23 / 34
*二十三 ここではないどこかへ
しおりを挟む
ワカメご飯を作った翌日、海璃は朝餉のあとからずっと竜宮の赤い門の前に座り込んでいる。その眼は遠くの海域を見つめていて、かすむ景色の向こうから現れるであろう影を待ち受けているのだ。
その知らせが届いたのは、昼餉のおにぎりを作り終えた頃だった。
中庭に、はらはらと速達の文を飛ばすトビウオの影が見え、ムツがそれを手招きすると、トビウオは一通の丸められた小さな文を差し出した。
開いたそれは、渡津海からの文で、海璃は初めて受け取った渡津海からの文を食い入るように見つめる。
“明朝に協議が終わる予定だ。終わり次第こちらを出立する。夕餉までには戻る”
渡津海の、無骨なまでにまっすぐで真面目な性根を表すような堂々とした文字を、海璃はそっと指先でなぞってみる。手習いで見せていた時よりも背筋の伸びるような文字に、海璃はつい笑みをこぼす。
海璃のその様子を、ムツは傍で見守りながら、「ご主人様がお戻りになるのですね」と、訊ねる。
「うん。明日の夕餉までには帰ってくるって」
「それはようございました。ならば明日はご主人様がお好きなものをたくさん作りましょう」
「俺もまた手伝っていい?」
「もちろんですとも。またおにぎりを作りましょう」
そんなささやかな約束を交わし、その日はひとりであっても、海璃は心穏やかに眠りにつくことができた。
そうして迎えた今日、海璃は朝からそわそわと落ち着かない。たった二日ほど、先日よりもはるかに短い間しか離れていなかったのに、もう何年もあっていないほど、渡津海に会いたくて仕方なかったからだ。
渡津海からの文を胸に抱き、待ちきれずに海璃は門の前に立つ。竜宮を出ていないギリギリのところだが、敷地内ではあるので怒られることはないだろう。
背後ではムツがせわしなく屋敷の中を改めている音が聞こえる。その様子を伺いつつ、海璃の感心は門の外に注がれる。
夕餉までに帰ると言うのだから、昼時であるいまより遅くなるかもしれない。でも、何か事が上手く進んで、早く帰って来てくれるかもしれない。そわそわと逸る気持ちの中には、昨日導き出した一つの想いがあった。
渡津海が海璃のことになるとおかしくなってしまうと言うように、海璃もまた、渡津海のこととなると熱が上がってしまう。その理由を、訊ねてみようと思ったのだ。
渡津海に触れられると、嬉しくなったり、言葉にならない気持ちが降り積もったりして、最後には甘い苦しみを覚える。それは“ゆき”のように胸の中にある。胸の奥がドキドキして、渡津海の姿が脳裏に過ぎるたびに頬が熱くなったりもする。
「そう言うのを、渡津海にもあったりするのかな……あるから、おかしくなるって言うのかな」
そうだといいのに、と海璃は考える。海璃が渡津海のことを考える時のように、渡津海もまた、海璃のことを考えておかしくなる時、“ゆき”が降り積もっていればいいのに、と。そしたらきっと、甘く苦いものだって平気になる気がするのだ。
“海璃へ”と書かれた文の文面を、指先でなぞりながら海璃は微笑む。これほど何かを待ち遠しく思ったことなど初めてで、とてもわくわくする。なんて楽しいんだろう、嬉しくなるんだろう。自然と緩む頬がくすぐったい。
裸足のつま先――数日前、渡津海の手により切りそろえられて磨かれた形の良い爪――を見つめながらひとり微笑んでいると、「おや、今日はこんなところまで出てきているのか?」と、聞き慣れた声がする。
何の気もなしに顔をあげると、あのざんばら髪の男――アザが立っていた。
「随分機嫌が良いようだね、海璃」
「うん。もうすぐで渡津海が帰ってくるの」
「それで、出迎えようとしているのかい?」
そうだ、と言うように海璃がうなずくと、アザは「健気なことだ」と、相好を崩し、海璃の頭を撫でてくる。しかしその顔をサッと曇らせ、小さく呟く。
「――こんな健気な子を……あいつはむごいことを考えるもんだな」
アザの言葉の意味が解らず、海璃はきょとんとした顔で首をかしげる。むごい、とはどういうことだろうか、と。少なくとも、海璃が知る限り、渡津海から何らかのむごい仕打ちを受けた覚えはないからだ。
では、違う者の話だろうか……そう、聞き流そうとしていると、アザが真顔のまま近づいてき、耳元で問うてきた。
