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【番外編】叢林の盧墓
〈清脩〉僧院
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早朝に太陽神を出て、〈清脩〉僧院に着いたのは、西の空が茜色に染まる時刻。
夏至を翌日に控え、一年で最も日の長い季節、日は沈んだけれど、周囲には明るさが残っていた。
ジュルチ僧正が駅逓の早馬を飛ばして先触れを出してくれていたので、僧院の入口には出迎えの僧侶が待っていた。フエルは少年とはいえ、ソリスティア総督が太陰宮の学院に派遣した侍従見習いである。さらに十二貴嬪家筆頭のソアレス家の嫡孫で、太陽宮のジュルチ僧正の客であるから、僧院としても高位の客人の扱いとなる。迎えに出た副院長はガッシリした体格の四十がらみの僧侶で、自分の息子ほどの年齢のフエルに、丁寧に腰を屈めた。
「遠いところをようこそおいでいただきました。ジーノ師は夏風邪をひいて、今日はもう、寝んでおりますので、ご面会は明日に。今宵は院長が夕食にご招待申し上げ、その後、宿舎にご案内いたします」
「わざわざのお出迎え、痛み入ります。僕はまだ若輩者ゆえ、そのような過分な礼はどうか不要に願います。導師様、頭を上げてください」
フエルが恐縮して声をかける。フエルに続いて馬車を下りたルチアは、気まずそうに周囲を見回している。
「ルチアも、元気だったか。――ジュルチ殿からだいたいの話は聞いている。お前はソアレス家の若君の案内役なのだから、くれぐれも失礼のないようにするのだぞ?」
副院長は言葉は厳しかったが、その声色はルチアを心配しているようであった。ルチアは渋々頷く。
「お久しぶりです。……えっと、副院長補佐の導師様」
「前院長様が三年前に遷化なさり、副院長様が院長に昇格した。わしは今、副院長だ」
「えっ、院長、死んじゃったの!」
明け透けなルチアの言葉に、副院長が思わず舌打ちする。
「ルチア。大事なお客様の前だぞ。もっと行儀よくしなさい」
そのまま説教に突入しそうな雰囲気に、フエルは慌てて割って入る。
「あ、そうそう、……この正月に、殿下がご来訪になってお世話になったそうで。僧院への喜捨の品々も託かっております」
「ああ、それはご丁寧にありがとうございます。ひとまず院長の部屋に運ばせましょう」
副院長が指揮すると、若い僧侶数人でフエルがソリスティアから持ち込んだ荷物を運び入れ、フエルたちも僧院の中に入る。その後、院長を交えていささか堅苦しい夕食を終え、フエルの長い一日はようやく終わった。
翌日。割り当てられた宿舎までルチアが迎えにきて、二人で僧院の食堂に向かう。
細長い食堂は、正面に陰陽を祀る祭壇が設けられ、その前に院長以下の高位聖職者の席が設えられていた。フエルの席は副院長の隣。席に就いて見まわすと、長細いテーブルにベンチが並び、僧侶たちが並んで腰を下ろしている。三百人は入りそうな食堂の中、俗人はフエルただ一人。それもまだ少年の年頃とあって、僧侶たちも好奇心を抑えきれないようであった。
最も末席には見習い僧侶と、さらに幼い子供達。全員、頭を丸め、薄い貫頭衣の僧衣だけで、落ち着かなく足をブラブラとさせたりしながら、彼らもフエルを遠くから見ては、隣近所とゴソゴソ喋り、監督官らしき僧侶に叱られていた。
フエルの前に並ぶのは、雑穀のパンと、野菜と豆腐の入ったスープ。果物と、発酵乳、それから水で薄めた赤葡萄酒。
僧院の食事は基本的には一日二食。屋外で肉体労働をする僧侶には、作業の合間に薄いパンと水が出るらしいが、そうでなければ以後、夕食まで何もない。フエルは別に大食ではないが、馬車の中でシラーが言った通り、到底、足りなさそうだった。
(あのおばちゃんの堅パンに感謝することになるとは……)
全員で祈りを捧げ、当番の僧が『聖典』を朗読するのを聞きながら、無言で食べる。パンはライ麦が主であるのでもっちりと固く、酸味が強い。発酵乳に甘味を添える木苺のジャムはほんの申し訳程度で、フエルは酸っぱくて耳の下が痛くなった。
(僧院の食事って何でもかんでも酸っぱいんだな……)
それがフエルの印象であったが、僧侶たちと一緒に食べていたルチアは、後でフエルに言った。
「いいよなー上級僧侶には果物と発酵乳が着くんだ。俺たちは替わりにクソ酸っぱい酢漬けがついたよ。絶対、子供に栄養足りねぇって思う」
馬車に同乗して気づいたことだが、ルチアは見かけは天使のように美しいくせに、食べ物に関しては餓鬼のように意地汚かった。フエルがおばちゃんの女神官にもらった揚げパンが、腐りかけているかもしれないからと捨てようとしたのを奪って、全部食べてしまった。子供のころから日々、発酵食品と名のる腐ったモノばかり食べているので、少々の腐敗菌などものともしない、とは、ルチアの弁である。
フエルがソリスティアから持ってきた砂糖菓子を出してやると、あまりの甘さに歯が溶けると言いながら、嬉しそうにがめ込んで食べていた。ルチアが食い物にがめついのは、僧院の食事が貧し過ぎるせいだと、フエルも納得した。
食事の後、フエルは施療所にジーノを尋ねた。
日当たりのいい施療所は、薬草園の脇にあり、開いた窓から薬草の爽やかな香りが漂っていた。夏風邪をひいたというジーノは、しかし今日は気分がいいのか、寝台の上に起き上がってフエルたちを待っていた。
「ソアレス家のフエルと申します。亡き父が大変、お世話になりました。恭親王殿下の正傅ゲル殿から、お見舞いを託かってまいりました」
「ああ、聞いている。おぬしがあの、デュクト殿の――顔立ちがよく似ている。目のあたりなんてそっくりだね」
すっかり眉にも白髪が混じり、顔に皺を刻んだジーノが穏やかに微笑み、寝台脇の木の榻を指してフエルを座らせ、フエルの背後のルチアにも気づく。
「おぬしは――?」
「俺はフエル……殿のお守り役じゃなくて、案内役です」
榻は一つしかなかったので、ジーノはお茶を運んできた世話役の僧に、榻をもう一つ運んでくれるように頼む。頷いた僧が運んできた榻にルチアが腰かけて、フエルはゲルから預かった皇室の御料茶園のお茶や薬、砂糖菓子、手触りのいい絹の手巾などを手渡す。
「ありがたいけれど、わしは僧侶で、個人の所有は禁じられている。これらは施療所の皆でいただくとしよう」
ただ、ゲルが見舞いの品に加えた、陶器の器に入れた金泥や絵具類を見て、嬉しそうに言った。
「この金泥は素晴らしいね。いつも、写字や装飾をするときの、金彩が足りなくてね」
ルチアも絵具には目がないのか、羨ましそうに見ている。ジーノは、ルチアが太陽神殿の学院で絵を学んでいると聞いて、黒い目を細めた。
「ああ、思い出したよ。わしがこちらに来てまだ間がない時、写字室を覗いていた子だね?」
絵が好きなルチアは、幼いころから暇を見つけると壁や地面に落書きしたり、写字室を覗いたりしていたらしい。
「立派になって――わしも歳をとるはずだ」
微笑むジーノに、図書館で司書主任に売春して停学中だなんてとても言えなかった。
ひとしきり話した後、フエルは僧院の聖堂に詣でることにした。天と陰陽の祭壇の片隅に、ジーノが仕えた成郡王の位牌もあるという。
「ここ数日、拝礼できていないのだ。わしの代わりに焼香してもらえると有難い」
ジーノがいつも拝礼の際に使う香と数珠を借りて、フエルとルチアは施療所を出て聖堂に向かった。
夏至を翌日に控え、一年で最も日の長い季節、日は沈んだけれど、周囲には明るさが残っていた。
ジュルチ僧正が駅逓の早馬を飛ばして先触れを出してくれていたので、僧院の入口には出迎えの僧侶が待っていた。フエルは少年とはいえ、ソリスティア総督が太陰宮の学院に派遣した侍従見習いである。さらに十二貴嬪家筆頭のソアレス家の嫡孫で、太陽宮のジュルチ僧正の客であるから、僧院としても高位の客人の扱いとなる。迎えに出た副院長はガッシリした体格の四十がらみの僧侶で、自分の息子ほどの年齢のフエルに、丁寧に腰を屈めた。
「遠いところをようこそおいでいただきました。ジーノ師は夏風邪をひいて、今日はもう、寝んでおりますので、ご面会は明日に。今宵は院長が夕食にご招待申し上げ、その後、宿舎にご案内いたします」
「わざわざのお出迎え、痛み入ります。僕はまだ若輩者ゆえ、そのような過分な礼はどうか不要に願います。導師様、頭を上げてください」
フエルが恐縮して声をかける。フエルに続いて馬車を下りたルチアは、気まずそうに周囲を見回している。
「ルチアも、元気だったか。――ジュルチ殿からだいたいの話は聞いている。お前はソアレス家の若君の案内役なのだから、くれぐれも失礼のないようにするのだぞ?」
副院長は言葉は厳しかったが、その声色はルチアを心配しているようであった。ルチアは渋々頷く。
「お久しぶりです。……えっと、副院長補佐の導師様」
「前院長様が三年前に遷化なさり、副院長様が院長に昇格した。わしは今、副院長だ」
「えっ、院長、死んじゃったの!」
明け透けなルチアの言葉に、副院長が思わず舌打ちする。
「ルチア。大事なお客様の前だぞ。もっと行儀よくしなさい」
そのまま説教に突入しそうな雰囲気に、フエルは慌てて割って入る。
「あ、そうそう、……この正月に、殿下がご来訪になってお世話になったそうで。僧院への喜捨の品々も託かっております」
「ああ、それはご丁寧にありがとうございます。ひとまず院長の部屋に運ばせましょう」
副院長が指揮すると、若い僧侶数人でフエルがソリスティアから持ち込んだ荷物を運び入れ、フエルたちも僧院の中に入る。その後、院長を交えていささか堅苦しい夕食を終え、フエルの長い一日はようやく終わった。
翌日。割り当てられた宿舎までルチアが迎えにきて、二人で僧院の食堂に向かう。
細長い食堂は、正面に陰陽を祀る祭壇が設けられ、その前に院長以下の高位聖職者の席が設えられていた。フエルの席は副院長の隣。席に就いて見まわすと、長細いテーブルにベンチが並び、僧侶たちが並んで腰を下ろしている。三百人は入りそうな食堂の中、俗人はフエルただ一人。それもまだ少年の年頃とあって、僧侶たちも好奇心を抑えきれないようであった。
最も末席には見習い僧侶と、さらに幼い子供達。全員、頭を丸め、薄い貫頭衣の僧衣だけで、落ち着かなく足をブラブラとさせたりしながら、彼らもフエルを遠くから見ては、隣近所とゴソゴソ喋り、監督官らしき僧侶に叱られていた。
フエルの前に並ぶのは、雑穀のパンと、野菜と豆腐の入ったスープ。果物と、発酵乳、それから水で薄めた赤葡萄酒。
僧院の食事は基本的には一日二食。屋外で肉体労働をする僧侶には、作業の合間に薄いパンと水が出るらしいが、そうでなければ以後、夕食まで何もない。フエルは別に大食ではないが、馬車の中でシラーが言った通り、到底、足りなさそうだった。
(あのおばちゃんの堅パンに感謝することになるとは……)
全員で祈りを捧げ、当番の僧が『聖典』を朗読するのを聞きながら、無言で食べる。パンはライ麦が主であるのでもっちりと固く、酸味が強い。発酵乳に甘味を添える木苺のジャムはほんの申し訳程度で、フエルは酸っぱくて耳の下が痛くなった。
(僧院の食事って何でもかんでも酸っぱいんだな……)
それがフエルの印象であったが、僧侶たちと一緒に食べていたルチアは、後でフエルに言った。
「いいよなー上級僧侶には果物と発酵乳が着くんだ。俺たちは替わりにクソ酸っぱい酢漬けがついたよ。絶対、子供に栄養足りねぇって思う」
馬車に同乗して気づいたことだが、ルチアは見かけは天使のように美しいくせに、食べ物に関しては餓鬼のように意地汚かった。フエルがおばちゃんの女神官にもらった揚げパンが、腐りかけているかもしれないからと捨てようとしたのを奪って、全部食べてしまった。子供のころから日々、発酵食品と名のる腐ったモノばかり食べているので、少々の腐敗菌などものともしない、とは、ルチアの弁である。
フエルがソリスティアから持ってきた砂糖菓子を出してやると、あまりの甘さに歯が溶けると言いながら、嬉しそうにがめ込んで食べていた。ルチアが食い物にがめついのは、僧院の食事が貧し過ぎるせいだと、フエルも納得した。
食事の後、フエルは施療所にジーノを尋ねた。
日当たりのいい施療所は、薬草園の脇にあり、開いた窓から薬草の爽やかな香りが漂っていた。夏風邪をひいたというジーノは、しかし今日は気分がいいのか、寝台の上に起き上がってフエルたちを待っていた。
「ソアレス家のフエルと申します。亡き父が大変、お世話になりました。恭親王殿下の正傅ゲル殿から、お見舞いを託かってまいりました」
「ああ、聞いている。おぬしがあの、デュクト殿の――顔立ちがよく似ている。目のあたりなんてそっくりだね」
すっかり眉にも白髪が混じり、顔に皺を刻んだジーノが穏やかに微笑み、寝台脇の木の榻を指してフエルを座らせ、フエルの背後のルチアにも気づく。
「おぬしは――?」
「俺はフエル……殿のお守り役じゃなくて、案内役です」
榻は一つしかなかったので、ジーノはお茶を運んできた世話役の僧に、榻をもう一つ運んでくれるように頼む。頷いた僧が運んできた榻にルチアが腰かけて、フエルはゲルから預かった皇室の御料茶園のお茶や薬、砂糖菓子、手触りのいい絹の手巾などを手渡す。
「ありがたいけれど、わしは僧侶で、個人の所有は禁じられている。これらは施療所の皆でいただくとしよう」
ただ、ゲルが見舞いの品に加えた、陶器の器に入れた金泥や絵具類を見て、嬉しそうに言った。
「この金泥は素晴らしいね。いつも、写字や装飾をするときの、金彩が足りなくてね」
ルチアも絵具には目がないのか、羨ましそうに見ている。ジーノは、ルチアが太陽神殿の学院で絵を学んでいると聞いて、黒い目を細めた。
「ああ、思い出したよ。わしがこちらに来てまだ間がない時、写字室を覗いていた子だね?」
絵が好きなルチアは、幼いころから暇を見つけると壁や地面に落書きしたり、写字室を覗いたりしていたらしい。
「立派になって――わしも歳をとるはずだ」
微笑むジーノに、図書館で司書主任に売春して停学中だなんてとても言えなかった。
ひとしきり話した後、フエルは僧院の聖堂に詣でることにした。天と陰陽の祭壇の片隅に、ジーノが仕えた成郡王の位牌もあるという。
「ここ数日、拝礼できていないのだ。わしの代わりに焼香してもらえると有難い」
ジーノがいつも拝礼の際に使う香と数珠を借りて、フエルとルチアは施療所を出て聖堂に向かった。
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