25 / 34
二十四 離間計
しおりを挟む
不意に、鉄格子ががたりと音を立てた。
紅鴛と楊楓が振り向く。柯士慧の困惑と怒りに満ちた双眸が、こちらを見つめていた。
これには紅鴛も動揺を隠せなかった。いつから意識を取り戻していたのだろう。先ほどの情事を見られただろうか。よしんば見ていなかったとしても、何が起きたかはわかったはずだ。紅鴛の髪は濡れ乱れ、着物もだらけている。狭い牢獄の空気は生ぬるく、汗の匂いで満ちていた。
「お……お前達、まさか……」
紅鴛が口を開くより早く、楊楓が冷ややかに言った。
「何も驚くことはないでしょう。房中功法を使ったんです」
「貴様! この恥知らずが!」柯士慧が吠えた。「私の許嫁を、傷物にしたのか!」
「士慧さん、弟弟子を責めないで」
紅鴛が横から言った。
「私が頼んだことなの」
「君が……?」
紅鴛は理解させるように、また頷いた。
柯士慧がわなわなと身を震わせ、いかにも軽蔑したというような眼差しを向ける。
「君なら、私のために操を守ってくれると思っていた。命惜しさに、弟弟子と恥知らずな真似をするなど……」
楊楓がたまりかねた様子で口出しした。
「このまま徒に死んで、どうなったというんですか。生き延びて、あの裏切り者を倒してこそーー」
「黙れ、若造! 私の許嫁を汚した以上、貴様は私の敵だ。ここを出たら、必ず落とし前をつけてやる」
楊楓は冷笑した。
「好きにしたらいいですよ。でも、忘れないで欲しいですね。あなたの右腕がまだぶら下がっているのも、師姐が生きているのも、僕が房中功法を使う決意をしたからだ」
「減らず口を叩くな! あの妖女が卑怯な取引を持ちかけてこなければ、許嫁を見捨てたりするものか」
「ええ。わかっていますよ。あなたの利き腕と師姐の命、どちらか選べというのは酷だ。だからあなたが師姐を抱いて解毒しなかったことも責めやしません。
だけど、僕はもう、あなたが師姐を心から大事にしているとは思っていない。あの裏切り者が見せた手紙の一件もそうだし、結局利き腕を捨てる覚悟も示してはくれなかった。だから、許嫁を傷物にしたなんて口実で僕を責めて欲しくはありませんね。そんなことを言うなら、あなたが最初から姉弟子を抱いてくれれば良かったんだ」
「楊師弟、もういいわ」
紅鴛が遮った。柯士慧が鉄格子を潰さんばかりに握りしめながら言う。
「ここを無事に出られたとして、貴様達の過ちは消えん。いずれこの手で清算してやる」
「あなたがわざわざ手を下す必要はありませんよ、柯六侠。僕は無事にここを逃げ延びたら、姉弟子の名誉のため自刃するつもりだ。責めは全てこの命で償う。必ず、そうします」
楊楓は相手の頭へ言葉を刻みつけるように、力強く告げた。
柯士慧は微かにたじろいだようだった。それから、苛立たしげに顔を背けた。
半刻ばかりして、翠繍が食事を運んできた。
鉄格子の隙間から差し出されたそれを見て、紅鴛と楊楓は目を丸くした。焼餅が一枚ずつと白湯の椀が二つだけだ。昨日までは盆の上に白い飯と幾つかのおかずがあった。
一方の、柯士慧の方には、これまで通りのちゃんとした食事が届けられている。
翠繍は何も言わずに去ってしまった。
紅鴛と楊楓は顔を見合わせ、翠繍の真意をはかりかねながら、貧しい食事を口にした。これだけでは、とても空腹は満たされない。ただでさえ毒とその治療で体力を消耗した後なのだ。
次の食事も、その次の食事も同じだった。このままだと、数日もすれば飢えに苦しむのがわかりきっていた。
柯士慧は二人の窮状を見向きもせず、白飯とおかずを一人で平らげた。
楊楓は背中越しに柯士慧を見て、ごくりと唾を飲んだ。向こうの膳には肉と魚が一匹、それに汁物もついている。
「私達を仲違いさせるつもりなのよ」紅鴛は、焼餅を少しずつちぎって食べながら、楊楓へ言った。「その先にどういう考えがあるのかわからないけれど、こちらが参るまで続けるつもりでしょうね」
「どうすればいいんでしょう?」
「いずれ、あの子の方から次の動きを見せるわ。今は忍耐強く辛抱するだけ」
答えながら、最後の一欠片を口に含む。弟弟子の前では平静を装っていたが、内心では柯士慧がまるで助けを差し伸べようとしないことに失望していた。今の様子では、こちらから協力を持ちかけても応えてくれそうにない。
紅鴛は柯士慧の態度にすっかり傷ついていた。過去に翠繍と痴情のもつれがあった程度は、まだ許すことは出来る。けれども、命の瀬戸際になって彼が自分の利き腕を惜しみ、また名誉や掟を理由に紅鴛が生き延びたことを責めたのは悲しかった。
名誉のために生きて、死ぬ。それが武林の人間として正しいことは、頭でわかっている。紅鴛自身もずっとそうしてきた。師匠達にもそう教えられたからだ。
けれども、楊楓の献身のおかげで生死をくぐり抜けてからというものの、この信念は揺らぎだしていた。
ーー許嫁なのに、愛し合っていたはずなのに、士慧さんは私を助けてくれなかった。自分の利き腕や、武林での立場の方が大事だった……。
ーー楊師弟は戒律を破った。私の身体を汚した。大きな過ちに違いない。でも、それは私への思いやりゆえにやってくれたことだ……。どうして、彼を責められるだろう?
