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たった一日ではあるが、非常に長く感じられた休日を終えて、未子はいつも通り登校した。紫藤は、表立って同行していない。
「先生がいっしょだと、逆に目立つから。離れて歩いてほしいの」
と、未子から要求した。
反抗期の娘が、父親に近寄られると嫌がるのってこんな感じかな。と、紫藤は少し寂しく思いながら、承諾した。
2年4組の教室には、すでに千宙の姿があった。席でスマホをいじっている。いつものように将棋をしているのだろう。
未子はドキドキしながら自分の席に向かった。いつもなら、席に向かう途中で千宙が顔を上げて、「おはよ」と言う。
ところが、今日は、顔を上げない。
私に気付いているはずなのに。
未子は、思い切って自分から挨拶をした。
「お、おはよ」
千宙はちらっと未子を見て、
「おはよ」
と返したあと、すぐにスマホに視線を戻した。
怒っている。というか、イライラしている。私を見て、思い出したようにイライラし始めた。
未子の中に、千宙の心の声が入ってくる。
結局、あの男って何だったんだろう。山下さんは、そのことは何も言わない。何も言ってくれない。気になる自分に腹立つ。何も気にしないフリをしてラインを返すこともできなかった。
かっこ悪い。
未子は千宙の横顔を見た。穏やかそうに見えて、内心は不安定だ。その不安定さを自分にぶつけないように、黙っている。
「嫌いになんかならないと思うよ」
紫藤が言ったセリフを思い出す。未子は、千宙に話しかけた。
「ま、松永くん、あの、話したいことがあるんだけど」
千宙は振り向いて、未子の目を見た。千宙の無垢な瞳を見て、未子は急に緊張した。
「その、松永くんには、もしかしたら、迷惑な話かもしれないけど、でも、松永くんには知ってほしいって思ったというか、その……」
「いいよ」
千宙の返事は優しかった。
「俺も聞きたい」
何か、大切なことを話そうとしてくれている。千宙は、未子の想いを受け取っていた。
私は、松永くんに打ち明けるの、怖いんだけど。松永くんは、私の話を聞くの、怖くないんだね。
踏み込んだら危険かもしれない。けれど、踏み込まなければ勝てないときがある。将棋の話だ。千宙は、勝負どころと見込んだら、大駒だろうと切り捨てることもいとわない。敗北への恐怖心よりも、勝利への執念のほうが圧倒的に強いのだ。
「昼休み、部室に行こうか」
千宙が言うと、未子は「うん」とうなずいた。
午前中の授業が終わり、一部の生徒は購買に駆け出し、一部の生徒は机を合わせて弁当箱を広げる。
未子は、芳江の作った弁当の入った巾着と水筒を持って、千宙といっしょに教室を出た。千宙は、パンの入ったコンビニのレジ袋を持っている。
将棋部の部室に行く前に、自販機に寄った。
「山下さん、何がいい?」
千宙が買うものだと思っていたので、未子は驚いた。あたふたしながら、飲み物を選ぶ。早く決めなきゃ、と思えば思うほど、焦ってしまう。
「こ、これ」
未子は桃のアイスティーを選んだ。千宙は、落ちて来たアイスティーのペットボトルを拾い上げると、未子のおでこに当てた。
冷たいっ。
思わず瞬きをしてから、見上げた千宙の顔は、笑っていた。
「はい」
未子がペットボトルを持つと、千宙の手が離れた。
「あ、ありがとう……」
千宙はスポーツドリンクを選んだ。
小さな将棋部の部室の中、千宙と未子は窓際の机に向かい合って座った。将棋を指すときと同じである。
「ライン、見たよ」
パンを食べながら、千宙が言った。
「山下さんには、序盤の詰将棋は簡単だよね」
未子は口の中の食べ物を飲み込んでから、返事をした。
「そ、そんなことないよ。ちょっと考えたのもあるし……」
「ちょっと、でしょ」
「や、だって、松永くんなんて一目で解くじゃない」
「ずっとやってるからだよ」
「そ、それは……」
「山下さんは、将棋を覚えてからほんの少ししか経っていないのに、もう桑原や馬屋原と互角に指せるようになってる。どんどん、強くなってる。見ていてすごく面白い」
千宙は、未子の成長を純粋に楽しんでいるようだ。未子は照れくさくなって、うつむいた。
未子が弁当箱を片付けたタイミングで、千宙が言った。
「それで、話って?」
「……うん」
未子は、なんと切り出そうか、ずっと考えていた。考えてもまとまらないので、最初から話すことにした。
「あの、私、親がいなくて。施設で育ったの。それからいろんな人に引き取られて、ずっと、転々としてて……。
そんな中で、お世話になった人がいるの。そのうちの一人が、一昨日、いっしょにいた紫藤先生。施設にいたときから、お世話になってて。
もう一人、山下さん……今の私の養親と引き合わせてくれた、波間さんって人がいるの。それで、あの、打ち明けたいことっていうのが……」
未子はちらっと千宙の目を見た。真剣なまなざし。未子の経歴を聞いて動じているふうでもない。ただ、未子のことを丸ごと受け止めようとしている。
未子は話を続けた。
「その、波間さんが、裏の世界の人たちに追われていて。
波間さんは、もともと情報屋なの。政治家とか、芸能人とか、いろんな企業の重役とか、著名人の情報をたくさん持ってる。反対に、誰も気にかけていなさそうな人のことでも知っていたり……たくさんの人のことを知っている。
現総理大臣の秘密まで、知ってる。だから、追われているの。
私は、波間さんと関りのある人間だから、波間さんの情報を知っているんじゃないかって疑われてて、狙われている可能性があるの。その、狙ってきている存在が、広島の慈盛組」
「……この辺だと有名な極道だね」
千宙も慈盛組の存在は知っているようである。
「あと、慈盛組の陰にいるっていう、天城家」
「天城……?」
ここで初めて、千宙は驚いた表情になった。
「先生がいっしょだと、逆に目立つから。離れて歩いてほしいの」
と、未子から要求した。
反抗期の娘が、父親に近寄られると嫌がるのってこんな感じかな。と、紫藤は少し寂しく思いながら、承諾した。
2年4組の教室には、すでに千宙の姿があった。席でスマホをいじっている。いつものように将棋をしているのだろう。
未子はドキドキしながら自分の席に向かった。いつもなら、席に向かう途中で千宙が顔を上げて、「おはよ」と言う。
ところが、今日は、顔を上げない。
私に気付いているはずなのに。
未子は、思い切って自分から挨拶をした。
「お、おはよ」
千宙はちらっと未子を見て、
「おはよ」
と返したあと、すぐにスマホに視線を戻した。
怒っている。というか、イライラしている。私を見て、思い出したようにイライラし始めた。
未子の中に、千宙の心の声が入ってくる。
結局、あの男って何だったんだろう。山下さんは、そのことは何も言わない。何も言ってくれない。気になる自分に腹立つ。何も気にしないフリをしてラインを返すこともできなかった。
かっこ悪い。
未子は千宙の横顔を見た。穏やかそうに見えて、内心は不安定だ。その不安定さを自分にぶつけないように、黙っている。
「嫌いになんかならないと思うよ」
紫藤が言ったセリフを思い出す。未子は、千宙に話しかけた。
「ま、松永くん、あの、話したいことがあるんだけど」
千宙は振り向いて、未子の目を見た。千宙の無垢な瞳を見て、未子は急に緊張した。
「その、松永くんには、もしかしたら、迷惑な話かもしれないけど、でも、松永くんには知ってほしいって思ったというか、その……」
「いいよ」
千宙の返事は優しかった。
「俺も聞きたい」
何か、大切なことを話そうとしてくれている。千宙は、未子の想いを受け取っていた。
私は、松永くんに打ち明けるの、怖いんだけど。松永くんは、私の話を聞くの、怖くないんだね。
踏み込んだら危険かもしれない。けれど、踏み込まなければ勝てないときがある。将棋の話だ。千宙は、勝負どころと見込んだら、大駒だろうと切り捨てることもいとわない。敗北への恐怖心よりも、勝利への執念のほうが圧倒的に強いのだ。
「昼休み、部室に行こうか」
千宙が言うと、未子は「うん」とうなずいた。
午前中の授業が終わり、一部の生徒は購買に駆け出し、一部の生徒は机を合わせて弁当箱を広げる。
未子は、芳江の作った弁当の入った巾着と水筒を持って、千宙といっしょに教室を出た。千宙は、パンの入ったコンビニのレジ袋を持っている。
将棋部の部室に行く前に、自販機に寄った。
「山下さん、何がいい?」
千宙が買うものだと思っていたので、未子は驚いた。あたふたしながら、飲み物を選ぶ。早く決めなきゃ、と思えば思うほど、焦ってしまう。
「こ、これ」
未子は桃のアイスティーを選んだ。千宙は、落ちて来たアイスティーのペットボトルを拾い上げると、未子のおでこに当てた。
冷たいっ。
思わず瞬きをしてから、見上げた千宙の顔は、笑っていた。
「はい」
未子がペットボトルを持つと、千宙の手が離れた。
「あ、ありがとう……」
千宙はスポーツドリンクを選んだ。
小さな将棋部の部室の中、千宙と未子は窓際の机に向かい合って座った。将棋を指すときと同じである。
「ライン、見たよ」
パンを食べながら、千宙が言った。
「山下さんには、序盤の詰将棋は簡単だよね」
未子は口の中の食べ物を飲み込んでから、返事をした。
「そ、そんなことないよ。ちょっと考えたのもあるし……」
「ちょっと、でしょ」
「や、だって、松永くんなんて一目で解くじゃない」
「ずっとやってるからだよ」
「そ、それは……」
「山下さんは、将棋を覚えてからほんの少ししか経っていないのに、もう桑原や馬屋原と互角に指せるようになってる。どんどん、強くなってる。見ていてすごく面白い」
千宙は、未子の成長を純粋に楽しんでいるようだ。未子は照れくさくなって、うつむいた。
未子が弁当箱を片付けたタイミングで、千宙が言った。
「それで、話って?」
「……うん」
未子は、なんと切り出そうか、ずっと考えていた。考えてもまとまらないので、最初から話すことにした。
「あの、私、親がいなくて。施設で育ったの。それからいろんな人に引き取られて、ずっと、転々としてて……。
そんな中で、お世話になった人がいるの。そのうちの一人が、一昨日、いっしょにいた紫藤先生。施設にいたときから、お世話になってて。
もう一人、山下さん……今の私の養親と引き合わせてくれた、波間さんって人がいるの。それで、あの、打ち明けたいことっていうのが……」
未子はちらっと千宙の目を見た。真剣なまなざし。未子の経歴を聞いて動じているふうでもない。ただ、未子のことを丸ごと受け止めようとしている。
未子は話を続けた。
「その、波間さんが、裏の世界の人たちに追われていて。
波間さんは、もともと情報屋なの。政治家とか、芸能人とか、いろんな企業の重役とか、著名人の情報をたくさん持ってる。反対に、誰も気にかけていなさそうな人のことでも知っていたり……たくさんの人のことを知っている。
現総理大臣の秘密まで、知ってる。だから、追われているの。
私は、波間さんと関りのある人間だから、波間さんの情報を知っているんじゃないかって疑われてて、狙われている可能性があるの。その、狙ってきている存在が、広島の慈盛組」
「……この辺だと有名な極道だね」
千宙も慈盛組の存在は知っているようである。
「あと、慈盛組の陰にいるっていう、天城家」
「天城……?」
ここで初めて、千宙は驚いた表情になった。
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