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第4話 無愛想な騎士との出会い
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風見亭での暮らしが始まってから三日。レティシアは朝から忙しく、客の朝食の支度や部屋の清掃、薪割りの手伝いまで、次から次へと働きづめだった。
それでも、疲労よりも満足感のほうが勝っていた。
手を動かしている間は、何も考えなくて済む。王都で受けた屈辱も、アランの冷たい言葉も、頭のどこか遠くに追いやれる気がした。
「お嬢さん、そっちの鍋、火が強いで!」
「わ、はい!」
マーサ女将の声に慌てて火加減を調整する。焦げた匂いが部屋に広がり、手にした木べらをぐるぐる回すと、女将が笑った。
「はは、まあ最初は誰でも失敗するもんよ。貴族のお嬢さんがこんなことまでしてくれるなんて思わなんだわ。」
「もう、お嬢さんじゃありませんよ。」
「そうかねえ。でも気品は残っとるわ。仕草が上品やもの。」
レティシアは少し恥ずかしそうに笑った。気品なんて、もう必要ない――そう思うのに、体に染みついた所作はなかなか抜けない。
昼食の準備が一段落すると、扉が開いて冷たい空気が入り込んできた。入ってきたのは、エドガーだった。
いつも通り無口で、肩には白い雪が積もっている。厚手の手袋を外すと、女将が声をかけた。
「おかえり、エドガー。巡回終わり?」
「ああ。森の北の端に狼の足跡があった。近づかん方がいい。」
「また出たのかい。ほんと物騒ねえ。」
エドガーは簡単に報告を終えると、暖炉の隅に腰を下ろし、黙ってスープの皿を受け取った。
その様子を厨房の隙間から覗いていたレティシアは、ふとその横顔に目を奪われる。
荒れた頬の傷、年齢よりやや若く見える堅い輪郭、口元の引き締まった線。
表情は冷たいのに、目だけが、どこか哀しげに見えた。
「……変な人。」
思わず小声でつぶやくと、背後でマーサ女将がくすりと笑った。
「気になるんだろ?」
「えっ……い、いえ! そんなつもりは――」
「ふふ、無理に隠さなくてもええさ。あいつ、あんなんだけど、いい人なんだよ。命を張ってこの村を守ってくれてるし、怪我人を見れば自分のもののように世話してくれる。」
レティシアは驚いた。あの無愛想な人が、そんなふうに?
ちらりと視線を戻すと、エドガーが食事を終えて立ち上がり、皿を静かに返していた。粗野でも乱暴でもなく、どこまでも整然とした動作。
それが妙に印象に残った。
その日の夕方、吹雪が強まり、宿の外に雪がうず高く積もった。そんな中、宿に旅商人がやってきた。
男はやけに調子のいい声で、「都会のお嬢さんだ」とレティシアに近づいてくる。
「お嬢さん、手がきれいだねえ。こんなとこで働いているのがもったいないくらいだ。」
「い、いえ……そんな……」
「王都の娘か? なら俺の仕入れを手伝ってくれたら、いい金になるぜ。宿なんかよりずっといい生活を――」
男の手がレティシアの手首を掴んだ瞬間、背後から重低音のような声が響いた。
「離せ。」
瞬きほどの間もなく、その手が外されていた。
エドガーが間に入り、男の腕をひねっていた。動きに無駄がなく、冷たい怒りが宿る瞳。
「お、おいおい、乱暴な真似は――」
「二度とこの宿には近づくな。次は腕じゃ済まん。」
男は顔を強張らせて一歩退き、慌てて逃げていった。残された静寂の中、レティシアは手首を押さえながら彼を見上げる。
「……ありがとうございます。」
「礼はいらん。」
「でも、もしあのままだったら――」
「自分の身くらい、自分で守れるようにしろ。」
棘のある言い方。でも、不思議と怒っているようには感じなかった。
叱るようでいて、どこか心配している気配があった。
「はい……気をつけます。」
エドガーは無言で頷くと、暖炉の方へ歩いていった。マントの裾から滴る雪解け水が床に落ち、音を立てては消えていく。
その背中を見送りながら、レティシアの胸の奥で何かがざわついた。
あの人はなぜこんな辺境にいるのだろう。彼の腕の古傷、無口の理由――何か抱えているものがあるのではないか。
そう思うと、ますます気になってしまうのだった。
夜、部屋に戻ると、窓の外に吹雪が舞っている。
レティシアは手をこすりながら、暖炉の火にあたった。温もりに触れると、少しずつ緊張がほどけていく。
けれど、頭の中に浮かぶのは、夕方見た彼の姿ばかり。
誰かを庇うような背中。あの瞬間、迷わず助けに入った反射的な優しさ。
「……不思議な人だわ。」
小声でつぶやく。
その夜はなかなか眠れず、何度も寝返りを打った。
薄暗い明け方、うとうととまどろむ彼女の耳に、不意に外の物音が聞こえた。窓越しに覗くと、雪の中で人影が動いている。
よく見ると、それはエドガーだった。
夜明け前の巡回だろう。寒風をものともせず村の外れを歩いている彼の姿がぼんやりと見える。
なぜそこまで、と思った。
辺境の村を守るというのは、命を削るような仕事だ。それでも彼は淡々と続けている。
王都の男たちが口先だけの理想を語り、責任を放り出す姿を思い出す。アランもそうだった。
目の前の冷たい雪よりも淡い笑みで、簡単に婚約を捨てた。
エドガーは違う。
彼の言葉は冷たいが、行動が真実だ。
その違いが、レティシアの心に深く刻まれた。
翌朝。吹雪は止み、村には厚く積もった雪が光を反射していた。
宿の前の道を掃くと、子供たちが雪玉を投げ合って遊んでいる。
その傍らに、エドガーの姿があった。手を貸すでもなく、ただ静かに見守っている。
子供が転びかけると、さりげなく手を伸ばし、支えてやる姿が見えた。
「まるで父親みたいね……」
レティシアがぽつりとこぼすと、隣のマーサが笑った。
「そうだろ? エドガーはあんなんでも、面倒見がいいのさ。前に孤児を拾って育てたこともあるんだ。」
「そうなんですか?」
「うん。けどな、その子は病で亡くなって……それから、あいつはますます無口になったんだよ。」
レティシアの胸が締めつけられた。
だからあんな目をしていたのか。誰かを守れなかった痛みを、ずっと抱えている人の目。
彼の心には、癒されない傷があるのだ。
その日の終わり、レティシアは炊事を終えて外に出た。夜の空には星がきらめき、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
ふと視線を横に向けると、雪の上で焚火を見つめているエドガーの姿があった。
「寒くないんですか?」
声をかけると、エドガーは驚いたようにこちらを見る。
「お前か。」
「はい。星が綺麗だったので、少しだけ。」
そう言って彼の隣に並ぶ。二人の間に沈黙が落ちた。音は火のはぜる音だけ。
「王都にいたと言ってたな。」
「ええ。もう戻るつもりはありませんけれど。」
「それほどまでに嫌な場所だったのか。」
「そうですね。嘘と裏切りと、見せかけの笑顔しかなかった場所です。」
エドガーは黙って空を見上げた。
「……あんたには、強さがある。」
「え?」
「逃げてきたんじゃない。生きるために進んだ目をしている。」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。誰かが初めて認めてくれたような気がして、涙が滲みそうになる。
「ありがとう……ございます。」
小さな声でそう言うと、エドガーは目を逸らして立ち上がった。
「風邪をひく。早く寝ろ。」
背を向けて歩き出す彼を見送る。無愛想でぶっきらぼうな彼の優しさが、胸の奥で静かに沁みていく。
その夜、レティシアはようやく気づいていた。
傷を抱えているのは自分だけではないのだと。
ここでの出会いが、いつか彼女の生きる理由に変わっていくことを、まだ知らぬまま。
続く
それでも、疲労よりも満足感のほうが勝っていた。
手を動かしている間は、何も考えなくて済む。王都で受けた屈辱も、アランの冷たい言葉も、頭のどこか遠くに追いやれる気がした。
「お嬢さん、そっちの鍋、火が強いで!」
「わ、はい!」
マーサ女将の声に慌てて火加減を調整する。焦げた匂いが部屋に広がり、手にした木べらをぐるぐる回すと、女将が笑った。
「はは、まあ最初は誰でも失敗するもんよ。貴族のお嬢さんがこんなことまでしてくれるなんて思わなんだわ。」
「もう、お嬢さんじゃありませんよ。」
「そうかねえ。でも気品は残っとるわ。仕草が上品やもの。」
レティシアは少し恥ずかしそうに笑った。気品なんて、もう必要ない――そう思うのに、体に染みついた所作はなかなか抜けない。
昼食の準備が一段落すると、扉が開いて冷たい空気が入り込んできた。入ってきたのは、エドガーだった。
いつも通り無口で、肩には白い雪が積もっている。厚手の手袋を外すと、女将が声をかけた。
「おかえり、エドガー。巡回終わり?」
「ああ。森の北の端に狼の足跡があった。近づかん方がいい。」
「また出たのかい。ほんと物騒ねえ。」
エドガーは簡単に報告を終えると、暖炉の隅に腰を下ろし、黙ってスープの皿を受け取った。
その様子を厨房の隙間から覗いていたレティシアは、ふとその横顔に目を奪われる。
荒れた頬の傷、年齢よりやや若く見える堅い輪郭、口元の引き締まった線。
表情は冷たいのに、目だけが、どこか哀しげに見えた。
「……変な人。」
思わず小声でつぶやくと、背後でマーサ女将がくすりと笑った。
「気になるんだろ?」
「えっ……い、いえ! そんなつもりは――」
「ふふ、無理に隠さなくてもええさ。あいつ、あんなんだけど、いい人なんだよ。命を張ってこの村を守ってくれてるし、怪我人を見れば自分のもののように世話してくれる。」
レティシアは驚いた。あの無愛想な人が、そんなふうに?
ちらりと視線を戻すと、エドガーが食事を終えて立ち上がり、皿を静かに返していた。粗野でも乱暴でもなく、どこまでも整然とした動作。
それが妙に印象に残った。
その日の夕方、吹雪が強まり、宿の外に雪がうず高く積もった。そんな中、宿に旅商人がやってきた。
男はやけに調子のいい声で、「都会のお嬢さんだ」とレティシアに近づいてくる。
「お嬢さん、手がきれいだねえ。こんなとこで働いているのがもったいないくらいだ。」
「い、いえ……そんな……」
「王都の娘か? なら俺の仕入れを手伝ってくれたら、いい金になるぜ。宿なんかよりずっといい生活を――」
男の手がレティシアの手首を掴んだ瞬間、背後から重低音のような声が響いた。
「離せ。」
瞬きほどの間もなく、その手が外されていた。
エドガーが間に入り、男の腕をひねっていた。動きに無駄がなく、冷たい怒りが宿る瞳。
「お、おいおい、乱暴な真似は――」
「二度とこの宿には近づくな。次は腕じゃ済まん。」
男は顔を強張らせて一歩退き、慌てて逃げていった。残された静寂の中、レティシアは手首を押さえながら彼を見上げる。
「……ありがとうございます。」
「礼はいらん。」
「でも、もしあのままだったら――」
「自分の身くらい、自分で守れるようにしろ。」
棘のある言い方。でも、不思議と怒っているようには感じなかった。
叱るようでいて、どこか心配している気配があった。
「はい……気をつけます。」
エドガーは無言で頷くと、暖炉の方へ歩いていった。マントの裾から滴る雪解け水が床に落ち、音を立てては消えていく。
その背中を見送りながら、レティシアの胸の奥で何かがざわついた。
あの人はなぜこんな辺境にいるのだろう。彼の腕の古傷、無口の理由――何か抱えているものがあるのではないか。
そう思うと、ますます気になってしまうのだった。
夜、部屋に戻ると、窓の外に吹雪が舞っている。
レティシアは手をこすりながら、暖炉の火にあたった。温もりに触れると、少しずつ緊張がほどけていく。
けれど、頭の中に浮かぶのは、夕方見た彼の姿ばかり。
誰かを庇うような背中。あの瞬間、迷わず助けに入った反射的な優しさ。
「……不思議な人だわ。」
小声でつぶやく。
その夜はなかなか眠れず、何度も寝返りを打った。
薄暗い明け方、うとうととまどろむ彼女の耳に、不意に外の物音が聞こえた。窓越しに覗くと、雪の中で人影が動いている。
よく見ると、それはエドガーだった。
夜明け前の巡回だろう。寒風をものともせず村の外れを歩いている彼の姿がぼんやりと見える。
なぜそこまで、と思った。
辺境の村を守るというのは、命を削るような仕事だ。それでも彼は淡々と続けている。
王都の男たちが口先だけの理想を語り、責任を放り出す姿を思い出す。アランもそうだった。
目の前の冷たい雪よりも淡い笑みで、簡単に婚約を捨てた。
エドガーは違う。
彼の言葉は冷たいが、行動が真実だ。
その違いが、レティシアの心に深く刻まれた。
翌朝。吹雪は止み、村には厚く積もった雪が光を反射していた。
宿の前の道を掃くと、子供たちが雪玉を投げ合って遊んでいる。
その傍らに、エドガーの姿があった。手を貸すでもなく、ただ静かに見守っている。
子供が転びかけると、さりげなく手を伸ばし、支えてやる姿が見えた。
「まるで父親みたいね……」
レティシアがぽつりとこぼすと、隣のマーサが笑った。
「そうだろ? エドガーはあんなんでも、面倒見がいいのさ。前に孤児を拾って育てたこともあるんだ。」
「そうなんですか?」
「うん。けどな、その子は病で亡くなって……それから、あいつはますます無口になったんだよ。」
レティシアの胸が締めつけられた。
だからあんな目をしていたのか。誰かを守れなかった痛みを、ずっと抱えている人の目。
彼の心には、癒されない傷があるのだ。
その日の終わり、レティシアは炊事を終えて外に出た。夜の空には星がきらめき、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
ふと視線を横に向けると、雪の上で焚火を見つめているエドガーの姿があった。
「寒くないんですか?」
声をかけると、エドガーは驚いたようにこちらを見る。
「お前か。」
「はい。星が綺麗だったので、少しだけ。」
そう言って彼の隣に並ぶ。二人の間に沈黙が落ちた。音は火のはぜる音だけ。
「王都にいたと言ってたな。」
「ええ。もう戻るつもりはありませんけれど。」
「それほどまでに嫌な場所だったのか。」
「そうですね。嘘と裏切りと、見せかけの笑顔しかなかった場所です。」
エドガーは黙って空を見上げた。
「……あんたには、強さがある。」
「え?」
「逃げてきたんじゃない。生きるために進んだ目をしている。」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。誰かが初めて認めてくれたような気がして、涙が滲みそうになる。
「ありがとう……ございます。」
小さな声でそう言うと、エドガーは目を逸らして立ち上がった。
「風邪をひく。早く寝ろ。」
背を向けて歩き出す彼を見送る。無愛想でぶっきらぼうな彼の優しさが、胸の奥で静かに沁みていく。
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続く
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