「海璃よ、お前、本当にこのまま竜宮にいるつもりかい?」
「……え? うん、だって、渡津海が帰ってくるんだから……」
何より竜宮の他に居場所がない海璃に、ここにい続ける理由を改めて問う意味が解らない。それも、何か深刻そうな面持ちで言われる理由もわからない。まるで海璃がここにいることが良くない事であるかのようなアザの表情に、海璃は不安を覚える。でもそれはあくまで、まだ勘違いだと思えるささやかさだった。
しかしアザは、海璃の返答に大袈裟に溜め息をつき、肩を持って強く説くように告げてきた。
「いますぐここを出たほうがいい、海璃」
「え? なんで……だって、俺の家は、ここなのに」
「そりゃあ、あいつにそう思うように仕向けられているからだよ。その方があいつには都合がいいからね」
「……どうして?」
至近距離で見据えてくるアザの薄灰の目許が不気味なほど冷たい。しかし反らせないほど眼差しは強く、海璃はじっと射すくめられたように黙り込む。
「お前は、渡津海はいないと外に出てはならないだろう? どうしてだと思う?」
「それは……俺が、迷子になったりして、危ないから……」
「お前はもう十七だろう? そんな幼子のような失態をするわけがないじゃないか。あいつは、お前を信用していないんだよ」
「信用? 信じてないってこと? どうして……」
「そりゃあ……お前が喰われるかもしれないことに勘づいて、あいつの許から逃げ出すかもしれないからさ」
「えっ……」
まったく予期していなかった言葉を、思ってもいなかった瞬間に差し出され、海璃は手にしていた文を取りこぼしてしまった。はらりと地に落ちたそれを、アザが拾い上げて広げる。
「おやおや……夕餉までに戻るつもりなんだね、あいつは……そいつは時間がないじゃないか」
渡津海からの文を読み解いたアザがそう呟き、大袈裟に眉を下げて海璃を窺ってくる。海璃は、時間がない、という言葉の意味が解らずに口をわずかに開けたまま言葉がつむげないでいた。
「海璃、いますぐここを出ろ。そうでないと、お前、渡津海に喰われてしまうよ」
食べられる、逃げる、時間がない。点と点であるはずの言葉の羅列を、呆然としている海璃の前でアザが繋いでいく。
「渡津海が、俺を、食べる……?」
それは初めて会った時、心配ないと言っていたのに? 幼い頃アザにかけられた言葉を思い出しつつも、問いただせずに喉の奥で言葉が空回る。
「そうさ。きっともう今宵食べるんだろうよ。だからわざわざ文を寄越して、暗に逃げるなと言っているんだよ」
「そんな……そんなこと……」
「ない、と言い切れるのかい?」
「え……?」
動揺を隠しきれない海璃に、諭すようにアザが言葉をつむいで突きつけてくる。思わず見つめた灰色の眼は、冬の海のように冷たい。海璃は寸分も動けなくなり、じっとアザの言葉を聞くこととなる。
「あいつは、お前を信じていない。いつ逃げ出すかしれないから、よほどのことがない限り、いつも一緒にいただろう? 寝る時だって、ずっと隣り合っていたんだろう?」
「だってそれは、俺が、泣くから……泣いたら、海が荒れるから……」
「海が荒れたら、海璃が人魚だってことが周りにバレちまうし、そうなったら渡津海の取り分が減るだろう」
「取り分……?」
「お前の肉を、あいつはひとり占めする気なのさ。何せ、全知全能の神でなくちゃいけないんだからね」
何か重たくて冷たい、鉛のようなものが、海璃の腹の中に落とされたような心地になった。腹の底から冷たくなるような悲しい絶望が、海璃の体を貫いていったからだ。
「嘘……そんなの、嘘だ……」
信じたくない。だって渡津海は、海璃をなによりも大事にしてくれている。親のない海璃を、我が子のように慈しみ、十数年の間養って来てくれた。衣食住を与え、読み書きも教えてくれた。しあわせとは何であるかを教えてくれたのも、渡津海だった。それが、嘘で偽りだと言うのだろうか。
「そんなの嘘だ! 渡津海は、いつもやさしいし、俺のこと大好きだって……」
「そりゃあ、人魚の血が入ってる人の子は好いてるだろうさ。何よりも美味いんだから。その上力も手に入る。これほどいいものはないだろう」
そうだろう? と言いたげに問われ、海璃は言葉を返すことができなかった。これまでの渡津海の振る舞いや言動に、すべてそうした裏付けがあるのではと思えてきて、それを覆せるほどの別の根拠が海璃の中にはなかったからだ。
「それでもまだ、海璃は渡津海がそんなことしない、って言いきれるかい?」
「……それは……」
違うと言いたい。でも、海璃より付き合いの長いアザに海璃が知るすべてが、渡津海の本当の姿ではないのだと言われると、何も言い返せない。
「渡津海が、俺のことになるとおかしくなるって言ってたのは、それは……」
「ああ……そりゃあ、海璃がたまらなくうまそうに見えるからだろうよ。成熟を待って食おうと思っているのかもしれないが、辛抱ならんのだろうよ」
あっさりと、当たり前のようにアザに言い放たれ、海璃は信じていたかった何かが粉々になってしまった気がした。打ち砕かれた心のカケラが、はらはらと眼から溢れてこぼれていく。
溢れていくそれを、アザは指先で拭い、更に囁く。
「どうだい? 俺がお前を安全なところへ連れて行ってやろうか?」
「安全なところ……?」
「ああ、そうとも。ちゃんとメシも寝床もある、ここよりは小さいが家もある。どうだい?」
間近な距離で顔を覗き込まれ、海璃はぐっと黙り込む。考えていく端から心をアザに見透かされそうで、目をつぶり、じっと考えを巡らせる。竜宮に残っていてもいいのかどうかを。
しかしその寸暇までも、アザは急かすように奪っていく。
「さあさ、一刻も早くここを出たほうがいい。もたもたしている間に、あいつが帰ってきちまう。そうしたら海璃はもう終いだよ」
腕に手をかけられ、強く惹かれ、一歩竜宮の敷地の外に踏み出す。屋敷の中にいるムツは、気付いている様子もない。
「さあ、海璃。行こう」
促されるまま、牽かれるまま、海璃はまた数歩竜宮から遠ざかる。手にしていたはずの文は、いつの間にかどこかへ行ってしまっている。しかしそれを捜す間もなく、海璃はアザに抱きかかえられていた。
「行こう、行こう。海璃が喰われない場所へ」
そこがどこなのか、海璃が問おうにも、アザの泳ぐ勢いは速く、言葉もかけられない。あっという間に竜宮は小さくなり、やがて見えなくなっていく。
あとには、あの文がひらりと舞っているばかりだった。
その知らせが届いたのは、昼餉のおにぎりを作り終えた頃だった。
中庭に、はらはらと速達の文を飛ばすトビウオの影が見え、ムツがそれを手招きすると、トビウオは一通の丸められた小さな文を差し出した。
開いたそれは、渡津海からの文で、海璃は初めて受け取った渡津海からの文を食い入るように見つめる。
“明朝に協議が終わる予定だ。終わり次第こちらを出立する。夕餉までには戻る”
渡津海の、無骨なまでにまっすぐで真面目な性根を表すような堂々とした文字を、海璃はそっと指先でなぞってみる。手習いで見せていた時よりも背筋の伸びるような文字に、海璃はつい笑みをこぼす。
海璃のその様子を、ムツは傍で見守りながら、「ご主人様がお戻りになるのですね」と、訊ねる。
「うん。明日の夕餉までには帰ってくるって」
「それはようございました。ならば明日はご主人様がお好きなものをたくさん作りましょう」
「俺もまた手伝っていい?」
「もちろんですとも。またおにぎりを作りましょう」
そんなささやかな約束を交わし、その日はひとりであっても、海璃は心穏やかに眠りにつくことができた。
そうして迎えた今日、海璃は朝からそわそわと落ち着かない。たった二日ほど、先日よりもはるかに短い間しか離れていなかったのに、もう何年もあっていないほど、渡津海に会いたくて仕方なかったからだ。
渡津海からの文を胸に抱き、待ちきれずに海璃は門の前に立つ。竜宮を出ていないギリギリのところだが、敷地内ではあるので怒られることはないだろう。
背後ではムツがせわしなく屋敷の中を改めている音が聞こえる。その様子を伺いつつ、海璃の感心は門の外に注がれる。
夕餉までに帰ると言うのだから、昼時であるいまより遅くなるかもしれない。でも、何か事が上手く進んで、早く帰って来てくれるかもしれない。そわそわと逸る気持ちの中には、昨日導き出した一つの想いがあった。
渡津海が海璃のことになるとおかしくなってしまうと言うように、海璃もまた、渡津海のこととなると熱が上がってしまう。その理由を、訊ねてみようと思ったのだ。
