豪ぶりは相変わらずである。

(そう言えば、グインは例の彼女以外でもつんだな……)

 やはりそこはあくまで偽のつがいだからなのか、あるいは個人差なのか。二人の恋の結末を知る恭親王は、しかしその疑問を口に出すことはできなかった。






 ソリスティアに派遣された禁軍五万の腹を満たす、兵站の責任者として、廉郡王の侍従文官のゲルフィンはソリスティアの総督府に詰めることになった。彼はゲスト家の嫡子にしてトルフィンの従兄であり、黒髪を額の中央でぴっちりと分けて椿油で撫でつけ、嫌みったらしい片眼鏡モノクルを着けている。書画骨董を偏愛する彼は、真っ先に総督の書斎を訪れて、膨大な蔵書に興奮気味であった。

「これは、聞きしに勝りますな……トルフィン、こんな素晴らしい書籍に毎日囲まれて過ごすなど、羨ましすぎる。あるじを取り換えようではないか」
「またわけのわからないことを……」

 この文系の侍従文官と体育会系の脳筋皇子は、全く話がかみ合わない。お互い相手を尊重し、敬して遠ざけ合う関係にある。

「まあ、俺はゼクト殿のことも頼まれているからな。こちらで仕事ができるのは都合がいい」

 ゲルフィンが神経質そうな頬骨の高い顔を少し微笑ませる。ゼクトは、廉郡王の正傅で、恭親王の亡き正傅デュクトの従兄である。南方征伐の折りに異民族の捕虜となって身体を壊し、ずっと療養生活を送っている。廉郡王はこの機会に、聖地の治癒魔法師の治療を受けさせたいと考え、遠征に同道したのだ。

「太陽神殿まで行かなくても、マニ僧都様と姫君で十分じゃないですかね?」

 大量の帳簿をチェックしながら、トルフィンが言った。何気に総督府には術者が揃っている。重症者は総督府に回してもらえれば、医薬品の類いは節約できるなと、トルフィンもなかなかにセコいことを考えていた。遠征軍の兵站はこの二人が中心になり、エンロンの協力を得ながら進めることになる。セルフィーノら商人がナキアで買い集めた糧食のリストと合わせ、管理する。ゲルフィンは帳簿に目を通し、小さく口笛を吹いた。

「さすが、貧乏舌では並ぶ者のない恭親王殿下、抜け目なく最安値の糧食を買い込んでいるな。……糧食をこんなにも敵に買い取らせてしまうなんて、ナキアの奴らも暢気のんきだな」
「ナキア……というか西では、ここ三百年ほど、まともな戦争も起きていないんですよ。戦争なんて、どこか別世界の話、街が攻められるなんて、想像もしてないんでしょう」
「まず食い物から確保する恭親王殿下も、皇子とは思えぬほどの意地汚さではあるが……」

 兵站に対してここまで気を配る皇子はいない。普通は部下に丸投げである。そのためにゲルフィンのような侍従文官がいるのだから。しかし、恭親王は何よりもまず、軍糧と戦争資材、医薬品等の確保に走る。――以前、北方の異民族の虜囚となったときに、配下の者を飢えさせたことが余程こたえたらしい。

 その現実的で泥臭い――むしろ貧乏くさい――堅実さの一方で、時に突拍子もないほど果断で、無謀とも言える攻勢に撃って出る。弱き者たちに対しては時に甘いと思われるほどの同情を寄せながら、だが限りなく非情で、残酷ですらある。

 今回も、二千年来の難攻不落を謳われるカンダハルを、敢えて女王国攻略の最初の標的に選んだ。ナキアの側では、カンダハルの防衛には鉄壁の自信を持っているだろう。何しろ、ソリスティアからの諜報によれば、ナキア政府は国防予算のほぼ三分の一を、カンダハル防衛に割り当てているというのだから。

 ゲルフィンは兵法については通り一片の知識しかないが、それでもカンダハルの防備は完璧に見える。巨大な城壁は「海の神獣ケートス」とも呼ばれ、敵の艦隊を寄せ付けない。カンダハル自身に海軍が常駐していることはもちろん、近隣の海港都市の軍隊は全てカンダルの指揮下に置かれており、招集をかければ直ちにカンダハルの救援に向かう盟約が交わされて、カンダハルを囲めばそれら海港都市の連合艦隊に逆包囲されかねない。
 
 むしろ、女王国はカンダハルの防衛に過剰に注力していると言えなくもなく、内陸部の街道防衛などはおざなりになっている。在地の領主権力が強すぎて、中央政府が踏み込めないからだ。定石じょうせきとしてはレイノークス辺境伯領を拠点に、西へと向かう街道沿いを陸路で攻め込むのが正解であろうと、ゲルフィンも思う。

 恭親王がその定石を捨てたのは、彼の甘さ故ーー本人的にはいろいろと言い訳はあるのだろうが――であろうと、ゲルフィンは見ていた。

 春から初夏に向かうこの時期は、秋蒔きの麦が収穫期を迎える。こんな時に陸路を侵攻すれば、周辺一帯の農民は収穫間際の麦畑を捨てて、山か領主の城に逃げ込まざるを得ない。間違いなく、この冬は飢餓にあえぐことになるだろう。
 春夏の農繁期に開戦に踏み切ったのは、そこまで事態が逼迫していると、恭親王が認識しているからだ。聞かされたイフリート公爵の野望とやらは、現実主義者のゲルフィンにはサッパリ理解不能であったが、頭のおかしい奴を一秒たりとも野放しにすべきでないことはよくわかる。ならばせめて民衆に被害を及ぼさぬよう、陸路という選択を放棄したのだ。

 その一方で、恭親王はレイノークス伯ユリウスを通じて、海沿いの小都市国家群をアデライード支持に寝返らせることに成功していた。この結果、途中で邪魔されずにカンダハルに到着でき、艦隊の寄港地や補給路も確保できた。〈聖婚〉が決定してからのおよそ半年超を、恭親王とユリウスはその工作に費やしてきた。――莫大な資金と、労力と人脈を利用して。年明けに、恭親王自らがシルルッサに立ち寄って小領主や海港都市の指導者と対面したのが決定打になった。

 ――民衆への被害を最小にして、ナキアを手中にする。
 些か無謀とも思えるカンダハル攻略を決定したのは、恭親王のこの「甘さ」故だ。冷酷にも見える美貌と、とんでもない噂で糊塗されているが、恭親王の本質は南方渡の砂糖のように、「甘っちょろい」と、ゲルフィンはつくづく呆れていた。

 ゲルフィンは帳簿を一通りチェックすると、従弟に指示を出す。
 勝敗は兵站によって決まる。――恭親王の華々しい戦績は、兵を飢えさせない、という強い信念の元に打ち立てられている。それもまた、彼の「甘さ」。文官である彼らの価値を熟知し、その支えの上で勝利は初めて獲得されると、恭親王は信じている。その信頼にこたえるべく、ゲルフィンらの闘いはもう始まっているのだ。
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