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1巻
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クリステルの頬を、ウォルターがそっと撫でる。
不安げにこちらを見る彼の瞳に、先ほどまでのぼんやりと緩んだ感じはない。
もう、いつもの彼だ。
やはり、ウォルターがおかしかったのはなんらかの魔術の影響下にあったかららしい。
ほっとしたクリステルから目を離さないまま、ウォルターは気遣わしげに口を開いた。
「クリステル? 一体――」
「殿下? さっきから、何をしてるんですか? その方、どなた? 殿下のお知り合い?」
子どもっぽく無邪気な笑みを浮かべた少女が、ウォルターの言葉を遮った。彼女の周辺にいたウォルターの側近候補たちは、どこか呆けた様子でそれぞれ額に手を当てている。
王族とその婚約者の会話に割りこむという信じがたいほど無礼な少女の行為に、食堂内の空気が凍りつく。
ウォルターは冷ややかに目を細め、振り返ろうとした。その寸前、クリステルは彼の手をぎゅっと握りしめる。
彼の手に、クリステルの指輪が触れた。そこには、先ほどウォルターが発動した〈状態異常解除〉と同じ種類の術がこめられている。
一瞬、驚いたように指輪を見たウォルターは、クリステルにしっかりとうなずいてみせた。
ありがとう、と低くつぶやいたウォルターは、クリステルの手を握り返してゆっくりと口を開いた。
「マリア・ウィンスロー。非常時を除き、学園内で教師の許可なく魔術を行使することは校則で禁じられている。今すぐ、解除しろ」
「え……?」
きょとんと目を丸くしたヒロイン――マリアは、不思議そうな顔をした。
「何言ってるんですか? あたし、まだ入学したばっかりなんですよ? 魔術なんて、発動できるわけないじゃないですかー」
その答えに、ウォルターは忌々しげに舌打ちした。
「いいや、たしかに発動している。精神干渉系の魔術――〈魅了〉と〈暗示〉の構成に近いが、それを俺たちにかけていただろう。自然すぎて気持ちが悪いな。魔力の圧がまるでない。……クリステル。こんなものに、よく気がついたね」
目を細めて吐き捨てるように言ってから、ウォルターはクリステルに笑いかけた。
固唾を呑んで注目していた生徒たちが、一斉に後ずさる。
誰だって自分の精神に干渉されたくはない。
それぞれが発動しうる最上級の〈防御〉を展開する中、ウォルターの側近候補筆頭の青年が動いた。
「きゃあっ!?」
「マリア・ウィンスロー。殿下のお心を卑劣な術で支配しようとしたその罪、万死に値する。暴れるな。抵抗するなら、この場で殺す」
マリアの体を床に叩き伏せ、その腕を捻り上げて動きを封じる。
彼の名は、カークライル・フォークワース。艶やかな黒髪に鋼色の瞳を持つ、怜悧な印象の青年なのだが――
(いーやー! カークライルさま! 巨人相手に戦う人類最強キャラから、素晴らしい滑舌が必須の明るいツッコミキャラまでなんでもござれの、あのスペシャルな声優さまのお声なの!? み、耳が幸せすぎて死んでしまうわ……)
――クリステルは、あやうく再び悶絶しそうになった。
これまで受けてきた地獄のような正妃教育を思い出し、どうにか踏みとどまる。未来の夫とその臣下の前で、だらしない顔を晒すわけにはいかない。
そんなクリステルの努力を試すように、そのあと正気を取り戻したウォルターの側近候補たちが、次々と口を開く。そのたび、前世で萌えまくったアニメで聞いた美声が鼓膜を震わせ、クリステルは密かに身悶えた。
ここは天国か、それとも桃源郷か。
……彼らの声で罵倒されながら死ねるのなら、たとえ『物語』通りにすべてが進んで王太子とその側近に無実の罪で断罪されても、悔いはないかもしれない。
そんなとっちらかったことをクリステルが考えている間に、マリアは魔術の発動を封じる手枷を嵌められ、駆けつけた王国騎士たちに連行されていった。
彼女にどんな処分が下されるかはわからないが、いずれにせよ魔術の封印だけは避けられないだろう。
もう二度と、顔を合わせることもあるまい。
こうして、婚約者たちの美声に萌え萌えしているだけでクリステルが何もしない間に、婚約破棄エピソードが完全消滅してしまった。
これが結果オーライというやつか、と彼女はそっと息をつく。
そんな彼女の指先に、ウォルターが軽く唇で触れた。
「ありがとう、クリステル。きみのおかげで、本当に助かった」
(うぅ……っ)
その甘い囁き声に、クリステルの全身がぞくぞくする。
冗談抜きに命の危険を感じた。
死因、萌え死に。
さすがにそれは、恥ずかしすぎる。
全身全霊で公爵令嬢としてのプライドのすべてを懸けて、クリステルはにこりと笑った。
「ウォルターさまの一の臣下として、当然のことをしたまでですわ。まだ体調が優れないので、失礼させていただきます」
先ほどの醜態は体調不良のせいですのよ! 勘違いなさらないでくださいね! と内心でツンデレっぽいことを叫びながら、クリステルは踵を返した。
その腕を、ウォルターが思わずといったふうに掴む。
「送っていくよ」
「ありがとうございます。けれど、お気持ちだけいただきますわ。いくらウォルターさまでも、女子寮に入るには大変な手続きが必要ですもの。――あぁ、セリーナさま。申し訳ありませんが、寮まで付き添っていただけますか?」
ちょうど近くにいた友人、セリーナ・アマルフィに声をかける。セリーナはウォルターの側近候補のひとりの婚約者でもあり、クリステルと仲がいい。
彼女は、ぱっと頬を紅潮させてうなずいてくれた。
「もちろんですわ、クリステルさま! 殿下、ご安心くださいませ。クリステルさまは、わたくしが必ずやご無事にお部屋までお連れいたします」
「あ、あぁ……」
ウォルターの手が、名残惜しげに離れる。
けれど、クリステルはそれどころではなく、心からおののいていた。
(うぅっ、危険な美声青年たちからの逃亡に成功したと思いましたのに、まさか、セリーナさままで……セクシー系から清純派までどんとこいの、エクセレントな銀河の妖精ボイスだったなんて! とろけるような美少女ボイスというのは、これはこれで非常に趣のあるものでございますわね。うっかり新たな扉を開いてしまいそうです)
いつも通りのパーフェクトな『悪役令嬢』スマイルを顔に貼り付けながら、クリステルは密かに決意する。
自分の心臓のためにも、今後はウォルターたちと、安心安全な距離間を確保した上で接していこう――と。
リアル萌えは、危険だ。
今まで積み重ねてきた正妃教育の成果を、一瞬で瓦解させてしまいかねない。
ヒロインが早々に退場したにもかかわらず『悪役令嬢』クリステルは、別の意味で保身に走ることになった。
第一章 禁域のドラゴン
クリステル・ギーヴェ公爵令嬢が通う学園は、魔力持ちの人間が十五歳になると必ず入学するように定められている、国の最重要教育機関である。
ここは、剣と魔法の世界。
すなわち、人間が生きていくのに剣と魔法が必要であるということだ。
未開の土地には危険極まりない不思議生物――幻獣が多数生息している。しかし大陸のあちこちに点在している国を行き来するには、彼らの住む土地を通り抜けなければならず、常に命の危険が伴う。
国が領土を広げようと思えば、幻獣の群れを討伐し、その生息地をゲットするしかないのだ。
そのため、国家間の争いは滅多に発生しない。
その代わり、国の外にいる幻獣たちとの戦いは頻繁にあった。
クリステルも幼い頃から、幻獣討伐には何度も参加している。それが自分の義務だと疑問に思うこともなかったし、強大な幻獣を倒したときには、たしかに充実感や達成感を覚えていた。
しかし、オタク魂保持者の女子高生の感覚からすれば、どんな危険な幻獣も、殺すなんてモッタイナイ! と叫びたくなるのだ。
幻獣の多くは、その生態が明らかになっていない。
人々が彼らを討伐しまくったあとで、種の個体数を復活させたいと思っても、それは非常に困難になるだろう。
クリステルは前世で二次元に萌える立派なオタクだったが、それなりに一般常識も持ち合わせていた。
ドードー鳥しかり、リョコウバトしかり。人間が絶滅させてしまった動植物は、数限りない。
そんな記憶を踏まえて考えてみると、人間の生活圏を広げるために彼らの生息地を力ずくで奪うというのは、いかがなものかと思ってしまう。
それでも、今クリステルが生きている世界で、幻獣たちは人間を襲い食らう、完全なる『強者』だ。
先日、うっかり前世の記憶を蘇らせてしまったクリステルは、『希少生物の保護……。ふふ、自然と人間は相容れない存在なのよ。そう、オタクとリア充が決して相容れないように』と遠い目をした。いくら幻獣が希少でも狩らないわけにはいかない。
互いに食うか食われるかという殺伐とした関係である以上、その死に迷いなど覚えていては、あっという間にあの世逝き。
かつての世界の価値観に囚われ、自分や他人の命を危険に曝すなどあってはならない。
将来王妃となるべく育てられてきたクリステルの命は、国民を守るために使われるべきものなのだ。
いずれ王族となるクリステルの命は、国民のもの。
だが、この魂は彼女自身のものだ。
クリステルの前世は、オタク系女子高生である。
オタク魂が『剣と魔法の世界』で覚醒した場合、どのように花開くかなどあえて語るまでもないだろう。
記憶を取り戻して以来、彼女は幻獣討伐のための魔術戦闘授業に、より一層力を入れていた。
(ああぁ……っ。魔術戦闘の実技授業は、どうして週に三度しかないのかしら!?)
実技訓練中、クリステルは中二的遊び心を練りこみ、連続展開した爆裂魔法をウォルターに叩きこむ。彼は、あっさりと彼女の攻撃を防いだ。
クリステルは、ぞくぞくした。
普段のウォルターは、彼女が全力で魔術を展開しても、かなりの余裕を持って対応してくる。その彼が、今はクリステルが攻撃を仕掛けるたび、少し驚いた顔をしてから嬉しそうに応戦してくるのだ。
まったく手加減をする必要のない相手と、全身全霊の魔法で遊ぶ。
これ以上に楽しいことがあるだろうか。
優秀な『悪役令嬢』であったクリステルは、元々、魔術師としての腕前もトップクラス。
そこにオタク文化の粋である中二的センスが加えられたのだ。おまけに『授業中に起きた出来事は、担当教官の責任』という免罪符がある。
彼女は、この授業のたび少々はっちゃけてしまっていた。
前世の記憶が蘇ったばかりの数日間、ウォルターや側近候補たちの美声を耳にしなくてすむよう、極力彼らを避けていた。けれど、ウォルターの婚約者である以上、なかなかそうもいかない。クリステルはじたばたと悶絶したくなる美声を、たびたび耳にすることになった。
しかし、彼女は耐えた。
それまでの人生で培ってきたお嬢さまスキルを信じ、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んだ結果、ほんのわずかながら『美声耐性』を手に入れたのである。
至近距離だとまだまだ危ういが、戦闘訓練時程度の距離であれば、どうにか内心の萌えを隠して平気なフリができるようになっていた。
たとえ相手が「そんな戦い方を、どこで覚えてきたんだい?」「じゃあ、次はこちらから行かせてもらうよ」「俺の勝ちだね? クリステル」という萌えセリフをライブで聞かせてくださってもだ。
今や彼女は、「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます。大事なことなので三回言わせていただきました」と、脳内でスライディング土下座でお礼を言う妄想をするだけでとどまれるぐらいになった。
慣れというのは、素晴らしいものである。
とはいえ、『魔法で全力で遊ぶ』というはっちゃけテンションも、それに大きく貢献している。そうでなければ、たとえ距離があってもクリステルの足腰はあっという間に砕けてしまう。
そのため彼女は、魔術戦闘実技の授業以外では、さりげなくウォルターたちから距離を置くようにしていた。
人前で鼻血を噴いては、ギーヴェ公爵家の威信にかかわる。
今日も授業が終了した直後、ウォルターに話しかけられる前に、急いで友人たちとともに訓練場から教室に戻った。
(それにしても……)
クリステルはふと、窓の外を見る。
いくら未来の国王陛下といっても、ウォルターはクリステルと同じ十七歳。まだまだ、友人同士でやんちゃをしたいお年頃だ。
側近候補たちとは幼馴染という気安い関係であることもあり、今もウォルターは彼らと中庭に集って楽しげに笑い合っている。その姿は、普通の学生となんら変わらない。
見目ヨシ、家柄ヨシ、将来有望の三拍子揃った彼らの姿に、女子学生たちが揃ってうっとりとした眼差しを向けている。
クリステルは、ぎゅっと拳を握りしめて目を伏せた。
(あれが二次元なら、絶対にどこかで素敵なカップルを妄想していたはずなのに……。やっぱりリアルでは、いまいち食指が動かないわ)
彼女のオタク魂は、BL的な世界に関しては、あくまでも二次元限定。
ついでに言うなら、少女漫画におけるイケメン――まさに今、目の前できらきらしているウォルターたちのような、レディファーストの徹底している紳士系は、男性同士で絡ませてもあまり楽しいと思えない。
なんとなく、女の扱いに慣れている男性から同性愛は想像しにくいのである。
やはり男同士というのは、『どつき愛』の熱い絆で結ばれたカップルが美味しい。
それ以前に、青少年同士の『きゃっきゃうふふ』は、この世界で現実に発生するとかなり面倒だと思う。
何しろ、男同士のカップルでは子どもが望めない。
もちろん、子を持つことだけが人生のすべてではないだろう。
それに、同性愛者にせよ異性愛者にせよ、子どもを望めない人々はいる。彼らの気持ちを考えれば、『子どもができない』という理由のみで同性愛を否定するのは、いかがなものかと思う。
しかし、クリステルたちが生きている貴族社会では、家を継ぐ子どもを作るのが最優先事項とされている。その中で生きていく以上、同性の伴侶を望むことは不可能だ。
貴族階級の男性が同性愛に目覚めた場合、家を捨てて愛に生きるか、子どもを作るために政略結婚をして愛は別で育むか、己の性的指向を完全に秘匿して満たされない人生を送るかの、不毛な三択となってしまう。
(有能な後継者に家を捨てられたら国が乱れるし、男の愛人がいる相手にはさすがに嫁ぎたくない。絶対に愛してくれないとわかっている旦那さまは……珍しくないから、まぁ、たぶん耐えられるけれど。一生秘密を隠し続けなければならないというのは、ご本人がお気の毒すぎるわよね)
やはり、貴族階級の男性にはソッチの世界に走らないでいただくほうが、余計な厄介事が起きなくていい。
教室の窓から婚約者をながめ、呑気にそんなことを考えていたバチが当たったのだろうか。
そう。
クリステルは、すっかり忘れていたのだ。
たとえヒロインが『物語』の開始直後に退場してしまっても、この世界の時間は容赦なく進んでいくのだということを――
その日は、朝から雨だった。
不吉な雷鳴が轟く中、教室の窓を大粒の雨がひっきりなしに叩く。
昼間だというのに真夜中の如き漆黒に塗り潰された空を、時折稲妻が奔り抜けていった。
午後一番目の座学を終えたクリステルは、そんな空を見上げながら『たーまやー』と目を細める。
いつか幻術系の魔術を使って夜空に大輪の華を咲かせられるだろうか、と考えていたときだ。
(……っ!?)
すさまじい衝撃が、校舎を震わせた。
それは、学園の敷地を覆っていた守護結界が外部から破られたために生じたものだった。しかし、多くの人間は咄嗟に地震だと考えた。
クリステルは、「雷に地震だなんて、火事とオヤジが揃えば完璧ですわね!」と思いながら、級友たちに机の下に入るよう指示し、脱出路確保のために窓を開ける。
すかさず顔を叩いた雨粒の強さに、片腕を掲げた。
だが――
(は……?)
激しい雨粒は、すぐに途切れた。
瞬きをしたクリステルは、鈍いオレンジ色に輝く巨大な眼球が目の前でキロリと動くのを見た。その目が自分の姿を捉えたのを感じ、立ち竦む。
ゆっくりと眼球の持ち主を確認する。雨空に溶けこむような漆黒の鱗、コウモリの翼を持つ巨大なトカゲにも似たその姿。
幻獣たちの王、ドラゴンだ。
それも、全長十五メートルはありそうな体躯からして、長老級の個体である。
唖然として立ち尽くしたクリステルは、ちょっぴり現実逃避をしたくなった。
(……これはひどい)
何がひどいかと言うと、自分の甘さが、である。なぜ、こうなることを予想していなかったのか。
クリステルは、だいぶ薄れかけている前世の記憶を必死に検索した。
学園からヒロインがいなくなっても、この世界が『物語』の通りに動いていたなら――おそらく彼は、建国当時から国法で禁域とされている森の奥に生息するドラゴンだ。
このスティルナ王国を興した初代王は、建国時に、幻獣たちと互いの領土に対する不可侵を約束した。その幻獣たちの王が、彼だ。
このドラゴンが学園に姿を現したのは、彼の森に隣接した領地を持つ貴族が『バレなきゃ、少しくらい開墾しても大丈夫だろ』と、森の木々を切り倒したのが発端である。
そのあと、密猟者たちが隣接した領地から森へ忍びこみ、禁域に棲む一角獣を生け捕りにして闇市で売り捌いた。
ちなみに、一角獣は大陸中のどこの国でも狩りが禁止されている。滅多に見ることのできない希少種だが、『種の保存』という概念がないこの世界で、絶滅が危惧されているわけではない。
彼らは姿形が非常に美しいので、人々から神聖視されているのだ。
見目がいいだけで保護対象となるのだから、つくづく外見というのは大事だと思う。
それはともかく、突然約定を破って縄張りを荒らされた上に仲間を攫われたドラゴンは、当然ながら大激怒。
幻獣の魔力を封じる檻に囚われ、どこにいるかもわからない一角獣を返せと要求するため、国のトップである王族と直接話をしようと考えた。
しかし王宮は、ドラゴンの力でも容易には破れない結界で護られている。そこで比較的接触しやすい学園で暮らしている、王太子のウォルターに白羽の矢を立てたのだ。
さらに人間というものをまったく信用できなくなったドラゴンは、話し合いではなく、シンプルイズベストな取引ですべてを終わらせようとした。
すなわち、王子にとって大切な存在であるヒロインを誘拐し、『返してほしけりゃ、仲間の一角獣を見つけて返せ』と要求。
それを受けたウォルターと側近候補たちが、力を尽くして一角獣を探し出し、囚われのお姫さま状態のヒロインを救出しに行く――というストーリーだ。
だが現在、ウォルターのそばにヒロインはいない。
つまり、彼にとって最大の弱点となり得るのは、婚約者であるクリステルということになる。
彼女の実家であるギーヴェ公爵家との縁が切れてしまえば、ウォルターは王太子の地位が危うくなるのだ。
膨大な魔力を持ち、強力な古代魔法の使い手でもあるドラゴンにとって、その程度の情報などお見通しに違いない。
(……ごめんなさい、ウォルターさま)
これは、こんなお騒がせ事件が起こるかもしれないと知っていたにもかかわらず、オタク魂の滾りのままに日々を過ごしていたクリステルの、完全な失態だ。
彼女は、呆然とドラゴンを見つめた。
ドラゴンの放つ圧倒的な魔力の圧に、意識が押し潰されそうになる。
床に崩れ落ちる寸前、体が温かな光に包まれ、ふわりと浮かぶのを感じた。
(うひぃっ!?)
思わず、ぎゅっと目を瞑る。
直径一メートル程度の球状結界に入れられたクリステルは、あんぐりと開かれたドラゴンの口の中に、ぱっくんと閉じこめられた。
怖い。怖すぎる。
ドラゴンが念話で学園内の人々に語りかける。クリステルの脳内にも、ドラゴンの意思が伝わってきた。
『――そなたらが奪った一角獣を、森に戻せ。それまで、この娘は私の城で預からせてもらう。忘れるな。先に約定を違えたのは、そなたら人間だ』
クリステルは、本当に泣きたくなった。
問答無用の愛されスキルを持っていたヒロインとは違い、彼女はウォルターにとって、あくまでも政略目的で定められた婚約者にすぎないのだ。
愛しいヒロインを救出するためなら、どんな苦難でも前向きに乗り越えられるだろう。
だが、攫われたのがビジネスライクな付き合いのみのクリステルでは、まったく気合いが入らないに違いない。
(うぅ……っ。重ね重ね申し訳ありません、ウォルターさま! でもでも、わたしの父は立派な公爵でございますし、正式な婚約者奪還のためでしたらわりとスムーズに事が進むと思います! おそらくですが、原作よりもかなりイージーモードになると思われますので、どうかがんばってくださいませ!)
とりあえず、クリステルはウォルターの健闘を祈った。自分に関しては、これから森の奥の古城に連れていかれるのはわかっている。
抵抗が無駄なのは充分に理解しているので、早く口の中から出してほしい。
うっかり呑みこまれて、下からぷりっと出されるようなことになったら、本気で死にたくなると思う。
不安げにこちらを見る彼の瞳に、先ほどまでのぼんやりと緩んだ感じはない。
もう、いつもの彼だ。
やはり、ウォルターがおかしかったのはなんらかの魔術の影響下にあったかららしい。
ほっとしたクリステルから目を離さないまま、ウォルターは気遣わしげに口を開いた。
「クリステル? 一体――」
「殿下? さっきから、何をしてるんですか? その方、どなた? 殿下のお知り合い?」
子どもっぽく無邪気な笑みを浮かべた少女が、ウォルターの言葉を遮った。彼女の周辺にいたウォルターの側近候補たちは、どこか呆けた様子でそれぞれ額に手を当てている。
王族とその婚約者の会話に割りこむという信じがたいほど無礼な少女の行為に、食堂内の空気が凍りつく。
ウォルターは冷ややかに目を細め、振り返ろうとした。その寸前、クリステルは彼の手をぎゅっと握りしめる。
彼の手に、クリステルの指輪が触れた。そこには、先ほどウォルターが発動した〈状態異常解除〉と同じ種類の術がこめられている。
一瞬、驚いたように指輪を見たウォルターは、クリステルにしっかりとうなずいてみせた。
ありがとう、と低くつぶやいたウォルターは、クリステルの手を握り返してゆっくりと口を開いた。
「マリア・ウィンスロー。非常時を除き、学園内で教師の許可なく魔術を行使することは校則で禁じられている。今すぐ、解除しろ」
「え……?」
きょとんと目を丸くしたヒロイン――マリアは、不思議そうな顔をした。
「何言ってるんですか? あたし、まだ入学したばっかりなんですよ? 魔術なんて、発動できるわけないじゃないですかー」
その答えに、ウォルターは忌々しげに舌打ちした。
「いいや、たしかに発動している。精神干渉系の魔術――〈魅了〉と〈暗示〉の構成に近いが、それを俺たちにかけていただろう。自然すぎて気持ちが悪いな。魔力の圧がまるでない。……クリステル。こんなものに、よく気がついたね」
目を細めて吐き捨てるように言ってから、ウォルターはクリステルに笑いかけた。
固唾を呑んで注目していた生徒たちが、一斉に後ずさる。
誰だって自分の精神に干渉されたくはない。
それぞれが発動しうる最上級の〈防御〉を展開する中、ウォルターの側近候補筆頭の青年が動いた。
「きゃあっ!?」
「マリア・ウィンスロー。殿下のお心を卑劣な術で支配しようとしたその罪、万死に値する。暴れるな。抵抗するなら、この場で殺す」
マリアの体を床に叩き伏せ、その腕を捻り上げて動きを封じる。
彼の名は、カークライル・フォークワース。艶やかな黒髪に鋼色の瞳を持つ、怜悧な印象の青年なのだが――
(いーやー! カークライルさま! 巨人相手に戦う人類最強キャラから、素晴らしい滑舌が必須の明るいツッコミキャラまでなんでもござれの、あのスペシャルな声優さまのお声なの!? み、耳が幸せすぎて死んでしまうわ……)
――クリステルは、あやうく再び悶絶しそうになった。
これまで受けてきた地獄のような正妃教育を思い出し、どうにか踏みとどまる。未来の夫とその臣下の前で、だらしない顔を晒すわけにはいかない。
そんなクリステルの努力を試すように、そのあと正気を取り戻したウォルターの側近候補たちが、次々と口を開く。そのたび、前世で萌えまくったアニメで聞いた美声が鼓膜を震わせ、クリステルは密かに身悶えた。
ここは天国か、それとも桃源郷か。
……彼らの声で罵倒されながら死ねるのなら、たとえ『物語』通りにすべてが進んで王太子とその側近に無実の罪で断罪されても、悔いはないかもしれない。
そんなとっちらかったことをクリステルが考えている間に、マリアは魔術の発動を封じる手枷を嵌められ、駆けつけた王国騎士たちに連行されていった。
彼女にどんな処分が下されるかはわからないが、いずれにせよ魔術の封印だけは避けられないだろう。
もう二度と、顔を合わせることもあるまい。
こうして、婚約者たちの美声に萌え萌えしているだけでクリステルが何もしない間に、婚約破棄エピソードが完全消滅してしまった。
これが結果オーライというやつか、と彼女はそっと息をつく。
そんな彼女の指先に、ウォルターが軽く唇で触れた。
「ありがとう、クリステル。きみのおかげで、本当に助かった」
(うぅ……っ)
その甘い囁き声に、クリステルの全身がぞくぞくする。
冗談抜きに命の危険を感じた。
死因、萌え死に。
さすがにそれは、恥ずかしすぎる。
全身全霊で公爵令嬢としてのプライドのすべてを懸けて、クリステルはにこりと笑った。
「ウォルターさまの一の臣下として、当然のことをしたまでですわ。まだ体調が優れないので、失礼させていただきます」
先ほどの醜態は体調不良のせいですのよ! 勘違いなさらないでくださいね! と内心でツンデレっぽいことを叫びながら、クリステルは踵を返した。
その腕を、ウォルターが思わずといったふうに掴む。
「送っていくよ」
「ありがとうございます。けれど、お気持ちだけいただきますわ。いくらウォルターさまでも、女子寮に入るには大変な手続きが必要ですもの。――あぁ、セリーナさま。申し訳ありませんが、寮まで付き添っていただけますか?」
ちょうど近くにいた友人、セリーナ・アマルフィに声をかける。セリーナはウォルターの側近候補のひとりの婚約者でもあり、クリステルと仲がいい。
彼女は、ぱっと頬を紅潮させてうなずいてくれた。
「もちろんですわ、クリステルさま! 殿下、ご安心くださいませ。クリステルさまは、わたくしが必ずやご無事にお部屋までお連れいたします」
「あ、あぁ……」
ウォルターの手が、名残惜しげに離れる。
けれど、クリステルはそれどころではなく、心からおののいていた。
(うぅっ、危険な美声青年たちからの逃亡に成功したと思いましたのに、まさか、セリーナさままで……セクシー系から清純派までどんとこいの、エクセレントな銀河の妖精ボイスだったなんて! とろけるような美少女ボイスというのは、これはこれで非常に趣のあるものでございますわね。うっかり新たな扉を開いてしまいそうです)
いつも通りのパーフェクトな『悪役令嬢』スマイルを顔に貼り付けながら、クリステルは密かに決意する。
自分の心臓のためにも、今後はウォルターたちと、安心安全な距離間を確保した上で接していこう――と。
リアル萌えは、危険だ。
今まで積み重ねてきた正妃教育の成果を、一瞬で瓦解させてしまいかねない。
ヒロインが早々に退場したにもかかわらず『悪役令嬢』クリステルは、別の意味で保身に走ることになった。
第一章 禁域のドラゴン
クリステル・ギーヴェ公爵令嬢が通う学園は、魔力持ちの人間が十五歳になると必ず入学するように定められている、国の最重要教育機関である。
ここは、剣と魔法の世界。
すなわち、人間が生きていくのに剣と魔法が必要であるということだ。
未開の土地には危険極まりない不思議生物――幻獣が多数生息している。しかし大陸のあちこちに点在している国を行き来するには、彼らの住む土地を通り抜けなければならず、常に命の危険が伴う。
国が領土を広げようと思えば、幻獣の群れを討伐し、その生息地をゲットするしかないのだ。
そのため、国家間の争いは滅多に発生しない。
その代わり、国の外にいる幻獣たちとの戦いは頻繁にあった。
クリステルも幼い頃から、幻獣討伐には何度も参加している。それが自分の義務だと疑問に思うこともなかったし、強大な幻獣を倒したときには、たしかに充実感や達成感を覚えていた。
しかし、オタク魂保持者の女子高生の感覚からすれば、どんな危険な幻獣も、殺すなんてモッタイナイ! と叫びたくなるのだ。
幻獣の多くは、その生態が明らかになっていない。
人々が彼らを討伐しまくったあとで、種の個体数を復活させたいと思っても、それは非常に困難になるだろう。
クリステルは前世で二次元に萌える立派なオタクだったが、それなりに一般常識も持ち合わせていた。
ドードー鳥しかり、リョコウバトしかり。人間が絶滅させてしまった動植物は、数限りない。
そんな記憶を踏まえて考えてみると、人間の生活圏を広げるために彼らの生息地を力ずくで奪うというのは、いかがなものかと思ってしまう。
それでも、今クリステルが生きている世界で、幻獣たちは人間を襲い食らう、完全なる『強者』だ。
先日、うっかり前世の記憶を蘇らせてしまったクリステルは、『希少生物の保護……。ふふ、自然と人間は相容れない存在なのよ。そう、オタクとリア充が決して相容れないように』と遠い目をした。いくら幻獣が希少でも狩らないわけにはいかない。
互いに食うか食われるかという殺伐とした関係である以上、その死に迷いなど覚えていては、あっという間にあの世逝き。
かつての世界の価値観に囚われ、自分や他人の命を危険に曝すなどあってはならない。
将来王妃となるべく育てられてきたクリステルの命は、国民を守るために使われるべきものなのだ。
いずれ王族となるクリステルの命は、国民のもの。
だが、この魂は彼女自身のものだ。
クリステルの前世は、オタク系女子高生である。
オタク魂が『剣と魔法の世界』で覚醒した場合、どのように花開くかなどあえて語るまでもないだろう。
記憶を取り戻して以来、彼女は幻獣討伐のための魔術戦闘授業に、より一層力を入れていた。
(ああぁ……っ。魔術戦闘の実技授業は、どうして週に三度しかないのかしら!?)
実技訓練中、クリステルは中二的遊び心を練りこみ、連続展開した爆裂魔法をウォルターに叩きこむ。彼は、あっさりと彼女の攻撃を防いだ。
クリステルは、ぞくぞくした。
普段のウォルターは、彼女が全力で魔術を展開しても、かなりの余裕を持って対応してくる。その彼が、今はクリステルが攻撃を仕掛けるたび、少し驚いた顔をしてから嬉しそうに応戦してくるのだ。
まったく手加減をする必要のない相手と、全身全霊の魔法で遊ぶ。
これ以上に楽しいことがあるだろうか。
優秀な『悪役令嬢』であったクリステルは、元々、魔術師としての腕前もトップクラス。
そこにオタク文化の粋である中二的センスが加えられたのだ。おまけに『授業中に起きた出来事は、担当教官の責任』という免罪符がある。
彼女は、この授業のたび少々はっちゃけてしまっていた。
前世の記憶が蘇ったばかりの数日間、ウォルターや側近候補たちの美声を耳にしなくてすむよう、極力彼らを避けていた。けれど、ウォルターの婚約者である以上、なかなかそうもいかない。クリステルはじたばたと悶絶したくなる美声を、たびたび耳にすることになった。
しかし、彼女は耐えた。
それまでの人生で培ってきたお嬢さまスキルを信じ、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んだ結果、ほんのわずかながら『美声耐性』を手に入れたのである。
至近距離だとまだまだ危ういが、戦闘訓練時程度の距離であれば、どうにか内心の萌えを隠して平気なフリができるようになっていた。
たとえ相手が「そんな戦い方を、どこで覚えてきたんだい?」「じゃあ、次はこちらから行かせてもらうよ」「俺の勝ちだね? クリステル」という萌えセリフをライブで聞かせてくださってもだ。
今や彼女は、「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます。大事なことなので三回言わせていただきました」と、脳内でスライディング土下座でお礼を言う妄想をするだけでとどまれるぐらいになった。
慣れというのは、素晴らしいものである。
とはいえ、『魔法で全力で遊ぶ』というはっちゃけテンションも、それに大きく貢献している。そうでなければ、たとえ距離があってもクリステルの足腰はあっという間に砕けてしまう。
そのため彼女は、魔術戦闘実技の授業以外では、さりげなくウォルターたちから距離を置くようにしていた。
人前で鼻血を噴いては、ギーヴェ公爵家の威信にかかわる。
今日も授業が終了した直後、ウォルターに話しかけられる前に、急いで友人たちとともに訓練場から教室に戻った。
(それにしても……)
クリステルはふと、窓の外を見る。
いくら未来の国王陛下といっても、ウォルターはクリステルと同じ十七歳。まだまだ、友人同士でやんちゃをしたいお年頃だ。
側近候補たちとは幼馴染という気安い関係であることもあり、今もウォルターは彼らと中庭に集って楽しげに笑い合っている。その姿は、普通の学生となんら変わらない。
見目ヨシ、家柄ヨシ、将来有望の三拍子揃った彼らの姿に、女子学生たちが揃ってうっとりとした眼差しを向けている。
クリステルは、ぎゅっと拳を握りしめて目を伏せた。
(あれが二次元なら、絶対にどこかで素敵なカップルを妄想していたはずなのに……。やっぱりリアルでは、いまいち食指が動かないわ)
彼女のオタク魂は、BL的な世界に関しては、あくまでも二次元限定。
ついでに言うなら、少女漫画におけるイケメン――まさに今、目の前できらきらしているウォルターたちのような、レディファーストの徹底している紳士系は、男性同士で絡ませてもあまり楽しいと思えない。
なんとなく、女の扱いに慣れている男性から同性愛は想像しにくいのである。
やはり男同士というのは、『どつき愛』の熱い絆で結ばれたカップルが美味しい。
それ以前に、青少年同士の『きゃっきゃうふふ』は、この世界で現実に発生するとかなり面倒だと思う。
何しろ、男同士のカップルでは子どもが望めない。
もちろん、子を持つことだけが人生のすべてではないだろう。
それに、同性愛者にせよ異性愛者にせよ、子どもを望めない人々はいる。彼らの気持ちを考えれば、『子どもができない』という理由のみで同性愛を否定するのは、いかがなものかと思う。
しかし、クリステルたちが生きている貴族社会では、家を継ぐ子どもを作るのが最優先事項とされている。その中で生きていく以上、同性の伴侶を望むことは不可能だ。
貴族階級の男性が同性愛に目覚めた場合、家を捨てて愛に生きるか、子どもを作るために政略結婚をして愛は別で育むか、己の性的指向を完全に秘匿して満たされない人生を送るかの、不毛な三択となってしまう。
(有能な後継者に家を捨てられたら国が乱れるし、男の愛人がいる相手にはさすがに嫁ぎたくない。絶対に愛してくれないとわかっている旦那さまは……珍しくないから、まぁ、たぶん耐えられるけれど。一生秘密を隠し続けなければならないというのは、ご本人がお気の毒すぎるわよね)
やはり、貴族階級の男性にはソッチの世界に走らないでいただくほうが、余計な厄介事が起きなくていい。
教室の窓から婚約者をながめ、呑気にそんなことを考えていたバチが当たったのだろうか。
そう。
クリステルは、すっかり忘れていたのだ。
たとえヒロインが『物語』の開始直後に退場してしまっても、この世界の時間は容赦なく進んでいくのだということを――
その日は、朝から雨だった。
不吉な雷鳴が轟く中、教室の窓を大粒の雨がひっきりなしに叩く。
昼間だというのに真夜中の如き漆黒に塗り潰された空を、時折稲妻が奔り抜けていった。
午後一番目の座学を終えたクリステルは、そんな空を見上げながら『たーまやー』と目を細める。
いつか幻術系の魔術を使って夜空に大輪の華を咲かせられるだろうか、と考えていたときだ。
(……っ!?)
すさまじい衝撃が、校舎を震わせた。
それは、学園の敷地を覆っていた守護結界が外部から破られたために生じたものだった。しかし、多くの人間は咄嗟に地震だと考えた。
クリステルは、「雷に地震だなんて、火事とオヤジが揃えば完璧ですわね!」と思いながら、級友たちに机の下に入るよう指示し、脱出路確保のために窓を開ける。
すかさず顔を叩いた雨粒の強さに、片腕を掲げた。
だが――
(は……?)
激しい雨粒は、すぐに途切れた。
瞬きをしたクリステルは、鈍いオレンジ色に輝く巨大な眼球が目の前でキロリと動くのを見た。その目が自分の姿を捉えたのを感じ、立ち竦む。
ゆっくりと眼球の持ち主を確認する。雨空に溶けこむような漆黒の鱗、コウモリの翼を持つ巨大なトカゲにも似たその姿。
幻獣たちの王、ドラゴンだ。
それも、全長十五メートルはありそうな体躯からして、長老級の個体である。
唖然として立ち尽くしたクリステルは、ちょっぴり現実逃避をしたくなった。
(……これはひどい)
何がひどいかと言うと、自分の甘さが、である。なぜ、こうなることを予想していなかったのか。
クリステルは、だいぶ薄れかけている前世の記憶を必死に検索した。
学園からヒロインがいなくなっても、この世界が『物語』の通りに動いていたなら――おそらく彼は、建国当時から国法で禁域とされている森の奥に生息するドラゴンだ。
このスティルナ王国を興した初代王は、建国時に、幻獣たちと互いの領土に対する不可侵を約束した。その幻獣たちの王が、彼だ。
このドラゴンが学園に姿を現したのは、彼の森に隣接した領地を持つ貴族が『バレなきゃ、少しくらい開墾しても大丈夫だろ』と、森の木々を切り倒したのが発端である。
そのあと、密猟者たちが隣接した領地から森へ忍びこみ、禁域に棲む一角獣を生け捕りにして闇市で売り捌いた。
ちなみに、一角獣は大陸中のどこの国でも狩りが禁止されている。滅多に見ることのできない希少種だが、『種の保存』という概念がないこの世界で、絶滅が危惧されているわけではない。
彼らは姿形が非常に美しいので、人々から神聖視されているのだ。
見目がいいだけで保護対象となるのだから、つくづく外見というのは大事だと思う。
それはともかく、突然約定を破って縄張りを荒らされた上に仲間を攫われたドラゴンは、当然ながら大激怒。
幻獣の魔力を封じる檻に囚われ、どこにいるかもわからない一角獣を返せと要求するため、国のトップである王族と直接話をしようと考えた。
しかし王宮は、ドラゴンの力でも容易には破れない結界で護られている。そこで比較的接触しやすい学園で暮らしている、王太子のウォルターに白羽の矢を立てたのだ。
さらに人間というものをまったく信用できなくなったドラゴンは、話し合いではなく、シンプルイズベストな取引ですべてを終わらせようとした。
すなわち、王子にとって大切な存在であるヒロインを誘拐し、『返してほしけりゃ、仲間の一角獣を見つけて返せ』と要求。
それを受けたウォルターと側近候補たちが、力を尽くして一角獣を探し出し、囚われのお姫さま状態のヒロインを救出しに行く――というストーリーだ。
だが現在、ウォルターのそばにヒロインはいない。
つまり、彼にとって最大の弱点となり得るのは、婚約者であるクリステルということになる。
彼女の実家であるギーヴェ公爵家との縁が切れてしまえば、ウォルターは王太子の地位が危うくなるのだ。
膨大な魔力を持ち、強力な古代魔法の使い手でもあるドラゴンにとって、その程度の情報などお見通しに違いない。
(……ごめんなさい、ウォルターさま)
これは、こんなお騒がせ事件が起こるかもしれないと知っていたにもかかわらず、オタク魂の滾りのままに日々を過ごしていたクリステルの、完全な失態だ。
彼女は、呆然とドラゴンを見つめた。
ドラゴンの放つ圧倒的な魔力の圧に、意識が押し潰されそうになる。
床に崩れ落ちる寸前、体が温かな光に包まれ、ふわりと浮かぶのを感じた。
(うひぃっ!?)
思わず、ぎゅっと目を瞑る。
直径一メートル程度の球状結界に入れられたクリステルは、あんぐりと開かれたドラゴンの口の中に、ぱっくんと閉じこめられた。
怖い。怖すぎる。
ドラゴンが念話で学園内の人々に語りかける。クリステルの脳内にも、ドラゴンの意思が伝わってきた。
『――そなたらが奪った一角獣を、森に戻せ。それまで、この娘は私の城で預からせてもらう。忘れるな。先に約定を違えたのは、そなたら人間だ』
クリステルは、本当に泣きたくなった。
問答無用の愛されスキルを持っていたヒロインとは違い、彼女はウォルターにとって、あくまでも政略目的で定められた婚約者にすぎないのだ。
愛しいヒロインを救出するためなら、どんな苦難でも前向きに乗り越えられるだろう。
だが、攫われたのがビジネスライクな付き合いのみのクリステルでは、まったく気合いが入らないに違いない。
(うぅ……っ。重ね重ね申し訳ありません、ウォルターさま! でもでも、わたしの父は立派な公爵でございますし、正式な婚約者奪還のためでしたらわりとスムーズに事が進むと思います! おそらくですが、原作よりもかなりイージーモードになると思われますので、どうかがんばってくださいませ!)
とりあえず、クリステルはウォルターの健闘を祈った。自分に関しては、これから森の奥の古城に連れていかれるのはわかっている。
抵抗が無駄なのは充分に理解しているので、早く口の中から出してほしい。
うっかり呑みこまれて、下からぷりっと出されるようなことになったら、本気で死にたくなると思う。
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