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【番外編】叢林の盧墓

ルチアの天使

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 翌朝、ジュルチ僧正が用意した上等の馬車に乗り込んだものの、お世辞にも快適な旅とは言い難かった。――同乗者に問題があり過ぎた。 

 行儀よく馬車の座席に腰を下ろし、静かに窓の外を見たり、時々地図を開いたり、本を読んだりしているフエルと違い、ルチアは全く落ち着きがなかった。ゴソゴソと荷物をあさってはスケッチ帖を開き、何か描いては気に入らないのか頁を破り取ってグシャグシャと丸めて床にポイ捨てし、しわくちゃのハンカチを取り出して大きな音を立てて鼻をかんで、それを開いて中を確認したり、狭い座面に寝転がって、馬車の揺れで隅っこに頭をぶつけたり、蜜柑の皮を剥こうとして、汁を飛ばしてフエルを直撃してみたり、と、フエルの七つになる一番下の弟でも、もっとお行儀よくできるはずと、フエルは気づけば眉間に皺が寄っていた。

「さっきから……少しは静かにできないんですか?」

 氷のように冷たい声で言うフエルに、ルチアはムッとしたように言い返す。

「俺はおぼっちゃまと違って、こんな御大層な馬車には慣れてないの!いつもは荷馬車の荷台に乗っけてもらうか、驢馬ロバを借りるかだから!……柔かい座面が落ち着かないんだよ!わかるでしょ?」
生憎あいにく、僕は荷馬車も驢馬も乗ったことありませんから」
「ちぇっ、おぼっちゃまが!」

 それでもルチアは座面に寝転がるのをやめ、起き上がってフエルの正面に座る。黙っていれば、ルチアは金色に近い茶色の眉に、蒼とも翠とも言い難い深い色合いの瞳をし、白い肌に繊細な雰囲気の顔立ちをして、小柄なことも相俟って、本当に天使のような、あるいは少女と見紛うような、儚い美貌であった。――フエルは何となく、ソリスティアの姫君を思い出していた。

 そんなフエルをルチアはじっと見つめて、言った。

「あんた、目も髪も真っ黒なんだな」
「東の人はたいがいそうですよ。たまに、茶色い髪とか、赤っぽい髪の人もいますけど」
「ふーん。じゃあ、彼も、東の人だったのかな?」
「彼?」
 
 ルチアはフエルの問いには答えず、どこか遠いところを見るような目をした。

「ちょうど、あんたみたいな真っ黒い瞳で――顔立ちもちょっと似てるかな。すっきりした、いわゆる東方風の美少年だった。……俺の、昔の友達っていうかさ、天使」
「天使?」
 
 ルチアのあまりに要領を得ない物言いに、フエルの眉間にさらに皺が寄る。そういう顔をすると、元が美形なだけに、何か苦い薬でも飲んでいるような顔になる。

「ねえ、今度、顔をスケッチさせてよ。俺、一度、〈天使〉を描きたいと思っていて……思い描く人がいるんだけど、もう会えないから、顔がよく思い出せない。でもあんたを見た時、似ているって思ったから」
「僕が?」
「ああ、でもそういう顔は似てないな。……シウリンはもっと、いつも穏やかにニコニコしてた。顔立ちはともかく、表情が全然違うなー」
「シウリン?」

 予想外の名に、フエルがはっとする。

「シウリンって、誰です?」
「シウリンは、俺の……昔の、孤児院の友達。四歳年上で、いつも俺のことを庇ってくれて、食べ物もくれて……とにかく、天使みたいだって思ってた」
「その彼は……」
「死んだ。……いや違う、いなくなった」

 フエルが、黒い目を見開く。
 
「いつ?」
「何でそんなこと聞くの」

 ルチアが胡散臭そうに見てきて、フエルはしまったと思う。

「いや、その……僕に似ているのでしょ?気になるじゃないですか」
「シウリンのことは口にしちゃいけないって言われてたけど、もう時効かな。……十年前の十二月の頭。風邪をひいた俺の代わりに尼僧院の手伝いに行って、そのまま帰らなかった」

 フエルの胸がどきどきした。――例の、彼だ。アデライード姫の、シウリン。

「十年前? そのまま? 事故にあったとか、攫われたとか?」
  
 フエルの問いに、ルチアは首を振る。

「俺は熱を出して寝ていたから、わからない。……帰りに、お土産もらってくるって言って、笑って出て行ったのを見送ったのが最後。翌日、熱が下がって起きたらシウリンはいなくなっていた。どこにいるのか聞いても、誰も知らないって。大人にも聞いたけど、シウリンのことは口に出しちゃいけないって、叱られた」
 
 フエルはその答えに息を飲む。つまりシウリンは、アデライードに出会った後、そのままいなくなった――。
 
 我知らず、膝の上の手を握りしめていた。フエルは静かに深呼吸して、気持ちを落ち着ける。

「亡くなった、わけではないのですか」
「みんな、死んだんだろうって思ってるけど、葬式もなくて、墓の場所もわからない」
   
 その言葉にフエルはギクリとする。〈シウリンの墓〉は、ルチアさえ知らない――。

「シウリンはすごい綺麗な顔をして、頭もよくて、ジュルチ僧正やマニ僧都のお気に入りで、特別に難しい勉強をさせられて、たぶん、将来は偉くなるんだろうな、ってみんな思ってた。孤児院でもリーダー格で……何しろ、厨長も農園の長も、何かにつけてシウリンには贈りものをしてて、でもシウリンはそれを独り占めしないで、孤児院のみんなに分けてくれたんだ。だからみんなシウリンが好きだったのに、ある日、突然いなくなった。――シウリンのことは口にしちゃいけない、って禁じられて、それ以来、少しずつ僧院全体がおかしくなっていったように、俺には見えた。マニ僧都はストゥーパから下りて来なくなって、ジュルチ僧都は太陽神殿に行ってしまった。孤児院の監督僧だったシシル準導師だけが、いつまでもシウリン、シウリンって騒いで、頭がおかしくなって監督僧を辞めさせられちゃった。次の監督僧が最悪の奴で、おかげで俺はこんな風になっちまった」

 何の話かわからなくて、フエルが瞬きする。ルチアは窓の外を睨むように見つめて、続けた。

「――五年前にようやく、ジュルチ僧都が気づいて、俺を孤児院から救い出して、太陽神殿の学院に入れてくれた。だけど手遅れだったんだろうな。――もう、治んないんだよ。俺、インランだからさ。誰かとヤんないと生きていけないの。だからさ……」

 ルチアがちらりと、下から舐め上げるようにフエルを見た。その妖艶な眼差しにフエルがギクリと、背筋が寒くなる。同時に貴重書庫で目にした強烈な映像が甦り、フエルは本気で吐き気を感じて叫んだ。

「無理! 絶対無理! あっちいけ!」

 フエルが馬車の背もたれに張り付くように言うと、ルチアは嫌そうに眉を寄せる。

「男しかいねぇんだからしゃーないじゃん。てゆーか、俺、年下とか趣味じゃねーし。最初に見た時は、シウリンに似てるって思ってドキッとしたけど、十三のガキとかお呼びじゃねーよ」
「たとえ僕が二十三歳でもお断りです!」
 
 フエルに露骨に拒絶されて、ルチアは肩をすくめる。

「まあいいさ。……で、あんたは何で〈清脩〉僧院に行くのさ」

 ルチアに聞かれて、フエルは表向きの理由を告げる。

「そちらの、ジーノという僧侶のお見舞いを頼まれたのです。以前、帝都で第十四皇子殿下の傅役ふやくをなさっていた方です」
「第十四皇子……へえ」

 ルチアは少し考えていたようだが、思い当たったのか、ああ、と膝を打った。

「思い出した。皇子が死んじゃったから、御霊みたまを弔うとか言って、出家した人だ。写字掛をしていて、何度か、見たことがある。片足を少し引きずっているね?」
「僕は直接の面識はないんです。亡くなった父はお世話になったと思いますが」
 
 フエルの生真面目な答えが気に入らなかったのか、ルチアは馬車の窓に頬杖をくようにして、さもつまらなさそうに言った。

「ま、いいさ。俺も五年ぶりに帰るんだ。――ろくな思い出がないから、二度と帰るつもりなんてなかったんだけどな」
 
 窓の外には、穏やかな夏の風景が広がっている。
 青い空に、夏でも白い万年雪を冠した霊峰プルミンテルンが、聖地を護るように聳えていた。
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