武当女侠情剣志

春秋梅菊

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十一 蜈蚣大尊

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「さて……話はここまで。薬が出来たようじゃ。お前さん達、しばらく待っていてくれんか」
 天耳老丐は鍋の薬を匙ですくうと、眠っている王剣彦の口へ含ませた。若者は血の気を失い、殆ど死体のように見える。意識も無く、薬も満足に飲み込めていない。受けた傷の重さが知れた。
 あぐらをかいた天耳老丐が、深々と息を吸った。重ねた両の掌を王剣彦の胸元へあて、ゆっくりと押しては引いてを繰り返す。喉の筋肉が動き、薬が奥へと押し込まれていく。紅鴛は、天耳老丐が至高の内功を用い、外側から王剣彦の呼吸を助けているのだと悟った。彼女達が到着するまでの間、こうして命を繋ぎ止めていたのだろう。
 老人は四回ほど、同じやり方で薬を飲ませた。小半刻もすると、王剣彦の頬に赤みがさしてくる。どうやら危機は脱したようだ。老人は汗ばんだ顔を袖でぬぐい、ふっと息を吐いた。
「もうよかろう」
 ずっとそばで見守っていた紅鴛が、懐から薬瓶を取り出し、栓を外して黒い丸薬を渡した。
「ご先輩。長いことを内功を駆使してお疲れでしょう。よろしければ、これをどうぞ。我が武当派の太清心通丹たいしんしんつうたんです」
「おぉ、それは有難い。昔、慕容の小僧からもらったことがあるが、本当によく効く薬じゃ」
 紅鴛と楊楓はちらっと目を見合わせた。武当の掌門がまさかの小僧呼ばわりときた。
 天耳老丐がそれと察したように笑う。
「はは、わしが江湖を渡り歩いていた頃、まだ奴は二十歳そこそこの若造じゃった。小僧に見えても仕方あるまい。まあ、あれからもう三十年か。掌門の座に就いてからは、武究などと大層な名前に変えおって。二つ名の鎮山道人もそうじゃ。昔は慕容平だった。そちらの方が謙虚で良かろうが、ん?」
 紅鴛も微笑んだ。
「昔、掌門に聞いたことがあります。傲慢さゆえではなく、どこまでも強さを求める志からその名前にしたのだと言っておりました」
「ふふ、確かに向上心の強い男じゃった。今の武林で、あやつと肩を並べられる者は少ない。八大門派の掌門と、天下四大剣客を除けば、あとはせいぜい七、八人くらいじゃろう。それに、慕容の小僧だけではない。わしが知る限りでも、武当派はこの数十年で優れた弟子を何人も輩出しておる」
「ご先輩のお言葉、掌門もきっと喜びます」
「お前さん、薛紅鴛といったな。では、あの次期掌門と名高い「紅袖仙子」か」
 紅鴛が頷くと、天耳老丐は神妙な面持ちになった。
「なるほど……。来意は大体わかった。わしの耳には、放っておいても江湖のあらゆる噂が舞い込んでくるでな。誰かが訪ねて来ては消息を届けてくれることもある。例の武当派の災難も然りじゃ。お前さんが知りたいのは、失踪した女弟子と、江南の柯六侠の行方じゃろう?」
「はい。この半年、ずっと居所が掴めていないのです。どんな些細な消息でも構いません。教えていただけますでしょうか?」
「お前さんは、豊児の恩人じゃ。無論、知っている限りのことは教える。それで助けになればよいが……。
 四か月ほど前になるが、わしの知り合いが大庸だいようの岩峰林で薬草を探していた時、一組の若い男女を見かけた。どちらも背に剣を負い、装いは武芸者だったという。二人の顔色が悪く、足元がおぼつかない様子だったので声をかけてみると、女の方が答えた。曰く、自分達は蜈蚣大尊ごこうだいそんという毒使いの武芸者に傷を負わされ、そやつを追い、解毒の薬を求めてここまでやってきたのだと。男は口がきけぬほど弱っていたそうじゃ。手伝いを申し出ると、何故か女は断り、そのうえ自分達に会ったことは誰にも口外しないで欲しいなどと言う。その場は不審に思いながら別れたが、後になって武当山の事件を知り、もしかするとその男女が逃げ出した者達だったのでは、とわしに教えてくれたのじゃ」
 紅鴛は胸がばくばくと高鳴るのを感じた。頭で整理がつかないうちに、浮かんできた問いをぶつけた。
「二人は、毒にあたっていたのですか? もう四か月も前……。それに、蜈蚣大尊……。私は一年半ほど前、河北を騒がせていた蜈蚣尊者という毒使いを討伐したことがあります。でも、確か蜈蚣尊者には親兄弟も弟子もいなかったはず……」
 天耳老丐が冷静な声で応じた。
「わしの見たところ、この消息で確かなことは二つじゃ。一つは、お前さんは大庸に行かねばならぬ。そこが消息の途切れ目。となれば、その近くには何らかの答えがあろう。二つは、わしの知りうる限り江湖に蜈蚣大尊という者はおらぬ。蜈蚣尊者の縁者かもしれぬし、誰かが正体を偽っているのかもしれん。これもまた、自らの目で確かめるしかあるまい」
 紅鴛は頷きながらも、困惑していた。手がかりを得るはずが、かえって謎が深くなった。
 翠繡と士慧は、武当山でその蜈蚣大尊に襲われたのだろうか。それで解毒の術を求め、湖南の奥地まで向かったのだろうか。でも、それなら何故紅鴛や一門の皆に知らせてくれなかったのだろう。それに、毒を受けた身で蜈蚣大尊を追うのは不自然ではないか。
 何より、蜈蚣大尊とは何者だろう?
 紅鴛がその名を聞いて思い当たるのは、一年半前の、あの恐るべき蜈蚣尊者との戦いだった……。
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