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山小屋23
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その瞬間、寒さが消えた。代わりに身体を覆ってきたのは熱気だ。耳を貫く虫の声。埃まみれのテーブルに倒れた椅子、蜘蛛の巣だらけの暖炉、ボロボロの木材と木の葉が散乱した床。
「……ここは……」
「見つけたんですね」
永遠は驚いて、声のしたほうを見た。涼しい顔をした久礼が立っていた。
「あ……っ」
「名取さんのコンパス。これがあれば、もう、彼らは迷うことはないでしょう」
久礼は永遠からコンパスを受け取り、ズボンのポケットにしまった。
「もうすぐ夜明けです。山を下りましょうか」
「えっ、また、あんな鎖とか使って降りるの!?」
「もうあの道は行けませんよ」
混乱している永遠をよそに、久礼は氷影小屋のドアを開けて外に出て行く。ふいに、部屋の隅をするすると動いていく気配を感じた永遠は、気配のしたほうを見た。黒っぽい胴体をしたヘビが、するすると動いている。
「ひっ」
永遠は慌てて久礼のあとを追いかけた。
久礼のあとに続いて、山道を進んでいこうとした永遠だったが、一度だけ氷影小屋のほうを振り返った。
来た時に見た小屋の様子とは違って、青い屋根はところどころペンキがはがれ、穴が空いている。窓ガラスは曇り切っていて、ひび割れている。50年もの間、誰からも手入れをされることなく、忘れ去られていった小屋。
あの雪山も、るまも、すべて幻だったのか。
だが、たしかに、小屋のなかで見つけたコンパスを久礼に渡した。
しばらく歩くと、一般登山道に合流した。来た時とは打って変わって、ある程度舗装された山道を下って行った。鎖場もなければ、手をついて降りなければならないほど落差がある岩場もない。
山を下りる途中、黄色い光が差した。光の源を追いかけると、山間からオレンジ色の太陽がゆっくりと昇ろうとしているのが見えた。暗闇は光で色を塗り替えられ、生命力あふれる草木の緑が正体を現す。
「……きれい」
永遠はぽつりと呟いた。
「死ぬには惜しい空ですか」
久礼に訊ねられると、永遠は少しの間のあと、
「そうだね」
と、返事をした。
帰りは、久礼が八王子駅の近くまで車を走らせ、永遠を送った。
血と泥と汗でボロボロになった姿で、永遠は自宅に帰った。家に入るなり、奥から母親が顔を出してきた。
「ちょっとあんた、どこ行ってたの! なんなのその恰好は!?」
永遠はいらいらしながら、「別に」と返事をした。
「また大けがしていないでしょうね? 制服、自分で洗濯しなさいよ! これ以上迷惑かけないでちょうだい」
母親は「ふんっ」と鼻を鳴らして、奥に戻っていった。永遠はすぐに自分の部屋に戻りたかったが、このままの恰好でいるのは気持ちが悪かったので、シャワーを浴びてから部屋に戻ることにした。
シャワーの水があたると、あちこちにできた傷が痛む。身体の汚れは、あの登山が嘘ではなかったことを教えてくれる。
……こんなにボロボロでも、母親は心配なんかしてくれない。
永遠は風呂場から出て着替えたあと、疲れた身体を鞭うちながら、制服を洗った。制服をベランダに干そうと二階に持って上がるときに、ちょうど部屋から出て来た兄と遭遇した。
「お前、どこ行ってたんだ?」
「……別に。どこだっていいじゃん」
「もう帰ってこないかと思った」
「そのほうが良かったんでしょ」
「別に」
兄は永遠の横を通って、階下に降りて行った。
命懸けの体験をしたって、母親と兄は変わらない。あの人たちは変わらないんだ。
制服を干して、永遠はようやく自分の部屋に戻った。ベッドに座ると、布団についた自分の血が目に入った。
「ロキは、これからたくさんの人に愛されるの。きっと、ロキの居場所が見つかる。だから、生きてほしい」
るまはそう言ったけど、私は信じられない。
……るま。
永遠は、スマホを手に持って見た。充電切れまであと10パーセント。これを充電するためには、1階のリビングルームまで行かなくてはならない。
リビングに行けば、母親がいる。母親と顔を合わせたくない。また、兄と鉢合わせするのも嫌だ。
やっぱり、居場所なんかない。帰って来なければ良かったんだ。
永遠は、ふと、るまと最初に交わしたメッセージを見たくなった。音楽投稿サイト【muzinamusica】を開く。
マイページに、通知が1000件以上来ている。
「え……っ!?」
どういうこと!?
いったい何の通知か確認してみると、るまを想って作った曲に、「感動した」「いいね」アクションやコメント投稿されたという知らせだった。
『好きな人のことを思い出しました』
『声の透明感が半端ない』
『泣ける』
『何回も聴きに来てます』
『応援しています』
顔は見えない。だが、さまざまなアイコンと、ひとりひとり違うハンドルネームから、さまざまな場所からさまざまな人間が永遠に励ましを送っていることがわかる。
【muzinamusica】には、永遠を待っている人たちがいる。
永遠の胸が熱くなる。冬の寒さに凍えながら帰った夜、温かいスープを差し出されて飲んだ時のような、じんわりとしたぬくもり。
……ああ、そうだ。小学生のとき、雪が降ったときはいつも、母親は温かいスープを作っていた。
そのときである。
永遠の頭の中を言葉が駆け巡る。るまに伝えたいこと、今の感情、大きな波のように押し寄せてくる。その波はこれまでの傷を飲み込んでいく。
永遠はベッドから立ち上がり、机に向かった。ノートの白いページを開き、シャーペンを握ると、浮かんだ言葉を次々に書き出した。それは、とりとめのないようで、書き終えると一編の詩として成立しているように思えた。
……歌を、作ろう。
永遠はスマホの充電を貯めるために、自分の部屋を出た。
「……ここは……」
「見つけたんですね」
永遠は驚いて、声のしたほうを見た。涼しい顔をした久礼が立っていた。
「あ……っ」
「名取さんのコンパス。これがあれば、もう、彼らは迷うことはないでしょう」
久礼は永遠からコンパスを受け取り、ズボンのポケットにしまった。
「もうすぐ夜明けです。山を下りましょうか」
「えっ、また、あんな鎖とか使って降りるの!?」
「もうあの道は行けませんよ」
混乱している永遠をよそに、久礼は氷影小屋のドアを開けて外に出て行く。ふいに、部屋の隅をするすると動いていく気配を感じた永遠は、気配のしたほうを見た。黒っぽい胴体をしたヘビが、するすると動いている。
「ひっ」
永遠は慌てて久礼のあとを追いかけた。
久礼のあとに続いて、山道を進んでいこうとした永遠だったが、一度だけ氷影小屋のほうを振り返った。
来た時に見た小屋の様子とは違って、青い屋根はところどころペンキがはがれ、穴が空いている。窓ガラスは曇り切っていて、ひび割れている。50年もの間、誰からも手入れをされることなく、忘れ去られていった小屋。
あの雪山も、るまも、すべて幻だったのか。
だが、たしかに、小屋のなかで見つけたコンパスを久礼に渡した。
しばらく歩くと、一般登山道に合流した。来た時とは打って変わって、ある程度舗装された山道を下って行った。鎖場もなければ、手をついて降りなければならないほど落差がある岩場もない。
山を下りる途中、黄色い光が差した。光の源を追いかけると、山間からオレンジ色の太陽がゆっくりと昇ろうとしているのが見えた。暗闇は光で色を塗り替えられ、生命力あふれる草木の緑が正体を現す。
「……きれい」
永遠はぽつりと呟いた。
「死ぬには惜しい空ですか」
久礼に訊ねられると、永遠は少しの間のあと、
「そうだね」
と、返事をした。
帰りは、久礼が八王子駅の近くまで車を走らせ、永遠を送った。
血と泥と汗でボロボロになった姿で、永遠は自宅に帰った。家に入るなり、奥から母親が顔を出してきた。
「ちょっとあんた、どこ行ってたの! なんなのその恰好は!?」
永遠はいらいらしながら、「別に」と返事をした。
「また大けがしていないでしょうね? 制服、自分で洗濯しなさいよ! これ以上迷惑かけないでちょうだい」
母親は「ふんっ」と鼻を鳴らして、奥に戻っていった。永遠はすぐに自分の部屋に戻りたかったが、このままの恰好でいるのは気持ちが悪かったので、シャワーを浴びてから部屋に戻ることにした。
シャワーの水があたると、あちこちにできた傷が痛む。身体の汚れは、あの登山が嘘ではなかったことを教えてくれる。
……こんなにボロボロでも、母親は心配なんかしてくれない。
永遠は風呂場から出て着替えたあと、疲れた身体を鞭うちながら、制服を洗った。制服をベランダに干そうと二階に持って上がるときに、ちょうど部屋から出て来た兄と遭遇した。
「お前、どこ行ってたんだ?」
「……別に。どこだっていいじゃん」
「もう帰ってこないかと思った」
「そのほうが良かったんでしょ」
「別に」
兄は永遠の横を通って、階下に降りて行った。
命懸けの体験をしたって、母親と兄は変わらない。あの人たちは変わらないんだ。
制服を干して、永遠はようやく自分の部屋に戻った。ベッドに座ると、布団についた自分の血が目に入った。
「ロキは、これからたくさんの人に愛されるの。きっと、ロキの居場所が見つかる。だから、生きてほしい」
るまはそう言ったけど、私は信じられない。
……るま。
永遠は、スマホを手に持って見た。充電切れまであと10パーセント。これを充電するためには、1階のリビングルームまで行かなくてはならない。
リビングに行けば、母親がいる。母親と顔を合わせたくない。また、兄と鉢合わせするのも嫌だ。
やっぱり、居場所なんかない。帰って来なければ良かったんだ。
永遠は、ふと、るまと最初に交わしたメッセージを見たくなった。音楽投稿サイト【muzinamusica】を開く。
マイページに、通知が1000件以上来ている。
「え……っ!?」
どういうこと!?
いったい何の通知か確認してみると、るまを想って作った曲に、「感動した」「いいね」アクションやコメント投稿されたという知らせだった。
『好きな人のことを思い出しました』
『声の透明感が半端ない』
『泣ける』
『何回も聴きに来てます』
『応援しています』
顔は見えない。だが、さまざまなアイコンと、ひとりひとり違うハンドルネームから、さまざまな場所からさまざまな人間が永遠に励ましを送っていることがわかる。
【muzinamusica】には、永遠を待っている人たちがいる。
永遠の胸が熱くなる。冬の寒さに凍えながら帰った夜、温かいスープを差し出されて飲んだ時のような、じんわりとしたぬくもり。
……ああ、そうだ。小学生のとき、雪が降ったときはいつも、母親は温かいスープを作っていた。
そのときである。
永遠の頭の中を言葉が駆け巡る。るまに伝えたいこと、今の感情、大きな波のように押し寄せてくる。その波はこれまでの傷を飲み込んでいく。
永遠はベッドから立ち上がり、机に向かった。ノートの白いページを開き、シャーペンを握ると、浮かんだ言葉を次々に書き出した。それは、とりとめのないようで、書き終えると一編の詩として成立しているように思えた。
……歌を、作ろう。
永遠はスマホの充電を貯めるために、自分の部屋を出た。
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