十八夜

喜平

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十八夜

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一・火渡り

 自宅近くで祭りがおこなわれていたことを、さゆみはまったく知らなかった。 
 学校帰りにポスターを見なければ、裏山にお寺があることにさえ気づかなかったにちがいない。
 町内の集会所前を通りかかったさゆみは、なにげなく掲示板に目をやった。
 そして一瞬、掲示板のなかが燃えているような錯覚をおこした。
 さゆみは自転車を止め、道路に足をついた。落ちついてゆっくり見なおすと、それはポスター一面にえがかれた炎だった。A3縦長いっぱいにえがかれた炎は、まるでそれぞれの先端が意志をもった生きもののように自由な方向に燃えさかっている。
(火災……予防……?)
 瞬間そう思ったけれど、防火ポスターにしてはなぜか炎が正当化されすぎているような気がした。
 さゆみは掲示板に近づくと、ところどころ埃で不透明になっているガラスのなかを覗きこんだ。勢いよく燃えさかっている炎をバックに、白抜きの文字が規則正しくならんでいる。

 『十八夜』 仏と人と祈りの世界 聖火の祈願祭

  と き・8月18日(日)午後7時

  ところ・法泉寺 観音堂前 

 初めのうち、さゆみにはそれがなにを意味するのかさっぱりわからなかった。けれど炎に関係するということと、なにかを祈るのだということだけは理解できた。
 6つちがいの弟の祐史は、いま小学5年生だ。生まれつきぜんそくの持病があり、咳きこむと救急車を呼ぶこともある。
 祐史が苦しむと、さゆみは自分まで息苦しくなる。どうにもしてやれない歯がゆさと、死んでしまうのではないのかという不安が脳裏をかすめる。
 父の死因のひとつにも喘息があったのだと、よく母が口にする。それを思いだすたび不安が増大し、さゆみは心のなかで祐史のことを祈りつづけた。
 祐史は苦しまない──
 祐史は入院などしない──
 祐史の喘息はかならずよくなる──
 父の魂に、さゆみは祈りつづけた。
 喘息が少しでもよくなればと、父の生まれ故郷のこの町に越してきて半年。ほんの少しずつだけれど、祐史はよくなってきているような気がする。
 空気がきれいだということもその理由のひとつだとは思うけれど、さゆみはいま、それとはまったくちがうことを考えはじめていた。それは、この町に降りたったとたん感じた懐かしさだった。
 いまはもう誰もいないけれど、父や、祖父や、祖母が、この町で生まれ育った。そのときの時間の流れが、いまもこの町にはあるような気がする。
 杉の木にかこまれた1メートルほどの土道を、さゆみは自転車で走っていた。ところどころにはえている苔を踏まないように、ハンドルをしっかりと握りペダルを踏みこんだ。
 ようやく眼前に石段があらわれ、その上に山門らしき木製の建造物が見えた。さゆみはスピードをゆるめ、自転車からおりた。
 ふぞろいの石段を10段ほどのぼり、山門を見上げる。両脇から睨まれているような気がして、ちらりと横を向いた。仁王像の恐そうな視線に気づいて、さゆみは逃げるようにして山門をくぐりぬけた。
 境内に入ったとたん視界がひらけ、思わずさゆみは胸をなでおろした。
 正面に見える観音堂は、このいなか町からは想像できないほど大きく、境内も小学校の校庭ほどの広さがあった。
(知らなかった……)
 茫然としたまま、さゆみはぼんやりと立ちつくしていた。
 木々のあいだから見える空が、まるで神社だけの空のように思えた。
 いつのまにか、その空に薄闇が落ちはじめて、極端に夜の様相をおびてきた。
 さゆみはあわててあたりを見まわし、誰かいないかと探してみた。けれど境内に人影はなく、どこを見ても夜店のようなものもなかった。
(いったい、どういうお祭りなのだろう……?)
 境内をとりかこむ杉の木の幹に、しめ縄がはりめぐらされている。
 中央には杉枝が高く積み上げられ、そこから少し離れたところに祭壇が組まれている。 
(準備はこれですべてととのっている、ということなのだろうか……? だとすると、いまここに人がいるのは……?)
 さゆみは観音堂に向かって歩きはじめた。
 この祭典についての詳しいことが訊きたかった。

  ぎいいっー
 
 偶然にも観音堂の扉がひらきはじめ、その低く重い音にさゆみは身をすくめた。
 観音堂からでてきたのは巫女だった。
 扉のすきまからゆっくり姿をあらわすと、まるでさゆみがそこにいることを知っていたかのように即座にさゆみを見た。
 お寺に巫女という組み合わせに、さゆみは一瞬とまどった。けれどいまはそんなことを考えている場合じゃないと思い直して、とにかく喉の奥から声を押しだした。
「あ、あの……」
 そうしなければ、さゆみは不安感に押しつぶされてしまいそうな気がした。
 巫女は階段をおり、まっすぐさゆみに近づいてくる。
 さゆみは必死にことばをさがし、
「…こんにちは……」
 やっとそれだけを口にした。
 装束のあざやかな紅色のせいでごまかされてしまいそうだったけれど、巫女はかなり年配だった。70、いや80歳をすぎているようにも見える。
「いくつじゃ」
 巫女が、唐突に話しかけてきた。
 小柄で、背筋もしゃんと伸びていたけれど、顔はしわだらけだった。ひっつめた白い髪が背中にまで伸び、目だけが妙に輝いている。
「17…」 
 さゆみは答えた。
「あ、あの…このお祭りがどんなことをするのか見てみたくて……? ごめんなさい…勝手に入ってしまって……」
 しどろもどろになりながら、うつむいた。
 けれど巫女はさゆみを責める素振りなどまったくみせず、それどころか、うっすらと笑みさえ浮かべている。
「火渡りじゃ」
「火渡り……って?」
「ことばどおり、炎の中を歩くのじゃ」
 さゆみの頭から爪先までを、ゆっくりとながめまわした。
「来年、18になるのか?」
「はい…」
 どうしてそんなわかりきったことを、と思ったけれど、さゆみはだまっていた。
 巫女は祭壇の前で立ち止まり、両手を合わせた。
「願いごとが、あるようじゃな?」
 ふりむきもせず、そのままの恰好で訊いてきた。
 もしもほんとうに願いが叶うのなら、祐史の喘息を治してほしいと頼みたかった。けれどなんの確証もないまま自分の内面をさらけだす勇気は、さゆみにはなかった。
「いいたくないのなら、いわなくてもよい。けれどおまえは、百年にいちど選ばれし幸運な娘じゃ」
 頭上高くに合わせた両手を、巫女はいきなりふりおろした。
 経典のようなことばを口の中でつぶやきはじめたかと思うと、祭壇の大きなろうそくに火を点けた。
 ろうそくの炎に向かいひとしきり経典をとなえたあと、巫女はその炎を枯れた杉枝の束に近づけた。
 瞬間、炎が枯れ杉に燃えうつり、その束を手にもった巫女は境内中央へと歩きだした。そのあいだも巫女は経典をとなえつづけ、ただ一心に炎を見つめている。
 自分を無視したような巫女の態度を、さゆみは少しはらだたしく思った。けれど最後にいった「百年にいちどの幸運な娘」ということばが、さゆみの心を惹きつけていた。
 山のように積み上げた杉枝の中に、巫女の手から炎がはなたれた。
 ばちばちという音が徐々に大きくなり、白煙が上がりはじめた。枝えだの隙間から真紅の炎が顔をだし、それはみるまにつながっていく。
(熱い…)
 さゆみはあわててあとずさった。
 空を舞う竜のような炎の先に見とれているうち、境内中央に、それらが一つになった巨大な炎が出現している。
 真紅に燃えさかる炎は5、6メートルの高さにまで上がり、白煙がすいこまれるように夜空へと消えていく。
「ことしの十八夜はただの祭りじゃ。けれど、来年はちがう。来年は百年にいちどの大祭じゃ。願いが、叶う……」
「願いが叶うって、誰でも?」
「たったいまわしがえらんだ、18の歳の娘ひとり…………」
 炎はますますいきおいを増し、天をも焦がさんばかりに燃え上がっていく。

二・母親代わり

 母が仕事にいっているあいだは、さゆみが祐史の母親代わりだった。それはさゆみが6年生のときからずっとつづいていることで、そのとき祐史はまだ1年生だった。
 こわがりでさみしがり屋の祐史は、ささいなことでもさゆみに報告してきた。押し入れで物音がしたとか、台所にゴキブリがでたとか、なんでもないようなことをおおげさにノートに書きとめていた。
 6時間目を終えていそいで帰宅すると祐史が飛びついてきて、さゆみはまずノートに書かれたことを解明しなければならなかった。押し入れの中になにもいないことを確認し、ゴキブリをさがしまわり撃退するのだ。
 祐史にとってもさゆみにとっても、それは一種の遊びだった。だから祐史は、毎日なにかしら書きとめておく必要があった。
 ある日、庭のものおきの中に、すきまから蛇が入っていくのを見た──と書いてあった。たぶん嘘だろうと高を括ったさゆみは、無造作に引き戸をあけ、中をのぞきこんだ。
 すると目の前に1メートルはある青大将がとぐろを巻いていて、さゆみは声をだすこともできなくなってしまった。逃げようとしても体がまったくいうことを利かず、しだいに気が遠くなっていった。
 いつもは難なく解決してしまうさゆみが真っ青な顔をしているのに驚いたらしく、祐史は近くにあった棒をひろいあげて青大将に立ち向かった。汗をかきながら、それでもなんとか青大将を物置から追いだし、「だいじょうぶ?」とさゆみに訊いてきた。
 うすれる意識の中で、祐史はやっぱり男の子なのだということを、さゆみはこのときはじめて感じた。
       *
「ただいま」
 さゆみが帰宅すると、祐史が台所に立っていた。
 よほど具合がいいらしく、笑顔でさゆみに話しかけてきた。
「姉ちゃん、部活にはいればいいのに」
「どうして?」
「ぼく、きっとこの町が合うんだ。引っ越してきてからすごく調子がいいもの」
 包丁をもって白菜を刻んでいる。
 じゅうたんの上には、きれいにたたんだ洗濯物がならべてある。あとは箪笥にしまうだけでいいことがわかり、さゆみは制服を着替えはじめた。
「祐史こそ、せっかく友達ができたんだから遊びにいけばいいのに」
 さゆみは洗濯物をもって、となりの座敷へはいった。
 母の分と自分の分、それから祐史の分をそれぞれの引き出しにしまいこんだ。
「てつだうわ。お鍋?」
「うん。温かいもののほうが母さんよろこぶだろうし」
 流し台のしたから土鍋をとりだし、それをさゆみはさっと水で洗った。
 ガス台にのせ昆布をしくと、水を注ぎ込んでスイッチをひねった。

 その夜、母は定時に帰宅した。そんなことは1ヵ月にいちどあるかないかのめずらしいことだった。
「祐史、冷蔵庫からポン酢をだして」
 ひさしぶりの団欒ということもあって、母はうれしそうにテーブル上にカセットコンロをだしている。
 小鉢と箸をならべてから、さゆみはテレビのスイッチをいれた。毎週楽しみにしているクイズ番組が、7時からはじまる。
「母さん、どこにもないよ」
「えっ、そんなはず……」   
 なかったことを急に思いだしたというように母のことばがとぎれたのと、祐司が冷蔵庫をしめたのが同時だった。
「わたし、買ってくる」
 テレビ台下の小物入れから財布をとりだし、さゆみがいった。
「ぼくもいく」
 祐史もかけより、そのようすを母はすまなさそうにみていた。
 スーパーまでは、歩いても5分あれば着く。こんな買物ならなんどいってもいいと思えるほど、祐史とさゆみは気分がよかった。

 駅前へでて、すぐに交差点をわたろうとした。運よく信号は青で、2人は立ち止まらずに横断歩道へと走りはじめた。
 祐史がさゆみから財布をとりあげ、はしゃぎながら抜きさった。その瞬間、突然さゆみの視界に交差点を右折しようとするトラックがわりこんできた。
 猛スピードで曲がろうとするトラックの運転手がさゆみに気づいたらしく、ハンドルを少し元にもどした。
 急ブレーキにタイヤがきしみ、そのきしむ音の前でさゆみは茫然と立ちすくんだ。

  キキキキキィ────!

