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9、幻影の森

アリナの動揺

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 表面的には穏やかに、だが内部に緊張を孕んでいた総督府の日々で、疲弊しているのはアデライードだけではなかった。

 父親の死を伝えられ、しばらく泣き暮らしたミハルも、ランパやアリナの慰めで己を取り戻し、アデライードの秘書のような仕事を受け持つ。クラウス家の出でそれなりの教養は身に着けているとはいえ、本来ならば事務仕事などするはずのないミハルであるから、簡単な書類の仕分け程度の仕事でも、些細なミスを繰り返してしまう。その失敗をいちいちゲルフィンは咎め立て、やり直しを命じてくる。もちろん、「俺の仕事を増やすな」という嫌味な一言付きで、である。

 ゼクトやエンロンは、ミハルも慣れない仕事をしているのだからと、多少の失敗には目をつぶってさりげなくフォローしてくれるのだが、ゲルフィンにはそういう思い遣りが欠片もない。書斎に陣取るゲルフィンと、アデライード周辺の女たちの緊張は高まるばかりである。しかもゲルフィンはアデライードには腰が引けていて、直接対峙することを露骨に避けている。そうなると、アリナが間を仲介することになるが、アリナとてゲルフィンは苦手であった。

 ゲルフィンとゾーイは同い年で、しかも邸は二軒隣りという幼馴染である。惣領息子であるゲルフィンは早くに結婚したが、末っ子で六男というゾーイはなかなか相手を決めなかった。もともと、ゲルフィンはゾーイが男色家ではないかと、内心疑っていて、アリナを見て一言、男色が高じてついに男みたいな女に捕まったのかと、はっきりと言い放ったのである。

 公爵令嬢として生まれながら、自身、神殿の女騎士としての仕事に誇りをもってきたアリナは、あからさまに女性全般を見下しているゲルフィンという男が、はっきり言って嫌いであった。しかし夫の親友である。自分の言動で夫の友情にヒビを入れるわけにはいかないから、不快感を押し隠して内にため込むしかない。

 そんなこんなで、アデライードが署名した書類を書斎に持って行く仕事は、アリナにとって一番嫌な仕事であった。折悪しく、エンロンもゼクトも不在で、部屋はゲルフィン一人だけ。お茶汲みの小宦官が何かヘマでもして叱られたのか、ビクビクして部屋の隅で縮こまっていた。

 アリナは内心、やれやれと思いながら書類をゲルフィンに渡す。

「姫様が署名なすった分です」
 
 必要事項だけを簡潔に述べ、さっさと踵を返そうとすると、何と呼び止められた。

「どうせ不備な書類がある。今からチェックして、ダメなものは返すから、そこで待っていて持って帰ってくれ」
「姫様のお側を長く離れるわけにはまいりません」

 お前の近くに長くいたくないのだと、本音を口にできればどれほどせいせいするだろうか。アリナの思惑を知ってか知らずか、ゲルフィンは神経質そうに眉間に皺を寄せ、片眼鏡モノクルを光らせて書類をチェックする。二十枚ほどの書類の中から、五枚ほどを脇にのけ、それをアリナに戻してきた。

「これは日付が抜けていて、こちらは金額がおかしい。この計算をしたのはミハルか? どんぶり勘定にも程がある」

 アリナは書類の中身には関与していないので、言われるがままに受け取るしかない。一度座った長椅子から立ち上がろうとした時、強烈な立ち眩みに襲われ、アリナはその場に膝をついた。

「アリナ殿?」

 ゲルフィンが不審に思って腰を浮かせ、問いかけるのを手で制して、自力で立ち上がろうとするが、そのまま視界がチカチカとし、白い靄に覆われたようにぼやけてズルズルと立ち上がることができない。

「おい、どうした? しっかりしろ!――おい、メイローズを呼べ!」

 ゲルフィンが慌てて叫び、部屋の隅に控えていた小宦官が走り寄ってアリナを長椅子の上に引っ張り上げてから、アデライードの部屋にいるはずのメイローズを呼びに行った。

「大丈夫、何でもありません」

 アリナが気丈に言うが、ゲルフィンは呆れたように返した。

「何でもないわけないだろう。メイローズが来るまで少し待て」

 メイローズが泡を喰ってやってくるまで二分とかかっていなかったが、朦朧もうろうとして長椅子に座っているのもやっとのアリナには、おそろしく長い時間に感じられた。

「どうなさいました。お熱はないようですが、ひどい貧血のようですね――少し失礼いたしますよ」

 メイローズは宦官にしては背も高く、体格もよい。小宦官に手伝わせて、女にしては背の高いアリナを易々と支えて、アデライードの居間の隣にある、側仕え用の控室へと運び、寝台に横たえさせた。後ろを心配そうについてきたゲルフィンにエンロンへの伝言を頼んで上手く追い払うと、小宦官には薬湯を煎じるように命じる。

「――月のものはきちんと来ておられますか?」
 
 メイローズの問いかけに、アリナがはっとして黒い目を開き、次の瞬間、首まで真っ赤になる。

「それは――」

 言い淀むアリナに、メイローズが冷静に言う。

「私は宦官ですから、気になさることはありません」
「その――そう言われてみれば、最近来ていない気が……」

 総督府での新しい生活と、さらに戦争による夫の不在。アリナは自身の身体の変化について、全く注意を向けてこなかった。 

「気持ち悪かったり、吐き気がしたりとかは……」

 そう言われて初めて、アリナはここ一月ほど、ずっと体調が悪かったことに気づく。 
  
「吐き気というか、食欲がなくて――食べると吐きそうになるので、あまり食べないようにしていました。その――ストレスだと思ったので」

 意外に繊細なところのあるアリナは、総督府に圧し掛かる恭親王の不在に、自身の精神が悲鳴を上げているのだろうと解釈していた。それを姫君に知られるわけにはいかないと、ずっと堪えてきたのだ。

「おそらく、ご懐妊であろうと思います。おめでとうございます。無理をせず、しばらくお身体を休めるべきです」
 
 そう言われて、アリナは驚きで目を瞬く。

「――こんな時に!」

 嬉しいでも何でもなく、それが偽らざる最初の感想だった。総督府や姫君の周囲がかくも困難な時期に、妊娠が発覚して自由が効かなくなる。騎士として、姫君を守るべき自分が――。 
 歓びよりも不安と後ろめたさが、アリナの中をぐるぐると回ってしまう。そんなアリナの葛藤を無視して、メイローズは淡々と注意事項や守るべきことなどの指示を与えていく。

「病気ではありませんが、無理は禁物です。酒、煙草、薬などは胎児に悪い影響を与えることがありますから、気を付けなければなりません。それから生の魚なども、しばらく控えた方がよろしいでしょうね。気分が悪いのはおそらくは悪阻つわりのせいでしょうから、おさまるまでは食べられるもの、食べたいものを食べて栄養を取る方がいいでしょう」

 しかし茫然としてしまったアリナは心ここにあらずで、メイローズの注意の半分も頭に入ってこない。

「次の定期連絡の折に、ゾーイ殿には手紙をことづけて……」
「いけません! こんなことで、夫の心を乱すわけには――」
「アリナ殿?」

 アリナは首を振る。

「あの人は今、カンダハル防衛のことで手一杯です。こんな時に、妊娠しただなんて――! 殿下の行方もわからないのに!」
 
 よりによってこんな時に、と頭を抱えるアリナを、メイローズが宥める。

「アリナ殿、そんな風に仰るものではありません。子は天と陰陽からの授かりもの、今、その御子を身籠ったのも、きっと何かの意味があることなのですよ。ですからもっと誇り、喜ばなければ。その喜ばしい出来事を、他ならぬゾーイ殿に知らせないなど、あってはなりません」
「でも……っ!」
「身籠ると心も不安定になります。今は戸惑っているかもしれませんが、何事も前向きに考えなければ。ゾーイ殿とアリナ殿の子が生まれる。こんなめでたいことがあるでしょうか。殿下と姫君がお聞きになったら、きっとたいそうお喜びになりますでしょう」

 そう、諭すように言われ、それでもアリナの心はざわついたままであった。
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