11 / 34
十 王剣彦
しおりを挟む
薛紅鴛らは手当と休養のため、一日廟に留まった。腕を断たれた乞食娘は失血が酷かったが、幸い武当派には優れた血止め薬がある。応急ではあったが、紅鴛は出来る限りのことをした。
半日近く昏々としていた娘は、目を覚ますと、廟に安置されている神像の後ろを探り、古びた巾着袋を引っ張り出した。紅鴛が何なのか尋ねると「おじいちゃんに頼まれたの。中身は知らないけれど、これを取りに来たんだ」と言うだけだった。
三人は馬車に乗り、乞食娘の話した谷を目指した。底には確かに、小さな洞窟があった。
「おじいちゃん、戻ったよ!」
娘が中に入って呼びかけると、野太い声が返ってきた。
「おう、豊児か。来なさい」
娘と一緒に奥へ進むと、そこはぼろぼろの卓、むしろを敷いただけの寝床、欠けた食器類など、辛うじて住居と呼べるだけものが備わっていた。壁には松明が灯り、中は明るかった。
むさくるしい身なりをした白髪の老人が、地べたに座り、手で首や胸元を掻きむしっている。なるほど、これが胡千寿こと天耳老丐か。老人は、娘――どうやら豊児という名のようだ――の姿を見るなり、微かに目を見開いた。
「お前、腕をどうした……!」
「いいの。おじいちゃん、あたしがどじを踏んだだけ。もう痛くないよ。こちらのお姉さんが助けてくれたの。武当派の薛女侠。あの有名な「紅袖仙子」よ」
老人は、近づいてきた娘の頭を撫で、それから紅鴛達へ視線を向けた。
「ほほう……武当派の人間か」
紅鴛と楊楓は拱手した。
「お初にお目にかかります、ご先輩」
「よし、よし。礼も含めてじっくり話したいところだが、先に急いで片づけねばならん用がある。まぁ……こんな場所だが、好きに座って、しばらくくつろいでいなさい。茶もあるでな」それから、豊児を振りむいた。「あれは持ってきてくれたかね」
「うん」
娘が廟の神像裏から取り出した巾着を渡す。中身は滋養強壮に使われる長白山の人参、それも数十年近くを経て栽培された貴重なものと見て取れた。天耳老丐は手際よく人参を刻み、鍋に沸かした湯へ放り、薬を煎じた。
ふと、紅鴛は寝床に誰かが横たわっていることに気がついた。若い男だ。重傷を負ったらしく、血の気が失せている。
しかし紅鴛が驚いたのは、その顔に見覚えがあることだった。
「そちらの方は、もしや峨眉派の王剣彦殿ではありあませんか?」
数年前、峨眉山を訪れた時に会ったことがある。颯爽とした若者で、武芸の腕も立ち、武林にもそこそこ名を知られている人物だ。それがどうして、こんな場所にいるのだろう。
「そうじゃ」老人は鍋に視線をくれたまま答えた。「ま、お前さんには話しておいても良かろう。峨眉五峰と手を交えたのなら、まるきり無関係ともいえまい。
この王剣彦は、峨眉派の前掌門・王長英の息子でな。王長英は二十年前、裏山で奥義の修行中、仇に襲われ死んだ。その後、弟弟子だった郭玄生が掌門を引き継いだ……というのが表向きの事実となっておる」
「表向き?」
「左様。王長英は仇ではなく、身内に殺されたんじゃ。手を下したのは言うまでもなく郭玄生と、彼に同調した当時の高弟達、つまりあの峨眉五峰じゃ」
紅鴛は衝撃を受けた。
「私は、郭先生とは面識があります。争いを好まず人当りも穏やかで、とてもそのような行いをする方とは思えません」
「人の心は読めぬもの。ささいなきっかけで悪へ転向する善人もおる。善人の衣をうまくまとい続けられる悪人もおる。あの郭玄生は、内に野心を秘めた男じゃった。峨眉派には、掌門しか継承できない武術の奥義がいくつもある。それが欲しかったのかもしれん。あるいは単に地位を求めたのかもしれん。王長英に何らかの恨みがあったかもしれん。どのみち、表にはおくびにも出さん。わしは偶然、懇意にしていた峨眉派の李という老弟子から、郭玄生が王長英を暗殺したことを聞いた。以来、数十年近く密かに動向を探っておった。
掌門になった郭玄生は、確かに一門を立派に盛り立てておった。王長英を殺した疑いをかわすためか、息子の剣彦の親代わりになることを宣言し、実際手塩にかけて育ててきたのじゃ。だから、そなたのように郭玄生の名声を信じる者がいても、不思議ではない」