「ゆうじっ!」
 大声でさけんだそのあとの光景を、さゆみは受け入れられなかった。
 強引に展開する光景を眼前にして、無意識のうちにほかのことを考えていた。
 
「やっぱりこの町へきてよかったよね…」
 母にいいながら、さゆみは心底そう思っていた。
 ここで暮らしはじめてから、祐史が発作をおこすことはなくなったし、救急車のお世話になることもいちどもなかった。新しい友達もでき、毎日楽しそうな顔をして学校へかよっている。
 そんな祐史を見ているだけで、さゆみは満足だった。父はいなくても充分にしあわせだと、そう思っていた。 
 父には、この町は辛い思い出でしかなかったのかもしれない。
 祖父が経営していた会社が事故を起こし、その事故で亡くなった家族の悲しみに耐え切れなくなった父はひとり家を出たのだと、よく母が口にしていた。
 ひとり東京へでて母とめぐりあった父は、それから20年いちども帰らずじまいでこの世を去ってしまった。
 けれど体調をくずしてからの父は、ときどき思いだしたように祖父母とこの町のことを話すことがあった。それはあたかも父自身が子供のころに返ったような、懐かしそうな話しかただった。
「父さんの生まれ故郷で暮らしましょうか」
 母がいいだしたとき、さゆみは即座に賛成した。
 不安はあったけれど、祐史のためにもそれがいいと思った。 

三・加害者

 はじめてその人がさゆみの家にやってきたのは、祐史が事故に遭った日の深夜だった。
 なんどもチャイムが鳴りひびき、しかたなく母が玄関へでた。
 引き戸をあけると、背の高いがっしりとした男性が立っていた。
 それがトラックを運転していた、北城さんだった。
「ほんとうに……、ほんとうに……申し訳ありませんでした…………」
 北城さんはその場で土下座をし、玄関タイルにひたいを押しつけた。
 母はだまったまま、体をちいさくふるわせていた。
「お帰りください……。お話は警察のかたとさせていただきましたので、2度とここへはこないでください……」
 引き戸をしめ、即座にかぎをかけた。
 かぎをかけてからも、母はその場をうごかなかった。肩をふるわせ、哀しみにたえるように立ちつくしていた。
 さゆみは北城さんに会っても、なにも感じなかった。祐史が事故に遭ったことさえまだ認められなかった。ほんの数時間前までしゃべりあっていた祐史がこの世を去ってしまったといわれても、すぐにそんなことを信じられるわけがなかった。
 けれど鍋をかこむはずだった部屋にはふとんが敷かれていて、その中に祐史はいた。
 ついさきほどまで家にいた葬儀社の人になんども体を拭かれ、顔面に白布をかけられていた。

 さゆみの脳裏には、事故の有様がはっきりと焼きついていた。祐史がトラックにはねあげられ、まるで人形のように不自然に体をくねらせながら路上にたたきつけられていくようすが、いまもはっきりと眼前に浮かんだ。
 反動でふたたび体が持ち上がり、そのあと祐史はしずかにアスファルト上に横たわった。周囲がにわかに騒々しくなり、大勢の人があつまってきた。
 横断歩道中央で、さゆみはむりやり物置にいた青大将のことを考えた。爬虫類は大きらいなはずなのに、それだけは別だった。あのときの祐史を思いうかべると、さゆみはつい頬がゆるんでしまう。ひとりでトイレにもいけなかった祐史の成長が、さゆみにとってはなによりのよろこびだった。
「祐史…………」
 頭の中の青大将がすこしずつちいさくなり、さゆみの脳裏から消えさっていく。
 なんど意識的に考えようとこころみても、事故の光景ばかりがひろがっていく。
 さゆみは目をとじて、いつかみた法泉寺の情景を思いうかべた。
 杉林の中を、荒ぶる炎が燃えさかっている。立ち上がる白煙にからみつくように、炎の竜は自由自在に境内の中をうごきまわっていた。

 祐史のクラスメイトがやってきて、祭壇に一輪ずつ花をそなえた。仲のよかった小林くんの目に、涙が光っていた。
 大勢の人が母とさゆみの前でなんどもお辞儀をし、さゆみはその人たちに頭を下げかえすだけがせいいっぱいだった。それでも、なにかに追いまわされているときのほうが、まだしあわせだった。葬儀のあとには、空虚感しかのこらなかった。
 祐史がいたときの記憶と現実との狭間にふかく落ちこみ、さゆみは、もう2度とそこから這いあがれないような気がした。

       *

 葬儀のあとも、北城さんはわが家へやってきた。7時半にチャイムを鳴らし、深夜まで玄関先に立っていた。
 その時刻になると、母はテレビのボリュームを最大にした。そしてそれからしばらくすると、ボリュームを元に戻しひとこともしゃべらなくなった。
 トイレに立ったとき、外灯に照らしだされた北城さんの影が引き戸の硝子に映っているのが見えた。この人さえいなければ祐史が命を失うことはなかったのだと、さゆみは思った。

 その夜も、いつもとおなじようにチャイムが鳴りひびいた。真夏とはいえ、山あいのこの町の深夜は、急激に気温が低下する。
 事情を知っている人ならともかく、なにも知らない人がこんな光景を見たとしたら、なんと思うかもしれない。
 家には電灯が点き人の気配もあるのに玄関先には人が立ったままで、それが4時間も5時間もそのままの状態なのだ。
 母のいらだちが手にとるようにわかり、さゆみはそっと玄関へ向かった。
 引き戸の硝子には、まだ北城さんの大柄な影が映っていた。じっとうごかない影は、母とさゆみにとって2度と目にしたくないものだった。
(11時……)
 下駄箱のうえの置時計を見て、さゆみは北城さんのことを考えてみた。
 毎日まいにち深夜まで、いったいこの人はなにをしようとしているのだろう……? 
 謝罪したいきもちは理解できるけれど、ほんとうに被害者の家族にゆるしてもらえるとでも思っているのだろうか……? 
 下駄箱のよこにある玄関灯スイッチの上に、さゆみは指をのせた。スイッチを点滅し、北城さんに帰るよううながすためだった。
 それはこれまでにもなんどもやってきたことで、そうしたからといって北城さんがすぐに帰るとはかぎらなかった。けれどたいていそのあと1時間以内に、北城さんはすがたを消した。
「まって……」
 さゆみがスイッチを押そうとした正にそのとき、背後から母の声がきこえた。
「会ってみるわ」
 憔悴しきった顔で母がサンダルをはいた。
 そのことばを、さゆみはすぐに信じることができなかった。いまここで北城さんと会ったところで、にくしみ以外の感情がわきあがるはずがなかった。
「やめて」 
「どうして?」
 母の顔には、もう限界の色が見えた。
 さゆみは母の手をつかみ、鍵をあけようとする手をとめた。
 けれど母はさゆみの手をふりはらい鍵をあけ、戸をひいた。
 瞬間、冷気が家の中にさっと流れこみ、さゆみは身を硬くした。
「こないでくださいって、あれほど!……」
 北城さんを見あげ、母がさけんだ。
「手続きはぜんぶ終わったはずです! 貴方にお会いしなければならない理由なんか、もうどこにもないはずです!」
 いまにも腕を振りあげんばかりにまくしたてた。
「わかっています……。でも、でも今日は命日だったものですから、せめてお供え物をと思って……」
 うつむいたままの北城さんが、胸にかかえていた果物の包みをさしだした。
 母が手を出し、さゆみは母がそれを受けとるものだと思っていた。
 けれどつぎの瞬間、母の手は、果物の包みをふりはらった。

 ぐしゃり、という鈍い音と同時にナイロン紙がはがれ、アスファルト上に林檎がころがりでた。そのあとを追うように梨がころがり、半分つぶれたメロンが回転できずに途中でとまっている。
「あっ! あなたなんかに、わたしの気持ちがわかるはずないでしょ! 子どもをなくした……わたしの気持ちが……」
 ふりはらった手をもちあげたまま、母はその場にしゃがみこんだ。
「親が子どもを亡くすということがどんなことなのか……、あなたには……、あなたなんかには…………」
 倒れこむようにして四つん這いになった。
 アスファルト上にぽたぽたと涙が流れ落ち、北城さんはその母のまえでひれふした。
 玄関の中からその光景をながめながら、さゆみはこんなふうにすなおに感情をあらわすことができる母をうらやましいと思った。

 それから北城さんはわが家にやってこなくなった。7時半になっても、もうチャイムが音をたてることはなかった。
 会話の中ではほっとしたふうをよそおっていたけれど、母がいつも玄関先を気にしていることをさゆみは知っていた。そしてさゆみ自身も、玄関のガラス戸に映る影が北城さんではないかと、ときどき立ち止まっては見なおした。