紅鴛はこの時から少しずつ考え始めるようになった。人の情が、掟や名誉に勝りうることを。
紅鴛と楊楓が振り向く。柯士慧の困惑と怒りに満ちた双眸が、こちらを見つめていた。
これには紅鴛も動揺を隠せなかった。いつから意識を取り戻していたのだろう。先ほどの情事を見られただろうか。よしんば見ていなかったとしても、何が起きたかはわかったはずだ。紅鴛の髪は濡れ乱れ、着物もだらけている。狭い牢獄の空気は生ぬるく、汗の匂いで満ちていた。
「お……お前達、まさか……」
紅鴛が口を開くより早く、楊楓が冷ややかに言った。
「何も驚くことはないでしょう。房中功法を使ったんです」
「貴様! この恥知らずが!」柯士慧が吠えた。「私の許嫁を、傷物にしたのか!」
「士慧さん、弟弟子を責めないで」
紅鴛が横から言った。
「私が頼んだことなの」
「君が……?」
紅鴛は理解させるように、また頷いた。
柯士慧がわなわなと身を震わせ、いかにも軽蔑したというような眼差しを向ける。
「君なら、私のために操を守ってくれると思っていた。命惜しさに、弟弟子と恥知らずな真似をするなど……」
楊楓がたまりかねた様子で口出しした。
「このまま徒に死んで、どうなったというんですか。生き延びて、あの裏切り者を倒してこそーー」
「黙れ、若造! 私の許嫁を汚した以上、貴様は私の敵だ。ここを出たら、必ず落とし前をつけてやる」
楊楓は冷笑した。
「好きにしたらいいですよ。でも、忘れないで欲しいですね。あなたの右腕がまだぶら下がっているのも、師姐が生きているのも、僕が房中功法を使う決意をしたからだ」
「減らず口を叩くな! あの妖女が卑怯な取引を持ちかけてこなければ、許嫁を見捨てたりするものか」
「ええ。わかっていますよ。あなたの利き腕と師姐の命、どちらか選べというのは酷だ。だからあなたが師姐を抱いて解毒しなかったことも責めやしません。
だけど、僕はもう、あなたが師姐を心から大事にしているとは思っていない。あの裏切り者が見せた手紙の一件もそうだし、結局利き腕を捨てる覚悟も示してはくれなかった。だから、許嫁を傷物にしたなんて口実で僕を責めて欲しくはありませんね。そんなことを言うなら、あなたが最初から姉弟子を抱いてくれれば良かったんだ」
「楊師弟、もういいわ」
紅鴛が遮った。柯士慧が鉄格子を潰さんばかりに握りしめながら言う。
「ここを無事に出られたとして、貴様達の過ちは消えん。いずれこの手で清算してやる」
「あなたがわざわざ手を下す必要はありませんよ、柯六侠。僕は無事にここを逃げ延びたら、姉弟子の名誉のため自刃するつもりだ。責めは全てこの命で償う。必ず、そうします」
楊楓は相手の頭へ言葉を刻みつけるように、力強く告げた。
柯士慧は微かにたじろいだようだった。それから、苛立たしげに顔を背けた。
半刻ばかりして、翠繍が食事を運んできた。
鉄格子の隙間から差し出されたそれを見て、紅鴛と楊楓は目を丸くした。焼餅が一枚ずつと白湯の椀が二つだけだ。昨日までは盆の上に白い飯と幾つかのおかずがあった。
一方の、柯士慧の方には、これまで通りのちゃんとした食事が届けられている。
翠繍は何も言わずに去ってしまった。
紅鴛と楊楓は顔を見合わせ、翠繍の真意をはかりかねながら、貧しい食事を口にした。これだけでは、とても空腹は満たされない。ただでさえ毒とその治療で体力を消耗した後なのだ。
次の食事も、その次の食事も同じだった。このままだと、数日もすれば飢えに苦しむのがわかりきっていた。
柯士慧は二人の窮状を見向きもせず、白飯とおかずを一人で平らげた。
楊楓は背中越しに柯士慧を見て、ごくりと唾を飲んだ。向こうの膳には肉と魚が一匹、それに汁物もついている。
「私達を仲違いさせるつもりなのよ」紅鴛は、焼餅を少しずつちぎって食べながら、楊楓へ言った。「その先にどういう考えがあるのかわからないけれど、こちらが参るまで続けるつもりでしょうね」
「どうすればいいんでしょう?」
「いずれ、あの子の方から次の動きを見せるわ。今は忍耐強く辛抱するだけ」
答えながら、最後の一欠片を口に含む。弟弟子の前では平静を装っていたが、内心では柯士慧がまるで助けを差し伸べようとしないことに失望していた。今の様子では、こちらから協力を持ちかけても応えてくれそうにない。
紅鴛は柯士慧の態度にすっかり傷ついていた。過去に翠繍と痴情のもつれがあった程度は、まだ許すことは出来る。けれども、命の瀬戸際になって彼が自分の利き腕を惜しみ、また名誉や掟を理由に紅鴛が生き延びたことを責めたのは悲しかった。
名誉のために生きて、死ぬ。それが武林の人間として正しいことは、頭でわかっている。紅鴛自身もずっとそうしてきた。師匠達にもそう教えられたからだ。
けれども、楊楓の献身のおかげで生死をくぐり抜けてからというものの、この信念は揺らぎだしていた。
ーー許嫁なのに、愛し合っていたはずなのに、士慧さんは私を助けてくれなかった。自分の利き腕や、武林での立場の方が大事だった……。
ーー楊師弟は戒律を破った。私の身体を汚した。大きな過ちに違いない。でも、それは私への思いやりゆえにやってくれたことだ……。どうして、彼を責められるだろう?
紅鴛はこの時から少しずつ考え始めるようになった。人の情が、掟や名誉に勝りうることを。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる