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6,夏至
夜明け前
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ユキエルの案内で発見現場に向かいながら、廉郡王はエルドに尋ねる。
「ユインとノインの母親は――ああ、昨年死んだんだっけな」
「はい。その後は第二妃である殿下の母君が面倒を見ておられましたが、皇太子殿下も二人に興味が薄くて……母君が何度も、傅役かせめて侍従を付けるべきだと進言なさったのですが、結局うやむやのままで……」
相変わらず、彼の父親は彼以外の息子たちに興味を示さないままであったらしい。廉郡王は舌打ちする。
彼の一つ上の異母兄もまた、父親に半ば無視されて、傅役もつけられなかったのだ。彼は昔から、自分一人だけをあからさまに特別扱いする父親が鬱陶しくてたまらなかった。
すぐ下の弟皇子二人には、彼やゼクト、ゲルフィンが骨を折って何とか傅役を見繕ってやったが、その下の弟たちのことまでは、彼自身も忙しくて面倒を見きれていなかった。成人してからは父親が鬱陶しくて遊び歩いて東宮に寄りつかなかったから、幼い弟たちの顔など、年に数回見るかどうか。
廉郡王は一年ほど前に会ったはずの弟たちについて必死に思い出す。ユインが十四で、ノインが十二かそこらのはずだ。
「おふくろが煩く言っても、侍従もつけないなんて……あの親父は本当に何考えてたんだか」
目頭を揉みながら廉郡王が溜息をつく。エルドも苦い顔で言った。
「ここ数年、陛下は幾度も、廃嫡にして恭親王殿下を皇太子に冊立することを近臣に謀っておられたようで――その噂を聞いてはますます頑なになられて」
「それでユエリンと賢親王の叔父上を逆恨みかよ。自分の息子の面倒もまともに見られないのに、天下万民の主が務まるわけねーだろうに」
皇帝との父子関係の歪みが、自身と子供たちとの関係にも影響していたのではないか。そんなことをエルドが言う。
「皇太子には立てられたものの、陛下が賢親王殿下ばかりを信頼しておられるのは、傍目にも明らかでございましたから。殿下お一人だけを溺愛するのも、あるいは父親の愛情を得られなかった自身への投影かもしれないと、私などは思っておりました」
だが廉郡王は父親に同情する気は起きなかった。兄弟の中で一人だけ愛されることも迷惑であったし、大事な異母兄を蔑ろにした父が許せなかった。弟たちともあからさまに差別待遇を見せつけられ、贔屓にされる彼は不愉快でしかない。そんな理由で、弟たちとも距離を置いていたのだが――。
「何だってそんな復壁の中になんて……」
彼が歪んだ父子関係から逃げたおかげで、弟たちが死にかけているという、最悪の事態。だが、東宮にも侍女も宦官もいるし、兄弟の生母は死んだとはいえ、廉郡王の母妃だっている。どうして止められなかったのか。
「――閨房の教えの時期でございますから、女たちの目が届きにくかったかもしれません」
「そろそろ秀女を招いたりなんてことも、やってなさそうだな」
龍種である皇子たちは十歳を過ぎるころから閨房術の訓練に入る。その時期は閨房の教えを受け持つ閨女以外の平民の女は、近づけることができない。皇子の周囲は宦官と侍従官らに固められることになるが、兄弟には侍従どころか傅役すら付けられていなかった。
「宦官たちは何か言っていないのか?」
「それが、……東宮の宦官で、最近、不審な死に方をしたのが三人はいるらしいのです。……それも全員、皇子殿下がたの世話役をしていた者たちで……」
「とんでもねぇ伏魔殿じゃねぇかよ……」
皇子たちの住まう奥宮には、例の黒衣の魔術師やらも出入りしていたらしい。
(方士やら魔術師やらと、親父が何かやらかしていたってことか。それに弟が巻き込まれて――?)
