武当女侠情剣志

春秋梅菊

文字の大きさ
12 / 34

十一 蜈蚣大尊

しおりを挟む
「さて……話はここまで。薬が出来たようじゃ。お前さん達、しばらく待っていてくれんか」
 天耳老丐は鍋の薬を匙ですくうと、眠っている王剣彦の口へ含ませた。若者は血の気を失い、殆ど死体のように見える。意識も無く、薬も満足に飲み込めていない。受けた傷の重さが知れた。
 あぐらをかいた天耳老丐が、深々と息を吸った。重ねた両の掌を王剣彦の胸元へあて、ゆっくりと押しては引いてを繰り返す。喉の筋肉が動き、薬が奥へと押し込まれていく。紅鴛は、天耳老丐が至高の内功を用い、外側から王剣彦の呼吸を助けているのだと悟った。彼女達が到着するまでの間、こうして命を繋ぎ止めていたのだろう。
 老人は四回ほど、同じやり方で薬を飲ませた。小半刻もすると、王剣彦の頬に赤みがさしてくる。どうやら危機は脱したようだ。老人は汗ばんだ顔を袖でぬぐい、ふっと息を吐いた。
「もうよかろう」
 ずっとそばで見守っていた紅鴛が、懐から薬瓶を取り出し、栓を外して黒い丸薬を渡した。
「ご先輩。長いことを内功を駆使してお疲れでしょう。よろしければ、これをどうぞ。我が武当派の太清心通丹たいしんしんつうたんです」
「おぉ、それは有難い。昔、慕容の小僧からもらったことがあるが、本当によく効く薬じゃ」
 紅鴛と楊楓はちらっと目を見合わせた。武当の掌門がまさかの小僧呼ばわりときた。
 天耳老丐がそれと察したように笑う。
「はは、わしが江湖を渡り歩いていた頃、まだ奴は二十歳そこそこの若造じゃった。小僧に見えても仕方あるまい。まあ、あれからもう三十年か。掌門の座に就いてからは、武究などと大層な名前に変えおって。二つ名の鎮山道人もそうじゃ。昔は慕容平だった。そちらの方が謙虚で良かろうが、ん?」
 紅鴛も微笑んだ。
「昔、掌門に聞いたことがあります。傲慢さゆえではなく、どこまでも強さを求める志からその名前にしたのだと言っておりました」
「ふふ、確かに向上心の強い男じゃった。今の武林で、あやつと肩を並べられる者は少ない。八大門派の掌門と、天下四大剣客を除けば、あとはせいぜい七、八人くらいじゃろう。それに、慕容の小僧だけではない。わしが知る限りでも、武当派はこの数十年で優れた弟子を何人も輩出しておる」
「ご先輩のお言葉、掌門もきっと喜びます」
「お前さん、薛紅鴛といったな。では、あの次期掌門と名高い「紅袖仙子」か」
 紅鴛が頷くと、天耳老丐は神妙な面持ちになった。
「なるほど……。来意は大体わかった。わしの耳には、放っておいても江湖のあらゆる噂が舞い込んでくるでな。誰かが訪ねて来ては消息を届けてくれることもある。例の武当派の災難も然りじゃ。お前さんが知りたいのは、失踪した女弟子と、江南の柯六侠の行方じゃろう?」
「はい。この半年、ずっと居所が掴めていないのです。どんな些細な消息でも構いません。教えていただけますでしょうか?」
「お前さんは、豊児の恩人じゃ。無論、知っている限りのことは教える。それで助けになればよいが……。
 四か月ほど前になるが、わしの知り合いが大庸だいようの岩峰林で薬草を探していた時、一組の若い男女を見かけた。どちらも背に剣を負い、装いは武芸者だったという。二人の顔色が悪く、足元がおぼつかない様子だったので声をかけてみると、女の方が答えた。曰く、自分達は蜈蚣大尊ごこうだいそんという毒使いの武芸者に傷を負わされ、そやつを追い、解毒の薬を求めてここまでやってきたのだと。男は口がきけぬほど弱っていたそうじゃ。手伝いを申し出ると、何故か女は断り、そのうえ自分達に会ったことは誰にも口外しないで欲しいなどと言う。その場は不審に思いながら別れたが、後になって武当山の事件を知り、もしかするとその男女が逃げ出した者達だったのでは、とわしに教えてくれたのじゃ」
 紅鴛は胸がばくばくと高鳴るのを感じた。頭で整理がつかないうちに、浮かんできた問いをぶつけた。
「二人は、毒にあたっていたのですか? もう四か月も前……。それに、蜈蚣大尊……。私は一年半ほど前、河北を騒がせていた蜈蚣尊者という毒使いを討伐したことがあります。でも、確か蜈蚣尊者には親兄弟も弟子もいなかったはず……」
 天耳老丐が冷静な声で応じた。
「わしの見たところ、この消息で確かなことは二つじゃ。一つは、お前さんは大庸に行かねばならぬ。そこが消息の途切れ目。となれば、その近くには何らかの答えがあろう。二つは、わしの知りうる限り江湖に蜈蚣大尊という者はおらぬ。蜈蚣尊者の縁者かもしれぬし、誰かが正体を偽っているのかもしれん。これもまた、自らの目で確かめるしかあるまい」
 紅鴛は頷きながらも、困惑していた。手がかりを得るはずが、かえって謎が深くなった。
 翠繡と士慧は、武当山でその蜈蚣大尊に襲われたのだろうか。それで解毒の術を求め、湖南の奥地まで向かったのだろうか。でも、それなら何故紅鴛や一門の皆に知らせてくれなかったのだろう。それに、毒を受けた身で蜈蚣大尊を追うのは不自然ではないか。
 何より、蜈蚣大尊とは何者だろう?
 紅鴛がその名を聞いて思い当たるのは、一年半前の、あの恐るべき蜈蚣尊者との戦いだった……。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】 文化文政の江戸・深川。 人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。 暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。 家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、 「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。 常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!? 変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。 鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋…… その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。 涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。 これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

処理中です...