元婚約者に冷たく捨てられた令嬢、辺境で出会った無愛想な騎士に溺愛される ~今さら戻ってこないでください~

usako

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第3話 辺境への旅立ち

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雪解け前の曇り空の下、レティシアはわずかな荷物を抱えて王都を離れた。  
馬車の車輪が石畳を転がる音が、彼女にとっての別れの音楽のように響く。  
アランの冷たい声も、父の怒号も、もう耳には残っていなかった。ただ、胸の奥にぽっかりと空いた穴が、風のようにひゅうひゅうと鳴いていた。

王都の門を抜けたとき、ようやく深く息を吸えるようになった。  
冷たい冬の空気が肺に染みる。けれど痛くなかった。  
ずっと息を詰めて生きてきたのだ。息苦しかった日々を思えば、これがむしろ心地よい。

「これで本当に、全部終わりね。」

そうつぶやいた声は、誰に聞かせるでもなく、あまりに静かだった。

彼女が向かうのは、王国北部――雪深く人の通りも少ない辺境ダルスト村。  
そこは、亡き祖母が若い頃に一時期暮らしたことのある村だと記録で読んだことがある。領地の端にあるため、貴族の目も届かない。誰も彼女を“伯爵令嬢”とは知らない。  
それこそが、レティシアにとって何よりの救いだった。

旅は想像以上に過酷だった。  
王都を出て一日半ほど経つと、雪が道を覆い始め、馬車の車輪は泥に取られて進みにくくなった。宿場町も人がまばらで、食堂に入っても視線が冷たい。  
見慣れない金髪の女が一人で旅をしていれば、それだけで好奇の目にさらされる。

「奥さん、こんな雪の中どこへ行かれるんです?」

「辺境の村に。……働かせてくださるところを探して。」

その答えに、宿の男は不思議そうな顔をした。  
「変わってますな」と笑われても気にしなかった。これまで“誰かの妻”や“令嬢”である以外の自分など考えたことがなかったが、今は違う。肩書きのない自分を、見つけてみたかった。

二度ほど馬車を乗り継ぎ、村が見えてきたのは三日目の午後だった。  
雪原の中にぽつりと立つ教会の尖塔が見え、煙突から炊事の煙が立ち上っている。家々は木造で、屋根には雪が重たく積もっている。  
すれ違った農夫が目礼してくれた。  
それだけで、心がじんわりと温まる。

宿を探して歩いていた時、途中で足を滑らせて転んでしまった。膝に痛みが走り、スカートの裾は泥で汚れた。  
それでも、泣きたくなかった。今さら、少しくらい汚れたくらいで何だろう。  
立ち上がろうとするが、荷物が思いのほか重く、上手く起き上がれない。

「大丈夫か?」

低く、しかし通る声が背後から響いた。  
振り向けば、黒いマントを羽織った男が立っていた。  
鋭い目をした大柄な人。雪の中でも、その存在感は強く際立っていた。

「ええ、その……ありがとうございます。」

手を差し出され、戸惑いながらも掴む。大きく温かい手だった。力を借りて立ち上がると、男は黙って荷物を拾い上げてくれた。

「村まで行くのか。」

「はい。宿を探しているんです。」

「なら、南側の道を行け。森沿いを抜けたところにある“風見亭”なら、泊めてくれるだろう。」

「あ……ありがとうございます。」

男はそれだけ言うと、踵を返して去って行った。  
雪の中を歩く背中が、やけに印象に残る。彼の背中に重ねて、遠い昔――まだ婚約していた頃のアランの後ろ姿を一瞬、思い出してしまった。  
胸の奥がちくりと痛い。慌てて首を振った。

風見亭。  
言われた通りの場所へ向かうと、丸太作りの温かそうな宿が見えてきた。扉を開けると、香ばしいスープの匂いと暖炉の火が出迎えてくれる。  
中では女将らしき中年の女性が帳簿をつけており、レティシアを見るなり目を丸くした。

「まあまあ、珍しいね。お嬢さん、一人旅かい?」

「はい。こちらで働かせていただける場所を探しているのですが……」

「ふうん。そんな綺麗な身なりなのに、奉公に? 大丈夫かい、寒いよ?」

「がんばります。」

女将はしばらく彼女を見つめていたが、やがて肩をすくめ、笑った。

「まっすぐな目をしてるね。気に入ったよ。手が足りてなかったところだし、一晩泊めてやるから明日から働いてごらん。」

「ありがとうございます……!」

部屋をあてがわれ、簡単な夕食をもらった。湯気の立つシチューが染み渡る。  
王都にいた頃は、器に盛られる料理の美しさばかり気にしていた。けれど今は違う。  
あたたかい。それだけで涙が出そうになるほど、美味しかった。

夜。外は吹雪になっていた。  
窓の外を見つめながら、レティシアは少しだけ震える肩を抱いた。  
明日からの生活が、不安よりもわくわくに近い感情を与えてくれる。新しい自分が始まるのだと思える。

「……やり直そう。ここで。」

眠る前に小さく誓ったその夜、夢の中で彼女は昔の自分を見た。  
華やかなドレス、優雅な微笑み、社交の渦の中で誰にも弱さを見せられなかった頃。  
――その幻影が消えると同時に、ふいに風が吹いた。どこからか、朝の光が射してきた。

翌朝、宿の台所で手際よく皿を洗っていると、裏口から昨日の男――あの黒いマントの人物が入ってきた。  
驚いて目を見開くと、女将がすかさず紹介する。

「あら、ちょうどよかった。エドガー、こっちは昨日雇った新入りだよ。レティシアって言うんだ。働き者で、助かってる。」

「そうか。」

短く答えるその声で、ようやく名前を知る。エドガー。  
昨日の冷たい印象通りだが、どこか誠実さを感じる声。  
レティシアは慌ててお辞儀をした。

「昨日はありがとうございました。教えていただけなければ、宿を見つけられませんでした。」

「……礼は要らん。」

ぶっきらぼうに言い、彼は長靴の雪を払って中へ入る。  
暖炉のそばに腰を下ろす背中はやはり大きく、存在感があった。女将が笑いながら言う。

「この人、無口だけど悪いやつじゃないよ。村の守り役をしててね、皆には頼りにされてるんだ。」

「守り役、ですか。」

「そう。昔は辺境騎士団のひとりだったって噂だよ。いまは村を見回って護ってる。ま、本人は何も話さないけどね。」

エドガーはその言葉に何も言わず、淡々とスープを口に運んでいた。彼の沈黙には、重く深い何かがあるように思えた。  
けれどその日の夕方、レティシアはそんな印象を塗り替える出来事を目にすることになる。

夕刻。村の少年が氷の張った川辺で転んだと騒ぎになり、皆が慌てて駆けつけた。  
川の流れに半ば沈みかけた少年を、迷わず飛び込んで救い上げたのがエドガーだった。  
濡れたまま少年を抱えて岸に上がるその姿に、村人たちは口を揃えて安堵の声を上げた。

「さすがエドガーさんだ!」

「無茶するなって言ったのに!」

エドガーは何も答えず、少年の肩を軽く叩いただけだった。  
レティシアはその様子を遠くから見つめていた。  
冷たい印象の裏に、熱く誠実な心を持つ人なのだと思った。  
そして初めて、ほんの少し――心の奥に温かい光が灯った気がした。

自分も、こうやって誰かの役に立てる人になりたい。  
そう思いながら、雪の降る空を見上げた。白い粒が頬に触れ、溶けていく。

あの日感じた絶望が、少しだけ遠くに霞んでいくようだった。  
見知らぬ地で出会った無愛想な騎士――彼との出会いが、やがて彼女の運命を変えていく。  
だがその時、レティシアはまだ知らなかった。  
この地で始まった静かな日々が、甘く激しい恋に繋がっていくことを。

続く
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