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1. 神事の始まり

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 しん。と静まり返った石畳を、僕は足音を立てずに歩く。

 ここは、僕の祖父が神主を務める通称『大弓神社おおゆみのじんじゃ』本当はもっと難しい名称で、由緒のある神社だと聞いている。
 
「はぁ。さすがに寒いな」

 白筒袖弓道衣の襟を詰めながら、僕は石畳の先にある弓道場を目指していた。この神社は名前にもあるように大きな弓が祀られていて、もうすぐ50年に一度の神事が行われる事になっている。
 神事は2月に行われるのだけど、一番の見どころは大弓を使って矢を射る場面だ。普段は神社の奥に保管されている大弓が、この神事の時にだけ人の目に映される。つまり、50年振りに人心の眼に触れるという珍しい機会で、尚且つその弓で矢を射る事でこの世の厄災を祓うと言われている。

 今はその神事の一月前で、大弓が神事の時に使える様に準備をすることになっている。
 大弓を弾くのは本当なら祖父の役目なのだけど、3年前に身体を壊してからなかなか難しい状態になってしまった。それで、神社の直系の血を引く僕、篠原 遥しのはら はるかに白羽の矢が立って。いや、これはダジャレでは無くてホントなのだけど、他に出来る人がいなくて僕が神事の大役を担うことになった。

 本来なら、僕の父さんがその役を果たせれば良かったのだけど。

 父さんは……僕が7歳の時に不慮の事故で亡くなった。突然にだ。そして、今でもその遺体すら見つかっていない……

 僕の父さんは自分の夢である職に就き、この神社を継ぐことなく遠い異国の地で大きな事故に遭った。

 空港で、次に会えるのは正月だって。大きな手で僕の頭を撫でながら言っていたのに。あの大きな手も、温かい胸も、低い声も、もう記憶の彼方に薄れてきている。あんなに忘れるもんかと思っていたけれど、あれから10年が経ってしまったから。

 だから、祖父であるお爺さんの血筋は孫の僕だけで、それ故今回の神事は僕が大役を担うことになった。



「おせーぞ! ハル!」
「おはよう。はーちゃん」

 弓道場の前に、幼馴染の一羽 啓介いちば けいすけ浜能 留美はまのう るみの二人がいた。

「おはよう。啓介、留美」

 僕は二人に向かって笑い掛けた。同い年の幼馴染、7歳の時にこの地に住み始めてからずっと僕の傍にいてくれている

「爺さんが来る前に、大弓の準備をしとかねーとな」

 僕が弓道場の鍵を開けると、ガタガタと引き戸を開けて啓介が言った。粗野な言葉遣いとは裏腹に、引き戸の扱いは丁寧で優しい。

「はーちゃん、おじーさんの調子はどう?」
「うん。この寒さだからね、本調子じゃないみたいだな。やっぱり膝に来るって言っていたよ」

 留美の問いに、僕は首を廻して答えた。膝を悪くしているお爺さんは、準備の仕上げだけを確認して貰うため、少し遅めの時間に来てもらう事にしてあった。

 神事の準備は、まず大弓の手入れから始まる。普段は特別製の箱で祀らわれているけど、準備のために弦を張らなくちゃいけない。神事以外の時でも時々は弦を張って、弓のしなりを確認している。大きな弓は弦を張るのも簡単じゃないし、何より古いものだし壊れたりなんかしたら大変だ。




 僕達三人は、神社の横にある弓道場で小さな頃から弓道を習っていた。
 元々、この辺りは昔から弓矢や剣といった武具への信仰があって、少し離れた所には劒守神社つるぎのもりじんじゃなんていうのもある。
 啓介は昔からヤンチャだったこともあって、精神鍛錬とかで習いに来ていたのだけど、僕がこっちに引っ越しして来る前からココに通っていた。まあ、2ヵ月ほど先輩って事らしい。

 ここに来た時の僕は、少し、いやかなり精神的に不安定だったらしく、なかなか環境に慣れる事が出来なかった。そこで、明るく物おじしない同い年の啓介と引き合わされて、一緒に弓道を習う事になった。まあ、先生はお爺さんだけど。

 その後、暫くしてから留美もココに通うようになって、それから10年近く弓道を続けていた。僕はゆくゆくは神社を継ぐのかなぁ。なんて思っていたから、弓道を続けることには余り疑問も持っていなかったけど。意外にも啓介も留美も同じ高校に入っても続けていた。

 幼馴染三人で、ずっとこのまま行けるのかな。なんて、ぼんやりとそう思っていた。


「よし、じゃあやろうか」

 僕は礼をして道場の中に入る。
 ココから先はすでに神様が住まう場所なので、余計な口は開かない。不浄の息を掛けない様に、口を覆う白い布を頭の後ろでキュッと結ぶ。弦を張り終えるまではずっとこのままだ。

 僕と啓介は、無言で大弓に新しい弦を張り始める。慣れた手つきではあるが、道場に張り詰める空気が弦に共鳴するかのように緊張感が漂う。そのすぐ傍で留美は姿勢を正した正座で座り、僕達に道具の受け渡しをしてくれている。この儀式は三人で行うのが決まっているらしい。



 張れた。


 ビン。っと弦を張った弓は、その存在感が一層大きく感じられる。黒くて艶のある弓が鏡の様に僕の顔を映す。

 僕が啓介と留美に向かって目配せをすると、留美が立ち上がって頭に結んでいた白布を取ってくれる。そして僕は、その場から立ち上がってほんの数メートル先の射場に向かう。


 キーンとした冷気と、早朝の静けさはココが確かに特別な場所だという事を感じさせる。明らかに空気が変わった気がした。

 ああ、確かに。そう感じさせる何かがある。


 射位で大弓を携える僕の少し後ろで、啓介と留美が片膝を立てた格好でその時を待っている。




「祓い、始めませ」



 ゆっくりと道場に入って来たお爺さんの声がした。僕達を真っ直ぐ見詰めるお爺さんの視線に、両脇にいた二人が礼をして後ろに下がった。


「はっ」


 僕は短く返事を返すと、振り返って的正面に視線を送る。そして、大弓をゆっくり構えた。

 今は矢は放たない。弦を鳴らすだけだ。

 弦を掴んで慎重に引き絞る。大弓を扱うのにはコツと力がいる。僕は背筋を伸ばして目を瞑り、ゆっくりと肩から腕に力を流す。

 大きくしなる弓の感触に、目を閉じたまま祈る。



 この世界の平穏を。大好きな人達の安寧を。




「ハルっ!?」
「はーちゃん!」


 静寂を打ち破るような二人の呼びかけに、思わず目を開いた。

 それと同時に、ビィイイン!! と、大きく弦が僕の指から放たれた。


 光だ。足元から湧き上がる光。
 そして、弾かれた音と共に揺らぎながら広がる……さざ波の水面みたいな気の流れ。
 僕を中心にさざ波が拡がって、眩い光が足元から吹き上がるように僕を包む。

「遥っ!?」

 大きな声に呼ばれて振り返った僕の目には、不自由になった足を庇う事無く身を乗り出し、必死に手を伸ばすお爺さんが見えた。



『お爺さん!』

 声にならない声が喉を詰まらせた。



 そして、眩い光に包まれながら、僕が最後に見たのは……駆け寄ろうとする啓介と留美の姿だった。




 




 
 
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