6 / 25
『共食い』の呪詛(前編)
しおりを挟む
マスターたちとの共闘を命じられたとき、面倒だな、と思った。
――彼らは、強い。
ギルよりも遙かに多くの実戦経験を積み、さまざまな呪詛に対応してきた彼らは、おそらくそれぞれ単独であっても、大災害級の呪詛でも問題なく破却できる。
それはつまり、彼らとともに戦う限り、ギルが呪詛との戦闘中に死ねる可能性が著しく低くなる、ということだ。
(土使いの護衛魔導兵士は、自分自身がマスターじゃないだけに、魔導武器や攻撃魔術をガンガン使ってくるらしいし……。もしかしたら、このふたりより厄介かもな)
しかし、組織の方針がそのように定まってしまったのであれば、一構成員であるギルには黙って従う以外の道はない。
大変多忙だというキャロラインに、「では、ここからは若者同士で」という言葉とともに執務室から追い出されたギルは、ユージィンとレオナルドを見上げて口を開く。
「合同訓練は、いつからできる?」
命じられた以上、面倒ごとはさっさと済ませてしまいたいのだ。
そう考えたギルの問いかけに、ふたりは一度目を見合わせたあと、揃って深々と息を吐いた。
風使いのレオナルドが、見事な白銀の髪をガシガシと掻く。
「あー……。その、なんだ。合同訓練をするのはいいんだが、その前にいくつか質問してもいいか?」
「構わない」
知らないことは、答えられない。
そのため、ギルがレノックス伯爵家から与えられている情報は、世間の誰もが知っているようなことばかりである。
……いや、伯爵家の嫡男が、未成年の少女に発情するような変態だということは、あまり知られていないかもしれないが。
ともあれ、レオナルドが何を聞きたいのかは知らないけれど、こちらに隠さねばならないようなことなどない。強いて言うなら、ギルが女性であることだけは、何があっても隠し通せ、と命じられているくらいだ。
そうか、と頷いたレオナルドが、アイオライトのような瞳でまっすぐに見つめてくる。
「おまえ、メシはちゃんと食ってるか?」
(……は?)
想定外の質問に、一瞬戸惑う。
「食べている」
なんだその質問は、と内心首を傾げつつ答えたが、レオナルドは納得できないという顔で眉をひそめた。
「そうか。今朝は、何を食ってきた?」
「戦闘糧食」
人間が生きていくために必要な栄養がすべて入っているビスケットタイプの戦闘糧食には、最近はフルーツやチョコレート、紅茶にカフェオレなどさまざまなフレーバーがあるのだ。
以前は味もなくパサパサとして、水がなければとても飲み込めない代物だったことを思うと、技術の進歩とは素晴らしいものだと思う。
しかし、なぜかレオナルドとユージィンの顔が揃って引きつった。
レオナルドの声が、一段低くなる。
「……おまえな。戦闘糧食は、メシとは言わねェんだよ。寝坊でもしたのか?」
「していない」
今朝もちゃんと定時に起きて、指定された時間に合わせて本部入りした。
眉間を軽く揉んだユージィンが、呆れた顔で見つめてくる。
「あのなあ、ギル。おまえ、言葉が足りなさすぎるわ。……まあ、いきなりどうにかしろとは言わねーけどさ。もうちょい、言葉のキャッチボールをちゃんとしような?」
聞かれたことには答えているのに、何がいけないのだろうか。
面倒だな、と思っていると、レオナルドが睨みつけてきた。
「おまえ、今面倒くせえって思っただろ」
なぜわかった。
ひとつ息を吐いたレオナルドが、改めて問うてくる。
「寝坊したわけでもねェのに、なんで朝っぱらから戦闘糧食なんて食ってきたんだ?」
「それの何が問題なのか、理解できない。食事は、呪詛との戦闘行動に耐えうる肉体を維持するための作業だろう。おれは、きちんとその義務をまっとうしている」
がんばって長めに返したギルの答えに、ふたりは一瞬ものすごく複雑な表情を浮かべたかと思うと、再び揃って深々と息を吐いた。
ユージィンが、ぼそぼそと低い声でぼやく。
「えー……。マジかよ。レノックス伯爵家、何やってんだ。コイツには戦闘訓練より、食生活の改善のほうを先にやんなきゃダメだろうよ……」
「まさか、自分たちの手に負えなかったからって、こっちに丸投げしたわけじゃねェだろうな……」
彼らはいったい何を言っているのだろう、と思ったとき、本部建物全域にけたたましいベルの音が響き渡った。
どこかで、危険度の高い呪詛が発現したのだ。
ベルの音がやむなり、キャロラインの声がわずかな緊張を孕んで状況を説明する。
『傾注。北のルドミラ王国より、緊急支援要請。王都アレンカにて、大規模な呪詛が発動。報告された状況から、『共食い』の呪詛、もしくはそれに類したもの思われる。市街戦となるため、炎使いは本部で待機。風使い、水使いは、直ちに現場へ急行せよ』
『共食い』の呪詛――たしか、その影響を受けた人々は、人肉が唯一の食料に見えるようになる、というものだったか。
発動初期で核を破壊できればさほどの被害は出ないものだが、人々が通常の食べ物を口にできなくなり、身近な他人に食欲を覚えるようになると、その時点で発狂しはじめる者もいるらしい。
ただ、自然魔力に親和性のある者は、呪詛に対する高い耐性がある。そのため、警戒に当たる魔導兵士たちが、呪詛の発動に気付くのが遅れるのは珍しいことではない。
呪詛対策機関を通じて、マスターへの緊急支援要請が来たということは、すでにかなりよくない状況なのだろう。
そんなことを考えながら風使いを見上げると、彼は横目でこちらを見ながら通信魔導具に向けて口を開いた。
「こちら、風使い。命令を受諾。これより水使いとともに、ルドミラ王国王都アレンカへ向かう。――行くぞ、水使い」
そう言うなり手近な窓を開けたレオナルドの体が、ふわりと浮く。
直後、柔らかな風に巻かれた自分の体が浮くのを感じた。はじめての感覚に、ギルは一瞬、体を強張らせる。
この世界で風使いのみに許された『空を飛ぶ』という経験を、まさか呪詛討伐のぶっつけ本番ですることになるとは思わなかった。
(……まあ、風使いがうっかり上空から落としてくれたら、それはそれで死に方としてはいいかもしれないな)
何しろ、完全な不可抗力だ。
滅多にできない経験でもあることだし、ここはありがたく世話になろうと思っていると、ユージィンが驚きの声を上げる。
「えー、この状況でも無表情をキープしちゃうの? おまえ、どんな肝っ玉してんのさ?」
「ビビって暴れられるよりは、全然マシだけどな。まあいい、とにかく行ってくる」
気をつけてなー、と手を振るユージィンの姿は、あっという間に見えなくなった。
通常では考えられない速度で、景色が背後へ飛んでいく。
少し気まずそうなレオナルドの声が聞こえてきた。
「あー……。水使い。今更だけど、怖かったら目ェ瞑ってろよ?」
「問題ない」
こうして通信魔導具に頼らず会話ができているのも、風の魔術によるものなのだろうか。
音と風は、空気の振動という点で同じものだとどこかで聞いた。
風の壁で完璧に守られているためか、たしかに上空を高速で移動しているはずなのに、まるで現実感がない。
すごいものだな、と思っていると、レオナルドが再び話しかけてきた。
「なあ。さっきの話だけど。おまえ、普段から戦闘糧食ばっかり食ってんのか?」
「ああ」
レノックス伯爵家の奴隷となった日から、ギルがそれ以外のものを口にしたことはない。
「なんでだ?」
「効率がいい」
効率、とレオナルドが復唱する。
鋭い舌打ちが聞こえてきた。
「レノックス伯爵領の孤児院、どうなってんだよ。今時、孤児院のメシが戦闘糧食オンリーなんて、ありえねェだろ」
(孤児院? ……ああ、そういえばそういう設定だったな)
レノックス伯爵領の孤児院経営に詳しいわけではないけれど、おそらくそこで出されている食事はごく一般的なものであるはずだ。
自分のせいで、罪のない孤児院経営者がおかしな誤解を受けてしまったようで、申し訳ない。
レオナルドが、忌々しげな声で言う。
「あのなあ、水使い。メシってのは、普通は楽しいモンなんだよ。美味いもん食ったら、それだけでその日あったいやなこととか忘れられたりするしな」
だから、と彼はちらりとギルを見た。
「おまえも、今日からちゃんとしたメシを食え。いいな?」
「断る」
「アァン!?」
レオナルドの額に、青筋が浮く。
いったい、何を怒っているのだろう。
「なんでだよ!」
「おれはここ数年、戦闘糧食と水以外のものを摂取していない。いきなり通常食を口にしたら、おそらくすべて吐いて使い物にならなくなる」
単なる事実を説明すれば、レオナルドがハッとした顔になる。
「……そっか。すまない、配慮が足りなかった」
ギルは、驚いた。
「貴族が、謝った……?」
思わず零した呟きに、レオナルドが勢いよく振り返る。
「そこに驚くのかよ!?」
「貴族は、平民には謝らないものだと思っていた」
「どこの常識だよ! 相手が貴族だろうと平民だろうと、悪いと思ったら普通に謝るわ!」
ぎゃあ、と喚くレオナルドは、どうやら本心からそう思っているようだ。
「それは、すごいな」
「いや、だから別にすごくねェし。……つーか、レノックス伯爵家の連中って、領民に対してそんな態度なのか? やべェな、引くわ」
これくらいで引いているようでは、もし彼がレノックス伯爵家のギルに対する扱いを知ったなら、卒倒してしまうのではないだろうか。
(……なるほど。今まで貴族というとレノックス伯爵家の連中しか知らなかったけど、世の中にはこういうまっとうな感覚を持った貴族もいるんだな)
もっとも、戦闘職に就いているせいか口調も仕草も荒々しいレオナルドが、一般的な貴族とはかけ離れた人物であることは間違いあるまい。
とはいえ、少なくともレオナルド個人が、レノックス伯爵家の人々とはまったく違う種類の人間だということは理解した。
もし――もし、彼のような貴族が治める土地に生まれることができたなら、自分は今もセシリアとして生きていられたのだろうか。
水使いとして戦う人生からは逃れられなくても、姉と離ればなれにされることもなく、髪も切られることなく長いまま、十五歳の少女として幸せに――。
「おまえ、さ。なんで、レノックス伯爵の養子になったんだ?」
その問いかけに、とうに痛むことなど忘れたはずの胸が、ずくりと疼いた。
「……断れなかった」
あの状況で、世間知らずの姉妹に己の要求を呑ませることなど、海千山千のレノックス伯爵にとっては、赤子の手をひねるよりも容易いことだったのだろう。
たとえ両親が生きていたとしても、結果は同じだったかもしれない。
「はあ!? なんだそりゃ、無理矢理養子にさせられたってことか!?」
レオナルドが、素っ頓狂な声を上げる。
なんだろう。腹の底が熱くなって、ひどく苛つく。
「うるさい。おまえには、関係ない。身寄りのない孤児が、領主の要請に抗えると思うのか?」
「いや、そりゃあそうかもしれねェけど……っ」
彼の慌てた、裏のない表情を見て、この焼けつくような苛立ちの理由を理解する。
本当に、腹立たしい。
なぜ、こんなにもまっとうな貴族がこの国にはいるというのに、自分たちはよりによってレノックス伯爵領などに生まれてしまったのか。
……こんな男になど、会いたくなかった。知りたくなかった。考えたくなかった。
何かがほんの少し違っただけで、もしかしたら今とはまるで違う人生を送れていたのかもしれない。
そんな意味のない仮定になんて、気付きたくなかった。
こちらの拒絶を感じ取っているのか、レオナルドが居心地悪そうに声を掛けてくる。
「あー……。あのな? ギル。もしおまえが本当にいやなら、養子縁組なんていつでも解消できるんだぞ」
「そうか」
できない。そんなことは。
姉があの土地に住んでいる限り、ギルがレノックス伯爵家に抗うことは許されない。
だから、そんなことを言うな。
どれほど望んでも叶わない希望など、見せつけるな。
(……痛い)
こんな胸の痛みなど、思い出させないでほしいのに。
「オレも、ユージィンも、司令もだ。おまえが何か困ることがあったら、いつでも手を貸す。だからあんまり、ひとりで抱えこむなよ」
「ああ」
本当に、やめてほしい。
胸が苦しくて、息がうまくできなくなりそうだ。
――彼らは、強い。
ギルよりも遙かに多くの実戦経験を積み、さまざまな呪詛に対応してきた彼らは、おそらくそれぞれ単独であっても、大災害級の呪詛でも問題なく破却できる。
それはつまり、彼らとともに戦う限り、ギルが呪詛との戦闘中に死ねる可能性が著しく低くなる、ということだ。
(土使いの護衛魔導兵士は、自分自身がマスターじゃないだけに、魔導武器や攻撃魔術をガンガン使ってくるらしいし……。もしかしたら、このふたりより厄介かもな)
しかし、組織の方針がそのように定まってしまったのであれば、一構成員であるギルには黙って従う以外の道はない。
大変多忙だというキャロラインに、「では、ここからは若者同士で」という言葉とともに執務室から追い出されたギルは、ユージィンとレオナルドを見上げて口を開く。
「合同訓練は、いつからできる?」
命じられた以上、面倒ごとはさっさと済ませてしまいたいのだ。
そう考えたギルの問いかけに、ふたりは一度目を見合わせたあと、揃って深々と息を吐いた。
風使いのレオナルドが、見事な白銀の髪をガシガシと掻く。
「あー……。その、なんだ。合同訓練をするのはいいんだが、その前にいくつか質問してもいいか?」
「構わない」
知らないことは、答えられない。
そのため、ギルがレノックス伯爵家から与えられている情報は、世間の誰もが知っているようなことばかりである。
……いや、伯爵家の嫡男が、未成年の少女に発情するような変態だということは、あまり知られていないかもしれないが。
ともあれ、レオナルドが何を聞きたいのかは知らないけれど、こちらに隠さねばならないようなことなどない。強いて言うなら、ギルが女性であることだけは、何があっても隠し通せ、と命じられているくらいだ。
そうか、と頷いたレオナルドが、アイオライトのような瞳でまっすぐに見つめてくる。
「おまえ、メシはちゃんと食ってるか?」
(……は?)
想定外の質問に、一瞬戸惑う。
「食べている」
なんだその質問は、と内心首を傾げつつ答えたが、レオナルドは納得できないという顔で眉をひそめた。
「そうか。今朝は、何を食ってきた?」
「戦闘糧食」
人間が生きていくために必要な栄養がすべて入っているビスケットタイプの戦闘糧食には、最近はフルーツやチョコレート、紅茶にカフェオレなどさまざまなフレーバーがあるのだ。
以前は味もなくパサパサとして、水がなければとても飲み込めない代物だったことを思うと、技術の進歩とは素晴らしいものだと思う。
しかし、なぜかレオナルドとユージィンの顔が揃って引きつった。
レオナルドの声が、一段低くなる。
「……おまえな。戦闘糧食は、メシとは言わねェんだよ。寝坊でもしたのか?」
「していない」
今朝もちゃんと定時に起きて、指定された時間に合わせて本部入りした。
眉間を軽く揉んだユージィンが、呆れた顔で見つめてくる。
「あのなあ、ギル。おまえ、言葉が足りなさすぎるわ。……まあ、いきなりどうにかしろとは言わねーけどさ。もうちょい、言葉のキャッチボールをちゃんとしような?」
聞かれたことには答えているのに、何がいけないのだろうか。
面倒だな、と思っていると、レオナルドが睨みつけてきた。
「おまえ、今面倒くせえって思っただろ」
なぜわかった。
ひとつ息を吐いたレオナルドが、改めて問うてくる。
「寝坊したわけでもねェのに、なんで朝っぱらから戦闘糧食なんて食ってきたんだ?」
「それの何が問題なのか、理解できない。食事は、呪詛との戦闘行動に耐えうる肉体を維持するための作業だろう。おれは、きちんとその義務をまっとうしている」
がんばって長めに返したギルの答えに、ふたりは一瞬ものすごく複雑な表情を浮かべたかと思うと、再び揃って深々と息を吐いた。
ユージィンが、ぼそぼそと低い声でぼやく。
「えー……。マジかよ。レノックス伯爵家、何やってんだ。コイツには戦闘訓練より、食生活の改善のほうを先にやんなきゃダメだろうよ……」
「まさか、自分たちの手に負えなかったからって、こっちに丸投げしたわけじゃねェだろうな……」
彼らはいったい何を言っているのだろう、と思ったとき、本部建物全域にけたたましいベルの音が響き渡った。
どこかで、危険度の高い呪詛が発現したのだ。
ベルの音がやむなり、キャロラインの声がわずかな緊張を孕んで状況を説明する。
『傾注。北のルドミラ王国より、緊急支援要請。王都アレンカにて、大規模な呪詛が発動。報告された状況から、『共食い』の呪詛、もしくはそれに類したもの思われる。市街戦となるため、炎使いは本部で待機。風使い、水使いは、直ちに現場へ急行せよ』
『共食い』の呪詛――たしか、その影響を受けた人々は、人肉が唯一の食料に見えるようになる、というものだったか。
発動初期で核を破壊できればさほどの被害は出ないものだが、人々が通常の食べ物を口にできなくなり、身近な他人に食欲を覚えるようになると、その時点で発狂しはじめる者もいるらしい。
ただ、自然魔力に親和性のある者は、呪詛に対する高い耐性がある。そのため、警戒に当たる魔導兵士たちが、呪詛の発動に気付くのが遅れるのは珍しいことではない。
呪詛対策機関を通じて、マスターへの緊急支援要請が来たということは、すでにかなりよくない状況なのだろう。
そんなことを考えながら風使いを見上げると、彼は横目でこちらを見ながら通信魔導具に向けて口を開いた。
「こちら、風使い。命令を受諾。これより水使いとともに、ルドミラ王国王都アレンカへ向かう。――行くぞ、水使い」
そう言うなり手近な窓を開けたレオナルドの体が、ふわりと浮く。
直後、柔らかな風に巻かれた自分の体が浮くのを感じた。はじめての感覚に、ギルは一瞬、体を強張らせる。
この世界で風使いのみに許された『空を飛ぶ』という経験を、まさか呪詛討伐のぶっつけ本番ですることになるとは思わなかった。
(……まあ、風使いがうっかり上空から落としてくれたら、それはそれで死に方としてはいいかもしれないな)
何しろ、完全な不可抗力だ。
滅多にできない経験でもあることだし、ここはありがたく世話になろうと思っていると、ユージィンが驚きの声を上げる。
「えー、この状況でも無表情をキープしちゃうの? おまえ、どんな肝っ玉してんのさ?」
「ビビって暴れられるよりは、全然マシだけどな。まあいい、とにかく行ってくる」
気をつけてなー、と手を振るユージィンの姿は、あっという間に見えなくなった。
通常では考えられない速度で、景色が背後へ飛んでいく。
少し気まずそうなレオナルドの声が聞こえてきた。
「あー……。水使い。今更だけど、怖かったら目ェ瞑ってろよ?」
「問題ない」
こうして通信魔導具に頼らず会話ができているのも、風の魔術によるものなのだろうか。
音と風は、空気の振動という点で同じものだとどこかで聞いた。
風の壁で完璧に守られているためか、たしかに上空を高速で移動しているはずなのに、まるで現実感がない。
すごいものだな、と思っていると、レオナルドが再び話しかけてきた。
「なあ。さっきの話だけど。おまえ、普段から戦闘糧食ばっかり食ってんのか?」
「ああ」
レノックス伯爵家の奴隷となった日から、ギルがそれ以外のものを口にしたことはない。
「なんでだ?」
「効率がいい」
効率、とレオナルドが復唱する。
鋭い舌打ちが聞こえてきた。
「レノックス伯爵領の孤児院、どうなってんだよ。今時、孤児院のメシが戦闘糧食オンリーなんて、ありえねェだろ」
(孤児院? ……ああ、そういえばそういう設定だったな)
レノックス伯爵領の孤児院経営に詳しいわけではないけれど、おそらくそこで出されている食事はごく一般的なものであるはずだ。
自分のせいで、罪のない孤児院経営者がおかしな誤解を受けてしまったようで、申し訳ない。
レオナルドが、忌々しげな声で言う。
「あのなあ、水使い。メシってのは、普通は楽しいモンなんだよ。美味いもん食ったら、それだけでその日あったいやなこととか忘れられたりするしな」
だから、と彼はちらりとギルを見た。
「おまえも、今日からちゃんとしたメシを食え。いいな?」
「断る」
「アァン!?」
レオナルドの額に、青筋が浮く。
いったい、何を怒っているのだろう。
「なんでだよ!」
「おれはここ数年、戦闘糧食と水以外のものを摂取していない。いきなり通常食を口にしたら、おそらくすべて吐いて使い物にならなくなる」
単なる事実を説明すれば、レオナルドがハッとした顔になる。
「……そっか。すまない、配慮が足りなかった」
ギルは、驚いた。
「貴族が、謝った……?」
思わず零した呟きに、レオナルドが勢いよく振り返る。
「そこに驚くのかよ!?」
「貴族は、平民には謝らないものだと思っていた」
「どこの常識だよ! 相手が貴族だろうと平民だろうと、悪いと思ったら普通に謝るわ!」
ぎゃあ、と喚くレオナルドは、どうやら本心からそう思っているようだ。
「それは、すごいな」
「いや、だから別にすごくねェし。……つーか、レノックス伯爵家の連中って、領民に対してそんな態度なのか? やべェな、引くわ」
これくらいで引いているようでは、もし彼がレノックス伯爵家のギルに対する扱いを知ったなら、卒倒してしまうのではないだろうか。
(……なるほど。今まで貴族というとレノックス伯爵家の連中しか知らなかったけど、世の中にはこういうまっとうな感覚を持った貴族もいるんだな)
もっとも、戦闘職に就いているせいか口調も仕草も荒々しいレオナルドが、一般的な貴族とはかけ離れた人物であることは間違いあるまい。
とはいえ、少なくともレオナルド個人が、レノックス伯爵家の人々とはまったく違う種類の人間だということは理解した。
もし――もし、彼のような貴族が治める土地に生まれることができたなら、自分は今もセシリアとして生きていられたのだろうか。
水使いとして戦う人生からは逃れられなくても、姉と離ればなれにされることもなく、髪も切られることなく長いまま、十五歳の少女として幸せに――。
「おまえ、さ。なんで、レノックス伯爵の養子になったんだ?」
その問いかけに、とうに痛むことなど忘れたはずの胸が、ずくりと疼いた。
「……断れなかった」
あの状況で、世間知らずの姉妹に己の要求を呑ませることなど、海千山千のレノックス伯爵にとっては、赤子の手をひねるよりも容易いことだったのだろう。
たとえ両親が生きていたとしても、結果は同じだったかもしれない。
「はあ!? なんだそりゃ、無理矢理養子にさせられたってことか!?」
レオナルドが、素っ頓狂な声を上げる。
なんだろう。腹の底が熱くなって、ひどく苛つく。
「うるさい。おまえには、関係ない。身寄りのない孤児が、領主の要請に抗えると思うのか?」
「いや、そりゃあそうかもしれねェけど……っ」
彼の慌てた、裏のない表情を見て、この焼けつくような苛立ちの理由を理解する。
本当に、腹立たしい。
なぜ、こんなにもまっとうな貴族がこの国にはいるというのに、自分たちはよりによってレノックス伯爵領などに生まれてしまったのか。
……こんな男になど、会いたくなかった。知りたくなかった。考えたくなかった。
何かがほんの少し違っただけで、もしかしたら今とはまるで違う人生を送れていたのかもしれない。
そんな意味のない仮定になんて、気付きたくなかった。
こちらの拒絶を感じ取っているのか、レオナルドが居心地悪そうに声を掛けてくる。
「あー……。あのな? ギル。もしおまえが本当にいやなら、養子縁組なんていつでも解消できるんだぞ」
「そうか」
できない。そんなことは。
姉があの土地に住んでいる限り、ギルがレノックス伯爵家に抗うことは許されない。
だから、そんなことを言うな。
どれほど望んでも叶わない希望など、見せつけるな。
(……痛い)
こんな胸の痛みなど、思い出させないでほしいのに。
「オレも、ユージィンも、司令もだ。おまえが何か困ることがあったら、いつでも手を貸す。だからあんまり、ひとりで抱えこむなよ」
「ああ」
本当に、やめてほしい。
胸が苦しくて、息がうまくできなくなりそうだ。
35
あなたにおすすめの小説
【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~
ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。
王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。
15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。
国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。
これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。
処刑された勇者は二度目の人生で復讐を選ぶ
シロタカズキ
ファンタジー
──勇者は、すべてを裏切られ、処刑された。
だが、彼の魂は復讐の炎と共に蘇る──。
かつて魔王を討ち、人類を救った勇者 レオン・アルヴァレス。
だが、彼を待っていたのは称賛ではなく、 王族・貴族・元仲間たちによる裏切りと処刑だった。
「力が強すぎる」という理由で異端者として断罪され、広場で公開処刑されるレオン。
国民は歓喜し、王は満足げに笑い、かつての仲間たちは目を背ける。
そして、勇者は 死んだ。
──はずだった。
十年後。
王国は繁栄の影で腐敗し、裏切り者たちは安穏とした日々を送っていた。
しかし、そんな彼らの前に死んだはずの勇者が現れる。
「よくもまあ、のうのうと生きていられたものだな」
これは、英雄ではなくなった男の復讐譚。
彼を裏切った王族、貴族、そしてかつての仲間たちを絶望の淵に叩き落とすための第二の人生が、いま始まる──。
おとぎ話は終わらない
灯乃
ファンタジー
旧題:おとぎ話の、その後で
母を亡くし、天涯孤独となったヴィクトリア。職を求めて皇都にやってきた彼女は、基準値に届く魔力さえあれば「三食寮費すべてタダ」という条件に飛びつき、男だらけの学院、通称『楽園』に入学した。目立たないように髪を切り、眼鏡をかけて。そんな行き当たりばったりで脳天気かつマイペースなヴィクトリアは、お約束通りの「眼鏡を外したら美少女」です。男の園育ちの少年たちが、そんな彼女に翻弄されたりされなかったりしますが、逆ハーにはなりません。アルファポリスさまから書籍化していただきました。それに伴い、書籍化該当部分をヒーロー視点で書き直したものに置き換えています。
戦場の英雄、上官の陰謀により死亡扱いにされ、故郷に帰ると許嫁は結婚していた。絶望の中、偶然助けた許嫁の娘に何故か求婚されることに
千石
ファンタジー
「絶対生きて帰ってくる。その時は結婚しよう」
「はい。あなたの帰りをいつまでも待ってます」
許嫁と涙ながらに約束をした20年後、英雄と呼ばれるまでになったルークだったが生還してみると死亡扱いにされていた。
許嫁は既に結婚しており、ルークは絶望の只中に。
上官の陰謀だと知ったルークは激怒し、殴ってしまう。
言い訳をする気もなかったため、全ての功績を抹消され、貰えるはずだった年金もパー。
絶望の中、偶然助けた子が許嫁の娘で、
「ルーク、あなたに惚れたわ。今すぐあたしと結婚しなさい!」
何故か求婚されることに。
困りながらも巻き込まれる騒動を通じて
ルークは失っていた日常を段々と取り戻していく。
こちらは他のウェブ小説にも投稿しております。
男女比がおかしい世界の貴族に転生してしまった件
美鈴
ファンタジー
転生したのは男性が少ない世界!?貴族に生まれたのはいいけど、どういう風に生きていこう…?
最新章の第五章も夕方18時に更新予定です!
☆の話は苦手な人は飛ばしても問題無い様に物語を紡いでおります。
※ホットランキング1位、ファンタジーランキング3位ありがとうございます!
※カクヨム様にも投稿しております。内容が大幅に異なり改稿しております。
※各種ランキング1位を頂いた事がある作品です!
義妹がピンク色の髪をしています
ゆーぞー
ファンタジー
彼女を見て思い出した。私には前世の記憶がある。そしてピンク色の髪の少女が妹としてやって来た。ヤバい、うちは男爵。でも貧乏だから王族も通うような学校には行けないよね。
王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません
きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」
「正直なところ、不安を感じている」
久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー
激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。
アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。
第2幕、連載開始しました!
お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。
以下、1章のあらすじです。
アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。
表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。
常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。
それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。
サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。
しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。
盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。
アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる