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13、世界樹
驟霖之剣
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小さな流れをいくつも越え、葦の生い茂る中をかき分けるようにして、とにかく北へ北へと向かう。時には水たまりにぶち当たって盛大に水飛沫をあげ、時には深みにはまって足の付け根近くまで水につかりながら、それでもアデライードを濡らさないように、抱き上げて必死に走り続ける。細心の注意を払っていたけれど、しかしアデライードの絹の長衣の裾は破れ、革のサンダルは片方落として、川に流してしまった。シウリンはアデライードの長衣の裾を少しナイフで引き裂いて、それで彼女の足をくるみ、ほとんど背負うようにして北を目指し続けた。
途中は水を飲むのと、残っていた甘い砂糖菓子を二つか三つ口に含むだけ。ただ疲労と緊張のためか、空腹は感じず、また日が翳ると奴等のスピードの緩むことも気づいて、太陽が西に傾いたころには何とか湿原を抜けた。
湿原の向こうに広がるのは、所々に枯れかけた灌木が生えている、乾燥した草原だった。
(水を汲んでおかないと――)
灌木の下でアデライードを休ませて、シウリンは比較的澄んだ流れをみつけ、水筒に水を汲む。
シウリンがアデライードの方に戻ろうとした時、アデライードが悲鳴を上げる。
「シウリン! もう、あそこまで!」
気づけば、黒い影に四方を囲まれていた。
(そうか! 水=陰だから、川を越えることでスピードが遅くなっていたけれど、湿原を抜けてしまったから――!)
湿原を越える過程で少し数を減らしたようではあるが、それでも黒々とした影は彼らの回りを取り巻き、そのさらに周縁には黒く枯れた葦の林が広がる。
プチプチ、ざわざわと、不吉な音をたてながら、奴等は確実に、その包囲の輪を縮めつつあった。灌木の枝に止まるエールライヒが危険を知らせるように鳴くけれど、すでに退路も断たれて逃げ場はない。
中に、水辺で死んだ動物の死骸に憑依したものもいて、小さな狐の死骸が目だけを赤く光らせ、白骨化した前足でよろよろと進んでくる。
「攻撃は無理でも、防御の魔法陣なら……」
アデライードはそう言って、白い防御魔法陣を展開する。実体のある死骸は魔法陣に触れて霧散するが、実体のない黒い影は何の影響も受けず、アデライードの魔法陣の中に侵入してきた。
「そんな……」
アデライードの声が絶望に震える。シウリンもまた、自分の判断の甘さに唇を噛んだ。
シウリンの背中を、冷たい汗が流れ落ちる。
(そもそも、最初の神殿跡で、アデライードを転移させておくべきだった――)
そうすれば、少なくともアデライードは助かったのに。なぜ、逃げ切れると思ったのだ。――奴等を退ける方法も、土地勘もないこの場所で、アデライードを連れて走って逃げるなんて、無謀以外の何物でもない。どうして、それに気づかなかったのか。
――いや、無謀だってことは薄々気づいていた。でもアデライードと離れ難くて、希望だけに縋りついた――。
シウリンはアデライードを抱き寄せて、耳元に唇を寄せて言った。
「アデライード、情けないけど、君を守り切る自信がない。今ならまだ、間に合う。一人でソリスティアに……」
その言葉に、アデライードが弾かれたように顔を上げ、叫んだ。
「嫌です! こんなところにあなた一人残して逃げ帰るくらいなら、一緒に喰われた方がマシです!」
「でも、君一人なら助かるんだよ! その可能性があるのに、僕と一緒に死ぬなんて、馬鹿げているよ」
「愛している人と一緒に死ぬのは、けっして馬鹿げてなんていないわ!……いっそ、異界に飛ばされたとしても、シウリンと一緒なら平気です。一緒に転移しましょう!」
「アデライード、それはダメだって!」
何とかアデライードだけでも、ソリスティアに帰そうと、シウリンは必死に説得を試みるが、アデライードは頑として首を縦に振らない。
アデライードの翡翠色の瞳がまっすぐにシウリンを見つめている。その瞳に迷いはなかった。
「……シウリン、愛してるの。もう、遇えないと思っていたあなたにやっと遇えたの。二度と離れるのは嫌。今日が最期の日なら、最期まで側にいて。お願い。――あなたと一緒なら、何も怖くないの」
「アデライード……」
縋りつくアデライードを抱きしめ、その唇を塞ぐ。日没まであと少し。日さえ沈んでしまえば、と思うが、しかし、それよりも彼らの足の方が速い。
最初の一陣が、二人のいる場所まで迫っていた。
(どうして……ここまで来て彼女を守れないなんて……天と陰陽よ、僕たちに何をさせようとしているの、僕たちにどうしろというの)
ふと、かつて聖地で聞いた、魔物狩りの話を思い出す。
〈聖別された剣があれば、魔物が狩れる。『聖典』の祈りの文句を唱え、剣に天と陰陽の聖なる力を宿らせる――〉
(ああ、確か、あの文句は――)
「光よ、地に満ちよ、聖なる力よ、わが身に満ちよ――」
シウリンが、アデライードを抱きしめたまま、ほとんど無意識に呟いたとき。
シウリンの左手には光輝く剣が握られていた。
「ええ?! なにこれ!」
「〈聖剣〉です! 陰陽宮で〈陰陽の鏡〉の前に現れたの! あなたの左手にいつも入ってる――」
しかしアデライードの目から見ても、その輝きはいつもよりも眩く、光が満ち溢れるようだった。細身の剣の柄に近いところから、光が剣先へと流れ、剣の樋に彫られた龍の彫刻が躍動するように煌めいた。
「こ、これは何かスゴい力があるの?」
「えっと……左手の中に収納できる以外は、普通の剣に見えましたが――」
シウリンは絶望する。〈聖剣〉と言うからには聖別されていて魔物も退治できるのだろうが、シウリンはそんな訓練は受けていない――受けたかもしれないが、全部、忘却の彼方だ――。
もう、ほんのすぐそばまで黒い影が近づいていて、二人はすっかり囲まれていた。地面が透けて見える実体のないユラユラとした影の、赤い目だけが爛々と光る。奴等が踏んだ草が瞬く間に黒く変色し、生命を吸い取られるのを見て、シウリンの心臓が凍る。
――あまりに邪悪な雰囲気で、見ているだけで心が折れそうだ。
「実体のない奴等に、この剣一本でどうしろって言うの!……てかもう! こっち来るな! 消えろぉ――!」
へっぴり腰で聖剣を構え、それでも必死にアデライードを背後に庇って、シウリンは自棄ぱちになって聖剣を振り回す。すると――
聖剣の刃全体が眩く光り、その切っ先から金色に輝く光の帯が放射状に四方へと広がっていく――。
途中は水を飲むのと、残っていた甘い砂糖菓子を二つか三つ口に含むだけ。ただ疲労と緊張のためか、空腹は感じず、また日が翳ると奴等のスピードの緩むことも気づいて、太陽が西に傾いたころには何とか湿原を抜けた。
湿原の向こうに広がるのは、所々に枯れかけた灌木が生えている、乾燥した草原だった。
(水を汲んでおかないと――)
灌木の下でアデライードを休ませて、シウリンは比較的澄んだ流れをみつけ、水筒に水を汲む。
シウリンがアデライードの方に戻ろうとした時、アデライードが悲鳴を上げる。
「シウリン! もう、あそこまで!」
気づけば、黒い影に四方を囲まれていた。
(そうか! 水=陰だから、川を越えることでスピードが遅くなっていたけれど、湿原を抜けてしまったから――!)
湿原を越える過程で少し数を減らしたようではあるが、それでも黒々とした影は彼らの回りを取り巻き、そのさらに周縁には黒く枯れた葦の林が広がる。
プチプチ、ざわざわと、不吉な音をたてながら、奴等は確実に、その包囲の輪を縮めつつあった。灌木の枝に止まるエールライヒが危険を知らせるように鳴くけれど、すでに退路も断たれて逃げ場はない。
中に、水辺で死んだ動物の死骸に憑依したものもいて、小さな狐の死骸が目だけを赤く光らせ、白骨化した前足でよろよろと進んでくる。
「攻撃は無理でも、防御の魔法陣なら……」
アデライードはそう言って、白い防御魔法陣を展開する。実体のある死骸は魔法陣に触れて霧散するが、実体のない黒い影は何の影響も受けず、アデライードの魔法陣の中に侵入してきた。
「そんな……」
アデライードの声が絶望に震える。シウリンもまた、自分の判断の甘さに唇を噛んだ。
シウリンの背中を、冷たい汗が流れ落ちる。
(そもそも、最初の神殿跡で、アデライードを転移させておくべきだった――)
そうすれば、少なくともアデライードは助かったのに。なぜ、逃げ切れると思ったのだ。――奴等を退ける方法も、土地勘もないこの場所で、アデライードを連れて走って逃げるなんて、無謀以外の何物でもない。どうして、それに気づかなかったのか。
――いや、無謀だってことは薄々気づいていた。でもアデライードと離れ難くて、希望だけに縋りついた――。
シウリンはアデライードを抱き寄せて、耳元に唇を寄せて言った。
「アデライード、情けないけど、君を守り切る自信がない。今ならまだ、間に合う。一人でソリスティアに……」
その言葉に、アデライードが弾かれたように顔を上げ、叫んだ。
「嫌です! こんなところにあなた一人残して逃げ帰るくらいなら、一緒に喰われた方がマシです!」
「でも、君一人なら助かるんだよ! その可能性があるのに、僕と一緒に死ぬなんて、馬鹿げているよ」
「愛している人と一緒に死ぬのは、けっして馬鹿げてなんていないわ!……いっそ、異界に飛ばされたとしても、シウリンと一緒なら平気です。一緒に転移しましょう!」
「アデライード、それはダメだって!」
何とかアデライードだけでも、ソリスティアに帰そうと、シウリンは必死に説得を試みるが、アデライードは頑として首を縦に振らない。
アデライードの翡翠色の瞳がまっすぐにシウリンを見つめている。その瞳に迷いはなかった。
「……シウリン、愛してるの。もう、遇えないと思っていたあなたにやっと遇えたの。二度と離れるのは嫌。今日が最期の日なら、最期まで側にいて。お願い。――あなたと一緒なら、何も怖くないの」
「アデライード……」
縋りつくアデライードを抱きしめ、その唇を塞ぐ。日没まであと少し。日さえ沈んでしまえば、と思うが、しかし、それよりも彼らの足の方が速い。
最初の一陣が、二人のいる場所まで迫っていた。
(どうして……ここまで来て彼女を守れないなんて……天と陰陽よ、僕たちに何をさせようとしているの、僕たちにどうしろというの)
ふと、かつて聖地で聞いた、魔物狩りの話を思い出す。
〈聖別された剣があれば、魔物が狩れる。『聖典』の祈りの文句を唱え、剣に天と陰陽の聖なる力を宿らせる――〉
(ああ、確か、あの文句は――)
「光よ、地に満ちよ、聖なる力よ、わが身に満ちよ――」
シウリンが、アデライードを抱きしめたまま、ほとんど無意識に呟いたとき。
シウリンの左手には光輝く剣が握られていた。
「ええ?! なにこれ!」
「〈聖剣〉です! 陰陽宮で〈陰陽の鏡〉の前に現れたの! あなたの左手にいつも入ってる――」
しかしアデライードの目から見ても、その輝きはいつもよりも眩く、光が満ち溢れるようだった。細身の剣の柄に近いところから、光が剣先へと流れ、剣の樋に彫られた龍の彫刻が躍動するように煌めいた。
「こ、これは何かスゴい力があるの?」
「えっと……左手の中に収納できる以外は、普通の剣に見えましたが――」
シウリンは絶望する。〈聖剣〉と言うからには聖別されていて魔物も退治できるのだろうが、シウリンはそんな訓練は受けていない――受けたかもしれないが、全部、忘却の彼方だ――。
もう、ほんのすぐそばまで黒い影が近づいていて、二人はすっかり囲まれていた。地面が透けて見える実体のないユラユラとした影の、赤い目だけが爛々と光る。奴等が踏んだ草が瞬く間に黒く変色し、生命を吸い取られるのを見て、シウリンの心臓が凍る。
――あまりに邪悪な雰囲気で、見ているだけで心が折れそうだ。
「実体のない奴等に、この剣一本でどうしろって言うの!……てかもう! こっち来るな! 消えろぉ――!」
へっぴり腰で聖剣を構え、それでも必死にアデライードを背後に庇って、シウリンは自棄ぱちになって聖剣を振り回す。すると――
聖剣の刃全体が眩く光り、その切っ先から金色に輝く光の帯が放射状に四方へと広がっていく――。
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