渡津海に触れられると、嬉しくなったり、言葉にならない気持ちが降り積もったりして、最後には甘い苦しみを覚える。それは“ゆき”のように胸の中にある。胸の奥がドキドキして、渡津海の姿が脳裏に過ぎるたびに頬が熱くなったりもする。
「そう言うのを、渡津海にもあったりするのかな……あるから、おかしくなるって言うのかな」
そうだといいのに、と海璃は考える。海璃が渡津海のことを考える時のように、渡津海もまた、海璃のことを考えておかしくなる時、“ゆき”が降り積もっていればいいのに、と。そしたらきっと、甘く苦いものだって平気になる気がするのだ。
“海璃へ”と書かれた文の文面を、指先でなぞりながら海璃は微笑む。これほど何かを待ち遠しく思ったことなど初めてで、とてもわくわくする。なんて楽しいんだろう、嬉しくなるんだろう。自然と緩む頬がくすぐったい。
裸足のつま先――数日前、渡津海の手により切りそろえられて磨かれた形の良い爪――を見つめながらひとり微笑んでいると、「おや、今日はこんなところまで出てきているのか?」と、聞き慣れた声がする。
何の気もなしに顔をあげると、あのざんばら髪の男――アザが立っていた。
「随分機嫌が良いようだね、海璃」
「うん。もうすぐで渡津海が帰ってくるの」
「それで、出迎えようとしているのかい?」
そうだ、と言うように海璃がうなずくと、アザは「健気なことだ」と、相好を崩し、海璃の頭を撫でてくる。しかしその顔をサッと曇らせ、小さく呟く。
「――こんな健気な子を……あいつはむごいことを考えるもんだな」
アザの言葉の意味が解らず、海璃はきょとんとした顔で首をかしげる。むごい、とはどういうことだろうか、と。少なくとも、海璃が知る限り、渡津海から何らかのむごい仕打ちを受けた覚えはないからだ。
では、違う者の話だろうか……そう、聞き流そうとしていると、アザが真顔のまま近づいてき、耳元で問うてきた。
「海璃よ、お前、本当にこのまま竜宮にいるつもりかい?」
「……え? うん、だって、渡津海が帰ってくるんだから……」
何より竜宮の他に居場所がない海璃に、ここにい続ける理由を改めて問う意味が解らない。それも、何か深刻そうな面持ちで言われる理由もわからない。まるで海璃がここにいることが良くない事であるかのようなアザの表情に、海璃は不安を覚える。でもそれはあくまで、まだ勘違いだと思えるささやかさだった。
しかしアザは、海璃の返答に大袈裟に溜め息をつき、肩を持って強く説くように告げてきた。
「いますぐここを出たほうがいい、海璃」
「え? なんで……だって、俺の家は、ここなのに」
「そりゃあ、あいつにそう思うように仕向けられているからだよ。その方があいつには都合がいいからね」
「……どうして?」
至近距離で見据えてくるアザの薄灰の目許が不気味なほど冷たい。しかし反らせないほど眼差しは強く、海璃はじっと射すくめられたように黙り込む。
「お前は、渡津海はいないと外に出てはならないだろう? どうしてだと思う?」
「それは……俺が、迷子になったりして、危ないから……」
「お前はもう十七だろう? そんな幼子のような失態をするわけがないじゃないか。あいつは、お前を信用していないんだよ」
「信用? 信じてないってこと? どうして……」
「そりゃあ……お前が喰われるかもしれないことに勘づいて、あいつの許から逃げ出すかもしれないからさ」
「えっ……」
まったく予期していなかった言葉を、思ってもいなかった瞬間に差し出され、海璃は手にしていた文を取りこぼしてしまった。はらりと地に落ちたそれを、アザが拾い上げて広げる。
「おやおや……夕餉までに戻るつもりなんだね、あいつは……そいつは時間がないじゃないか」
渡津海からの文を読み解いたアザがそう呟き、大袈裟に眉を下げて海璃を窺ってくる。海璃は、時間がない、という言葉の意味が解らずに口をわずかに開けたまま言葉がつむげないでいた。
「海璃、いますぐここを出ろ。そうでないと、お前、渡津海に喰われてしまうよ」
食べられる、逃げる、時間がない。点と点であるはずの言葉の羅列を、呆然としている海璃の前でアザが繋いでいく。
「渡津海が、俺を、食べる……?」
それは初めて会った時、心配ないと言っていたのに? 幼い頃アザにかけられた言葉を思い出しつつも、問いただせずに喉の奥で言葉が空回る。
「そうさ。きっともう今宵食べるんだろうよ。だからわざわざ文を寄越して、暗に逃げるなと言っているんだよ」
「そんな……そんなこと……」
「ない、と言い切れるのかい?」
「え……?」
動揺を隠しきれない海璃に、諭すようにアザが言葉をつむいで突きつけてくる。思わず見つめた灰色の眼は、冬の海のように冷たい。海璃は寸分も動けなくなり、じっとアザの言葉を聞くこととなる。
「あいつは、お前を信じていない。いつ逃げ出すかしれないから、よほどのことがない限り、いつも一緒にいただろう? 寝る時だって、ずっと隣り合っていたんだろう?」
「だってそれは、俺が、泣くから……泣いたら、海が荒れるから……」
「海が荒れたら、海璃が人魚だってことが周りにバレちまうし、そうなったら渡津海の取り分が減るだろう」
「取り分……?」
「お前の肉を、あいつはひとり占めする気なのさ。何せ、全知全能の神でなくちゃいけないんだからね」
何か重たくて冷たい、鉛のようなものが、海璃の腹の中に落とされたような心地になった。腹の底から冷たくなるような悲しい絶望が、海璃の体を貫いていったからだ。
「嘘……そんなの、嘘だ……」
信じたくない。だって渡津海は、海璃をなによりも大事にしてくれている。親のない海璃を、我が子のように慈しみ、十数年の間養って来てくれた。衣食住を与え、読み書きも教えてくれた。しあわせとは何であるかを教えてくれたのも、渡津海だった。それが、嘘で偽りだと言うのだろうか。
「そんなの嘘だ! 渡津海は、いつもやさしいし、俺のこと大好きだって……」
「そりゃあ、人魚の血が入ってる人の子は好いてるだろうさ。何よりも美味いんだから。その上力も手に入る。これほどいいものはないだろう」
そうだろう? と言いたげに問われ、海璃は言葉を返すことができなかった。これまでの渡津海の振る舞いや言動に、すべてそうした裏付けがあるのではと思えてきて、それを覆せるほどの別の根拠が海璃の中にはなかったからだ。
「それでもまだ、海璃は渡津海がそんなことしない、って言いきれるかい?」
「……それは……」
違うと言いたい。でも、海璃より付き合いの長いアザに海璃が知るすべてが、渡津海の本当の姿ではないのだと言われると、何も言い返せない。
「渡津海が、俺のことになるとおかしくなるって言ってたのは、それは……」
「ああ……そりゃあ、海璃がたまらなくうまそうに見えるからだろうよ。成熟を待って食おうと思っているのかもしれないが、辛抱ならんのだろうよ」
あっさりと、当たり前のようにアザに言い放たれ、海璃は信じていたかった何かが粉々になってしまった気がした。打ち砕かれた心のカケラが、はらはらと眼から溢れてこぼれていく。
溢れていくそれを、アザは指先で拭い、更に囁く。
「どうだい? 俺がお前を安全なところへ連れて行ってやろうか?」
「安全なところ……?」
「ああ、そうとも。ちゃんとメシも寝床もある、ここよりは小さいが家もある。どうだい?」
間近な距離で顔を覗き込まれ、海璃はぐっと黙り込む。考えていく端から心をアザに見透かされそうで、目をつぶり、じっと考えを巡らせる。竜宮に残っていてもいいのかどうかを。
しかしその寸暇までも、アザは急かすように奪っていく。
「さあさ、一刻も早くここを出たほうがいい。もたもたしている間に、あいつが帰ってきちまう。そうしたら海璃はもう終いだよ」
腕に手をかけられ、強く惹かれ、一歩竜宮の敷地の外に踏み出す。屋敷の中にいるムツは、気付いている様子もない。
「さあ、海璃。行こう」
促されるまま、牽かれるまま、海璃はまた数歩竜宮から遠ざかる。手にしていたはずの文は、いつの間にかどこかへ行ってしまっている。しかしそれを捜す間もなく、海璃はアザに抱きかかえられていた。
「行こう、行こう。海璃が喰われない場所へ」
そこがどこなのか、海璃が問おうにも、アザの泳ぐ勢いは速く、言葉もかけられない。あっという間に竜宮は小さくなり、やがて見えなくなっていく。
あとには、あの文がひらりと舞っているばかりだった。
0
あなたにおすすめの小説
従僕に溺愛されて逃げられない
大の字だい
BL
〈従僕攻め×強気受け〉のラブコメ主従BL!
俺様気質で傲慢、まるで王様のような大学生・煌。
その傍らには、当然のようにリンがいる。
荷物を持ち、帰り道を誘導し、誰より自然に世話を焼く姿は、周囲から「犬みたい」と呼ばれるほど。
高校卒業間近に受けた突然の告白を、煌は「犬として立派になれば考える」とはぐらかした。
けれど大学に進学しても、リンは変わらず隣にいる。
当たり前の存在だったはずなのに、最近どうも心臓がおかしい。
居なくなると落ち着かない自分が、どうしても許せない。
さらに現れた上級生の熱烈なアプローチに、リンの嫉妬は抑えきれず――。
主従なのか、恋人なのか。
境界を越えたその先で、煌は思い知らされる。
従僕の溺愛からは、絶対に逃げられない。
俺は夜、社長の猫になる
衣草 薫
BL
冤罪で職を追われた葵は、若き社長・鷹宮に拾われる。
ただし条件は――夜は“猫”として過ごすこと。
言葉を話さず、ただ撫でられるだけの奇妙な同居生活。
タワマン高層階の部屋で、葵は距離を崩さない鷹宮に少しずつ惹かれていく。
けれど葵はまだ知らない。自分が拾われた本当の理由を。
拝啓、親愛なる王子、魔族に求婚されて元従者は花嫁と相成りそうです
石月煤子
BL
「――迎えにきたぞ、ロザ――」
とある国の王子に仕える従者のロザ。
過保護な余り、単独必須の武者修行へ赴く王子をこっそり尾行し、魔獣が巣食う「暁の森」へとやってきた。
そこでロザは出会う。
ウルヴァスという名の不敵な魔族に。
「俺の花嫁に相応しい」
(は? 今、何て言った?)
■表紙イラスト(フリー素材)はお借りしています■
強制悪役劣等生、レベル99の超人達の激重愛に逃げられない
砂糖犬
BL
悪名高い乙女ゲームの悪役令息に生まれ変わった主人公。
自分の未来は自分で変えると強制力に抗う事に。
ただ平穏に暮らしたい、それだけだった。
とあるきっかけフラグのせいで、友情ルートは崩れ去っていく。
恋愛ルートを認めない弱々キャラにわからせ愛を仕掛ける攻略キャラクター達。
ヒロインは?悪役令嬢は?それどころではない。
落第が掛かっている大事な時に、主人公は及第点を取れるのか!?
最強の力を内に憑依する時、その力は目覚める。
12人の攻略キャラクター×強制力に苦しむ悪役劣等生
身代わりにされた少年は、冷徹騎士に溺愛される
秋津むぎ
BL
第13回BL大賞奨励賞頂きました!
最終17位でした!応援ありがとうございます!
あらすじ
魔力がなく、義母達に疎まれながらも必死に生きる少年アシェ。
ある日、義兄が騎士団長ヴァルドの徽章を盗んだ罪をアシェに押し付け、身代わりにされてしまう。
死を覚悟した彼の姿を見て、冷徹な騎士ヴァルドは――?
傷ついた少年と騎士の、温かい溺愛物語。
余命半年の俺を、手酷く振ったはずの元カレ二人が手を組んで逃がしてくれません
ユッキー
BL
半年以内に俺は一人寂しく死ぬ。そんな未来を視た。きっと誰も悲しむ人は居ないだろう。そう思っていたから何も怖くなかった。なのにそんな俺の元に過去手酷く振り、今では世界的スターとなった元カレ二人がやってきた。彼らは全てを知っていた。俺がどうして彼らを振ったのか、そして俺の余命も。
全てを諦めた主人公と、主人公を諦めきれないイケメンサッカー選手とシンガーソングライターの再会が導く未来は?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる