武当女侠情剣志

春秋梅菊

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三十三 秘書

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 古廟を発って五日目。麻袋から出された紅鴛の前には、これまでとは違う光景が広がった。大きな寝床、紫檀の卓椅子、床は羅紗の敷物。どうやらここは宿のようだ。それも、かなり値の張る部屋に見えた。
 掃把星は紅鴛を見て、顔をしかめた。
「さすがに五日も袋へ入れっぱなしじゃあ、ちょいと臭うな。へへ、下のあれだって、殆ど垂れ流しだしな」
 紅鴛は屈辱で真っ赤になった。しかし無力な今は、ただ盗人を睨みつけることしか出来ない。
「おいおい、怖い顔するな。せっかく俺様が親切をしてやろうってとこなのに」
 言うなり、紅鴛を担ぎ上げると、御簾で仕切られた隣の間に運んでいく。そこは洗い場だった。大きな木桶の風呂にはたっぷりと湯が注がれ、香りの満ちた花が浮いていた。
 掃把星は紅鴛を下ろし、にっと笑った。
「武当山へはまだ長いんだ。風呂に入って綺麗さっぱりといこうじゃねえか」
 嫌な予感がした矢先、盗人の手が襟元に伸びてきた。紅鴛は激しく首を振った。口は布で塞がれ、くぐもった音しか出てこない。必死に身をよじったが、大した抵抗にはならなかった。脱がせる時に、縛られた腕が袖に引っかかると、掃把星はびりびりと服を切り裂いた。それから下着も取り払われ、一糸まとわぬ姿にされてしまった。
 続いて、湯の中に身体を沈められた。掃把星が鼻唄をうたいながら、わしゃわしゃと髪の毛を撫で洗ってくる。こんな江湖の盗人に、風呂の世話をされるなんて! 気持ちよさよりも、恥辱の方が遙かに勝った。紅鴛はきつく目を閉じ、歯を食いしばり、ひたすら早く時が流れるのを願った。
「よし! まぁ、こんなもんだろ」
 掃把星はからから笑いながら、紅鴛を風呂桶から担ぎ出した。桶のそばに置いてあった籠から厚手の布を取り出し、ごしごしと身体を拭いてやる。服はどうするのかと思っていると、胸から腰まで届く大きさの羅紗布を下着代わりに巻き、さらに全身を覆える外套を重ね、腰のあたりを紐で結んだ。腕は相変わらず、縛られたままだ。
 紅鴛は半ば安堵し、半ば呆気にとられていた。わざわざ風呂に入れるのは、その後で身体を弄ぶつもりに違いないと考えたからだ。しかし、意外にも掃把星は何もしてこなかった。まさか本当に親切のつもりだったのだろうか。
 紅鴛の気持ちをよそに、掃把星は片づけを始めていた。引き裂いた紅鴛の着物を拾い上げ――ふと怪訝な顔つきになった。
「何だこりゃ?」
 着物の隠しに、何かが縫い込まれているようだった。紅鴛も気になって、身を乗り出した。
 中から封書が出てきた。
「心当たりがあるか?」
 掃把星に聞かれて、紅鴛は首を振った。破れた着物は、確か洞窟で翆繍に着せられたものだ。となると、この封書はあの子が仕込んだものに違いない。
「見ても構わないか?」
 律儀に確認してきた掃把星へ、紅鴛は頷いた。封を破ると、中にはごく短い手紙があった。
『武当山菜園 水仙鉢の底 真相あり』
 紅鴛は目を見張った。筆跡はやはり翠繍のものだった。
 けれども、肝心の意味がわからない。
 ――武当の菜園……。水仙鉢の底……。真相とは、一体何のことだろう。
 紅鴛の翆繍に対する気持ちは、二転三転していた。最初は許嫁を連れ去られた困惑と怒りがあり、再会して対決した時は数々の疑念に満たされ、そして監禁されてからは……遠回しに何かを説かれているかのようだった。牢獄にいた日々で、柯士慧の本性と目的が暴かれた。他にも、翆繍が知っていて紅鴛が知らない事実があるのだろうか。それも、長年自分が過ごしていた武当山に。
 ずっと死んでしまいたいと思っていた紅鴛だったが、思いがけず気力が沸いてきた。

 ところが、紅鴛の気持ちをよそに、掃把星はそれから七日も宿に留まり続けた。そうしなければならない理由があったらしい。時折、昼夜を問わず突然外出していた。無論、紅鴛が逃げ出さないための用心は怠らず、身動き出来ないよう麻袋の中へ閉じ込めるのが常だった。
 七日目の晩、夜半に戻ってきた掃把星は紅鴛を袋から出し、気付け薬を含ませた。
 不意に、部屋の扉が叩かれた。
「おっと、来たようだな」
 掃把星は立ち上がると、扉を開けた。
 入ってきたのは女性だった。年の頃は四十くらいだろうか。白髪交じりで、顔には皺が刻まれている。右頬から首にかけて、深い切り傷の跡が走っていた。何やら足音が妙なのは、杖をつき、左足が木の義足になっているからだった。着ているものもくたびれ、あちこち継ぎ剥ぎされている。
 何者だろう。数々の怪我は戦いで負ったものに違いない。とすると、武林の人間か。
 掃把星が椅子を示した。
「ここまでご苦労さんだったな。まぁ、座ってくれ」
 女はこくりと頷いた。顔立ちは穏やかで、傷がつく前はさぞ美しかったのだろうと感じられた。物静かな態度は、あまり武芸者らしくない。
 ふと、部屋の隅で縛られている紅鴛を見つけ、戸惑いがちに掃把星へ顔を向けた。
「あのう、この方は……」
「あぁ、そいつか? 武林で暴れ回ってた悪党なんだ。俺が捕まえて、大人しくさせてるのさ。気にしないでくれ」
 紅鴛は腹が立ったものの、話すことが出来ない。それに女と掃把星の関係もわからなかったから、やたらと助けを求めるのもためらわれた。
 女は気を取り直したように、尋ねた。
「それで、あの、例のものは……どうなりましたか?」
 にっと笑った掃把星が、懐から絹布の包みを出して、丁重に机へ置いた。
「どうぞ、お確かめあれ」
 息を呑んだ女が、震える手で絹布を剥がす。
 中から出てきたのは、緑玉で出来た小振りの獅子像だった。作りが精巧なのはもちろん、玉の表面は丹念に磨かれ、美しい光を放っている。あまりこういう代物に縁がない紅鴛でも、その価値の高さは感じることが出来た。
 女はわっと泣き出し、獅子像を胸元深くに抱き締めた。
「も、もう……二度と私のもとには、戻ってこないかと……。良かった……。本当に……」
 紅鴛は少しずつ状況を理解し始めた。どうやら掃把星はこの女に依頼されて、獅子像をどこからか盗んで来たらしい。
 大分経ってから、女はようやく涙を収めた。そして椅子を降り、掃把星へ叩頭しようとした。
「おい、そんな大袈裟な真似はよしてくれ!」
 掃把星が急いでその身体を支え、椅子にまた座らせる。女はまだ涙の残る声で言った。
「いいえ。あ、あなたは、私の一生の恩人です。感謝しても……感謝しきれません」
「俺はただ、自分の腕を試してみたかっただけでね。報酬も感謝もいらねぇ。なかなか難しい盗みだったからな。ま、うまくいって何よりだった」掃把星はちらっと外を見やり、それから女に告げた。「とりあえず、あんたはその宝を持ってなるべく遠くに逃げるこった。また奪われたら、今度は盗み返せるかわからねえ。相手が相手だからな」
 女は、何度も深く頷いた。


 



 
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