それ、しってるよ。

eden

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 一時限目の授業の途中で教室に入るのは恥ずかしくて、未子は教室の外の廊下でしゃがみこんでいた。自分の影が教室内に映りこまないように、教室の壁に背中をつけた。

 教室内は冷房が効いているだろうが、廊下は灼熱の暑さである。なるべく陰になっているところにしゃがんだものの、身体中汗ばんでいた。

 ようやく一時限目の終わりのチャイムが鳴り、教師が教室から出て来たところで、未子はこそこそと教室の中に入った。

 自分の席を見やると、隣の席の千宙と目が合った。


 気まずい……。


 といっても、逃げる場所もないので、未子は自分の席に向かった。

「おはよ」

 千宙はいつもどおり挨拶をしてきた。

「お、おはよ」

 あまりにもいつもどおりだ。千宙は眼帯をとって眼鏡をかけてきている。大分、痣の色が薄くなった。

 未子はそっと耳を澄ませてみたが、千宙からマイナスの感情は感じられない。未子に対して気まずさも、怒りも、悲しみもないようだ。


 やっぱり、とげがない。

 今日も丸くて、温かい心のまま。


 ……よかった。


「え……?」

 よかった、と心の中で呟いたのは千宙だった。だから、未子は驚いてしまった。

「え……?」

 千宙もきょとんとした表情をしている。


 私のバカ、なんで「え」って言っちゃったの! 変に思われるよ。


 焦る未子とは対照的に、千宙は落ち着いている。

「今日、学校に来てよかった」

「……?」

「山下さん、学校に来づらいんじゃないかと思って。顔見れて、安心した」

 そう言って、千宙は柔らかく微笑んだ。その笑顔だけで、自分に変わらず温かい気持ちを向けてくれているんだとわかった。

 千宙の心は本当に広くて、深い。どこまでも包み込んでくれるような、それでいてどこまでも自由でいることを許してくれそうな。


 ……でも、私のこと話したら、ダメだよね。さすがの松永くんでも、重すぎて、潰れちゃうかもしれない。何より、危険に巻き込むことはできないよ。


 未子はカバンの中から、紫藤から受け取ったスマホを取り出した。

「あ、あの、スマホ、買ってもらったの。えと、ライン、交換しよ?」

 未子が言うと、千宙は「いいよ」と言ってズボンのポケットからスマホを取り出した。

 まっさらなラインのトーク画面。未子のアイコンは未設定である。千宙のアイコンは、将棋の駒のキャラクターだ。

 ラインを交換したところで、次の授業の始まりを告げるチャイムが鳴り始めた。

 未子は着席して、地理の教科書をカバンの中から取り出した。隣の席で、千宙は、机の影でスマホを操作している。

「……?」

 未子はスマホをカバンにしまおうとしたとき、ラインの着信に気が付いた。もちろん千宙からのメッセージである。

『これ入れておいて』

 ……?

 続けて送られてきたのは、将棋アプリの案内だった。未子は思わず噴き出した。

 ふとスマホから視線を上げると、教卓の前に地理担当の男性教師が立っている。もう授業が始まったのである。

 未子は慌ててスマホをかばんにしまって、教科書を開いた。




 午前中の授業が終わり、生徒たちが次々に下校していく。

「あちー」

「蒸し暑いの一番ムカつく。サウナかよ」

「だりー」

「明日振替休日だろ、今日休みにしとけって話」

「早く夏休み来ねえかなあ、どうせ補習祭だけど」

「花火大会行きたい」

 生徒たちのざわめきが、教室から遠のいていく。未子も校舎から出て紫藤と合流しようと考えた。


「あのさ」

 帰ろうとした未子を、千宙が呼び止めた。

「今日、時間ある?」

「え?」

「部活は休みだけど、あいつら、学祭の打ち上げしたいとか言っててさ。今日、ラーメン食べに行くかって話してたんだけど」

 あいつら、とは将棋部のメンバーのことだ。昨日、未子が帰ったあと、ラーメン屋に行く話をしていたようである。


 行きたい……!

 でも……。


 未子は、ちらっと璃星の席を見た。もう、璃星とあずみの姿はない。今日もいつもどおり登校して、授業が終わったらさっさと帰っている。


 紫藤先生の話を聞かないと。璃星のことも、確かめないといけないし。


「ご、ごめん。あの、今日は、用事があって……」

「……そっか」

 千宙は一度うなずいてから、未子に言った。

「じゃあ、山下さんとは別の日に行こう。また、予定聞かせて」

 私といっしょに行きたいんだって、思ってくれてる。

 未子は、「やっぱり行く」というセリフを飲み込んで、代わりに、

「ありがとう」

と言った。

「じゃ、じゃあ、帰るね」

「うん」

 未子は千宙に見送られる形で、教室を出た。


 心臓がバクバク鳴っている。告白を断ったのに、その前よりも、千宙の心をすぐそばに感じるようになるなんて。

 嫌わないでいてくれた。今までどおりに接してくれた。笑ってくれた。

 これ以上は関わることができないよって通行止めのバリケードを立てたのに、簡単に乗り越えようとしてくる。


 私と話したいんだって。

 私のこと知りたいんだって。


「……もう、どうしたらいいんだろう」


 靴を履き替えるときに、思わず独り言が漏れた。校門から出て、バス停の近くで紫藤に電話をかけた。
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