【完結】みなしごは不器用な海の神から愛を知る

伊藤あまね

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*七 姿を変えた神様

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 海璃の世話は自分がすると言っておきながら、職務の忙しさから渡津海はそのほとんどをムツに任せていた。海璃もムツからそのように聞いていたので、そういうものなんだろうと思っていた。
 しかし本音を言えば、出会った時のように、または先日に時化の日のように、渡津海に抱きしめて欲しかったし、それは何より海璃を安心させる。だからそうしてくれと言いたいが、自分がそう言いだしたら渡津海の機嫌を損ねるようで、口にできないままでいる。
 毎朝、目覚める頃合いを見計らってムツが起こしに来てくれる。用意された着物を着せられ、朝餉あさげを取りに行く。渡津海と一緒にすることもあったが、いないことも多かった。
 そういうことが時化の日まで半月ほど続いていたのだが、今朝になって、それは一変していたのだ。

『海璃、朝だ。起きろ』

 まず、朝、起こしに来たのはムツではなく、渡津海だった。それだけでも十分驚きだったのに、もっと驚いたことに、渡津海はこれまでの渡津海の姿と少しだけ違っていたのだ。
 鋼のような黒い鱗で覆われていたたくましい肉体は、たくましさをそのままに浅黒い美しい滑らかな肌に、八尺ほどの見上げるような上背は、若干低くなって六尺ほどになっていて、より人らしい姿に見えた。
 それだけでなく、剥き出しになっていた鋭い牙は小さくなっていて、口の端にちらりと見える八重歯程度の大きさになっている。
 髪の色と瞳の色はそのままではあったが、神獣然としていた以前の姿よりもうんと人間に近いものだった。
 海璃が思わず飛び起き、そして目の当たりにした渡津海の姿を前に惚けていると、見つめられている彼はバツが悪そうに目を反らせる。

『……ムツから言われてな……もう少し、その……海璃が親しみやすい姿になったらどうか、と』

 おかしいか? と、問われ、海璃は大きくかぶりを振る。渡津海の姿は、海璃が今までで見た中で最も美しい生き物の姿に見えたからだ。美術品の類いは何一つ知らない海璃であったが、美しいものは本能的にわかるのだろう。
 はにかむようにしている海の神の姿を、海璃は惚けながら見つめ、無意識のうちにその頬に手を伸ばして触れていた。

「……きれい、ワタツミ。きれい」

 どう言えば、いま胸の中にあるきゅうきゅうと締め付ける感情を伝えることができるだろう。幼く言葉を知らない彼は、精一杯の賛辞を渡津海に差し出しながらそれに触れる。自分がそうされたら嬉しいことをしてみるしかすべが浮かばない。頬を紅潮させ、幼い目をキラキラさせながら、海璃は何度も何度も渡津海の頬や髪に触れてきれいだと述べた。
 小さな彼の精一杯の言葉に、渡津海は頬を緩ませ、お返しと言うようにまだ眠りから覚めていないような小さな頬に触れる。

『そうか、きれいか』

 渡津海の言葉に海璃が小さくも力強くうなずくと、渡津海は嬉しそうに相好を崩し、ひょいと海璃を抱き上げて膝に載せてきた。間近に迫る美しい姿に、海璃は体がじわじわと熱くなっていくのを感じ、うつむく。

『どうした、海璃』
「……なんか、はずかしい……」
『恥ずかしい? 何故だ?』
「わかんない……ワタツミみてたら、なんか、はずかしくなってきた」
『儂といるのが、恥ずかしいか? この姿は恥ずかしいか?』
「ううん、ちがうの。ワタツミ、きれいなの。でも、みてたら、オレ、はずかしくなるの。いやじゃないのに……わかんない……」

 決して渡津海の姿を恥じているわけではないことを懸命に、拙い言葉で伝える海璃の姿に、渡津海はどうやら納得してくれたようで、『そうか』と小さく苦笑し、海璃の頭を撫でてくれた。その感触が嬉しく、海璃は恥ずかしさが解けていく気がした。
 嬉しい、気持ち良い、もっと……そう、言いそうになる。でも言ったら、怒られるかもしれない……そんな迷いが生じ、また俯いてしまう。

『海璃、朝餉を食べに行かぬか?』

 そう提案され、撫でていた手が離れていく。触れられていたぬくもりが途切れ、途端にそこがすうすうして心許なくなる。思わず海璃が顔をあげると、渡津海が様子を窺うような目でこちらを見ている。澄んだ、金色の目が朝の陽射しに透かされて美しい。
 だから海璃はただ小さくうなずき、差し出された大きな手を取って二人並んで朝餉を取りに向かった。


 朝餉を取りに行ってからも、そのあとも、渡津海はムツに海璃のことを頼んだりしなかった。ムツからそれとなく海璃を引き取ろうかと促されても、『良い、大事ない』というだけで、手を借りようとはしない。
 しかしだからと言って、渡津海が海璃の遊び相手や話し相手になれているかというと、どうもそうではない。渡津海はいままで、子ども、それも人間の子どもとまともに接したことがなかったからだ。
 職務を執り行う部屋に海璃もつれてきたはいいが、四歳の子どもを愉しませるような物など皆無とも言える、書物や海の生物の標本、得体のしれない石のようものなどが所狭しと置かれている部屋だ。
 海璃はそこにポツンと放り置かれ、『何か書でも読んでおれ』と言われたのだが、山のようにある書物のどれが自分のような子供が読めるものなのか皆目見当がつかない。それでなくとも、海璃は読み書きが一切できないのだ。
 渡津海は腰かける形の椅子に座り、高く大きな机に向かって書付をしている。机の上も周りも、書付やその書き損じなどが多く転がっており、埋もれそうなそこで黙々と職務をこなす背中は人を寄せ付ける気配がない。
 どうしたものかと海璃が途方に暮れていると、ちらりと、書物の山の影に何やら光るものがあった。それは親指の爪ほどの球体で、美しく光を反射している。

「きれい……!」

 そう、思いながら海璃はそれに手を伸ばすも、書物が邪魔になってあと一歩届かない。あと少し、あと指先程……そう思いながら精一杯腕を伸ばしていたら、『何をしておる』と、突然背後から声をかけられ、びくりと体を震わせた。
 その途端、絶妙な塩梅を保っていたらしい書物の山は崩れ、海璃はそれに埋もれてしまう。どさどさと何冊も書物が降り注ぎ、鈍い痛みを覚える。しかしそのお陰で、先程の球体を手中に収めることはできた。

『海璃!』

 慌てた様子で渡津海が駆け寄ってきて書物のかき分け、埋もれていた海璃を掻きだして抱え上げる。当の海璃は、突然の出来事に唖然としているばかりで涙も出ていない。

『海璃! ケガはないか? 痛むところは?』
「……ひっ!」
『どうしてあのようなことをしたのだ! 本が崩れて辺りでもしたらケガをするだろう』

 怒られた……そう思った瞬間、海璃の目に涙がにじみ、ひくひくと喉を引きつらせ始める。
 渡津海に怒られたら、ここにはいられなくなる。怒られないようにしなきゃいけないのに、出来なかった。恐怖と後悔で頭がいっぱいになって、苦しいほどに涙が溢れてくる。
 ごめんなさいと言わなくてはいけないのに、喉が引き攣れてしまって声が出ない、言葉が出ない。どうしよう、怖い、こわい……渦巻く恐怖心で目を潤ませていく海璃を、渡津海が突然慌てた様子で抱きしめてきて、こぼれ落ちそうになった嗚咽が停まった。

『ああ、違う……怒っているわけではない……儂はただ、海璃にケガがないか心配で……すまぬ、声を荒げてしまった……』
「……おこって、ないの?」
『怒ってはおらぬ。そう思わせてしまったなら、すまなかった。海璃、痛いところはないか?』

 そっと抱擁をほどかれて見つめる金色の目は、夕暮れの海面を見ているように美しくやさしい色で、海璃はようやく渡津海が自分を心配しているのだと理解した。心配、という言葉はしならなかったが、怒られているわけでも、ましてや殴られるわけでもないとわかり、ゆるゆると安堵の息を吐いて首を振る。

「ない、へーき……」
『そうか、ならばよい』

 海璃の答えに渡津海は大きく息を吐き、やがて抱きしめていた腕をほどいてくれた。ただ、怒っているような誤解をしてしまったために、両者に気まずさが生じ、互いに目を反らしている。

(ごめんなさい、いったほうがいいかな……)

 海璃が逡巡していると、まだすぐ近くに屈んでいた渡津海が海璃の名を呼ぶ。顔をあげると、先程よりも穏やかな様子の目が海璃を映し出していた。

『何かを見つけたのであろう? 手にしているものはなんだ?』
「え、っと……これ……」

 やはり怒られるのだろうかと思いつつも、隠すともっと怒られる気がした海璃は、おずおずと手中に握りしめていた球体を差し出す。明るいところで改めて見るそれは、薄い金色にきらめいている。

「きれいで、ワタツミのおめめみたいだなっておもったから……」
『それで、儂に見せようと?』
「んぅ……」

「ごめんなさい……」と、呟き俯きかけた海璃の額に、その時何かが触れる。驚き顔をあげると、抱擁するよりも間近に渡津海の姿があった。
 どうしたの? と、問うよりも先に、もう一度渡津海は、今度は海璃の目許に口付けてくる。それはやさしく、唇で撫でるようなものだった。その顔は、いつになく甘くとろけて見える。

『そうか。確かに、美しいぎょくだな、海璃』

 微笑みというには若干の硬さはあるものの、いつもの眉一つ動かさぬような硬い表情よりもはるかにやさしいその美しさに、海璃は見惚れてしまっていた。この玉よりも美しい、そう、口をついて出てしまいそうなほどに。
 だけどそう言ってしまうだけでは飽き足らない気がした海璃は、数瞬考えたのち、そっと背を伸ばして渡津海のあごの辺りに口付けを返した。あまりにささやか過ぎて、渡津海には口付けとも思われなかったかもしれない。それでも、海璃はいまどうしても渡津海にしてもらったことと同じことを返したくなり、そうしたのだ。

「ワタツミ、うれしい?」
『ああ、嬉しいぞ』

 ただそれだけの言葉だけで、海璃は先程まで感じていた恐怖心が晴れていく。入れ替わるように甘い感情がとくとくと川のように注ぎ、海璃の心を満たしていく。

「オレも、うれしい」

 同じ言葉を分かち合うように口中で転がしながら、二人は崩れた本の山の中で微笑み合っていた。


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