紅鴛はどきりとした。まだ尋ねてもいないのに、失踪した義妹と婚約者のことを言われたような気がしたのだ。確かに人の心はわからない。その当人達を除いては。
彼女の内心を後目に、老人は続けた。
「王剣彦は数か月前、わしを訪ねてきた。病床の李が臨終で、父の死の真相を教えたのじゃ。それでわしに知恵を求めに来た。別に親の仇討ちまで考えていたわけではない。ただ、どう対処すべきか身内で相談する相手もおらず、それでわしを頼ったのじゃな。
しかし、その動向が郭玄生にばれ、あの峨眉五峰が出てきた。五人は数十年前武林で名を馳せていたが、王長英暗殺に手を貸した後、修行の名目で一門とは距離を置き、すっかり身を潜めておった。が、わしの知るところ、峨眉派で表沙汰にしたくない事件が起きた時は、何度か暗殺や誘拐などを行っておる。いわば掌門の懐刀じゃ。
峨眉山を下りた王剣彦は、道中五人に襲われて深い内傷を負ったが、どうにかこの洞窟まで逃げてきた。わしは治療のためここを離れられなんだ。傷を完全に癒すには、赤松廟にある人参が必要だったので、豊児を向かわせたんじゃが、峨眉五峰はわしが現れると見越して待ち伏せしておった。剣彦だけでなくわしも殺す腹だったのじゃ」
ふと、豊児が口を入れた。
「あたし、廟の近くにずっといたの。でもあの五人が三日も動かないもんだから、とうとう我慢出来なくて、あの晩中に入ったの。薛のお姉様がいてくれて、本当によかった。あたし、死んでたかもしれないもの」
老人は瞳を潤ませ、娘を抱き寄せた。
「すまんのう。わしのために、こんな目に遭うとは」
娘は首を振った。
「いいのよ。おじいちゃん。危ないのは最初から覚悟してた」それから、笑顔を浮かべて紅鴛を振り向く。「ねえ、薛女侠。武当派の武芸って本当に大したものね。あたしに教えてくれる? そうしたら、もうあの峨眉五峰みたいな連中が来ても怖くないものね!」
眼の淵にじんわりと涙が浮かんでいた。老人を心配させまいと、殊更に明るく振る舞っているようだった。
胸をつかれた紅鴛は、大きく頷いた。
「いいですとも。武当山にいらっしゃい。片腕だって大丈夫。私が武術を教えてあげる」
半日近く昏々としていた娘は、目を覚ますと、廟に安置されている神像の後ろを探り、古びた巾着袋を引っ張り出した。紅鴛が何なのか尋ねると「おじいちゃんに頼まれたの。中身は知らないけれど、これを取りに来たんだ」と言うだけだった。
三人は馬車に乗り、乞食娘の話した谷を目指した。底には確かに、小さな洞窟があった。
「おじいちゃん、戻ったよ!」
娘が中に入って呼びかけると、野太い声が返ってきた。
「おう、豊児か。来なさい」
娘と一緒に奥へ進むと、そこはぼろぼろの卓、むしろを敷いただけの寝床、欠けた食器類など、辛うじて住居と呼べるだけものが備わっていた。壁には松明が灯り、中は明るかった。
むさくるしい身なりをした白髪の老人が、地べたに座り、手で首や胸元を掻きむしっている。なるほど、これが胡千寿こと天耳老丐か。老人は、娘――どうやら豊児という名のようだ――の姿を見るなり、微かに目を見開いた。
「お前、腕をどうした……!」
「いいの。おじいちゃん、あたしがどじを踏んだだけ。もう痛くないよ。こちらのお姉さんが助けてくれたの。武当派の薛女侠。あの有名な「紅袖仙子」よ」
老人は、近づいてきた娘の頭を撫で、それから紅鴛達へ視線を向けた。
「ほほう……武当派の人間か」
紅鴛と楊楓は拱手した。
「お初にお目にかかります、ご先輩」
「よし、よし。礼も含めてじっくり話したいところだが、先に急いで片づけねばならん用がある。まぁ……こんな場所だが、好きに座って、しばらくくつろいでいなさい。茶もあるでな」それから、豊児を振りむいた。「あれは持ってきてくれたかね」
「うん」
娘が廟の神像裏から取り出した巾着を渡す。中身は滋養強壮に使われる長白山の人参、それも数十年近くを経て栽培された貴重なものと見て取れた。天耳老丐は手際よく人参を刻み、鍋に沸かした湯へ放り、薬を煎じた。
ふと、紅鴛は寝床に誰かが横たわっていることに気がついた。若い男だ。重傷を負ったらしく、血の気が失せている。
しかし紅鴛が驚いたのは、その顔に見覚えがあることだった。
「そちらの方は、もしや峨眉派の王剣彦殿ではありあませんか?」
数年前、峨眉山を訪れた時に会ったことがある。颯爽とした若者で、武芸の腕も立ち、武林にもそこそこ名を知られている人物だ。それがどうして、こんな場所にいるのだろう。
「そうじゃ」老人は鍋に視線をくれたまま答えた。「ま、お前さんには話しておいても良かろう。峨眉五峰と手を交えたのなら、まるきり無関係ともいえまい。
この王剣彦は、峨眉派の前掌門・王長英の息子でな。王長英は二十年前、裏山で奥義の修行中、仇に襲われ死んだ。その後、弟弟子だった郭玄生が掌門を引き継いだ……というのが表向きの事実となっておる」
「表向き?」
「左様。王長英は仇ではなく、身内に殺されたんじゃ。手を下したのは言うまでもなく郭玄生と、彼に同調した当時の高弟達、つまりあの峨眉五峰じゃ」
紅鴛は衝撃を受けた。
「私は、郭先生とは面識があります。争いを好まず人当りも穏やかで、とてもそのような行いをする方とは思えません」
「人の心は読めぬもの。ささいなきっかけで悪へ転向する善人もおる。善人の衣をうまくまとい続けられる悪人もおる。あの郭玄生は、内に野心を秘めた男じゃった。峨眉派には、掌門しか継承できない武術の奥義がいくつもある。それが欲しかったのかもしれん。あるいは単に地位を求めたのかもしれん。王長英に何らかの恨みがあったかもしれん。どのみち、表にはおくびにも出さん。わしは偶然、懇意にしていた峨眉派の李という老弟子から、郭玄生が王長英を暗殺したことを聞いた。以来、数十年近く密かに動向を探っておった。
掌門になった郭玄生は、確かに一門を立派に盛り立てておった。王長英を殺した疑いをかわすためか、息子の剣彦の親代わりになることを宣言し、実際手塩にかけて育ててきたのじゃ。だから、そなたのように郭玄生の名声を信じる者がいても、不思議ではない」
紅鴛はどきりとした。まだ尋ねてもいないのに、失踪した義妹と婚約者のことを言われたような気がしたのだ。確かに人の心はわからない。その当人達を除いては。
彼女の内心を後目に、老人は続けた。
「王剣彦は数か月前、わしを訪ねてきた。病床の李が臨終で、父の死の真相を教えたのじゃ。それでわしに知恵を求めに来た。別に親の仇討ちまで考えていたわけではない。ただ、どう対処すべきか身内で相談する相手もおらず、それでわしを頼ったのじゃな。
しかし、その動向が郭玄生にばれ、あの峨眉五峰が出てきた。五人は数十年前武林で名を馳せていたが、王長英暗殺に手を貸した後、修行の名目で一門とは距離を置き、すっかり身を潜めておった。が、わしの知るところ、峨眉派で表沙汰にしたくない事件が起きた時は、何度か暗殺や誘拐などを行っておる。いわば掌門の懐刀じゃ。
峨眉山を下りた王剣彦は、道中五人に襲われて深い内傷を負ったが、どうにかこの洞窟まで逃げてきた。わしは治療のためここを離れられなんだ。傷を完全に癒すには、赤松廟にある人参が必要だったので、豊児を向かわせたんじゃが、峨眉五峰はわしが現れると見越して待ち伏せしておった。剣彦だけでなくわしも殺す腹だったのじゃ」
ふと、豊児が口を入れた。
「あたし、廟の近くにずっといたの。でもあの五人が三日も動かないもんだから、とうとう我慢出来なくて、あの晩中に入ったの。薛のお姉様がいてくれて、本当によかった。あたし、死んでたかもしれないもの」
老人は瞳を潤ませ、娘を抱き寄せた。
「すまんのう。わしのために、こんな目に遭うとは」
娘は首を振った。
「いいのよ。おじいちゃん。危ないのは最初から覚悟してた」それから、笑顔を浮かべて紅鴛を振り向く。「ねえ、薛女侠。武当派の武芸って本当に大したものね。あたしに教えてくれる? そうしたら、もうあの峨眉五峰みたいな連中が来ても怖くないものね!」
眼の淵にじんわりと涙が浮かんでいた。老人を心配させまいと、殊更に明るく振る舞っているようだった。
胸をつかれた紅鴛は、大きく頷いた。
「いいですとも。武当山にいらっしゃい。片腕だって大丈夫。私が武術を教えてあげる」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる