それ、しってるよ。

eden

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「さすが、関東裏社会で名をとどろかせたことがあるだけの人なだけあるね。紫藤颯一さん。精神科医であり、薬が効かない狂った人間は暴力で屈服させてきた男」

 紫藤は、璃星の顔を見上げた。暗闇の中、白い顔が浮かんでいる。

「ボクはね、あなたに興味があってここに来た。未子の記憶に、あなたがたくさんいるから。未子に薬を処方しているのもあなた、未子の能力を抑えているのもあなた」

 紫藤は指先で小石をさらい、そっと挟んで持った。璃星が前かがみになり、再び近づこうとしたとき、紫藤は小石を璃星の目に向かって飛ばした。璃星は反射的にかわしたが、小石は頬をかすめた。頬が薄く切れ、赤い血が流れる。だが、璃星は動じない。

 代わりに、佐伯の取り巻きの男が紫藤の胸倉を掴み上げた。

「この野郎」

 男が拳を上げたとき、紫藤は口の中に溜めていた血を吹きだし、男の視界を奪った。男が怯んだすきに自分の足で立ち上がり、男の顎に向かって右の拳を突き出した。

 先程車にかれた男のどこにこんな力が残っていたのか。紫藤に掴みかかった男は地面に転がり、失神している。

 佐伯は眉をひそめた。

「なってないねえ。あいつ、運動不足か?」

 佐伯の両脇にいた、残り2人の若い男が紫藤に向かって飛び出した。2人組の直線的な攻撃に対し、紫藤は応戦したが、徐々に劣勢に立たされていく。

 その間に、佐伯はスマホで構成員をかき集めていた。近くをうろついていた構成員たちが続々と集まってくる。

 相手が6人になったところで、紫藤はついに膝をついた。紫藤の左右に立つ構成員が腕を掴み、後ろに4人立った。退路もなくなった。

 頭から、目の上から、鼻から、唇の端から流れた血は、紫藤の顔を赤黒く染め上げた。もはや勝機はない。それでも、紫藤の目は死んでいなかった。

 紫藤は、正面に立っている璃星を見据えて訊ねた。

「……未子ちゃんに、何をするつもりだ」

「確かめるのさ。未子のすべてを」

「確かめる?」

「紫藤さん、あなたさえ知らない、未子の秘密を。そのためには、あなたの存在は邪魔なんだ。あなたの中の記憶をもらったら、消えてもらうよ」

「……てめえらの目的は、波間さんじゃないのか?」


 璃星はふっと鼻で笑った。


「ボクの目的は、最初から未子だけだよ」


 璃星は右手を伸ばし、紫藤の両のこめかみに触れた。

「……施設の生き残りはもういない。手がかりはもうない。そう思っていたけど、やっぱりそうか」

 璃星は紫藤から離れて、佐伯に声をかけた。

「ボクの用事は終わった。あとは好きにしていいよ」

「波間のこと、なにかわかりましたか?」

「さあ。本人に訊きなよ。働かざる者食うべからず、だよ」

 それを聞いて、佐伯は愉快そうに笑った。

「怖い怖い、そう言われたら俺たちがどうするか、わかってて言ってるんだから」

 佐伯は、璃星に代わって紫藤に近づいた。

「俺たちは、天城さんと違って特別な力はないからね? 波間の情報吐くまで、わかるだろ?」


 ――――ここまでか。

 紫藤は佐伯を睨んだまま、口を一文字に結んだ。


 未子ちゃんとは、施設で出会った。施設に集められた子どもたちのメンタルコントロールをするために、俺は雇われていた。

 何のために集められた子どもなのかって、もちろんわかっていた。世間一般では発達障害などとレッテルを貼られるような子どもでも、特殊な力を持っていたら、金に代わる。

 ただ、暴力だけで制御しては、その力がうまく発揮できなくなるリスクがある。その辺をうまくコントロールするために、俺はカウンセリングをしたり、薬を処方したりしていた。

 昔の俺は、金が稼げたらよかった。ボクシングで成り上がるよりも、精神科医としてふつうに病院に勤務するよりも、裏社会で力を使ったほうがよほど稼げた。

 人はどこまで大きくなれるものなのか、自分はどこまで行けるのか、試してみたかった。ただそれだけ。貯金が増える、女が寄ってくる、仕事上知り得る情報が増える、そういった事実が積み重なっていくだけで、感情的に満たされることはなかった。

 結局、自分がやっていることは、人道に外れたことだから。

 でも、そうやってしか生きられなかった。どうしても、普通に生きることが選べなかった。そこに埋もれる自分が許せなかった。

 あの施設で、人身売買に間接的に加担していた。どの子どもも、初対面では怯えた目で俺を見てきた。少し優しくするだけで、すぐになついてくる無邪気さがあった。

 バカだなって思っていた。

 そんな俺のことを、未子ちゃんは初対面で見抜いたんだ。


「せ、先生は、私のことをバカだと思うの? それとも、せ、先生のこと?」


 丸くて大きな瞳で、なんの悪意もなく、俺の核心を突いた。


 未子ちゃんは、とても幼児とは思えない頭脳を持っていた。見聞きしたものをすべて覚てしまう記憶力だけじゃない。ずいぶんと言葉が大人びていたし、感受性も豊かで、理解力も高かった。


 特殊な子じゃない、特別な子なんだと思った。


 俺は未子ちゃんと接するうちに、裏社会から離れることを考えるようになった。でも、未子ちゃんのことは放っておけなかった。だから、未子ちゃんにパソコンを渡して、自分のプライベートアカウントを教えたんだ。

 ずっとやりとりしていた。未子ちゃんはどこに行ったって、俺に連絡をくれた。だから、薬もずっと渡すことができたし、陰ながら支えることができたと思う。

 未子ちゃんが中学生になるとき、急に連絡が途絶えて、俺は焦った。人生で一番心配したと思う。使えるものはすべて使って、未子ちゃんを捜した。そのとき協力してくれたのは波間さんだ。


 そう、施設にときどき子どもを連れてきていたのも波間さんだ。


 ここで、紫藤は、璃星が自分の記憶の何を欲していたのかに気が付いた。


 ……そうか、未子ちゃんを連れて来たのも、波間さんだったのかもしれない。未子ちゃんがどこから来たのか知っているのは波間さんか。


 あとは、未子ちゃん自身だ。


 天城は、未子ちゃん自身と接触して、未子ちゃんの記憶をたどらなかったのか? わざわざ波間さんを捜すまでもないはずなのに。

 ……未子ちゃんの記憶は、すべてを読むことができなかったとしたら?

 未子ちゃんには特別な力があるから、天城の力が及ばない領域があるのだとしたら。


 天城は、それを狙っている?


「おらあ!」

 何十発目かの蹴りを横腹に入れられて、紫藤は血を吐いた。吐き出さなければ、血が逆流して気管が詰まりそうだ。

 3人がかりで紫藤を殴りつける。交代制だ。ときどき、1人は川の水をバケツで汲みに行く。意識が飛んだ時に水を浴びせて、目覚めさせるためだ。

「刃物は禁止ね。事故で処理するんだから」

 佐伯はタバコをふかしながら、紫藤が暴行される様子を眺めている。

「そろそろ何か吐いてちょうだいよ。ダメならやっぱり、ミコに手ぇ出すしかなくなるよ?」


 ミコ。


 未子ちゃん、ごめんな。


「……くそが」

 紫藤は佐伯を睨んで言った。

「未子ちゃんに手ぇ出してみろ、絶対殺すからな」

 佐伯は思わず噴き出した。

「はあ!? どうやって。今から死ぬのに?」

「……絶対、許さねえ」


 未子ちゃんは、俺の、宝物だから。

 唯一守ってきた、大切な。


「……陽が昇るまでには帰るぞ」

 佐伯が言うと、すでに腕も脚も折られている紫藤に向けて、構成員たちは容赦ない暴力を再開した。
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