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9、幻影の森

揺らぎ

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 帝都は二つに割れたまま、夏至から二旬が経とうとしていた。

 暗部の者は宦官その他と強力して必死に恭親王の行方を探っていたが、後宮を中心に強力な魔力による障壁が張られていて、捜索は遅々として進まない。そんな中で、カイトはシャオトーズから正傅ゲルの救出を要請される。

「殿下に不利な証言を要求され、それを拒否して命を絶とうとしておられるのか、食事を拒否しているのです。殿下を残しての脱出には同意されないでしょうが、このままではお命に関わります」

 カイトもゲルの居場所については把握していた。しかし、ゲルを脱出させると恭親王にどう影響するか読めず、救出を躊躇っていたのだ。

「新帝の周囲も、殿下の居場所は掴んでいないようなのです。ゲル殿を脱出させても、殿下の扱いに変化はないと思われます」

 恭親王はアタナシオスの手中にあり、新帝もアタナシオスの行動を掣肘せいちゅうできていない。カイトはシャオトーズらの協力を得て、ゲルが監禁されていた冷宮に潜入し、衰弱したゲルの救出に成功した。

 ゲルの監視は平民出の義兵たちが担当しており、貴種に対する恨みを拗らせた義兵たちは、ゲルをひどい拷問にかけていて、満身創痍であった。ジュルチ僧正はゲルへの治療を行った後、賢親王に対し、溜息をつく。

「貴種だからという理由だけで、無差別に恨みを晴らしてもいいと考えるなど、その者こそ身分制度に囚われていると何故気づかないのか。邪教は耳さわりのいい言葉を連ねて、むしろ人の道の根幹を外れている。どうしてそのような教えに騙される者がいるのでありましょうか」

 賢親王もまた、年齢を重ねても相変わらず美しい顔を歪める。

「自分が今、不幸なのはすべて貴種のせいだとして、自己に立ち返ることをせぬ輩が、邪教の甘い言葉に丸め込まれるのであろう。貴種の優遇に不満を抱く者の存在に気づきながら、適切な対策を取らなかった我々の怠慢でもある」

 ジュルチは賢親王に言う。

「彼らの目的が貴種の排除であるとすれば、あまり長引くと帝国の屋台骨が完全に折れてしまうやもしれませぬ」
 
 賢親王は睫毛を伏せ、痛恨の表情で答えた。 

「皇宮を制圧することはさほど難しくない。だが、もしユエリンを失えば、その後の体制が揺らいでしまう。新帝の皇子である廉郡王を立てるわけにはいかず、他の親王もまた、所在が知れぬ」
「――殿下ご自身がおられます」
「余が即位したとしても、余にはもう、後継者がおらぬ。郡王に候補を広げれば、骨肉の争いの火種を撒くことになろう。ユエリンであれば、先帝の聖勅もあり、すべてが丸く収まるのだが――」
 
 ジュルチが言った。

「後の火事を恐れて現在燃えている小火ぼやを消さないという法はありますまい」

 その言葉に、賢親王は深い溜息をついた。
 
むを得ぬ。これ以上長引けば、龍種が根絶やしにされかねぬ」

 断腸の思いで、賢親王は皇宮への総攻撃を決意する。






 総督府のアデライードは表向き静かであった。すでにイフリート公爵が派遣した、ナキアの貴族たちを中心とする諸侯軍により、カンダハルは陸側から包囲されていた。だが制海権はまだ帝国側が維持しており、完全な包囲とはなっていない。

「イフリート公爵は海沿いの小国家群がナキア側に寝返ることを期待していたようですが、先日のユリウス卿とマニ僧都、そして姫君のおかげで、アデライード派の結束は強まっています。海路を押さえている限り、カンダハルを保つことは可能でしょう」

 ゼクトの説明を聞いて、アデライードは少しだけほっとする。

「姫君は十分にやっておられる。気を張りつめ過ぎないことです」

 ゼクトが以前より少しだけ戻ってきた頬の肉を緩ませると、アデライードも薄っすらと微笑む。

「……お気遣いありがとう」

 ゲルフィンがアデライードを苦手としているため、もっぱらアデライードとのやり取りはゼクトが担当していた。メイローズが車椅子を押して、ゼクトがアデライードの居間を辞すのを見送り、アデライードははあと深い溜息をつく。

「姫様……」

 部屋の隅に控えていたアリナが心配そうに呼びかける。感情が希薄に見えるアデライードだが、さすがにそば近く仕えるアリナたちには、アデライードが相当に無理をしているのがわかっていた。アデライードは微かに首を振り、無理に笑顔を作ると言った。

「大丈夫。少し、休みたいから、一人にして」

 アリナは部屋を下がることを少しだけ躊躇するが、アデライードが人といるだけで疲れてしまうことを知っているので、しぶしぶ部屋を後にする。パタンと扉が閉まり、一人になってアデライードは改めて大きく溜息をついた。

 アデライードの心が疲労しているのは、アデライードの心の中の、つがいの魔法陣が揺らいでいるからだ。
 最初にそれに気づいたのは、シルルッサへと転移で往復した翌日だった。

 ――魔法陣の制御コントロールが、うまく効かない。

 それは小一時間もすればもとに戻ったけれど、それ以来、日に数度、時には数時間に渉って制御できなくなる時が増えた。

 ――殿下の、心が揺れている。

 何かの理由で、彼の心が揺らぎ、惑い、アデライードから離れようとしている。これまで、静かな湖面のように凪いで、さざ波一つ立つことのなかった彼の心が、強固な岩のようにアデライードをひたむきな愛で支えてくれた彼の心が、大きくたわんで、弾けそうになっている。

 ――殿下の身に、何が――。

 確実に何か、よくないことが起きている。それを誰にも相談することができず、アデライードは不安定に揺らぐ魔法陣を鎮めようと、一人懸命に堪えていた。

 彼の心が離れるのではと考えれば、アデライードの心が乱れ、それがいっそう、魔法陣を不安定にさせる。

 ――だめ、疑っては、だめ。信じなければ。殿下は、ここに、わたしの許に戻ってきてくださると。

 疑心暗鬼と不安。その二つが高じれば、魔法陣は割れてしまう。そうなったら、アデライードの強大な魔力は、制御できずに暴走してしまう。

 ――お願い、殿下。待っているの。愛しているから。だから――

 アデライードは揺らぐ魔法陣に向かって必死に祈ることしかできなかった。
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