奥の宮はやたら黒い布で覆われていたり、怪しい薬草の香りが残っていたりと、怪しさ満点であった。
「……何なんだよここはよ。肝試しにちょうどいいとか、親父もふざけてやがる。……ユキエル、暗部に命じて、ここにある怪しい魔術や、薬草の類は全て押収しろ」
「わかりました……あ、あっちです!」
ユキエルが案内した場所で、数人の宦官が二人の少年を取り囲んでいた。ぼんやりした灯りに照らし出されたその姿を遠目に見て、医者が息を飲む。廉郡王もまた、信じがたい思いで目を見開いた。ガリガリに痩せ細り、骨と皮ばかりになっている少年二人。その姿を見たユキエルが、再び堪えきれずに泣き始める。
「……まだ、生きてはいるんだな?」
「はい。ですが、ノイン殿下の方はすでに意識がありません」
「おい、ユイン、俺だ。……兄のグインだ。わかるか?」
廉郡王が痩せたユイン皇子の額を大きな手で撫でながら、声をかけると、閉じていたユイン皇子の瞼がぴくりと動いた。
「……あ、あに……うえ……?」
「ああ、そうだ。ユイン。もう大丈夫だ、心配いらない。こんなになるまで気づかなくて、悪かった。後は俺に任せろ」
「僕は……僕より、ノインが……ずっと、目を覚まさなくて……」
「ああ、ノインも医者に見せるから、大丈夫だ」
廉郡王の言葉に、だがユインは首を振る。
「でも……ちち、う、えが……」
「親父のことは気にしなくていい。親父は今、人生最大に忙しいから、こっちには帰ってこねぇ」
「ほん……と? あの……大きなひと、も……?」
「大きな人?」
「赤い髪の……大きな……黒い……フードの……あの、怖い人……」
「黒いフードの怖い人?」
思わず廉郡王が聞き返すと、ユイン皇子は恐怖に歪んだ顔で首を横に振る。
「あの人は……いや、……こわ、い……や、やだ……」
「大丈夫だ、ここにはそんな奴はいねぇ。俺と、俺の部下だけだ。それとも俺のおふくろの所に行くか?」
優しく髪を撫でてやっても、ユイン皇子の恐怖心は消えないようだった。
「大丈夫だから。もっと明るい部屋に行こう。な、だからこっちの担架に……」
担架に一人ずつ乗せようとするが、兄のユインは意識のない弟を抱きしめて離そうとしない。
「二人一緒に乗せられねぇか。何なら、俺が一緒に抱いていってやってもいい」
魔力で筋力を強化すれば、ガリガリに痩せた弟二人くらいは何ともなかった。
「万一、落とすとよろしくありませんから……」
エルドの指示で、二人を一つの担架に乗せ、担いで動きだす。廉郡王は二人が閉じこめられていたという、復壁の中を覗き、眉をしかめた。
「ここに二人を入れたのは、誰の指示だ?」
「皇太子殿下……いえ、新帝陛下のご指示で……」
震える声で一人の宦官が答えたのを聞いて、廉郡王は思わず瞑目した。
――こんな狭くて暗い中に閉じこめるなんて、親父はもう、人の心なんてないのかもしれない。
廉郡王は唇を噛む。弟たちの窮状に、まるで気づかなかった自らの能天気さと、父親の堕ちた闇を思って歯噛みした。何とも言えない気味の悪さが、廉郡王の心に黒い染みのように広がっていく。
夜が明け初めていた。白くなった空から、その日最初の太陽の光が差し込む。
闇が光に切り裂かれ、影ができる。曖昧だった真実が表面に抉り出される。
何が起きているのか。
父親を、食い止めなければならない。
息子として――そして、皇子の責務として。
「ユインとノインの母親は――ああ、昨年死んだんだっけな」
「はい。その後は第二妃である殿下の母君が面倒を見ておられましたが、皇太子殿下も二人に興味が薄くて……母君が何度も、傅役かせめて侍従を付けるべきだと進言なさったのですが、結局うやむやのままで……」
相変わらず、彼の父親は彼以外の息子たちに興味を示さないままであったらしい。廉郡王は舌打ちする。
彼の一つ上の異母兄もまた、父親に半ば無視されて、傅役もつけられなかったのだ。彼は昔から、自分一人だけをあからさまに特別扱いする父親が鬱陶しくてたまらなかった。
すぐ下の弟皇子二人には、彼やゼクト、ゲルフィンが骨を折って何とか傅役を見繕ってやったが、その下の弟たちのことまでは、彼自身も忙しくて面倒を見きれていなかった。成人してからは父親が鬱陶しくて遊び歩いて東宮に寄りつかなかったから、幼い弟たちの顔など、年に数回見るかどうか。
廉郡王は一年ほど前に会ったはずの弟たちについて必死に思い出す。ユインが十四で、ノインが十二かそこらのはずだ。
「おふくろが煩く言っても、侍従もつけないなんて……あの親父は本当に何考えてたんだか」
目頭を揉みながら廉郡王が溜息をつく。エルドも苦い顔で言った。
「ここ数年、陛下は幾度も、廃嫡にして恭親王殿下を皇太子に冊立することを近臣に謀っておられたようで――その噂を聞いてはますます頑なになられて」
「それでユエリンと賢親王の叔父上を逆恨みかよ。自分の息子の面倒もまともに見られないのに、天下万民の主が務まるわけねーだろうに」
皇帝との父子関係の歪みが、自身と子供たちとの関係にも影響していたのではないか。そんなことをエルドが言う。
「皇太子には立てられたものの、陛下が賢親王殿下ばかりを信頼しておられるのは、傍目にも明らかでございましたから。殿下お一人だけを溺愛するのも、あるいは父親の愛情を得られなかった自身への投影かもしれないと、私などは思っておりました」
だが廉郡王は父親に同情する気は起きなかった。兄弟の中で一人だけ愛されることも迷惑であったし、大事な異母兄を蔑ろにした父が許せなかった。弟たちともあからさまに差別待遇を見せつけられ、贔屓にされる彼は不愉快でしかない。そんな理由で、弟たちとも距離を置いていたのだが――。
「何だってそんな復壁の中になんて……」
彼が歪んだ父子関係から逃げたおかげで、弟たちが死にかけているという、最悪の事態。だが、東宮にも侍女も宦官もいるし、兄弟の生母は死んだとはいえ、廉郡王の母妃だっている。どうして止められなかったのか。
「――閨房の教えの時期でございますから、女たちの目が届きにくかったかもしれません」
「そろそろ秀女を招いたりなんてことも、やってなさそうだな」
龍種である皇子たちは十歳を過ぎるころから閨房術の訓練に入る。その時期は閨房の教えを受け持つ閨女以外の平民の女は、近づけることができない。皇子の周囲は宦官と侍従官らに固められることになるが、兄弟には侍従どころか傅役すら付けられていなかった。
「宦官たちは何か言っていないのか?」
「それが、……東宮の宦官で、最近、不審な死に方をしたのが三人はいるらしいのです。……それも全員、皇子殿下がたの世話役をしていた者たちで……」
「とんでもねぇ伏魔殿じゃねぇかよ……」
皇子たちの住まう奥宮には、例の黒衣の魔術師やらも出入りしていたらしい。
(方士やら魔術師やらと、親父が何かやらかしていたってことか。それに弟が巻き込まれて――?)
奥の宮はやたら黒い布で覆われていたり、怪しい薬草の香りが残っていたりと、怪しさ満点であった。
「……何なんだよここはよ。肝試しにちょうどいいとか、親父もふざけてやがる。……ユキエル、暗部に命じて、ここにある怪しい魔術や、薬草の類は全て押収しろ」
「わかりました……あ、あっちです!」
ユキエルが案内した場所で、数人の宦官が二人の少年を取り囲んでいた。ぼんやりした灯りに照らし出されたその姿を遠目に見て、医者が息を飲む。廉郡王もまた、信じがたい思いで目を見開いた。ガリガリに痩せ細り、骨と皮ばかりになっている少年二人。その姿を見たユキエルが、再び堪えきれずに泣き始める。
「……まだ、生きてはいるんだな?」
「はい。ですが、ノイン殿下の方はすでに意識がありません」
「おい、ユイン、俺だ。……兄のグインだ。わかるか?」
廉郡王が痩せたユイン皇子の額を大きな手で撫でながら、声をかけると、閉じていたユイン皇子の瞼がぴくりと動いた。
「……あ、あに……うえ……?」
「ああ、そうだ。ユイン。もう大丈夫だ、心配いらない。こんなになるまで気づかなくて、悪かった。後は俺に任せろ」
「僕は……僕より、ノインが……ずっと、目を覚まさなくて……」
「ああ、ノインも医者に見せるから、大丈夫だ」
廉郡王の言葉に、だがユインは首を振る。
「でも……ちち、う、えが……」
「親父のことは気にしなくていい。親父は今、人生最大に忙しいから、こっちには帰ってこねぇ」
「ほん……と? あの……大きなひと、も……?」
「大きな人?」
「赤い髪の……大きな……黒い……フードの……あの、怖い人……」
「黒いフードの怖い人?」
思わず廉郡王が聞き返すと、ユイン皇子は恐怖に歪んだ顔で首を横に振る。
「あの人は……いや、……こわ、い……や、やだ……」
「大丈夫だ、ここにはそんな奴はいねぇ。俺と、俺の部下だけだ。それとも俺のおふくろの所に行くか?」
優しく髪を撫でてやっても、ユイン皇子の恐怖心は消えないようだった。
「大丈夫だから。もっと明るい部屋に行こう。な、だからこっちの担架に……」
担架に一人ずつ乗せようとするが、兄のユインは意識のない弟を抱きしめて離そうとしない。
「二人一緒に乗せられねぇか。何なら、俺が一緒に抱いていってやってもいい」
魔力で筋力を強化すれば、ガリガリに痩せた弟二人くらいは何ともなかった。
「万一、落とすとよろしくありませんから……」
エルドの指示で、二人を一つの担架に乗せ、担いで動きだす。廉郡王は二人が閉じこめられていたという、復壁の中を覗き、眉をしかめた。
「ここに二人を入れたのは、誰の指示だ?」
「皇太子殿下……いえ、新帝陛下のご指示で……」
震える声で一人の宦官が答えたのを聞いて、廉郡王は思わず瞑目した。
――こんな狭くて暗い中に閉じこめるなんて、親父はもう、人の心なんてないのかもしれない。
廉郡王は唇を噛む。弟たちの窮状に、まるで気づかなかった自らの能天気さと、父親の堕ちた闇を思って歯噛みした。何とも言えない気味の悪さが、廉郡王の心に黒い染みのように広がっていく。
夜が明け初めていた。白くなった空から、その日最初の太陽の光が差し込む。
闇が光に切り裂かれ、影ができる。曖昧だった真実が表面に抉り出される。
何が起きているのか。
父親を、食い止めなければならない。
息子として――そして、皇子の責務として。
応援ありがとうございます!
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