四・願いごと

 数ヵ月が過ぎ、春のにおいが町じゅうにひろがりはじめた。
 学校から帰ったさゆみがテラスに自転車を入れていると、とつぜん玄関の戸があいた。
「じゃましたな、奥さん。できるだけ早いほうがええじゃろ」
 でてきたのは、以前お寺で会った巫女だった。あのときとおなじ、あざやかな紅白の装束を身につけている。
 巫女はゆっくりとした動作で引き戸をしめ、それからおもむろに空を見上げた。背筋はしゃんとのび、以外にもひっつめた白髪には艶があった。
 巫女が道路のほうを見ていたので、さゆみはそのまま帰ると思っていた。
 けれど巫女はなんのためらいもなく振り向き、まっすぐテラスに向かってきた。
「いま、帰りか?」
「は、はい…」
 さゆみの傍まであるいてきて、巫女はそこで立ち止まった。
 口元をゆるめ、瞼をほそめながら懐かしそうにさゆみを見ている。
「そうじゃったか……。あんたが八千代さんとこの孫じゃったとはな……」
 頭のてっぺんから爪先までを眺めまわし、なんどもうなずいている。
「祖父母を……しっているんですか?」
「ああ。お爺さんも、お婆さんも、それからあんたのお父さんもようしっとる」
「父も?」
「まだ、こんなころじゃったがな……」
 巫女は左の手のひらを腰のあたりにひろげ、思いだしたようにほほえんだ。
「やんちゃで、かわいい子どもじゃった」
 さゆみを見上げた。
「なにか?」
「父さん似、のようじゃな」
 しわがれた声で、巫女がわらった。
 話のなりゆき上、さゆみはしかたなく苦々しい表情をつくってしまった。
 けれど内心はうれしかった。
 これまでたいていの場合、父さん似だと思われたのは弟の祐史で、さゆみは母さん似だといわれてきた。だから巫女に父さん似だといわれたことが、祐史のいなくなったいま、さゆみには特にうれしかった。
「あ、あの……」
「なんじゃ?」
「願いごとって、なんでも叶うんですか?」
 唐突に、あの夜のことをいいだしてしまった。
 巫女はだまってさゆみの目を見つめた。なにか表情をつくるでもなく、ことばをさがすふうでもなく、ただ目だけをまっすぐに見つめてくる。
 さゆみは自分の心の中がのぞかれているような気がして一瞬まばたきをした。
 けれど巫女は視線をそらすこともなく、じっとさゆみの目だけを見つめてくる。
「あ、あの……」
「かなう」
 巫女ははっきりといいきった。
 あまりにも自信に満ちたいいかただったので、さゆみは思わず「はい」と返事をしてしまった。
 けれどやはり自分の思考範囲ではどうにもなっとくができず、さゆみはふたたび巫女にたずねた。
「死んだ人を、生き返らせ……」
「できる」
 巫女はさゆみの質問を承知していたように、途中でことばをはさんだ。
「人の生など、あいまいなものじゃ。生きていると思えば生きているし、死んでいると思えば死んでいる」
「どういうこと……ですか?」
「記憶じゃよ。人の生というものは、周囲の記憶によってささえられておる。記憶さえ元にもどすことができれば、肉体などたいした問題ではない」
「記憶を、もどすって?」
「生前にじゃ。その人にかんする記憶をすべて死ぬまえにもどしてしまえば、なにも問題はおこらん。ただ期限がある……」
 巫女はちらりと玄関のほうをながめ、それからまたさゆみの目を見つめた。
「この世を去って1年以内の者にしか、その願いはかなわん。神の世界とて、それ以上時間が経つとなにかしらややこしい問題がおこるのじゃろう」
 ちいさな笑みを口元にうかべた。
 それから巫女はゆっくりと体を反転させ、道路に向かってあるきはじめた。
 おおよそありえないような話の内容を、さゆみはほんのすこしも疑う気にならなかった。
 それどころか祐史が事故に遇ったときからずっと、さゆみはあの日境内で聞いた「願いが叶う」という巫女のことばを心のささえにしてきたような気がした。
 さゆみはいそいで玄関のなかに入り、リュックを背中からおろした。スリッパをはき居間へはしると、ドアをあけるのと同時に、
「なんの用事だったの?」
 母に訊いた。
「なんのこと?」
「いまのおばあさん」
 母は洗濯物をたたむ手をとめ、仏壇を見つめた。
「お父さん、この町のことも家のことも話したがらなかったけど、お墓があるらしいの」
「あそこに?」
「あそこ、って…? さゆみ、あなたお寺にいったことあるの……?」
 母がおどろいたようにふりかえった。
「う、うん……、去年の夏」
 あのときあのお寺を見つけたのは、ほんの偶然だと思っていた。
 けれどほんとうはそうじゃないのかもしれないと、さゆみは思いはじめていた。
 いつもは見たこともない掲示板の前で足を止めたことも、なんのためらいもなく自転車を走らせたことも──。 
 それでもなにか不自然さを感じてしまったあのときと同じように、さゆみにはまだ釈然としないものがあった。
「でも、あそこはお寺なんでしょ。それなのにどうして巫女さんが……」
「神社もあるらしいの」
「神社が……?」といってからさゆみは、そういえばあのときの記憶のなかに薄っすらだったけれど鳥居があったような気がした。
「このあたりでは、よくあるらしいの。神仏習合といって、神様と仏様をいっしょにお祭りしていた時代の名残らしいわ」
 母がふたたび仏壇のほうを向いた。
 父の位牌の横に、よりそうように祐史の位牌がならんでいる。
「8月になにか大きな祭典があるらしいんだけど、その主役をつとめるのが今年18になる女の子で、名簿の中にあなたの八千代という名字を見つけて、もしやと思ってたずねてきてくれたの」
「火渡り、でしょ」
「知ってるの?」
「いったときに、見たから」
「そう。やっぱりなにか縁があるのね……」
 正面をみつめたまま2、3度ちいさくうなずき、
「こんどの日曜に、納骨をお願いしようと思うの。口には出さなかったけれど、お父さん、故郷に帰りたがっていたから……」
 母が胸のまえで両手を合わせた。

五・納骨

 日曜日、さゆみは母といっしょに巫女のいる法泉寺へ向かった。
 法泉寺にはもうひとつ白山神社という別名があり、この町の神事をも担っているのだということを母とさゆみは近所の人から教えられた。
「もともと日本では神様が祀られていたの。でも仏教がすこしずつ広まってきて、御神体に仏像が使われたりする時期もあったらしいの」
「仏像が…御神体…って、いったいどういうこと……?」
 困って見せながらも、さゆみは悪い気がしなかった。
 お寺のなかに神社があろうが、神社のなかにお寺があろうが、そんなことはどうでもよかった。
 それよりもあの日、偶然じぶんで見つけたところに八千代家のお墓があったということが嬉しかった。亡くなっても父や祐史とつながっているのだと、先祖に語りかけられているような気がした。
 あのときは薄暗かったはずの山道が、いまは光に満ちあふれ輝いている。眼前に石段があらわれ、両側に巨大な杉が立ち並んでいる。
 ゆっくりと石段を上がると、奥に大きな山門が現れた。
 さゆみは母に近づき、母は胸にかかえた骨壷をいちど大事そうにみてから頬をゆるめた。仁王象の視線に身をすくめるさゆみに、すこし身を寄せた。
「待っておった」
 山門をくぐったところで突然声がして、ふたりは驚いてあたりを見まわした。
 けれどどこにも人影はなくどうしたものかと立ち止まっていると、ふいに山門のすぐ脇から巫女が姿をあらわした。
「よくきたな。こっちじゃ」
 雑草のなかに、土を踏み固めただけの獣道がみえる。
 即座にその獣道に足を踏み入れると、巫女はさっさと歩きはじめた。
 あわてたように母が獣道に入り、さゆみも母のあとにつづいた。
 緋色袴の紅色が雑草のみどりに浮かぶようにすすんでいく。年齢からは想像できないほど巫女のあゆみは速く、さゆみと母はただ必死であとを追いかけた。
 しばらくすると藪の中に、ひとかたまりの野墓がみえた。野墓といってもきれいに管理されていて雑草もなく、墓地の中ほどからはゆらゆらと煙が立ち上がっている。
 近くには水汲み場もあり、バケツや柄杓もそろっている。
「ようやく戻ってきたな…」
 巫女がちらりと、母のもつ骨壷をながめた。
「ご両親もずいぶん心配しておったぞ…」 
 水汲み場に置いてあった入れ物から、卒塔婆と香炉をとりだした。
「戻ってきた」という巫女のことばに、母のまぶたが一瞬赤く膨らんだような気がして、さゆみも胸に熱いものがこみあげてきた。
 
 20年という長いあいだ父は、どうしてこの町に帰らなかったのだろう……。いや帰れなかったのだろう……。加害者といっても不慮の事故で、父はその会社の家族の一員にすぎなかったはずだ。それなのに両親と離れ、しかもいちどもこの地を踏まずじまいで──と、思考をめぐらせている自分はまるで加害者の心境で、北城さんに対する被害者としてのもうひとりの自分とは別の人格をもった人間のような気がした。
 いま骨壷のなかにいる……父と祐史……。
 ふたりがなにを考えなにを思っているのか、いくら思いを巡らしてみてもそれはまったく身勝手な自分だけの考えにしかならなかった。
 それがわかっていながら、さゆみは父のことを思うと父のこころに、祐史のことを思うと祐史のこころに全身を支配された。

 立ち上がる線香の煙に向かって巫女が歩きはじめ、母とさゆみはそのあとにつづいた。
 八千代家の墓のまえでたちどまり、巫女がしずかに手を合わせた。
 さゆみは、なにげなく墓石に刻まれた〈八千代家の墓〉という文字をながめた。
 ただの文字なのにそれを見たとたんさゆみはときの流れを感じ、自分が八千代家の一員であることを実感した。
 巫女が墓石の背後にまわり、納骨室の石蓋をあけた。母が胸にかかえていた骨壷を納骨室におさめると、巫女はしずかに石蓋を閉じ卒塔婆をたてかけた。
 母がたちあがって墓前へもどったので、さゆみも墓前にもどり母の横にならんだ。
 巫女が墓前にもどりふたたび手を合わせ、香炉に火を入れて読経をはじめた。
 自分にはずっとつづいた先祖があり、その人たちのお陰で今があるのだと、さゆみは思った。厳かであり、懐かしくもあり、それでいて自分がいまもその人たちに見守られ、そしてまた常に自分の生き様をも見られているのだと思った。
 巫女にうながされて母が焼香をしたあと、さゆみも墓前にしゃがみこんだ。
 どこまでも高い空の蒼と、周りをぐるりととりかこんだ深い木々のみどりと、それから一定のリズムで空気をふるわせるその木々の葉擦れの音を同時に感じて、さゆみはいま自分がいるはずのその場所が、もしかすると異空間かもしれないと思い辺りを見まわした。
 巫女は読経をくりかえし、母はすこし心配そうにさゆみを見つめている。 
 ここへきたのは初めてなのに、さゆみは、ずっと以前から何度もここへきたことがあるような気がした。
 父が亡くなったときにも、裕史が亡くなったときにも、さゆみにはここで両手を合わせたような記憶があった。
 抹香を右手でつまみ、目の高さまで捧げる。
 しずかに香炉へ入れると、こうばしい香りが煙と共に立ち昇った。
 一瞬、父と祐史の顔が浮かびあがり、まぶたが熱く膨らんだ。それでもそこにしゃがんでいると妙にこころが落ちつき、すべての人をそのまま受け入れることができるような気がした。

 納骨が終わり、今後の墓守のことで話があるといって母は巫女といっしょに本堂へ入っていった。
 さゆみはひとり、ぶらぶらと境内をあるきながら時間をつぶしていた。
 1年前のあの日、まるで龍のように荒ぶりながら燃えていた火祭りが、ほんとうにここであったのかと疑ってしまうほど境内は静かだった。
 ときおり鳴く鳥のこえだけが、風の音にまじりながら遠く高く耳にひびいてきた。
 
 その静寂を切り裂くように、突然がさがさっと雑草のゆれる音がきこえた。
 さゆみは反射的に石灯籠の陰に身をかくした。こんな山奥ならばなにがいても──と目を凝らし音のほうに神経を集中すると、藪だとばかり思っていた本堂の右奥にちいさな鳥居があった。狭い石畳の参道もあってずっと奥のほうへ続いている。そしてその参道へ姿をあらわしたのは、以外にも人だった。
 徐々にはっきりと見えてくる人影は、背が高く……肩幅の広い……
(北城さん!)
 さゆみは、とっさにしゃがみこんだ。
(どうして北城さんがここに……!)
 なにがなんだか訳がわからず、ただじっとしていた。
 藪からでてきた北城さんは手に野花をにぎりしめていて、そのまままっすぐ本堂に向かっていく。
(どうして……どうしてこんなことが……!)
 本堂の玄関戸をあけ、北城さんはその場で立ちどまった。
 それでもどうやら中に入るようすはなく、さゆみはただ母が北城さんと鉢合わさないようにこころの中で祈りつづけた。

六・野の花

 その日は部活でおそくなり、さゆみが学校をでたのは午後8時ごろだった。
 電柱にとりつけられた蛍光灯のうっすらとした明かりのなかに自宅のオレンジの外灯を遠目に確認して、さゆみはペダルにのせた足に力をこめた。
 母が帰っていると思うだけでなんとなく安心できたし、その安堵感が祐史のことをすこしは忘れさせてくれるような気がした。

 5、6軒手前にきたところで、玄関先にだれかが立っているのが見えた。
 さゆみは、もしやと思って自転車をとめて道路に足をついた。
 こんなところで、こんな見え透いたことはしたくなかった。けれどぐうぜん顔を合わせてしまう悲しさよりも、直前でもいいから気まずさのままで終わらせたかった。
 暗闇の中でうごきかけたシルエットは、北城さんよりすこしちいさく思えた。
 でもよく見てみるとやはりそれは北城さんで、さゆみは息をとめてそのシルエットを見つめた。
(いまごろになってどうして……?)
 北城さんは玄関にむかってふかく頭をさげ、それからくるりとふりかえった。
 目と目があってしまったような気がして、さゆみはあわててうつむいた。

 納骨にいったあの日、母は、北城さんには会わなかったといった。
 けれどあれからの母は、あきらかに変わってしまった。
 いつも心の中でなにかを考えつづけていて、普段しない失敗をよくくりかえすようにもなった。
(ほんとうは会って…なにか話をした……?)
 一瞬うたがいの気持ちが胸の奥にわきあがり、さゆみは首を横にふってそれを否定した。

 おそるおそる顔をあげると、北城さんが階段をおりて歩きはじめていた。
 これまでに比べてあまりにも諦めが早い北城さんをふしぎに思い、さゆみはもういちど玄関先をみてみた。
 母だ、母だった。
 家のなかが暗くてわかりにくかったけれど、硝子戸にぼんやりとした人影がある。 
 それはいま正にうごきはじめた母で、その影にさゆみはなぜかいつもとはちがうものを感じた。
(なにか、あったんだ……)
 さゆみは自転車からおりて、サドルを押しながらテラスに走りこんだ。
 わけのわからない胸騒ぎがしてしかたがなかった。
「ただいま、かあさんっ!」
 いつもよりわざと大きな声で玄関の戸をあけた。
「かあさんただいま!」
 けれど台所にも居間にも母のすがたはなく、「おかえり」ということばはどこからも返ってこなかった。
 さゆみは廊下にもどり、座敷のふすまに手をかけた。10センチほどひいてみると、仏壇のまえに母がすわっている。
 こんな光景を自分は以前にも見たことがあるとさゆみは思った。さゆみはまだ保育園にかよっていて、祐史は生まれたばかりだった。

 父はやさしい人だった。
 いくら仕事で遅くなりつかれていても、帰宅するとかならずさゆみを抱きあげ頬をすりよせてきた。伸びはじめた髭がさゆみの鼻のあたまや額にふれて、いたかった。けれどさゆみには、それがここちよかった。
 まだ目が見えない祐史にも、父がわかるようだった。父が部屋に入ってくると祐史はまぶたを精一杯ひろげて、わけのわからない声をだして手足をばたばたうごかした。
 父は硝子細工をもちあげるように慎重に祐史をだきあげ、くしゃくしゃの笑顔を祐史の顔にちかづけた。
 ごはんをよそいながらそのようすを見ている母は、ほんとうに幸せそうだった。子ども心にもそう思い、さゆみは自分の心が愛情でみたされていくのを感じた。
 いま思えば、母はある程度かくごしていたのかもしれなかった。父の病気がけっして良くならないことを知っていたからこそ、ささやかなあんなちいさな幸せをも、大きな喜びにかえることできたのだろう。
 その父の位牌のまえで、母はぼんやりすわっていた。あのときも声をかけることができなくて、さゆみはだまっていた。

 部屋に入ろうかどうかまよったあげく、やっぱりさゆみはふすまをひいた。そっと中に入ると母にちかづいた。
 気配をかんじたのか、母がふりむく。
 その表情が意外にもおだやかだったことにおどろき、さゆみはすこし安堵した。
「北城さんと、会ったの……?」 
 母はもういちどお仏壇に手を合わせた。
 まぶたを深く閉じ、だまりこんでいる。
 母が話をしたくないと思っているとき、さゆみはすこし不安になる。親子であっても別べつの人間であることを、いやおうなしに実感されられる。
 祐史がつなげていた家族としての部分がすっかりぬけおちてしまったいま、その部分を埋められるのは母とさゆみ以外にはいない。けれど母にはもちろん、さゆみにもとうていそんな余裕はなかった。できる限りの笑顔をつくり、明るくふるまうことぐらいしか、いまのさゆみにはできそうもなかった。

 ふとだれかがいるような気がして、さゆみはあたりを見まわした。
 祐史と母と3人で朝ごはんをたべ、夕飯をたべ、テレビを見てしゃべりあったこの部屋。もしもいまここにだれかがいるとしたら祐史だろうと、さゆみは思った。
 祐史さえいれば、母ももとのように明るくなる。ゆうれいでも魂でもいいから、もういちど会いたかった。
「赤ちゃんが、生まれたらしいの」
「え……?」
 唐突な母のことばとその内容に、さゆみは答えることができなかった。 
 それがなにを意味しているのか、そして母がなにをいいたいのかがまったくわからなかった。
「事故をおこしたとき、奥さんのお中に赤ちゃんがいたらしいの。奥さんがたおれたという連絡があって……北城さんそれで……。でも、その赤ちゃんが10月に生まれたそうなの」
「10月、って……?」
「そう。だから、あれからこなくなったのね」
 かすれていた母の声がじょじょに力強くなっていくのを感じながら、さゆみは母を見た。
 母もさゆみのほうをむき、二人はまっすぐに向かいあった。
「赤ちゃんをいちどつれてきてって、北城さんにいったの」
「つれてきてって……!」
「お参りしてもらおうと、思うの」
 そういったときの母の顔を見て、さゆみは、こんなにもきれいでおだやかな母は見たことがないと思った。
 父が死んでからというものわが家のすべてを背負いこんで、金銭面でも、つきあいの面でも苦労しつづけてきた。そのうえこんどは祐史までが事故にまきこまれ、母にとってこの半年は苦しみの日々だったはずだった。
 それなのにいまの母の表情からは、みじんも憎しみが感じられなかった。なんの罪もない祐史の未来をうばいとった北城さんを、いくら奥さんがたおれたからって、自分の不注意で祐史の命をうばいとった北城さんを、こんなにもかんたんに許せるものだろうか……? 
「ほんとうに……?」
 母はゆるやかにちいさくうなずいた。
 あまずっぱいにおいが鼻先をかすめ、さゆみは仏壇を見た。
 今朝も母が摘んできたのだろう。
 なんの花なのかはわからなかったけれど、野の花が一輪、位牌の前でゆらいでいた。

七・赤ちゃん

 数日後の土曜日の夜、北城さんが奥さんと赤ちゃんをつれてやってきた。
 チャイムの音に立ちあがった母は玄関戸をあけ、北城さんたちを中にまねきいれた。
 祐史が死んでから半年、あんなにもかたくなにこばんでいた母の心に、いったいどんな変化があったというのだろう…。祐史を轢いた北城さんを家にむかえいれるなんて、どういうふうに考えてみてもさゆみには理解できなかった。
 北城さんが仏壇のまえで正座し、線香に火をつけた。その横で奥さんがしっかりと胸に赤ちゃんをだいてうつむいている。
 眠いのか、頭をうつらうつらゆらしながら、赤ちゃんはまぶたをうすくあけてはとじ、またうすくあけている。
 線香から立ち上がる煙が、ゆらぎながら部屋中にひろがっていく。ゆっくりとその線香を焼香台に立てると、北城さんは両手を合わせた。
 まぶたをとじ、前にかたむけた顔のまえに手をおいたまま、北城さんは固まったようにうごかなくなった。
 
 土曜日の夜は、たいてい深夜までおしゃべりが続いた。祐史が学校のことや友だちのことをえんえんと話しつづけ、母とさゆみはもっぱら聞き役だった。
 祐史が楽しそうなだけで、さゆみはしあわせだった。やっぱり心は目のずっと奥にあってつながっているんだと思えるほど、祐史の目はきれいに澄んでいきいきしていた。
 喘息のことを忘れ、ようやく手に入れた家族としてのしあわせだった。それ以上なにもほしいものはなかったし、もしも神様がなにか願いごとを叶えてくれるといったとしてもさゆみはことわっていただろうと思う。
 心配そうな顔をしながら、母もその日ばかりは夜おそくまでおきていることをゆるしてくれた。祐史のようすを気にしながら、それでも心のそこから笑みをうかべていた。

 うごかなくなった北城さんを不安そうにみていたのは、さゆみと母だけじゃなかった。あまりにも長いあいだまぶたをとじている北城さんの背中に、気まずそうに奥さんがそっと手をのばした。
 はっと気づいたように、北城さんの体がふるえた。うつむいたまま両手をたたみについて横にずれた。
 奥さんが仏壇のまえに移動し、その腕の中で赤ちゃんはまぶたをとじてうごかなくなっている。
 祐史にもこんなちいさなときがあったなと、さゆみは思った。
「ほんとうに……、ほんとうに申しわけないことをしてしまいました……」 
 唐突に──それはほんとうに、唐突だった。
 家に入ってきてからずっとふつうにみえていた北城さんの表情が、はげしく崩れた。
 それまでは高ぶる神経とはげしい憎しみの中で断片的にしか見ることができなかった北城さんの体のひとつひとつの部分を、気配を、本質を、さゆみは神経を集中してさぐろうとした。 
 日に焼けてごつごつした四角い顔も、硬そうなみじかい髪の毛も、頑丈そうな大きな体も、事故後みたときとまったくおなじだった。
 黒々としたふとい眉のすぐ下に、はっきりとした二重のまぶたがあった。涙がたまっているせいか目がうるんでいた。
 まっすぐにとおった鼻筋の右側にちいさな黒子があり、うすい唇のまわりをすこし伸びたひげが黒くかこんでいる。
 膚はまるで1枚の紙を貼りつけたように凹凸がなく、額には汗がにじんでいる。
 下まぶたを覆いかくすようにへの字にのびた目尻にみるみる涙がたまってふくらみ、ぽつりと、それはまったくちぎれるように目尻から離れてズボンの上に落ちた。 
 うつむいたままの奥さんが急に体をうごかしたので、さゆみはおどろいた。そのまま倒れこんでしまうのじゃないかと思うほど激しく、ふるえはじめた。
 母がそばにより、肩に手をのばした。てのひらでなんどもなんどもさすり、ようやく奥さんのふるえが止まった。
 赤ちゃんが声をあげ目をさましかけた。
 母が赤ちゃんの胸にてのひらをあて、ぽんぽんと、やさしくたたいた。

 母のてのひらは、これまでに何百回、何千回と祐史を救ってきた。背中をさすり、胸をさすり、頬をつつみこんだ。
 そのたびにさゆみは、母のてのひらは魔法のてのひらだと思った。どんなにはげしく咳きこんでいても、母のてのひらがふれると祐史の表情は一変した。
 もちろん、それだけで治ったりはしなかった。けれど安心したような祐史の目の色に、さゆみは自分までが母のてのひらでさすられているような感覚をおぼえた。どうしようもない不安もはげしい動悸もしぜんとおさまり、いつもの自分をとりもどすことができた。
 母のてのひらはまるで宇宙のようだった。
 ふかく蒼い世界がはてしなくつづき、無数の光が飛びかっていた。なつかしい臭いに気づき遠くを見るとそこには父がいて、なにもかもを忘れてさゆみは全身を母のてのひらにゆだねた。

 そのときとまったくおなじ母のてのひらが、いま目の前にあった。赤ちゃんを祐史とまちがえているとしか思えないほど、母はおだやかな目をしている。
「ありがとう…ございます……」
 ふたたび眠りについた赤ちゃんを見つめて、奥さんがちいさく頭をさげた。
 唇を固くかみしめたまま、北城さんはまったくうごかなかった。

 それから毎月命日に北城さん家族はやってきて、お仏壇のまえで手を合わせた。
 母が祐史のことを話し、北城さんと奥さんはだまってそれを聞いていた。
 母が押し入れからアルバムをもちだし、祐史が生まれたばかりの写真を見始めた。
 どうやら赤ちゃんがおしっこをしたらしく、
奥さんがそわそわして襖のほうを見ている。
「お隣りのお部屋を、使わせていただけないでしょうか……?」
 すまなさそうに母にいった。
「いいじゃない、ここで」
「でも、仏様の前で……」
「きっと、夫も祐史もそういうと思います。賑やかなのがとても好きだったから」
「でも……」
 母のことばに、奥さんはそれ以上なにもいわなかった。
 ぐずり始めた赤ちゃんを畳の上に寝転ばせようとすると、母が座布団をさしだした。
 その座布団にうえに奥さんは、赤ちゃんを仰向けに寝転ばせた。大きなボタンをはずして、お腹のあたりまで服をめくり上げた。
「ごめんねゆうちゃん、いま替えるからね」
「ゆうちゃんって……!」
 母の顔色がさっと変わった。
「すいません、同じ字じゃないんです! 字はちがうんですが、ふたりともずっとその名前をつけたいと思っていて……」
 あわてて北城さんが声をあげた。
 それは家にくるようになってから初めて聞いた、北城さんのほんとうの声だった。かすれて消え入るような芯のないこれまでの声とちがい、低くはっきりとしてよく通る太い声だった。
「優しいという一字で、ゆうとよみます……」
 北城さんは、それっきり黙りこんだ。
 下半身裸のままの赤ちゃんをそのままにして、奥さんの手がとまった。
 赤ちゃんは「あーあー」と声をあげ、口に手をやり、両足をばたつかせている。

 うっすらとした記憶だったけれど、祐史にもおなじようなことが何度かあった。母にちょっと見ていてとたのまれて、さゆみはまだ赤ちゃんだった裸の祐史をじっと見ていたことがあった。
 祐史は足をばたつかせて畳の上をうごきまわり、壁にちかづいていった。それ以上うごくと足が壁にあたってしまうと思って、さゆみはひっしで祐史のうごく足を両手でつかまえた。
 けれど意外にも祐史の足の力はつよく、さゆみは上半身をぐいと足にひっぱられた。どうしようと思ったときとつぜん、祐史のおちんちんからおしっこがぴゅうと目の前にとびだした。びっくりしたさゆみは泣きだし、その声にあわてた母がオムツをもって走ってきた。
 あのときの「ションベン小僧」のような祐史のおしっこと、母のおどろいたような可笑しそうな顔を、あれいらいさゆみは忘れられなくなった。

 奥さんが半分ほど開けかけていたバッグに、母が手を入れた。紙おむつをひとつとりだすと、ばたつかせていた両足をさっとつかんで持ち上げ、赤ちゃんのお尻の下に敷いた。
「ゆうちゃんか、いい名前ね。きっと優しい子になるでしょうね」
「あ…ありがとう、ございます……」
「ほんとうに…もうしわけありません……」 
「いいのよ。ね、ゆうちゃん」
 オムツをあてズボンをあげると、母は赤ちゃんをだきあげた。
「ゆうちゃん、ゆうちゃん」
 なんども名前をよび顔を覗きこんだ母の声が、けげんそうにとまった。
「この子……?」
 母が奥さんの顔を見た。
 奥さんはだまったままうなずき、北城さんが膝の上の手のひらを握りしめた。
「見て…、見てさゆみ。かわいいでしょ」
 場をとりなすように母がはしゃぎ声をだし、さゆみのほうへ赤ちゃんの顔を向けた。
 さゆみは何もいえなかった。
 なにも答えられなかった。
 たしかに、赤ちゃんは抱きしめたいほどかわいかった。けれどそれは祐史を殺した北城さんの赤ちゃんだ。5歳になろうと、10歳になろうと、それだけは変わらない。
 さゆみは母を見た。
 奥さんが「ゆうちゃん」といったときの母の表情は、苦しそうだった。自分ほどではないにしても母にもまだまだ憎しみはあって、それは北城さんや、奥さんや、赤ちゃんに対して向けられているはずだった。
「ごめんね、さゆみちゃん」
 北城さんに名前をよばれて、さゆみは反射的にさけんだ。
「話しかけないで!」
 それは自分でもおどろくほど大きく、はっきりとした声だった。
 さっきのあわてた北城さんとおなじように、琴線にふれられたことで自分を隠しとおせなかったのだとさゆみは思った。
 横を見ると、以外にも母はおちついた表情をしていた。
 こんなにも感情的なことばをはきすててしまったというのに、いつもより優しいまなざしで口元を緩ませてこっちを見ていた。

八・祐史

 命日にだけおまいりにきていた北城さんたちが、いつのまにか2週間に1度くるようになった。
 それはどうやら母がのぞんだことらしく、北城さんたちは気まずそうにしていた。
「名前を呼ばないで」といってから、さゆみは北城さんたちのいるところではひとこともしゃべらなかった。北城さんたちと話すことは祐史に対するうらぎりだと思ったし、罪をゆるしたことにもなってしまう。 
 北城さんの不注意でこの世からさらなければならなかった祐史の無念さを思うと、くやしくてくやしくて涙があふれた。その罪の重さを、祐史にたいする償いを、母は、北城さんは、いったいどう考えているのだろう?
 2度とあんなことは言いたくないと思いながらも、さゆみは日に日に自分が大きな憎しみに覆われていくのを感じていた。
 それはまるでそれ自体が意志をもった生きもののように、さゆみの体のすみからすみまでを支配していった。

「八千代さん、最近かわったみたい」
「どんなふうに?」
「どんなふうって……。でもしかたないわ、あんな事故があったあとなんだから……」
 さゆみが訊きかえすと、学校の友達はみんな口をつぐんでしまう。
 そのたびにさゆみは自分が良くない方向に変わったのだということを自覚させられた。
 今朝、洗面台のまえに立ったとき、鏡にうつった自分の顔をみて目をうたがった。これがほんとうに自分なのかとしばし茫然としてしまった。
 目はまるで狼のようにきつく、口元にもまったくよゆうというものがなかった。そしてそれとは別に、全体のふんいきが以前とはがらりと変化している。
 それまでさゆみは自分のことを、ふわふわしたスポンジのようだと思っていた。すこしぐらい嫌なことがあってもすぐにそれを消化することができたし、だれもが気楽に話しかけてきて、さゆみもそれに対して自然に答えることができた。
 けれどいま鏡にうつっている自分のすがたからは、硬くはりつめた冷たい金属しか想像できなかった。すべてを跳ねかえしてしまうような隙のないつくりものの顔に吐き気をもよおし、さゆみは目を逸らした。

「わたし……、こんなもの作ってみたんです……」
 北城さんがもってきた紙袋の中から、奥さんがとりだしたのは小鉢だった。
 ラップをはがし、座卓の上にそっとさしだした。
「まあ、つくし…?」
「うまくできたかどうか、自信はないんですけど……」
「じゃあ、食べてみなきゃ」
 母が小鉢に手をのばし、奥さんを見つめた。
 奥さんはあいかわらず消え入りそうな声で「はい」と返事をし、いっそう体をちいさくちぢこまらせた。

 事故後、北城さんは、長距離トラックから街中の宅配に配置転換してもらったらしい。
 日勤の規則ただしい生活のなかで、毎朝4時すぎに目がさめてしまうので、ちかくの山でふきのとうやタラの芽、みょうがやつくしをとってくるのだということだった。 
 普段ならそんなことは絶対にしない母が、これ見よがしにつくしのおひたしを指でつまみあげて口の中にほうりこんだ。
「おいしいっ」
「ほんと、ですか…?」
「ほんとほんと、さゆみも食べてみない」
 母は自然をよそおいながらなにげなさそうにいった。
 さゆみは無言のまま立ちあがり、お仏壇を見た。答えるつもりはなかったし、食べるつもりもなかった。
 祐史の死を忘れるためには北城さんたちに会わないほうがいいと、さゆみは最初から思っていた。
 時間がすべてを流しさり、心のなかが元のように戻るまで、だれにも会いたくなかった。祐史との楽しい思い出だけを胸にしまいこんで、生きていきたかった。
 そうしたいと思っていながら、さゆみはそのことをずっと母にいえないままでいた。
「わたしたちも昔、4人でつくしをとりにいったことがあるの」
 母があまりにもなつかしそうにしゃべりはじめたので、部屋から出ようと思っていたさゆみはついそのときの光景を思いだした。

 遊歩道をぬけると視界が大きくひらけ、その解放感と空の蒼さにさゆみは一瞬目をうたがった。それまでずっと高木に陽光をさえぎられていたせいか空気までがかろやかにかがやいて見え、目のまえにつづく緑がまるで無限のように思えた。
 とつぜん祐史が走りだし、さゆみはなぜか祐史に負けたくないと思った。1年生の祐史に負けるはずがないことはわかっていたけれど、そんな気持ちを祐史にさとられないように懸命な顔をつくって走りつづけた。
 祐史が走ることなんかめったになかった。その日はよほど体の調子がよかったらしく、電車を降りてから祐史の顔はみるみる生気をとりもどし赤みを帯びていった。
「ずるい姉ちゃん本気で!」
「あたりまえよ」 
 いったとたん祐史が立ち止まったので(やりすぎたか…)と思ってふりむくと、祐史はしゃがみこんで雑草をのぞきこんでいる。
 緑の中につんとたった薄茶色のもの。
「つくし?」
 祐史は目を離さないでうなずいた。 
 結局、目的地のしばふ広場へはいかないで、その日一日つくしをとりつづけた。
 何百本とっただろう──。父と母と祐史と4人で、競争するようにとりつづけた。
 もってきた祐史のリュックはつくしでいっぱいで、家に帰ってから全員でつくしの袴というひだひだの部分をとりのぞいた。
 和え物に、おひたしに、油いために、てんぷらと、母はあらゆるつくし料理に挑戦し、それから数日、わが家の食卓にはかならずつくしがならんだ。
 
「さゆみ?」
 母によびとめられて、さゆみは襖のまえで立ち止まった。
 もうこれ以上この人たちと一緒にいたくなかった。母がどうして自分をひとりにしておいてくれないのか、その理由がわからなかった。
 玄関へ視線をむけてトイレにいくのだということを、さゆみは心のなかで母に伝えた。
 ほんとうは「どうしてこの人たちと一緒にいなければならないの!」とまくしたててしまいたかった。罵声をあびせかけて大声で泣き叫びたかった。
 あらゆる言い訳をかんがえて北城さんたちから離れようとしてみたけれど、「できるだけ祐史といっしょにいてあげましょう」と母にいわれてしまうと、それまで考えていたすべての言葉がばらばらになって砕け散った。
 トイレの前までくると、さゆみは無意識のうちに玄関の引き戸をながめた。
 北城さんの影が、まだ硝子にのこっているような気がした。
(ごめんね…、祐史……)
 お気に入りだった赤いトレーナーとジーンズがうかびあがり、買い物に行くときの祐史の姿が目のまえに浮かんだ。
 玄関から走りでる祐史にむかって「まって」とさけぶと、さらさらしたながい前髪を横にながして祐史がふりむいた。
 祐史の顔の輪郭が、すこしぼやけていた。忘れるはずのない祐史の目が、眉が、口が、以前のようにはっきりとは蘇らなかった。

 さゆみが北城さんのことを思うとき、身体中がふるえる。
 トラックの運転席にいる北城さんを思いうかべても、玄関先で土下座している北城さんを思いうかべても、けっきょく最後にさゆみはナイフをもって北城さんにおそいかかった。北城さんの胸にナイフが突き刺さり、さゆみはそれをみて茫然とたたずんでしまう。
 いつ、どこで、どんなふうに思いだしたとしても、おなじ結果だった。北城さんに家族があることはわかっていたし、奥さんや赤ちゃんがどんなに悲しむだろうかということも、さゆみにはよくわかっているつもりだった。
 それでもさゆみはナイフを捨てきれなかった。

「ありがとう」
 ふいの声に、さゆみは驚いてふりかえった。
 北城さんが大事そうに、まるで宝物をかかえるように大事そうに赤ちゃんを抱いて立っていた。
 たったいまナイフを突き刺したばかりのその胸で、なにごともなかったかのように赤ちゃんが眠っている。
 さゆみはいたたまれなくなって目を逸らした。
「ありがとうございます。帰ります」
 うしろから奥さんがいい、そのあとから空になったタッパを手に母が座敷からでてきた。
「いただいたからあとで食べようね、タラの芽」
 タッパを高くもちあげて、いった。

九・誕生日

 おたがいにあゆみよろうという気持ちさえあれば、たとえ被害者と加害者であっても人は急速に接近することができる。
 それを証明するかのように母と北城さんたちは日に日に親密になっていき、母たちが親密になった分、さゆみは一人ぽつりととりのこされた。
 赤ちゃんがいるだけで雰囲気がなごみ、そのなごんだ雰囲気のなかで明るくふるまう母たちを大人だと思ったし、許せない気もした。
 悲しみは時間がいやしてくれるとなにかの本で読んだことがあるけれど、例外だってかなりあるとさゆみは思った。でなければだれかの強い思いがずっと残るはずはなかったし、それがなければ自分の罪の重さにいつまでも気づかない加害者だっているはずだ。

 土曜日、北城さんの奥さんが手料理をふるまってくれるといって、いっしょに家で夕飯を食べることになった。
 さゆみは憂鬱でしかたがなく、母はひさしぶりの団欒をたのしみにしているようだった。
 朝はやくから家中を掃除してまわり、そして母はガステーブルで、ことこととなにかを煮はじめた。
「料理、いらないんでしょ?」
「ゆうちゃんの分よ、離乳食つくるの。北城さんの奥さん、料理は得意そうだけれど離乳食はまだちょっとね」
「ゆうちゃんの分って……? お母さん、ほんとうに祐史とあの赤ちゃんを…」
 いいかけてさゆみは口をつぐんだ。
(母はやっぱりあのとき……)
 北城さんたちがやってくるたび、母への疑心が募るようになった。
(法泉寺であったとき、やはり母と北城さんのあいだには何かがあったんだ……)
 それはますます大きく膨らんで、自分を独りにしていく。
 中途半端なさゆみのことばに気がつかなかったのか、母はなにも訊きかえしてこなかった。お鍋の蓋をあけ、しんけんな顔で中をのぞきこんでいる。
「あ、さゆみ。押し入れのなかの大きめの花瓶、出しておいてくれる」
「花瓶?」
 すでにお仏壇には、1厘の花が活けられていた。
 たぶん今日は多めに取ってきたのだろうと思って、さゆみはあたりをみまわした。
「お花はどこ?」 
「夜のぶんは夕方とってくるからって」
(からって……?)
 さゆみは一瞬声にだしてしまいそうになり、それでもなんとか思いとどまってその声を身体の中にとじこめた。
 それはあきらかに母自身がとってきたのではないという言いかただった。
 押し入れから花瓶をとりだし、さゆみはそれを洗面所に持っていった。蛇口をひねり花瓶をあらいながら鏡に映った自分をながめた。
(あれからもう1年が経つ……。それなのにまいにちお仏壇にそなえられていた野花を、自分はまだ母がとってきているものだと思いこんでいた……?)
 鏡のなかの顔がみるみる蒼ざめていく──。
 はずかしさと悲しさが入り混じり、さゆみはいてもたってもいられなくなり座敷へもどった。
 すこし考えてみれば、わかるはずだった。
 北城さんたちが家にくるようになってから、母はそれまでのようにとくべつ朝はやくおきることはなかった。

 奥さんがもってきた手料理というのは、春にとって冷凍保存してあったつくしを使ったつくし三昧だった。
 和え物におひたしに油いためにてんぷらと、まるでタイムスリップしてしまったのかと目をうたがうほどあのときとそっくりな夕餉がさゆみの前にならんでいた。
「お母さんから聞いたことがあって、つくってみたの。おいしいかどうかわからないけど……」
 座卓のまえにすわってからずっと母と北城さんと奥さんの視線を感じていたさゆみは、この夕餉が自分のためらしいことに初めて気づいた。
「お誕生日、おめでとう……」
 北城さんが、脇にしっかりかかえていた大きな箱を座卓の上においた。
「不器用なものだから、こんなになってしまって……」
 奥さんが箱をあけると、まっしろな生クリームのケーキが姿をあらわした。
「一生懸命には、つくったんだけど…」
「ごめんなさいね」
 なんとかケーキの体はなしていたけれど、それはお世辞にも上手だとはいえないほど形がくずれていた。
「ありがとう…、ほんとうにありがとう……。さゆみのために一生懸命になってくれていることはわかっていたんだけど、誕生日のことは、わたしもすっかり……」
 母の声が詰まり、さゆみも胸が熱くなった。
 今日が自分の誕生日だということなんかすっかり忘れていた。
 奥さんの横においた座布団のうえで、すやすやと赤ちゃんがねむっていた。北城さんがとってきた色とりどりのコスモスが、いつのまにか花瓶に活けられていた。
 お仏壇にむかって母が手をあわせ、北城さんと奥さんも顔のまえで手をそろえた。
 一瞬こころの中にやすらぎをおぼえ、さゆみは北城さんと奥さんがここにいることを不自然に感じなかった。このまま自分さえ心をひらいてしまえば、まるで家族の団欒のようにこの場は展開していくのだろう。
 誕生日をお祝いしてくれてはいるけれど、母はもちろん北城さんも奥さんも、祐史のためにここにあつまってきている。祐史のことをふかく心の中に刻み込むために……。楽しかった思い出をいつでもすぐにとりだせるように……。そして、悲しかったできごとをみんなが忘れられるように、まいにちお花をとりにいき手を合わせているのだ……。
 さゆみはつくしのてんぷらを箸でつまみあげた。
 これを食べてしまえば母は北城さんを許したと思うだろうし、北城さんだって多少は気がかるくなるのかもしれない。そういう思いが、頭の中をかすかに過った。
 たったいま作り上げたばかりのものを、いそいで持ってきたのだろう。北城さんが料理のはいった箱を、そして奥さんは赤ちゃんをしっかりと胸に抱きかかえまだ息を切らせている。
 けれどさゆみは、そのつくしのてんぷらを、元の皿にもどした。心の中では食べてみたいと思っているのに、体がかってに拒否反応をおこした。
 母がてんぷらを摘み上げ、
「おいしい! わたしのよりも格段においしいわ」
 と、ジェスチャーまじりにおおげさに笑顔をつくった。
 けれど北城さんと奥さんはしんみりと黙ったままで、さゆみはその沈黙した空間に、自分の一挙一動がこれほど周囲を左右することにとまどっていた。
「そうそう、つくしを取りにいったときの写真があるのを忘れてた。隣にあるの、見る?」
「ええ、ぜひ」
 母と北城さんが立ち上がり、奥さんが赤ちゃんを気にしながら立てひざをついた。
「さゆみ、ちょっとのあいだだから見ていてあげて」
 ごく自然に母がいい、ごく自然にさゆみがうなずいた。
 母たちがしずかに部屋からでていき、さゆみは赤ちゃんと二人きりになった。
 母がつくった離乳食が目にはいった。 
 せっかく作ったけれど今日は食べないだろうと赤ちゃんを見ると、さっきまで眠っていたはずなのに目をあけている。
(こんなときにかぎって、どうして……?)
 一瞬不安になったけれど、赤ちゃんはすぐに泣いたりしなかった。
 四つん這いになり、さゆみはそっと近づいてみた。
(なにを見ているのだろう?)
 と思い顔を覗きこんでみたけれど、赤ちゃんの瞳はうごかない。
 はっきりと開けたまぶたの中に蛍光灯の明かりが真上から差しこんでいるのに、赤ちゃんはときどき瞬きをするほかはなにも見ようとしなかった。
(このあいだ友達の家で見た赤ちゃんは生後6ヵ月だといっていたけれど、きょろきょろと瞳をうごかしていた。この子はもう1歳ちかいはずだから……) 
 赤ちゃんの真上に顔をだし、さゆみは笑顔をつくってみた。
 目をあけているのに、瞳はまったくうごかない。
(そういえば……前にこの子を抱いたとき、母はけげんそうな顔をしていた。奥さんも北城さんも母にうなずき返していて……?)
 そう思っていると、とつぜん赤ちゃんがほほ笑んだ。
 下まぶたと頬をぽっとちいさくふくらませて、ふわっと口をあけて笑った。
(裕史のちいさかったころとおなじだ…)
 マシュマロのようにまっしろな膚は指で押したいくらいやわらかそうで、いまにも溶けてなくなってしまいそうなほどかわいい笑顔だった。
「ゆうちゃん…」
 思わず口の中でいったとき、

  がたがたっ

 と、となりの部屋で物音がきこえた。
 さゆみはあわててあとずさり元の席へもどった。 
 急にうごいたので部屋中に振動がひびきわたり、赤ちゃんが泣かないかとびくびくした。
 鴨居に飾ってあったお土産の大きなうちわが、微妙にゆれていることに気がついた。
 下にいる赤ちゃんが心配になり、さゆみはすぐにでもうちわのゆれを止めなくてはと思った。けれど廊下をあるく母たちの足音がすぐ近くにまできていて、もうどうすることもできなかった。
  
  うぎゃぁあ!──

 それはほんとうに、そんな声にきこえた。
 天変地異がおこったときに空なら、大地なら、緑ならそんなふうに泣き叫ぶだろうと思うような、はげしい悲しさを感じさせるうなり声だった。
「どうしたの!」という母の驚愕した声と同時にふすまがあいた。
「ゆうちゃん…!」
 奥さんの悲壮な声がきこえたところまでは覚えている。
 奥さんが赤ちゃんを抱きあげ、北城さんと母がそのそばにかけより、そして、全員がさゆみのほうを見た。
 畳の上に、うちわが落ちていた。
 ことばを失ったさゆみは、ただじっと赤ちゃんを見ていた。横断歩道上で祐史が跳ねあげられていくようすが目のまえに浮かんでは消えていく。
「ゆうちゃん! ゆうちゃん!」
 赤ちゃんは泣き叫んだままで、北城さんも奥さんも母も、ただおろおろするばかりだった。
「しらなかった……、わたし、なにもしらなかった……」
 自然とことばが流れでた。
 まるで自分が祐史のしかえしをしたかのような状況に、さゆみは弁解してもしかたがないと思ったし、そうするつもりもなかった。
 けれどことばはつぎつぎに流れ出てきて、そのたびにさゆみは自分が薄っぺらで信用できない人間になっていくような気がした。
「悪いのは北城さんよ! ぜんぶ北城さんが悪いのよ! 北城さんがいなかったら……、北城さんさえいなかったら……こんなことには、こんなことにはならなかったのに!」
 ひとことひとことが北城さんにとってどんな武器になっているのか、さゆみは自分でもよくわかっていた。
 自分の言葉はするどくとがったナイフで、北城さんの胸からはどくどくあふれるようにまっかな血がながれでている。
「祐史は死んだのよ! 祐史は……、祐史は……北城さんに殺されたのよっ!」
 母の目から唐突に涙が流れはじめたのがぼんやりと見えた。
 どうしてかすんでいるのかと思ったらどうやら自分も泣いているらしく、頬の上をだらだらだらだらとよくこんなに出てくるものだと思えるほど涙が流れていた。 
「目から、血が…」
 母が赤ちゃんを見てつぶやいた。
「なにしているの、早く!」
 奥さんの背中を部屋から押しだし、うごかないままの北城さんを見つめた。
「早く!」
 どなられてようやく北城さんの身体がすこしふるえた。
「はやく市民病院の担当の先生に!」
 母に腕をひっぱられて、うなだれたままの北城さんが部屋からでていった。

十・お地蔵様

「さゆみ、さゆみ」
「どうしたの……こんなにはやく……?」
 まだ午前4時だというのに母が部屋に入ってきた。
 蛍光灯とベッドの枕元灯までつけて、なんども名前をよぶ。
 さゆみはベッドの上で上半身だけをおこし、眠気まなこを手の甲でこすった。 
「いったいどうしたの…?」
「いいからおきて」
 ジャージすがたの母はすでに準備万端という感じで掛けぶとんをめくり、うしろからさゆみの背中を押し上げた。
「ウォーキングよ、ウォーキング」
「ええっ…」
「ぐずぐずいわない、さあさあはやく」
「わかったから、やめて」
 祐史と3人のときには母はいつもこんな調子だった。
 祐史はもちろんさゆみもそんな母が大好きだったし、なんの違和感もなくすっと受け入れることができた。
 けれど2人になってしまったいま、さゆみはそんな母を受け入れられなくなった。というよりもいくら上辺だけでも、もうそんなテンションはつくれそうになかった。
 母は手足を同時にうごかして屈伸し、ときどきちらちらこちらに目を向けてくる。
 パジャマをトレーニングウェアに着がえて、さゆみは洗面所で顔を洗った。
 4時という時間に、たぶん北城さんとなにか関係があるのだろうとさゆみは思った。ひょっとすると、花をとりにいく北城さんと待ち合わせでもしているのかもしれない。
 玄関に鍵をかけ家をでると、母は急にしゃべらなくなった。家をでてからずっと、ただひたすら両手を大きく振り上げてばかりいる。
 初めのうちは腿も高く上げていたのだけれど、それはすぐに疲れたのかやめてしまった。

 さいわい壁から落ちたうちわは赤ちゃんのどこにも当たっていなくて、目の出血の原因はほかにあるらしいことがわかった。
 けれどせっかくお祝いしてくれようとした北城さんたちの気持ちを、台無しにしてしまったことだけは確かだった。好意を仇でかえすということばは、あの日の自分のためにあったような気がした。
 自分は隠しもっていたナイフを北城さんの胸に突き刺し、それなのに……、それなのに北城さんたちは、あんなに一生懸命わたしの誕生日を祝ってくれた…………。 

 裏山の裾野でコスモスをたくさん摘み、それを持って駅前へむかった。
 あれ以来さゆみは駅前の交差点へはいちどもいったことがなかった。自分の中にその場所がないと思ってしまえば、それはそれで生活に支障をきたすことはなかった。
「どうしても、いかなければいけない?」
 さゆみが訊くと、家をでてから初めて母が口元をゆるめた。
「見てほしいものがあるの」
「北城さん?」
 母は目顔でうなずいた。
「もう、そろそろ1年になるわ。雨の日も、雪の日も、去年の秋の大きな台風のときも、北城さん、まいにち横断歩道を掃除して、取ってきたお花を供えて、それから学校へいく子ども達を見守りつづけてきたの。たったの1日も休まなかったわ」
「見に、いっていたの?」
「ときどきだけれどね」
 唇をつんと突きだし、母はちょっとおどけた顔をしてみせた。
 家をでるときはまだ薄暗かった周囲が、山裾でぼんやり色をつけはじめ、ようやくそれぞれのものがその形をはっきりと現してきた。 
 遠くに交差点が見え、信号機が赤と黄の点滅をくりかえしている。
「ここからに、しましょ」
 自動販売機の陰で立ち止まって、さゆみは母と一緒に交差点をながめた。
 歩きはじめてから、まだ1台の車にもすれちがっていない。
「初めはね、母さんも北城さんが憎くてしかたがなかったの。でもあのすがたを見て……」
 裕史が事故にあった横断歩道に、北城さんは立っていた。
 両手を合わせ、それからペットボトルの水をすこしずつ足元にまいた。
 首にかけていたタオルをひろげ、しゃがみこんだ。四つん這いになり、アスファルトを拭きはじめた。
「どうして……? なんのために、あんなことをするの……?」
「母さんにも、わからないの。でも、母さん、懸命に道路を拭いている北城さんに、やさしさを感じたの。初めて北城さんがああするのを見たとき、北城さんの全身からあふれ出るやさしさに思わず泣いてしまったの……」
 声を詰まらせて、母はつづけた。
「死んだ人にとって、悲しまれつづけることって、どうなんだろう? 生きている人にとって、悲しみつづけることって、どうなんだろう? 母さん思ったの。いくら内面で悲しんでいてもなんにもならないのじゃないかって。それよりも北城さんのように、何のためになのかはわからないけれど、ああして行動に移したほうが人の心にそれが伝わるし、人の心を動かす力にもなるんじゃないのかって」
 こらえきれなくなったのか、母のまぶたから涙がぽつりとちぎれ落ちた。
 北城さんは四つん這いになったままで繰り返し繰り返しアスファルトを拭いている。
 母と自分にはどうしてその場所をきれいにするのかその理由がわかるけれど、なにも知らない人が見たら10人が10人とも北城さんのことを狂っているとしか思わないだろう。
「それから……」
 戸惑っているのか、母はそこまでいった言葉をいったん止めた。
 それでも意を決したように、また言葉をつづけた。
「お爺さんがこの町でガス工事の会社を経営していたこと、以前話したことがあったわよね」
「うん……」
「ガスが漏れた事故で人が亡くなってしまったことも」
「知ってる……」
 よほど胸につかえていたのだろう。
 たまにしかお酒を飲まない父が酔うと、必ずその話をしたことをさゆみは覚えていた。
 ときには涙をこぼすこともあって、父のどうにもならない悲しさをなんとかできないものかとさゆみは真剣に考えたことがあった。
「そのときに亡くなった方の名字、北城さんというらしいの……」
「北城さん…って……?」
 さゆみは何がなんだかわけがわからなかった。
 いま母がいったばかりの言葉が聞こえなかったような気がして、もういちど母の顔をのぞきこんだ。
「あまりにも酷い偶然だとは思うけれど……そのときに亡くなったのが、北城さんのお父さんらしいのよ……」
 母の目に涙があふれたままで、その涙を母は拭おうともしなかった。
「母さん、知っていたの……?」
「ううん、母さんだって知らなかった」
「じゃあ……だれが……? だれがそんなことをいったの……?」
「遺骨を納めにいったときに、法泉寺の巫女さんから聞いたの……」
 できればそれは嘘であってほしいと、さゆみは思った。
 どこかの誰かから聞いただけの、ただの噂話であってほしいと思いたかった。
 けれど長年この町に住んで人々の行く末を見つめつづけてきた法泉寺の巫女がいったことばである以上、それは紛れもない事実にちがいなかった。
「北城さんは……そのことを……?」
「知らない、らしいわ……。お父さんが亡くなったとき北城さんはまだ生まれていなくて、お母さんの実家へ帰ってからも悲しいことは忘れたいと、だれも事故のことは話さなかったらしいの……」
「じゃあ、どうしてここへ……?」
 遠くで、かすかにエンジン音がきこえた。
 すこしずつ、すこしずつ、近づいてくる。
「北城さんのご両親にも、奥さんのほうにも、この町には知り合いもご親戚もだれひとりいないらしくて……ただ急な会社の都合で……まったくの偶然に……」
 確実に大きくなってくるその機械音に、さゆみは胸騒ぎを感じた。
「だいじょうぶよ……歩道のすぐ近くだから」
 あのときの……、祐史が撥ね上げられたあのときの空気が脳裏によみがえり、さゆみは一瞬身をすくめた。
 神様はなぜこんなふうに、人をもてあそぶようなことをするのだろう……。
 人の心も……、人の思いも……、ただ帳尻が合えばそれでいいというのだろうか……。
 さゆみは走りだした。
 必死に走りながら、さけんだ。
「北城さん……!」
 とつぜん自分の名前をよばれて、北城さんはきょろきょろと周囲を見まわした。
 すぐにこっちに気がついたみたいだったけれど、それが誰なのかはわからなかったみたいだった。
 きょとん、とした目でしばらくのあいだじっと眺めていて、それからようやく気がついたように驚いた顔をして立ち上がった。
 遠くから近づいてくる車に気が付いた様子で、
「ありがとう…」
 照れたように、それでも大きな声で北城さんは手を上げていった。
 それからかなり時間がすぎて、間の抜けた乗用車がとろとろと道路を通りすぎていった。

 母とさゆみが横断歩道を渡って近づいていくと、汗なのか涙なのかわからない水滴だらけの顔をして、北城さんは「おはようございます」と挨拶してきた。
「おはようございます。これも一緒に供えてもらえたらと思って」 
 母が北城さんにかけより、その母のうしろに隠れるようにして、さゆみは北城さんに近づいた。
 横断歩道の縁石ちかくに、いつのまにかちいさなおじぞうさまが建てられていた。
 母が北城さんにコスモスを渡し、それを北城さんはおじぞうさまの前の花台に差し入れた。
 しゃがみこみ、手を合わせた。
 長いながいあいだ、じっと動かなかった。
 人がなにかを祈るとき、きっと心のなかは自然と無になっていくのだろう。最初はお願いしようと意気込んでいたことも、謝ろうと後悔にさいなまれていたことも、長く手を合わせているうちに浄化され、それはしだいに無くなっていくのだ。
 母の横で手を合わせながら、さゆみは祐史のことを思った。

 陽気でいたずらばかりしていた祐史が唐突に現れ、はしゃぎながらさゆみを追い抜いた。
―早く、こっちこっち
 いちめんのコスモス畑のなかへ走りこんでいく。
―いっしょだ、ね
 ふりかえった祐史は胸にゆうちゃんを抱い
 ていて、ふたりともにこにこ笑っている。
―まってよ、そんなにはやく走らないで
 さゆみはふたりのあとを懸命に追いかけた。
 それでもその距離はどんどん大きくなっていき、ついにふたりはさゆみの視界からすがたを消してしまった。
 さゆみはひとりコスモス畑の真ん中にとりのこされた。
 けれど不思議とさみしさは感じなかった。
 楽しかったできごとが頭の中をぐるぐるとめぐり、ぼんやりと、ぼんやりとなにかひとつのものが形を現しはじめた。
 
「許可をもらって北城さんが作ってくれたの。どう? 裕史のおじぞうさま」
 母の声に我にかえったさゆみは、身体をすこしふるわせてまぶたをあけた。 
「かわいいでしょ?」
 じっと、目の前のおじぞうさまを見つめた。
 まだ完全に形づくられてはいなかったけれど、ぼんやりと見えたあれは、あれは確かに……おじぞうさまだった……。
 さっき母がいった「悲しむよりも行動する」ということばの意味が、なんとなく理解できたような気がした。

十一・十八夜

 十八夜のおまつりに母が用意してくれていたのはピンク地に金魚模様のゆかただった。
 夏祭りらしいはなやかな色合いで、さゆみはいっぺんに気に入った。
 明るいうちにお墓へお参りしておきたいからと母にいうと、
「じゃあ、先に晩ごはん食べていきなさい。私は片づけをすませてあとを追いかけるから」
 と、用意してあった晩ごはんのおかずを冷蔵庫からとりだした。

 半信半疑だといってしまえば、それまでかもしれなかった。けれどさゆみは、あの巫女のいうことはほんとうだと思った。
 百年にいちどの大祭の日に、たったひとつの願いごとが叶えられる。その権利を与えられたのが自分なのだと、さゆみはいまさらのように幸運をよろこんだ。
 祐史さえ生き返ってくれたら、すべてが終わる。自分が辛い思いをしたことも、北城さんたちに辛く当たってしまったことも、すべてが無になって終止符を打つのだ。

 お茶碗にごはんをよそい、お箸をだしながら、母はしきりに「奉納したちょうちんの代金が1灯2万円もした」ことをくりかえした。
「あ、それから、北城さんたちも見にくるからって」
 母がいい、さゆみは学校の帰りにぐうぜん北城さんたちを見かけたことを思いだした。
「そういえば、さっき見かけたわ」 
「どこで?」
「市民病院の前で。ずいぶん沈み込んでいたみたいだったけど」
「そう……。やっぱり、だめだったのね……」
「なにが?」
「それは……」
 母はことばに詰まった。
「ゆうちゃん? ゆうちゃんなの…?」
 初めて北城さんたちが家にきたときから、母のゆうちゃんを見る目がおかしかった。
 暗黙のうちに分かりあっているという感じが北城さんと奥さんと母のあいだにはあり、さゆみもそれは気になっていた。
 けれどそのときのさゆみには、そんなことはどうでもよかった。
 ゆうちゃんがどうなろうと自分には関係ないことだったし、北城さんたち家族の不幸を、自分は望んでいたのかもしれなかった。
 一瞬とまどった表情をみせたあと、母は心を決めたというように天井を見上げて目を閉じた。 
「ゆうちゃんの目、先天性の病気らしいの……」
「病気って? どんな?」
「いまもほとんど見えていないみたいなんだけど、もうすぐ……」
「もうすぐ、なに? どうなるっていうの? まさか…見えなくなる……?」
「…………」
 母は答えなかった。
 テーブルに両肘をつき、黙りこんでいる。
(どうして……? どうしてわたしの周りでばかりこんなことが……)
 たったいちどだけだったけれど、自分の顔をみて笑ってくれたゆうちゃんの目が、見えなくなる……。マシュマロのようにまっしろな、あのかわいいゆうちゃんの目が、見えなくなってしまう……。 
 まだ生まれたばかりでお父さんの顔もお母さんの顔も充分に見ていないというのに……。心のなかに刻み込むものなんかなにひとつ見ていないというのに、ゆうちゃんの目が…、ゆうちゃんの目が見えなくなってしまうなんて…………。
 せっかく母が用意してくれた夕飯だったけれど、さゆみはまったく手をつけられなかった。
 すぐにゆかたを着せてもらって、さゆみは家をでた。

 農道は一面金色におおわれていた。
 どこまでもつづくそれが風に揺れるといっせいにしゃらしゃらと音をたて、稲穂はまるでちいさな楽器のようだった。
 稲穂の中に沈みこんだ農道を10分ほど歩いてようやく山裾にたどりつき、色とりどりのコスモスが咲く土道をさゆみは苔ですべらないように注意しながら山門にむかった。
 手すりにつかまり、足元をたしかめながら、慎重に石段をのぼった。山門をくぐりぬけて境内にはいると、10軒ほどの夜店が覆いをかぶせて開店の準備をしてあるのが見えた。
 金魚すくいに……、たこ焼きに……、りんご飴に……、覆いの上からでも何屋さんなのかだいたいの見当はついた。
 中央には、去年よりもひとまわり大きな杉枝のかたまりがあった。幅も、高さも、2、3メートルはひろく高く積み上げられている。
 四方には2重に締め縄がはりめぐらされていて、かざりの半紙が陽光を反射してきらきら輝いている。
 山門の奥から獣道に入って土道をしばらく歩くと、藪の中にひとかたまりの野墓が見えた。
 水汲み場でバケツに水をくみ、さゆみは八千代家の墓前にしゃがみこんだ。
(裕史……)
 ほんの少し前まではなかった迷いが、少しずつ膨らんでいる。
 1年のあいだずっと思いつづけてきた願いなのに、どうしていまさら心が揺らぐのか自分でもよくわからなかった。 
 垂れた頭の前に両手を合わせても、迷いはなくならなかった。
 祖父に、祖母に、父に、そして裕史の心に問いかけてさゆみは考えをめぐらせた。

 ふとまぶたをあけると、急激に空もようが変化して雨粒がはげしく地面をたたきはじめていた。
(ゆうだち……)
 さゆみはあわてて水汲み場へもどり、軒下から空を見上げた。
 周囲は一瞬のあいだに闇におおわれ、その暗闇はますます密度を増して広がりはじめている。腕時計の針だけが時をきざみ、それでも雨足はいっこうに弱まる気配をみせなかった。
(このままじゃ、間に合わなくなるかも……)
 さゆみは覚悟をきめて、雨の中へ飛び出した。
 濡れるくらいどうってことないと思いながら、観音堂へもどった。
 ただ、ぞうりが跳ねあげる泥水だけが心配で足元に目をおとし、そしてそのときになってようやく周囲の異変に気がついた。
 一本の線となって見えるほどの激しい雨がふっているというのに、さゆみはすこしも濡れてなかった。
 跳ねが上がるどころか雨は地にもとどいていなくて、すべて空中で吸いこまれるように消滅していく。
(どういう、こと……?)
 立ち止まったとたん雨はやみ、巫女装束の老婆が視界の隅にあらわれた。
 そこは漆黒の暗闇で、巫女のうしろには青白い光がゆらいでいる。

―姉ちゃん……

 なつかしい声だった。思わず涙があふれそうになり、さゆみは唇をかみしめた。

―裕史

 さゆみが走りだすのと同時に光は人影へと形を変え、裕史のすがたをまとった。

―元気、だった?
―うん……

 おかしな訊きかたかもしれない、とは思っていた。けれどさゆみの中では事故のあとも裕史はずっと生きていて、それは自然なことばだった。

―もう、どこにも行かないで

 巫女が、胸のあたりに広げた両手を前方に押しだした。どうやらそれは扉のようで、切り取られた暗闇の部分にだけ新たな空間が広がっていく。

 唐突に、あらぶる炎が出現した。
 真紅に燃えさかる炎は10メートルほどにまで上がり、その周囲を白装束に身をつつんだ行者たちが歩いている。
「ここは……?」
「観音堂じゃ。そろそろ火渡りの儀式がはじまるころじゃ」
 巫女は観音堂から外にでると、しずかに階段を降りはじめた。
 神火はすこしずつ高さをおとし、行者たちが火床をなだらかにならしていく。そこにはすでに大勢の参拝者がならび待ち、先頭には巫女が立っている。

「さゆみー」
 大きな声で名前をよばれて、さゆみはおどろいて境内を見まわした。
 母と北城さんが高く上げたその手を、こっちに向かって左右にふっている。横で奥さんがほほえみ、胸にはゆうちゃんが抱かれていた。
 
 護摩木がきれいにならされて、境内中央に10メートルほどの火渡り路ができあがった。周囲には神妙な顔つきの参拝者がおおぜいいて、食い入るようにその光景をながめている。
 悪霊退散の祈祷を終えたあと、巫女がおもむろに足袋をぬぎはじめた。塩を盛った八方を胸の前にかかえ、まだところどころ燃えさかる炎の中へ足を踏みだした。

 北城さんがゆうちゃんを高く抱きあげて、火渡りのようすを見せている。けれどゆうちゃんの表情に大きな変化はなく、声もださない。
 奥さんが両手を合わせ、まぶたを閉じている。ゆうちゃんを抱きあげたまま北城さんも祈るように頭をさげた。

 膝まで燃えあがる炎が巫女の緋色袴をつつみこんだ。けれど巫女はなんのためらいもなくまっすぐに進んでいく。にぎりしめた塩を前方になんどもなんども振りまきながら、ゆっくりと火渡り路を清めていく。 
 巫女のあとを十人ほどの行者たちが合掌しながら歩きはじめ、そのあとを参拝者がつづいていく。
 列の最後のほうに母と北城さんたちを見つけ、さゆみは複雑な思いで観音堂前の階段を降りはじめた。

 すべての参拝者が渡火を終え、火渡り路のまわりを行者たちがとりかこんでいる。
 ちいさくなった炎につぎつぎに生杉の枝を乗せ、ふたたび炎が立ち上がるのを待っている。
「願いは、決まったのか?」
「はい……」
 巫女に訊かれてそう返事したものの、ここまできてもまださゆみは迷っていた。
 炎は勢いをとりもどし、ところどころから白煙があがっている。
 脱いだ草履を脇に寄せたまま、さゆみは一歩もうごけなくなった。
「無になればええ。そうすればおのずと自分の気持ちが見えてくるはずじゃ」
 最後の塩をさゆみの前に撒き終えて、巫女が八方を祭壇の上にもどした。
 さゆみは覚悟を決めて炎の中に踏みこんだ。

―裕史、裕史、いつまでも一緒にいたい
―ぼくだって同じだよ。ずっと、ずっと一緒にいたい
―でも、でも……

 あれほど待ちわびていたはずの今日というこのときになって初めて、さゆみは自分の心の中に北城さんたち家族が深く入りこんでいることに気づいた。

 熱さなんてみじんも感じなかった。
 突き刺すような痛みだけが足の裏から体全体にひろがっていく。
 まくりあげた浴衣の裾に炎がからみつき、さゆみはひやりとして前方にすすんだ。

―ごめんね、裕史……

 白煙のあいだで揺らいでいた炎が一瞬高く燃えあがり、裕史のすがたと重なった。
 さゆみはその炎に向かって両手を合わせ、一心に祈りつづけた。

「あなた、ゆうちゃんが! ゆうちゃんが! わたしを見てる!」
「ほ、本当か……?」
「ほんとうよ、ほら! ちゃんと……、ちゃんと……、わたしの顔を目で追っている……!」
 風に乗り、北城さん夫婦の声がかすかに耳元にひびいた。

 炎は勢いを増し、境内のすみずみまでを赤く深く照らしだしていく。

―いいんだよさゆみ、それで……
―父さん! 父さんなの!

 ひときわ高く燃えあがった炎が青白い光を放ったと思うと、父が、なつかしいすがたを現した。
 はっきりとした二重まぶたの中の瞳が、やさしそうにほほえんでいる。その瞳を見ているだけでさゆみはしあわせだった。 
 
―裕史には父さんがついている……
―そうだよ姉ちゃん……

 いつのまにかとなりに巫女が立っていて、手を差しだしている。
 さゆみは巫女の手を握り締めて歩きはじめた。
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