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9、幻影の森

ひび

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 アリナの妊娠は、女たちにはちょっとしたニュースであった。気の早いアンジェリカなどは、実家から産着や育児用品の見本を取り寄せて、リリアやスルヤと早速吟味に取り掛かっている。

「揺りかごはソリスティアで一番の木工の親方を紹介しますから、意匠だけ決めてそこで……」
「ベビー布団は、隣のレイノークス伯領が羊毛の産地だから、姫君のご実家を通せば最高級のものがお値打ちに買えそうよ」
「あとは、赤ちゃんの頭の上でクルクル回る奴がいるわよね? あれは何の職人に注文すればいいのかしら。玩具おもちゃもたくさんいるわよねー。やっぱり木馬?」
 
 アリナそっちのけでキャアキャアと騒がしい侍女たちを、さすがにミハルが窘める。

「まだ男か女かもわからないのに、先走るにも程がありますわ! それに頭の上でクルクル回るアレは、生まれて数か月後からしか興味を示しませんわよ。木馬なんて立って歩くようになってからですわ! 生まれる前にもらっても邪魔なだけじゃありませんの!」

 兄嫁の産んだ赤子の世話をしたことのあるミハルが、暴走する侍女たちに呆れて窘める。

「じゃあ、今は何を準備したらいいんです?」
「まだ四か月くらいなのでしょう? 外野のわたくしたちにできることなんて、静かにすることくらいですわ。こんなに騒いだら、アリナさんが寛げないじゃありませんか!」

 先走ったアンジェリカに対し、ミハルが珍しく正論を吐いたので、横で聞いていたメイローズが密かに苦笑した。

「でもやっぱり、居ても立っても居られないって言うかー。何かできることはないんですか? 靴下とかたくさんいるでしょう? ちょっとずつ今から編んだら……」
「そりゃ、それなりには必要ですけど、今から編んで何足準備するつもりですの? 百足ムカデの子じゃあるまいし、足は二本しかないんですから」

 あっさり却下するミハルに、アデライードが言った。

「こういうのはどうかしら。レース編みのパターンをみんなで編むの。小さなパターンをたくさん作って、それを繋げてレースのマントを仕立てたら、きっと素敵よ。男の子でも、神殿詣での時には豪華な白い産着を着るでしょうから」
「それはいいですわね。アリナさんも編み物はされるみたいだから、靴下のような実用品は自分で用意するでしょうし、パターンなら他のことにも転用できますから」

 ミハルは以前、ゾーイが首に巻いていた、防寒一筋の極太毛糸でずっしりと編まれた襟巻を想い出して言った。繊細なレース編みは、おそらくアリナの守備範囲の遥か彼方にある。
 
 それはいい、という話になって、今度は糸の選定と、図案集を見ながらパターンをあれこれと考え始める。久しぶりに、アデライードの部屋に明るい笑い声が響いた。

 
  


 その日は、ずっと魔法陣が不安定であった。それを周囲に伝えることができないアデライードは、気分がよくないと言って、寝室に籠り必死に魔法陣を制御しようとしていた。心の奥底に降りていき、ぐらぐらと揺れ動く魔法陣に降り立つ。いつもなら愛しい夫の面影があるはずなのに、そこは無人であった。何もない、白い空間に、不安定な魔法陣だけが浮いている――。

(殿下――どこ? 返事をして! わたしに応えて!)

 懸命に呼びかけるが、応答はない。不安だけがアデライードに押し寄せてくる。あまりに揺れ動く魔法陣に足を取られ、つい、その場に膝をつく。両手両膝を魔法陣について、ただ呼びかける。

(殿下! お願い――応えて! どこにいるの?)

 グラグラと揺れ動く魔法陣に呑み込まれるようにして、アデライードの意識も闇に堕ちていく。

(――殿下!どこ?!)
 
 吸い込まれるようにして堕ちた先は、薄暗い部屋。部屋の隅で、男が一人、頭を抱えて座っている。黒い髪を振り乱し、長い手足を縮こませるように折り畳んで、必死に何かから逃れるように耐えている。

(殿下――!)

 見間違えるはずもない、彼女の夫だ。アデライードは男に飛びつこうと走り寄る。が――。

『嫌――だ、寄るな――違う、やめ――やめ、ろ――』

 びくりとして、アデライードが立ち止まる。男は盛んに首を振って、何かを拒否しているらしい。

(これは――夢問い――)

 彼の心に問いかけて、無意識に夢問いの魔術を発動してしまったらしい。
 アデライードは夢問いがあまり得意ではないし、相手の状況がわからない遠隔地の夢問いは危険だと、マニ僧都からも止められていた。だからアデライードは夢問いを行うことをしなかったのだ。

 恭親王はまだ、夢の中にアデライードが侵入したことに気づいていない。しかも、どうやら他の人間が夢の中にいるらしい。うなされている時は、そのまま声をかけずに去るのが夢問いのルールだと、マニ僧都にも言われている。せっかく会えた夫だったが、アデライードは後ろ髪を引かれる思いで、その夢から去ろうとした。

(生きては、いらっしゃる――今は、それだけで)

 アデライードが踵を返そうとした時、恭親王が叫んだ。

『違う――違うんだ、レイナ!――僕は――!』

 その声に、いけないと思いながらも、アデライードの足が止まる。

『違う、レイナ……僕は……お前には、悪いと――そう、じゃなくて――僕は――!』

 レイナ――恭親王の、かつての、ただ一人の寵姫。
 彼は、レイナのことは愛さなかったと、言った。今まで愛したのは、アデライードただ一人だ、とも。

 でも――今、彼が夢見ている相手は、自分ではなく、レイナなのだ。
 そのことに、アデライードはひどい衝撃を受けていた。

 彼の、愛を独占したいと望んでいたわけじゃない。でも実際、彼の愛を独り占めしていると、思っていた。ただ一人の、つがい。ただ一人の、愛しい人。ただ一人の――。

 ここにいたら、だめだ。アデライードを支えていた、足元が揺らいでしまう。彼を独り占めできていると自惚れ、昔の女にすら嫉妬する醜い自分の姿を曝け出してしまう。だめ――帰らなければ。

『レイナ、やめて――僕を、そんな風に――僕は――お前を、お前だけは――』

 それ以上聞きたくなくて、アデライードは思わず両手で耳を塞ぎ、そのまま走り出す。ここにいてはダメ。帰らないと。早く――。






 アデライードが目を覚ましたのは夜明け近くであった。あのまま床の上で気を失っているのがアンジェリカによって発見され、寝台の上に運ばれたのだ。ずいぶんと魘されていたのか、体中、汗びっしょりだった。アデライードが目を覚ましたのに気づいたリリアが、メイローズを呼びに行く間、アデライードは茫然とした表情で寝台の天蓋を見上げる。
 
 あれは、夢――。殿下の、見た、夢。

 人の夢を覗くのはよくないことだと聞かされている。殿下も、他人には知られたくないことだろう。

 殿下は、何に怯えていたのか。かつての寵姫に、何を伝えようとしていたのか。

(わたし、殿下のことを何も知らない――)

 知らなくても、別に構わないと思っていた。あの金色の〈王気〉が示すあからさまな執着に、アデライードは甘えていた。つがいの本能によって、彼はアデライードに執着していただけで、離れてしまえば、その執着も途切れてしまうのかも、しれない。それなのに、彼の愛が永遠だと、信じて疑わなかった。

(もしかして――もう、わたしの許には戻って来ないのかも、しれない)

 不安で、心が張り裂けそうだった。
 自分たちの結びつきが、単なる龍種の番の本能なのだとしたら――。

 コツン――。

 何かが、窓の叩いた。三階のこの窓を叩けるのは、鳥か――。
 はっとしてアデライードは寝台を下りる。裸足に夜着一枚の薄着で、窓辺に駆け寄る。

 窓を開けると、夜明けの風とともに殿下の黒い小ぶりの鷹が飛び込んで、アデライードの右手に止まり、甘えたようにピイと一声啼いた。長い距離を飛んできたのか、羽根は薄汚れ、幾分痩せていた。

「エールライヒ、お前……」

 アデライードがその背中を撫でてやる。

「今、餌がないわ。すぐに用意を……」
 
 アデライードはエールライヒの脚に、金鎖が巻き付けられているのに気づく。そしてそこには――。
 もどかしく、それでもエールライヒの脚を傷つけないように慎重に、幾重にも巻き付けられた鎖を外していく。

 掌の中に滑り落ちた指輪を見て、アデライードは目を見開く。

「お前、これを運んで――? どうして、殿下は――」

 殿下がこれをエールライヒに託したということは、二人の間の別れを意味しているのか。
 アデライードの心に、絶望が黒い染みのように広がっていく。

 違う、これは――でも――。
 
 黒々とした絶望に、心が塗りこめられていく。足元がどんどん危うくなり、全身の血の気が引いていく。

「姫君?」

 リリアに呼ばれてやってきたメイローズが、黒い鷹を手に止まらせたアデライードを見て、声をかける。蒼白な表情で振り返ったアデライードが、そのまま膝から床に崩れ落ちそうになる。

「姫様――?」

 リリアが叫び、鷹が宙に舞い、黒い羽根が飛び散る。

(ああだめ――、割れて、しまう――)

 アデライードの中のつがいの魔法陣に、大きなヒビが入っていく――。
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