武当女侠情剣志

春秋梅菊

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二十三 閨情

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 楊楓が振り向く。声の主は翠繍だった。
 鉄格子越しに、紅鴛は相手を睨みつけた。
「あなたが楊師弟をそそのかしたのね」
「決めたのは彼よ。私は、姉さんを救う方法を教えただけ」
 翠繍は穏やかに応じたが、そのせいで余計に紅鴛の怒りをかき立てたようだった。
「私を苦しめたいなら、何をしてもいい。剣で刺しても、操を奪っても構わない。でも、武当派や柯家をもう巻き込まないで。これ以上争い、を……」
 言葉半ばで、紅鴛の身体がかしいだ。そのまま寝床から落ちそうになるのを、楊楓が慌てて支えた。どうしたことか、さっきまで暖かくなっていた肌がまた冷たくなり始めている。
 翠繍は首を振った。
「毒が抜けきっていないのね。房中功法は、二人が力を合わせなければ効力を発揮しない。せっかく楊師弟が覚悟を決めて試してくれたのに、姉さんが拒んだんじゃ意味も無いわね」
 そう言って、きびすを返した。ふと立ち止まって、付け加えた。
「楊師弟、あなたに任せるわ。姉さんが生きるも死ぬも、あなた次第よ」


 楊楓は紅鴛を抱き上げて、寝床に横たえた。姉弟子の肌がみるみる青ざめていく。せっかくの治療が無意味になってしまったのではたまらない。楊楓は必死に冷たい身体を揺さぶりながら呼びかけた。
「師姐、師姐。しっかり」
 紅鴛は掠れ声で訴えた。
「お願い……殺して。私、もう、武当には戻れない。こんなことになってしまったら……」
「駄目です。死んでしまったらもっと無意味だ。半年も旅をして、ようやく裏切り者を見つけたのに、ここで倒れたら姉さんも武当も不名誉を負ったまま終わってしまうんですよ。どんな屈辱を経ても生き延びて、あの裏切り者を倒すんです。使命を全うするんです。姉さんの身体のことは、黙っておけばいい。解毒が済んだら俺を殺してください。そうすれば、秘密は誰にも知られません」
 紅鴛は瞳を潤ませ、唇を震わせていた。それから、深く息をついた。幾らか冷静さを取り戻したようだった。一門の名誉を重んじる気持ちが、受けた屈辱よりも勝ったのだろう。
 紅鴛は伏し目がちに、ぽつりと言った。
「あなたを責めたりして、ごめんなさい。翠繍がそそのかしたにせよ、あなたが邪な気持ちで房中功法を使うはずはないもの。私を助けたい一心だった。そうでしょう?」
「はい」
 楊楓は咄嗟にそう答えたが、胸の内が疚しさで激しく震えた。最初こそ、姉弟子を救うためだと言い聞かせていたが、途中からはもう違っていた。溺れていたのだ。初めて味わう瑞々しい肌と唇の感触に。腿と胸の柔らかさに。女からしか発しない、髪と汗の匂いに。楊楓の頭は快美で満たされ、相手が日頃敬慕している姉弟子であることも忘れた。無抵抗な娘の肉体は、しまいに単なる情欲をぶつけるだけの器になっていた。
 いや、もうどうでもいい。楊楓は開き直った。どうせ己の命は長くない。少しの疚しさが何になる。
「……楊師弟、手伝って」
「はい?」
 虚を突かれて、楊楓は聞き返した。
「毒を癒やすの。全てのことは、それから考えることにするから」
 紅鴛は不自由ながらも、ゆっくり身を起こした。そして着物の襟へ手を伸ばし、広げ、白い肩を露わにした。


 今度は、最初の時よりも気まずかった。
 相手は動けない無防備な娘では無く、武当の姉弟子だった。あたかも師が弟子を指導するような手順で、房中功法は行われた。前の時は、楊楓が無我夢中に相手の身体を撫で回したが、今回は唇からふれ合い、正しい手つきと順序で胸、腰、腿を愛撫していき、姉弟子の官能を呼び起こしていった。
 一回目のような罪悪感も無ければ、一方的でも無かった。けれども、武芸の稽古のように機械的だ。
 楊楓は緊張のせいで、最初はぎこちなかった。普段の姉弟子に対する遠慮と畏怖がありありと態度に出ていた。しかし愛撫を繰り返すうち、姉弟子の頬が染まり、瞳に恍惚な色が浮かぶのを見て、胸の高鳴りが緊張に勝っていった。それから、相手の息遣いが乱れ、とうとう喘ぐような音を漏らし出すと、獣が目覚めたごとく下半身が猛烈な熱を帯びた。
 堪えきれなくなって、彼は手順を無視し、むしゃぶりつくように押し倒した。
 相手は怒らなかった。腕を巻きつけ、受け入れた。その瞬間、楊楓の目の前にいたのは、姉弟子でもなければ、先ほどの無防備な人形でもない、年頃の若い娘だった。
 二人は粘り着くように身を寄せ、互いの耳元で喘ぎ、肌に爪を立て合った。紅鴛が両足を開いて楊楓を迎えると、牢獄はしばしの間、嬌声がやまなかった。
 房中功法は情に身を任せすぎると効力を損するが、楊楓は夢中になって、もうそんなことは意に介していなかった。紅鴛もそうだったかもしれない。
 これが本当の男女の情愛の姿なのだろうか。肉体だけではない、心の繋がりがある。楊楓は快楽とはまた違う幸せを頭のどこかで感じていた。
 楊楓が、先に果てた。何度か息をついた後で、紅鴦の上に乗ったまま、我を思い出したように言った。
「す、すみません……師姐。俺、夢中になって、功法の手順を……」
「いいえ、大丈夫」微笑んだ姉弟子の顔は、玉粒のような汗で輝いていた。乱れて濡れた髪が、頬や首にはりついている。「ちゃんと、うまくいったから」
 楊楓はしばし見とれた。例えようもなく美しかった。
 紅鴛もまだ微笑んでいたが、それは次第に寂しげなものに変わって、ふと視線をそらしながら言った。
「楊師弟、少し横にどいてくれる? 毒の抜け具合を確かめたいの」
 楊楓は頷き、慌てて姉弟子の体から降りた。少なからず失望を感じていた。もう、いつもの姉弟子と弟弟子に戻ってしまった。もう少しの間、何の隔てもない男と女でいたかった。
 

 紅鴛はそそくさと着物を身につけた。
 表向きは平静を装っていたが、内心の動揺は激しかった。
 房中功法をまともに使ったのは初めてなのだから、自制が利かなくなってしまったのは仕方ない。それより問題なのは、楊楓の向けた熱い眼差しに心が一層乱されたことだった。
 妹弟子と許嫁に名を堕とされ、江湖でいわれない誹謗中傷を浴び、逃げるような半年間の旅で、紅鴛はすっかり周囲に心を閉ざしていた。課された使命の重圧も、一層孤独を強めた。
 それが楊楓に抱かれている間、長いこと忘れていた感情が蘇るのを感じた。自分の受けた苦しみを、誰かに思い切り吐き出したい。安心出来る場所で、ひたすら泣き喚きたい。楊楓の腕はどこまでも優しく、それらを許してくれそうな気がした。身体も心も愉悦で満たしたかった。
 けれども、すんでのところで理性が働いた。そんな弱い自分をさらけ出しても、楊楓に失望されるか、不安を抱かせてしまうだけだ。姐弟子としての仮面を剥がすわけにはいかない。快楽に抗いながら内功を駆使していくと、毒が抜け始め、頭も冷静になった。
 全てが終わってしまうと、暗然たる思いに沈んだ。また一つ試練が増えた。自分は戒律を破ったことを隠すため、この弟弟子をいずれ殺さなければならないのだ。




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