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十 王剣彦
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薛紅鴛らは手当と休養のため、一日廟に留まった。腕を断たれた乞食娘は失血が酷かったが、幸い武当派には優れた血止め薬がある。応急ではあったが、紅鴛は出来る限りのことをした。
半日近く昏々としていた娘は、目を覚ますと、廟に安置されている神像の後ろを探り、古びた巾着袋を引っ張り出した。紅鴛が何なのか尋ねると「おじいちゃんに頼まれたの。中身は知らないけれど、これを取りに来たんだ」と言うだけだった。
三人は馬車に乗り、乞食娘の話した谷を目指した。底には確かに、小さな洞窟があった。
「おじいちゃん、戻ったよ!」
娘が中に入って呼びかけると、野太い声が返ってきた。
「おう、豊児か。来なさい」
娘と一緒に奥へ進むと、そこはぼろぼろの卓、むしろを敷いただけの寝床、欠けた食器類など、辛うじて住居と呼べるだけものが備わっていた。壁には松明が灯り、中は明るかった。
むさくるしい身なりをした白髪の老人が、地べたに座り、手で首や胸元を掻きむしっている。なるほど、これが胡千寿こと天耳老丐か。老人は、娘――どうやら豊児という名のようだ――の姿を見るなり、微かに目を見開いた。
「お前、腕をどうした……!」
「いいの。おじいちゃん、あたしがどじを踏んだだけ。もう痛くないよ。こちらのお姉さんが助けてくれたの。武当派の薛女侠。あの有名な「紅袖仙子」よ」
老人は、近づいてきた娘の頭を撫で、それから紅鴛達へ視線を向けた。
「ほほう……武当派の人間か」
紅鴛と楊楓は拱手した。
「お初にお目にかかります、ご先輩」
「よし、よし。礼も含めてじっくり話したいところだが、先に急いで片づけねばならん用がある。まぁ……こんな場所だが、好きに座って、しばらくくつろいでいなさい。茶もあるでな」それから、豊児を振りむいた。「あれは持ってきてくれたかね」
「うん」
娘が廟の神像裏から取り出した巾着を渡す。中身は滋養強壮に使われる長白山の人参、それも数十年近くを経て栽培された貴重なものと見て取れた。天耳老丐は手際よく人参を刻み、鍋に沸かした湯へ放り、薬を煎じた。
ふと、紅鴛は寝床に誰かが横たわっていることに気がついた。若い男だ。重傷を負ったらしく、血の気が失せている。
しかし紅鴛が驚いたのは、その顔に見覚えがあることだった。
「そちらの方は、もしや峨眉派の王剣彦殿ではありあませんか?」
数年前、峨眉山を訪れた時に会ったことがある。颯爽とした若者で、武芸の腕も立ち、武林にもそこそこ名を知られている人物だ。それがどうして、こんな場所にいるのだろう。
「そうじゃ」老人は鍋に視線をくれたまま答えた。「ま、お前さんには話しておいても良かろう。峨眉五峰と手を交えたのなら、まるきり無関係ともいえまい。
この王剣彦は、峨眉派の前掌門・王長英の息子でな。王長英は二十年前、裏山で奥義の修行中、仇に襲われ死んだ。その後、弟弟子だった郭玄生が掌門を引き継いだ……というのが表向きの事実となっておる」
「表向き?」
「左様。王長英は仇ではなく、身内に殺されたんじゃ。手を下したのは言うまでもなく郭玄生と、彼に同調した当時の高弟達、つまりあの峨眉五峰じゃ」
紅鴛は衝撃を受けた。
「私は、郭先生とは面識があります。争いを好まず人当りも穏やかで、とてもそのような行いをする方とは思えません」
「人の心は読めぬもの。ささいなきっかけで悪へ転向する善人もおる。善人の衣をうまくまとい続けられる悪人もおる。あの郭玄生は、内に野心を秘めた男じゃった。峨眉派には、掌門しか継承できない武術の奥義がいくつもある。それが欲しかったのかもしれん。あるいは単に地位を求めたのかもしれん。王長英に何らかの恨みがあったかもしれん。どのみち、表にはおくびにも出さん。わしは偶然、懇意にしていた峨眉派の李という老弟子から、郭玄生が王長英を暗殺したことを聞いた。以来、数十年近く密かに動向を探っておった。
掌門になった郭玄生は、確かに一門を立派に盛り立てておった。王長英を殺した疑いをかわすためか、息子の剣彦の親代わりになることを宣言し、実際手塩にかけて育ててきたのじゃ。だから、そなたのように郭玄生の名声を信じる者がいても、不思議ではない」
紅鴛はどきりとした。まだ尋ねてもいないのに、失踪した義妹と婚約者のことを言われたような気がしたのだ。確かに人の心はわからない。その当人達を除いては。
彼女の内心を後目に、老人は続けた。
「王剣彦は数か月前、わしを訪ねてきた。病床の李が臨終で、父の死の真相を教えたのじゃ。それでわしに知恵を求めに来た。別に親の仇討ちまで考えていたわけではない。ただ、どう対処すべきか身内で相談する相手もおらず、それでわしを頼ったのじゃな。
しかし、その動向が郭玄生にばれ、あの峨眉五峰が出てきた。五人は数十年前武林で名を馳せていたが、王長英暗殺に手を貸した後、修行の名目で一門とは距離を置き、すっかり身を潜めておった。が、わしの知るところ、峨眉派で表沙汰にしたくない事件が起きた時は、何度か暗殺や誘拐などを行っておる。いわば掌門の懐刀じゃ。
峨眉山を下りた王剣彦は、道中五人に襲われて深い内傷を負ったが、どうにかこの洞窟まで逃げてきた。わしは治療のためここを離れられなんだ。傷を完全に癒すには、赤松廟にある人参が必要だったので、豊児を向かわせたんじゃが、峨眉五峰はわしが現れると見越して待ち伏せしておった。剣彦だけでなくわしも殺す腹だったのじゃ」
ふと、豊児が口を入れた。
「あたし、廟の近くにずっといたの。でもあの五人が三日も動かないもんだから、とうとう我慢出来なくて、あの晩中に入ったの。薛のお姉様がいてくれて、本当によかった。あたし、死んでたかもしれないもの」
老人は瞳を潤ませ、娘を抱き寄せた。
「すまんのう。わしのために、こんな目に遭うとは」
娘は首を振った。
「いいのよ。おじいちゃん。危ないのは最初から覚悟してた」それから、笑顔を浮かべて紅鴛を振り向く。「ねえ、薛女侠。武当派の武芸って本当に大したものね。あたしに教えてくれる? そうしたら、もうあの峨眉五峰みたいな連中が来ても怖くないものね!」
眼の淵にじんわりと涙が浮かんでいた。老人を心配させまいと、殊更に明るく振る舞っているようだった。
胸をつかれた紅鴛は、大きく頷いた。
「いいですとも。武当山にいらっしゃい。片腕だって大丈夫。私が武術を教えてあげる」
半日近く昏々としていた娘は、目を覚ますと、廟に安置されている神像の後ろを探り、古びた巾着袋を引っ張り出した。紅鴛が何なのか尋ねると「おじいちゃんに頼まれたの。中身は知らないけれど、これを取りに来たんだ」と言うだけだった。
三人は馬車に乗り、乞食娘の話した谷を目指した。底には確かに、小さな洞窟があった。
「おじいちゃん、戻ったよ!」
娘が中に入って呼びかけると、野太い声が返ってきた。
「おう、豊児か。来なさい」
娘と一緒に奥へ進むと、そこはぼろぼろの卓、むしろを敷いただけの寝床、欠けた食器類など、辛うじて住居と呼べるだけものが備わっていた。壁には松明が灯り、中は明るかった。
むさくるしい身なりをした白髪の老人が、地べたに座り、手で首や胸元を掻きむしっている。なるほど、これが胡千寿こと天耳老丐か。老人は、娘――どうやら豊児という名のようだ――の姿を見るなり、微かに目を見開いた。
「お前、腕をどうした……!」
「いいの。おじいちゃん、あたしがどじを踏んだだけ。もう痛くないよ。こちらのお姉さんが助けてくれたの。武当派の薛女侠。あの有名な「紅袖仙子」よ」
老人は、近づいてきた娘の頭を撫で、それから紅鴛達へ視線を向けた。
「ほほう……武当派の人間か」
紅鴛と楊楓は拱手した。
「お初にお目にかかります、ご先輩」
「よし、よし。礼も含めてじっくり話したいところだが、先に急いで片づけねばならん用がある。まぁ……こんな場所だが、好きに座って、しばらくくつろいでいなさい。茶もあるでな」それから、豊児を振りむいた。「あれは持ってきてくれたかね」
「うん」
娘が廟の神像裏から取り出した巾着を渡す。中身は滋養強壮に使われる長白山の人参、それも数十年近くを経て栽培された貴重なものと見て取れた。天耳老丐は手際よく人参を刻み、鍋に沸かした湯へ放り、薬を煎じた。
ふと、紅鴛は寝床に誰かが横たわっていることに気がついた。若い男だ。重傷を負ったらしく、血の気が失せている。
しかし紅鴛が驚いたのは、その顔に見覚えがあることだった。
「そちらの方は、もしや峨眉派の王剣彦殿ではありあませんか?」
数年前、峨眉山を訪れた時に会ったことがある。颯爽とした若者で、武芸の腕も立ち、武林にもそこそこ名を知られている人物だ。それがどうして、こんな場所にいるのだろう。
「そうじゃ」老人は鍋に視線をくれたまま答えた。「ま、お前さんには話しておいても良かろう。峨眉五峰と手を交えたのなら、まるきり無関係ともいえまい。
この王剣彦は、峨眉派の前掌門・王長英の息子でな。王長英は二十年前、裏山で奥義の修行中、仇に襲われ死んだ。その後、弟弟子だった郭玄生が掌門を引き継いだ……というのが表向きの事実となっておる」
「表向き?」
「左様。王長英は仇ではなく、身内に殺されたんじゃ。手を下したのは言うまでもなく郭玄生と、彼に同調した当時の高弟達、つまりあの峨眉五峰じゃ」
紅鴛は衝撃を受けた。
「私は、郭先生とは面識があります。争いを好まず人当りも穏やかで、とてもそのような行いをする方とは思えません」
「人の心は読めぬもの。ささいなきっかけで悪へ転向する善人もおる。善人の衣をうまくまとい続けられる悪人もおる。あの郭玄生は、内に野心を秘めた男じゃった。峨眉派には、掌門しか継承できない武術の奥義がいくつもある。それが欲しかったのかもしれん。あるいは単に地位を求めたのかもしれん。王長英に何らかの恨みがあったかもしれん。どのみち、表にはおくびにも出さん。わしは偶然、懇意にしていた峨眉派の李という老弟子から、郭玄生が王長英を暗殺したことを聞いた。以来、数十年近く密かに動向を探っておった。
掌門になった郭玄生は、確かに一門を立派に盛り立てておった。王長英を殺した疑いをかわすためか、息子の剣彦の親代わりになることを宣言し、実際手塩にかけて育ててきたのじゃ。だから、そなたのように郭玄生の名声を信じる者がいても、不思議ではない」
紅鴛はどきりとした。まだ尋ねてもいないのに、失踪した義妹と婚約者のことを言われたような気がしたのだ。確かに人の心はわからない。その当人達を除いては。
彼女の内心を後目に、老人は続けた。
「王剣彦は数か月前、わしを訪ねてきた。病床の李が臨終で、父の死の真相を教えたのじゃ。それでわしに知恵を求めに来た。別に親の仇討ちまで考えていたわけではない。ただ、どう対処すべきか身内で相談する相手もおらず、それでわしを頼ったのじゃな。
しかし、その動向が郭玄生にばれ、あの峨眉五峰が出てきた。五人は数十年前武林で名を馳せていたが、王長英暗殺に手を貸した後、修行の名目で一門とは距離を置き、すっかり身を潜めておった。が、わしの知るところ、峨眉派で表沙汰にしたくない事件が起きた時は、何度か暗殺や誘拐などを行っておる。いわば掌門の懐刀じゃ。
峨眉山を下りた王剣彦は、道中五人に襲われて深い内傷を負ったが、どうにかこの洞窟まで逃げてきた。わしは治療のためここを離れられなんだ。傷を完全に癒すには、赤松廟にある人参が必要だったので、豊児を向かわせたんじゃが、峨眉五峰はわしが現れると見越して待ち伏せしておった。剣彦だけでなくわしも殺す腹だったのじゃ」
ふと、豊児が口を入れた。
「あたし、廟の近くにずっといたの。でもあの五人が三日も動かないもんだから、とうとう我慢出来なくて、あの晩中に入ったの。薛のお姉様がいてくれて、本当によかった。あたし、死んでたかもしれないもの」
老人は瞳を潤ませ、娘を抱き寄せた。
「すまんのう。わしのために、こんな目に遭うとは」
娘は首を振った。
「いいのよ。おじいちゃん。危ないのは最初から覚悟してた」それから、笑顔を浮かべて紅鴛を振り向く。「ねえ、薛女侠。武当派の武芸って本当に大したものね。あたしに教えてくれる? そうしたら、もうあの峨眉五峰みたいな連中が来ても怖くないものね!」
眼の淵にじんわりと涙が浮かんでいた。老人を心配させまいと、殊更に明るく振る舞っているようだった。
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