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3巻
3-2
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クリステルは若干憐憫の情を抱く。しかし、かつて王宮内の権力闘争を勝ち抜いて王太子の座に就いたウォルターは、自分の『予備』に対して無意味な同情はしないらしい。
椅子の背もたれに体を預け、傲然と彼は言う。
「おかしなことを言うな、ジェレマイア。この学園の学生会長を務められない程度の器量で、俺の『予備』を名乗るつもりか?」
「オレだって! 好きであなたの『予備』なわけじゃない!」
顔をゆがめて叫ぶジェレマイアに、ウォルターはわずかに眉根を寄せた。
「悪いが、おまえの癇癪に付き合う暇はない。陛下のご命令に従って『予備』になるつもりがないのなら、今すぐその制服を脱いで、ここから出て行け」
「……っ」
現れたときの勢いはどこへやら、今のジェレマイアはウォルターの言う通り、癇癪を起こした子どものようだ。
かつて彼が王宮にいた頃、クリステルは何度か挨拶したことがある。
当時のジェレマイアは、自分がいずれこの国の王になると素直に信じている、無邪気で育ちのよい少年だった。敗北の味を何ひとつ知らず、周囲から守られることを当たり前に思っている――そんな、大らかで傲慢な王子さま。
クリステルは、改めて彼を見る。
無造作に見せながらきっちりと整えられた髪型といい、だらしなくなる寸前のギリギリのラインで着崩している制服といい、随分とイメージチェンジしたものだ。
無垢な女生徒たちが見たら、揃ってきゅんきゅんときめきそうな、立派な不良少年ぶりである。ちょっと可愛いと言えないこともないが、クリステルの好みではなかった。
(うーん……。あのいつもふわふわと幸せそうに笑っていた王子さまが、こんな中途半端にやさぐれた感じのキレやすい若者になってしまうとは。時間の流れというのは、残酷ですわね)
きっとジェレマイアも、異国で相当苦労したのだろう。
そんなことを考えていると、彼はぼそりと口を開いた。
「……よし。あー、よかった。うえぇ、めっちゃ緊張したぁ」
(は?)
クリステルは、目を丸くする。
今までの子どもじみた様子が嘘のように、ジェレマイアは首の後ろに手をやって、気だるげにぼやく。そして、細めた目をウォルターに向けてにやりと笑う。
「改めまして、どーも、兄上。アンタが相変わらず、オレのことなんてまるっきり眼中にないことがわかって、ほっとしました。さすがにねー、これからずっとアンタの顔色うかがってビクビクしながら生きていくとか、ちょーっと勘弁してもらいたかったんで」
そう言って、ジェレマイアはいかにも愉快そうに肩を揺らした。
「アンタは、強い。この国の誰よりも。だから、アンタよりも遥かに弱いオレを警戒する必要もない。そうでしょう?」
挑発的な物言いに、ウォルターが淡々と応じる。
「俺は今まで、おまえ個人を警戒したことは、一度もない」
「そりゃそーでしょうね。アンタが警戒してんのは、いつだってオレの後見。厄介なメイリーヴス公爵家だけだった。もしもアンタが、オレ個人を警戒するようになっていたら――それは、アンタが王宮の連中と同じように、オレに利用価値があると認めたってことだ。そんなことになっていなくて、本当によかったですよ。……アンタの望む未来に、『メイリーヴス公爵家の血を引く王子』は、必要ない」
心底安堵したようにそう言って、ジェレマイアは小さく息をつく。それから彼は、まっすぐにウォルターを見た。
「で、ものは相談なんですけど――兄上。オレと、取り引きしませんか?」
すっと、ジェレマイアの表情が改まる。
視線だけで話の先を促すウォルターに、彼は続けた。
「オレは、スティルナにいる限り『アンタに負けた王子』で、『アンタの予備』だ。そんな負け犬人生、オレはいらない。アンタが国王になったらでいい。この国から出て、自由に生きる権利が欲しい」
ウォルターは呆れ顔でジェレマイアを見る。
「メイリーヴス公爵家の血を引く国王の子を、王室と公爵家が手放すと思うのか? おまえの体に流れる血は、それほど簡単に外へ出していいものではない」
「だからですよ、兄上。だからオレは、アンタと取り引きがしたいと言っている。普通のやり方じゃあ、オレは一生、王室からも公爵家からも逃げられない」
ぐっと、ジェレマイアの唇が引き結ばれた。
そんな彼に、ウォルターは問う。
「なぜ、そこまでこの国から逃げたがる? 敗者の人生はいらない、だと? そんな甘ったれた理由を信じられるほど、俺はお人よしじゃない。おまえを切り捨ててアールクヴィストに放り出した公爵家と縁を切りたいからだ、と言われたほうが、まだ納得できるぞ」
冷ややかな言葉に、ジェレマイアの口元がゆがむ。
「……嘘を、言ったつもりはないんですがね」
「だろうな。――おまえのプライドの高さは、知っている。相手に本音を悟られることを恥じ、がむしゃらに努力する姿を見られることを屈辱だと思う。一年半異国で過ごした程度では、その貴族根性を叩き折られるには足りなかったか?」
小さく笑い、ウォルターはジェレマイアをまっすぐに見据える。
「おまえの本当の望みはなんだ、ジェレマイア。この国から出ることが、その望みを叶えるために必要だというなら、手を貸してやっても構わない。もちろん、対価は支払ってもらうがな」
束の間、沈黙が落ちた。ぴりぴりとした緊張感が張りつめる。
クリステルは、決してふたりの王子の邪魔をしてはいけないと思い、耐えていた。なぜなら――
(……なんということでしょう。癇癪を起こしたお子さまモードだったときには、気がつきませんでしたけれど……っ。ジェレマイア殿下のお声は、指パッチンで炎を出す錬金術師の大佐と同じ声ですね!?)
――ウォルターに真っ向から立ち向かうジェレマイアの声に、思いきり萌えていたからだ。彼の美声は、クリステルのオタク魂に素晴らしいダメージを与えていた。
十六歳の若造の分際で、これほど色っぽく苦悩に満ちた声を出してくるとは、実に生意気である。
クリステルが悶絶しそうになる己を懸命に抑えていると、一度目を伏せたジェレマイアが再びウォルターを見た。
「アンタは、この国の王の子として生まれたことを、呪ったことはありますか」
ひどく静かな声だった。
その空虚な響きに、クリステルは思わず息を呑む。
答えないウォルターに、ジェレマイアは感情を映さない目をして言う。
「オレは、あります。自分の体に流れる血をすべて入れ替えてしまいたい、と何度も思った。――アンタだって、考えたことがあるでしょう? 一度もないなんて、言わせない。オレもアンタも『弟たち』も、王宮の連中にとってはただの道具だ。オレたちの中で、一番優秀な道具だと連中に認められたから、アンタは王太子の座に就いた」
「否定はしない。この国の王宮にそういった面があるのは事実だ」
ええ、とジェレマイアはいっそ無邪気に笑ってみせた。
「でも、今のアンタはただの道具じゃなくて、ちゃんとした人間に見える。……ねぇ、兄上。欲しかったものは、手に入ったんでしょう? オレたちが、アンタに負けたから。アンタは勝って、ずっと欲しがっていたものを手に入れた。ずるいよ、兄上。アンタばっかり、どうしてすべてを手に入れられるの」
笑いながら、彼は言う。
「兄上。『建国王の再来』と、誰もが讃える王太子殿下。ひとつくらい、弟のお願いを聞いてくれたっていいでしょう。今すぐには無理だってことくらい、わかってる。アンタが国王になったときでいい。オレを、この国から解放して。オレに、自分の命の使い方を自分で決められる自由をちょうだい。――オレはもう、この体に流れる血を、一滴だって王宮と公爵家の連中のために使いたくない」
「……なるほどな」
ウォルターが、組んだ腕を指先で軽く叩く。ややあって、彼はゆっくりと口を開いた。
「その望みを叶えるために、おまえは何を対価に差し出す?」
「今のオレが持っているもの、全部」
「いいだろう」
まったく同じスカイブルーの瞳が、見つめ合う。
「ジェレマイア。おまえの言う取り引きを受けてやる。俺がこの国の王になるまで、おまえの忠誠は俺のものだ。おまえ個人の力も知識も人脈も、そしてメイリーヴス公爵家の血を引く事実も、すべて俺個人のためにだけ使ってみせろ」
兄の言葉に、ジェレマイアは一瞬目を瞠ったあと、心底嬉しそうな顔をしてうなずく。
「ええ。あなたが国王になるまでは、オレの忠誠はあなたのものだ。学生会の会長だって、喜んで務めさせていただきます。……約束ですよ、兄上。あなたがこの国の国王になった暁には、オレを自由にしてくださいね」
こうして期間限定ではあるものの、第二王子ジェレマイアの忠誠はウォルターのものになった。それに伴い、次期学生会会長が決定したのは喜ばしいことだ。
なんとなく寒々しい気分になりながら、クリステルはそう自分に言い聞かせたのだった。
第二章 もふもふは、正義です
思いのほか強烈だった第二王子さまとの再会を経て、クリステルは少々癒しが欲しくなった。それを得るため、週末、ギーヴェ公爵家の別邸へ向かう。
現在、一部の者たちから『伏魔殿』と呼ばれている別邸には、人外生物たちが集っている。
ドラゴン、ヴァンパイア、そして人狼が滞在しているのだ。
どの人外生物も、人間社会で種族名を明かして暮らすと言うのは、かなり珍しい。
本当に、よくぞここまで揃ったものである。
中でも最も付き合いが長いのは、ドラゴンのシュヴァルツだ。彼は漆黒の鱗と炎色の瞳、そして白銀の角を持つ巨大なドラゴンの化身である。
別邸の客間に到着したクリステルを迎えてくれたのも、シュヴァルツだった。そして、『見た目は超絶美人、中身は老人』の人狼、ザハリアーシュもいる。
残念ながら、今日はクリステルを最も癒してくれる、愛くるしい幼女姿のヴァンパイアは、兄貴分とともに出かけているらしい。
また、先日からこの別邸に入った人狼の若者たちも、揃って出かけているという。
クリステルは、シュヴァルツとザハリアーシュが座るソファの前に腰かけ、挨拶する。
「ごきげんよう、シュヴァルツさま。ザハリアーシュさま。こちらは、最近評判の菓子店で見つけたフィナンシェなのですけど、バターの香りがとても素敵ですの。新作だという胡桃とレーズンのパウンドケーキもございますから、ぜひ食べ比べてみてくださいな」
にこりと笑って手土産の菓子を差し出すと、幻獣の王たるドラゴンと『大陸最強』の二つ名を持つ人狼が、揃って幸せそうな笑みを浮かべる。
「よく来たな、クリステル。人狼の子たちは遅くなると言っていたが、フランとソーマディアスはじきに戻るはずだ」
「そうなのですか? 嬉しいです」
フランことフランシェルシアとソーマディアスは、それぞれ『ヴァンパイアの王』と『純血のヴァンパイア』という、とんでもない力を持つ上位種だ。
ただ、フランシェルシアはいまだ幼く力の制御が不安定である。責任感が皆無なニート系ヴァンパイアであるソーマディアスとふたりだけで外出しているのは、正直かなり心配だ。
(まぁ……ソーマディアスさまには、お兄さま謹製の制御首輪――もとい、チョーカーを装備していただいておりますから、暴走することはないでしょうし。彼がそばにいれば、フランさまに危険が及ぶようなことにはまずならないでしょう。きっと大丈夫……だと、信じたいところです)
クリステルの兄エセルバートは、優秀な魔導具の研究者だ。彼が今までに作ったものは、どれも素晴らしい性能を誇っていた。ブラコンである彼女の贔屓目を別にしても、エセルバートの魔導具は信用に値するはずだ。
ほっほ、と笑ったのは、黙っていれば中性的な美人にしか見えないザハリアーシュだ。
「よう来たのぅ、お嬢さん。せっかく若い娘さんが来てくれたのに、迎えるのが年寄りばかりで申し訳ないの」
クリステルは手土産を広げながら笑いかける。
「とんでもありません、ザハリアーシュさま。それに、そのお姿で『年寄り』などと言われても、とてもそんなふうに思えませんわ」
何しろ彼の外見は、多く見積もっても二十代の半ば。白くつややかな髪にアメジストの瞳を持つ美青年だ。
年齢は立派な老人である彼が、これほど若々しい容姿をしているのには、理由がある。彼は若い頃、この大陸中を冒険していた折に、不老の妙薬と言われる人魚の生き血を舐めたのだ。
見た目は白皙の美青年、中身は経験豊かなご老体のザハリアーシュが、再びほっほ、と笑う。
「いやはや……。それにしても、この年になってこれほど愉快な経験ができるとは思わなんだわ。まさか、大陸の西を統べる黒のドラゴン殿と、こうして茶飲み話ができるとはのぅ」
「ええ、本当に」
にこにこと笑ってクリステルはうなずいた。
幻獣の王たるドラゴンのシュヴァルツが、こうしてスイーツを楽しむようになったのは、彼女の地道な餌付け――もとい、何度も繰り返したプレゼントの成果である。
素敵なお菓子の魅力が、種族の垣根を越えて通じるものであると証明されて、クリステルはとっても嬉しい。
別邸に常備されている最上級のコーヒー豆は、ザハリアーシュの口に合ったようだ。洗練されたデザインのカップを持ち、満足げな微笑を浮かべてコーヒーの香りを楽しんでいる彼の姿は、うっとりするほど麗しい。
一方、見た目も中身も素敵な紳士であるシュヴァルツは、胡桃とレーズンのパウンドケーキがいたくお気に召したらしい。先ほどから黙々とそれを口にしていたが、残りが半分になったところで手を止めた。
「……実に美味かった。これならば、フランも喜ぶだろう」
(はう……っ)
――本当はもっと食べたいだろうに、可愛がっている子どものためにケーキを残しておく、マッチョ紳士。
素晴らしい重低音の美声と相俟って、このドラゴンの化身はちょくちょくクリステルの萌えポイントを突いてくれる。
あやうく『可愛いなぁ、もうっ』と萌え転がりそうになる己をどうにか立て直し、クリステルはシュヴァルツに問いかけた。
「そ……そういえば、シュヴァルツさま。最近、一角獣さまにはお会いしていらっしゃいますか?」
黒髪のドラゴンの化身は、うむ、とうなずく。
「十日ほど前に、様子を見に行った。残念ながら、そなたの友人に紹介された牝馬には相手にされなかったようだが……。角も半分以上再生していたし、元気そうであったぞ」
シュヴァルツの友達の一角獣は、魔力の根源である角を損傷してしまったため、現在は王室所有の牧場で保護されている。ディアン・ケヒトという名の彼は、大変喧嘩っ早くて女好きの一角獣だ。
彼の角が折れた原因には、クリステルも無関係ではないため、ほっとした。
そこで、半目になったザハリアーシュがシュヴァルツを見る。
「ドラゴン殿……。一角獣殿の、あのどんよりと落ち込んでいる様子は、とても『元気そう』とは言い難いのではないか?」
「む?」
シュヴァルツが首をかしげる。可愛い。
「あら。ザハリアーシュさまも、一角獣さまのお見舞いに行かれましたの?」
問いかけたクリステルに、ザハリアーシュはなんとも言えない表情でうなずいた。
「わしも随分と長く生きておるが、今まで遠目にしか一角獣を見たことがなかったのでな。ぜひ一度間近でその美しさを見てみたいと思ったんじゃが……」
はぁ、とザハリアーシュがため息をつく。
「彼の一角獣殿は、たしかに見事な姿をしておったぞ。ただ、キノコが生えていそうなじめじめとした木陰で、死んだようにぴくりとも動かない様子を見ても、ちっとも感動せんわ」
(うわぁ……)
どうやら、一角獣は失恋のショックで大層落ちこんでいるらしい。
先日、彼に自慢の牝馬を紹介したのは、ネイトだ。武門貴族の後継である彼は、できることなら一角獣の子を育ててみたい、と熱望していた。
だが残念ながら、その願いは簡単に叶うものではなかったようだ。
世の中とはままならないものなのだな、とクリステルが嘆息していると、シュヴァルツがさらりと口を開いた。
「あやつが気に入った雌に拒絶されて落ちこむのは、よくあることだ。放っておいても、すぐに元通りになる」
「……あの、シュヴァルツさま。一角獣さまは、そんなにその……女性に敬遠されてしまうことが多いのですか?」
かなり遠まわしに『あの一角獣って、モテないの?』と問いかけたクリステルに、シュヴァルツはノータイムでうなずく。
「ああ。あやつの見た目は、一角獣の中でもかなり美しいほうらしいのだがな。どうも、あの歯に衣着せぬ物言いと、すぐに頭に血が上る性格と、喧嘩を見ると喜んで参加しにいく子どもっぽさが、雌たちにとってはあまり好まれんところのようだ」
「……なるほど」
ジェントルなドラゴンによる解説に、クリステルは納得するしかなかった。仮に彼女が一角獣の恋愛対象になる生物だったとしても、そんなに面倒くさそうな男など、心の底から遠慮したい。
「ところで、お嬢さん。ひとつ聞きたいんじゃが……。わしの孫娘のことで、東の里からなんぞ連絡があったりはせんか?」
ザハリアーシュの問いかけに、クリステルは顔を上げる。
そういえば、彼らの故郷である東の人狼の里から、近いうちに使者がやってくる予定があると聞いていた。
この別邸には現在、彼の孫娘であるオルドリシュカが滞在している。彼女は、東の人狼の里の次期族長と目されている少女だ。しかしオルドリシュカは、それを押し付けてくる周囲のうっとうしい手管に嫌気がさして、出奔してしまった。そんな彼女を呼び戻そうと、彼らの里から使者が来るらしいのだ。
クリステルの反応を見ただけで、ザハリアーシュはそれを察したのだろう。困った顔をした彼は、柔らかな口調で言った。
「わしらの里の者が迷惑をかけて、すまなんだ。じゃが、オルドリシュカが里に戻るにせよ、戻らぬにせよ、今後、わしらの里とこの国の交流がはじまるのは、悪いことではないと思っておるんじゃ」
「はい。わたしもですわ」
現在、この国と東の人狼の里との間に、交流らしい交流はほとんどない。たとえきっかけがどんなものであっても、互いをよく知る機会に繋がるのであれば、それはいいことだと思う。
ザハリアーシュは、柔らかくほほえんだ。
「わしらの里は、長いことほかの里や人間の国との交流から遠ざかっていた。狭い世界に閉じこもり、仲間たちの安寧だけを求めることが悪いとは言わん。じゃがわしは、はじめて外の世界を見たときの感動を、今もはっきりと思い出せる。……人狼も人間も、美しいものを美しいと感じる心は同じはずじゃ。ならば、互いにそれを共有することで、新たな関係を築くこともできるのではないかのぅ」
「……はい。ザハリアーシュさま」
かつてこの大陸中を見て回ったという『大陸最強』の二つ名を持つ人狼の老人は、クリステルよりも遥かにたくさんのものを見てきたはずだ。美しいものも、醜いものも。
彼とて、これまでずっと関係を断絶していた人間と人狼が、そう簡単に交流を深められるとは思っていないだろう。異なる人種ゆえ、互いに知らないことも、理解し合えないこともある。
だが、最初から無理だとあきらめる必要もない。
たとえどれほど難しい問題が目の前に積み重なっていたとしても、勇気を出して最初の一歩を踏み出さなければ、何もはじまらないのだ。
「お嬢さんや。勝手なことと思うかもしれんが、わしはおまえさんに――おまえさんたちに期待しているんじゃ。おまえさんも、いずれこの国の王になる坊も、わしの孫娘らを友と呼んでくれた。おまえさんたちが、これからこの国をどんなふうに導いていくのか、ほんに楽しみでなぁ」
胸の奥が、熱い。嬉しくて、苦しい。
クリステルは、喜びに震えそうになる声でどうにか答える。
「ありがとう、ございます。……ご期待に沿えるよう、精一杯務めさせていただきますわ」
そんな彼女を見ていたシュヴァルツが、ザハリアーシュに向けて口を開いた。
「人狼の。東の里のほうは、どうなのだ? そなたの孫娘が族長とならずとも、ほかに里を率いていける者がいるのか?」
ザハリアーシュは、わずかに首を捻る。
「そうですなぁ……。わしから見ても、あの娘ほど族長にふさわしい器量の者はおらんのですが。まぁ、どうにかなるのではありませんかな。たったひとりの娘に、里の未来をすべて押し付けるような真似は、しとうないんじゃ。わしのほうからあの娘に、族長になれと言うつもりはありませんわ」
のんびりとした答えに、シュヴァルツは、そうか、とうなずいた。
「いや、先日クリステルたちの学園で行われた宴に、そなたの孫娘が参加しただろう? そのとき、あの娘とカークライルのダンスを見ていたフランが、似合いのふたりだとひどく喜んでいてな」
「ほほぅ?」
(……はい?)
クリステルは、目を丸くした。
学園で行われた宴というのは、学生交流会のことだろう。たしかに、あのときダンスのパートナーとなったオルドリシュカとカークライルは、大変似合いのふたりではあった。
「今後、この国とそなたの里が交流をはじめるのなら、あの娘がカークライルに嫁ぐことも可能かもしれんな」
「それは、悪くないお話ですなぁ。あの若者でしたら、孫娘を任せるのになんの不安もありませんしの」
ほっほ、と笑うザハリアーシュは、実に楽しげだ。
クリステルにとって、オルドリシュカと彼女の側仕えのツェツィーリエは、まだ出会ったばかりではあるものの大切な友人である。そのオルドリシュカが、ウォルターの側近候補筆頭のカークライルに嫁いでくれたなら――それは、とても楽しそうだ。
フォークワース侯爵家の次男坊であるカークライルには、まだ婚約者がいない。カークライルがいずれウォルターの側近として正式に立つとき、彼の隣にいるのが自分の友人であれば、どれほど心強いことか。
クリステルは、ぐっと両手の拳を握りしめた。
(シュヴァルツさまとザハリアーシュさまは、冗談まじりにおっしゃっているだけかもしれませんけれど……っ。これは、本気で計画を立てて進めてもいい案件かもしれません!)
何しろ、クリステルがいずれこの国の王妃となったとき、彼女が相手にしなければならないのは、海千山千の宮廷人たち。信頼できる相手は、ひとりでも多くそばにいてもらいたいのだ。
もちろん、オルドリシュカ本人が望まないのであれば、無理強いするつもりはない。
しかし、幸い彼女はカークライルに対し、非常に好印象を抱いている様子だった。……それは恋愛感情とはほど遠い、『コイツの剣術、めっちゃキレイ』というものではあったが、好感度が高いことは間違いない。
残念ながら、クリステル自身も色恋沙汰にとんと疎いため、彼らの仲を取り持つのは難しそうだ。
それでも、彼らのお互いに対する好感度が上がるように、さりげなくお膳立てすることくらいはできるかもしれない。
為せば成る、という名言もある。誰の迷惑になる話でもないことだし、コッソリ地道にこつこつと策を練らせてもらおう。よしよし、とクリステルはひそかに決意を固める。
椅子の背もたれに体を預け、傲然と彼は言う。
「おかしなことを言うな、ジェレマイア。この学園の学生会長を務められない程度の器量で、俺の『予備』を名乗るつもりか?」
「オレだって! 好きであなたの『予備』なわけじゃない!」
顔をゆがめて叫ぶジェレマイアに、ウォルターはわずかに眉根を寄せた。
「悪いが、おまえの癇癪に付き合う暇はない。陛下のご命令に従って『予備』になるつもりがないのなら、今すぐその制服を脱いで、ここから出て行け」
「……っ」
現れたときの勢いはどこへやら、今のジェレマイアはウォルターの言う通り、癇癪を起こした子どものようだ。
かつて彼が王宮にいた頃、クリステルは何度か挨拶したことがある。
当時のジェレマイアは、自分がいずれこの国の王になると素直に信じている、無邪気で育ちのよい少年だった。敗北の味を何ひとつ知らず、周囲から守られることを当たり前に思っている――そんな、大らかで傲慢な王子さま。
クリステルは、改めて彼を見る。
無造作に見せながらきっちりと整えられた髪型といい、だらしなくなる寸前のギリギリのラインで着崩している制服といい、随分とイメージチェンジしたものだ。
無垢な女生徒たちが見たら、揃ってきゅんきゅんときめきそうな、立派な不良少年ぶりである。ちょっと可愛いと言えないこともないが、クリステルの好みではなかった。
(うーん……。あのいつもふわふわと幸せそうに笑っていた王子さまが、こんな中途半端にやさぐれた感じのキレやすい若者になってしまうとは。時間の流れというのは、残酷ですわね)
きっとジェレマイアも、異国で相当苦労したのだろう。
そんなことを考えていると、彼はぼそりと口を開いた。
「……よし。あー、よかった。うえぇ、めっちゃ緊張したぁ」
(は?)
クリステルは、目を丸くする。
今までの子どもじみた様子が嘘のように、ジェレマイアは首の後ろに手をやって、気だるげにぼやく。そして、細めた目をウォルターに向けてにやりと笑う。
「改めまして、どーも、兄上。アンタが相変わらず、オレのことなんてまるっきり眼中にないことがわかって、ほっとしました。さすがにねー、これからずっとアンタの顔色うかがってビクビクしながら生きていくとか、ちょーっと勘弁してもらいたかったんで」
そう言って、ジェレマイアはいかにも愉快そうに肩を揺らした。
「アンタは、強い。この国の誰よりも。だから、アンタよりも遥かに弱いオレを警戒する必要もない。そうでしょう?」
挑発的な物言いに、ウォルターが淡々と応じる。
「俺は今まで、おまえ個人を警戒したことは、一度もない」
「そりゃそーでしょうね。アンタが警戒してんのは、いつだってオレの後見。厄介なメイリーヴス公爵家だけだった。もしもアンタが、オレ個人を警戒するようになっていたら――それは、アンタが王宮の連中と同じように、オレに利用価値があると認めたってことだ。そんなことになっていなくて、本当によかったですよ。……アンタの望む未来に、『メイリーヴス公爵家の血を引く王子』は、必要ない」
心底安堵したようにそう言って、ジェレマイアは小さく息をつく。それから彼は、まっすぐにウォルターを見た。
「で、ものは相談なんですけど――兄上。オレと、取り引きしませんか?」
すっと、ジェレマイアの表情が改まる。
視線だけで話の先を促すウォルターに、彼は続けた。
「オレは、スティルナにいる限り『アンタに負けた王子』で、『アンタの予備』だ。そんな負け犬人生、オレはいらない。アンタが国王になったらでいい。この国から出て、自由に生きる権利が欲しい」
ウォルターは呆れ顔でジェレマイアを見る。
「メイリーヴス公爵家の血を引く国王の子を、王室と公爵家が手放すと思うのか? おまえの体に流れる血は、それほど簡単に外へ出していいものではない」
「だからですよ、兄上。だからオレは、アンタと取り引きがしたいと言っている。普通のやり方じゃあ、オレは一生、王室からも公爵家からも逃げられない」
ぐっと、ジェレマイアの唇が引き結ばれた。
そんな彼に、ウォルターは問う。
「なぜ、そこまでこの国から逃げたがる? 敗者の人生はいらない、だと? そんな甘ったれた理由を信じられるほど、俺はお人よしじゃない。おまえを切り捨ててアールクヴィストに放り出した公爵家と縁を切りたいからだ、と言われたほうが、まだ納得できるぞ」
冷ややかな言葉に、ジェレマイアの口元がゆがむ。
「……嘘を、言ったつもりはないんですがね」
「だろうな。――おまえのプライドの高さは、知っている。相手に本音を悟られることを恥じ、がむしゃらに努力する姿を見られることを屈辱だと思う。一年半異国で過ごした程度では、その貴族根性を叩き折られるには足りなかったか?」
小さく笑い、ウォルターはジェレマイアをまっすぐに見据える。
「おまえの本当の望みはなんだ、ジェレマイア。この国から出ることが、その望みを叶えるために必要だというなら、手を貸してやっても構わない。もちろん、対価は支払ってもらうがな」
束の間、沈黙が落ちた。ぴりぴりとした緊張感が張りつめる。
クリステルは、決してふたりの王子の邪魔をしてはいけないと思い、耐えていた。なぜなら――
(……なんということでしょう。癇癪を起こしたお子さまモードだったときには、気がつきませんでしたけれど……っ。ジェレマイア殿下のお声は、指パッチンで炎を出す錬金術師の大佐と同じ声ですね!?)
――ウォルターに真っ向から立ち向かうジェレマイアの声に、思いきり萌えていたからだ。彼の美声は、クリステルのオタク魂に素晴らしいダメージを与えていた。
十六歳の若造の分際で、これほど色っぽく苦悩に満ちた声を出してくるとは、実に生意気である。
クリステルが悶絶しそうになる己を懸命に抑えていると、一度目を伏せたジェレマイアが再びウォルターを見た。
「アンタは、この国の王の子として生まれたことを、呪ったことはありますか」
ひどく静かな声だった。
その空虚な響きに、クリステルは思わず息を呑む。
答えないウォルターに、ジェレマイアは感情を映さない目をして言う。
「オレは、あります。自分の体に流れる血をすべて入れ替えてしまいたい、と何度も思った。――アンタだって、考えたことがあるでしょう? 一度もないなんて、言わせない。オレもアンタも『弟たち』も、王宮の連中にとってはただの道具だ。オレたちの中で、一番優秀な道具だと連中に認められたから、アンタは王太子の座に就いた」
「否定はしない。この国の王宮にそういった面があるのは事実だ」
ええ、とジェレマイアはいっそ無邪気に笑ってみせた。
「でも、今のアンタはただの道具じゃなくて、ちゃんとした人間に見える。……ねぇ、兄上。欲しかったものは、手に入ったんでしょう? オレたちが、アンタに負けたから。アンタは勝って、ずっと欲しがっていたものを手に入れた。ずるいよ、兄上。アンタばっかり、どうしてすべてを手に入れられるの」
笑いながら、彼は言う。
「兄上。『建国王の再来』と、誰もが讃える王太子殿下。ひとつくらい、弟のお願いを聞いてくれたっていいでしょう。今すぐには無理だってことくらい、わかってる。アンタが国王になったときでいい。オレを、この国から解放して。オレに、自分の命の使い方を自分で決められる自由をちょうだい。――オレはもう、この体に流れる血を、一滴だって王宮と公爵家の連中のために使いたくない」
「……なるほどな」
ウォルターが、組んだ腕を指先で軽く叩く。ややあって、彼はゆっくりと口を開いた。
「その望みを叶えるために、おまえは何を対価に差し出す?」
「今のオレが持っているもの、全部」
「いいだろう」
まったく同じスカイブルーの瞳が、見つめ合う。
「ジェレマイア。おまえの言う取り引きを受けてやる。俺がこの国の王になるまで、おまえの忠誠は俺のものだ。おまえ個人の力も知識も人脈も、そしてメイリーヴス公爵家の血を引く事実も、すべて俺個人のためにだけ使ってみせろ」
兄の言葉に、ジェレマイアは一瞬目を瞠ったあと、心底嬉しそうな顔をしてうなずく。
「ええ。あなたが国王になるまでは、オレの忠誠はあなたのものだ。学生会の会長だって、喜んで務めさせていただきます。……約束ですよ、兄上。あなたがこの国の国王になった暁には、オレを自由にしてくださいね」
こうして期間限定ではあるものの、第二王子ジェレマイアの忠誠はウォルターのものになった。それに伴い、次期学生会会長が決定したのは喜ばしいことだ。
なんとなく寒々しい気分になりながら、クリステルはそう自分に言い聞かせたのだった。
第二章 もふもふは、正義です
思いのほか強烈だった第二王子さまとの再会を経て、クリステルは少々癒しが欲しくなった。それを得るため、週末、ギーヴェ公爵家の別邸へ向かう。
現在、一部の者たちから『伏魔殿』と呼ばれている別邸には、人外生物たちが集っている。
ドラゴン、ヴァンパイア、そして人狼が滞在しているのだ。
どの人外生物も、人間社会で種族名を明かして暮らすと言うのは、かなり珍しい。
本当に、よくぞここまで揃ったものである。
中でも最も付き合いが長いのは、ドラゴンのシュヴァルツだ。彼は漆黒の鱗と炎色の瞳、そして白銀の角を持つ巨大なドラゴンの化身である。
別邸の客間に到着したクリステルを迎えてくれたのも、シュヴァルツだった。そして、『見た目は超絶美人、中身は老人』の人狼、ザハリアーシュもいる。
残念ながら、今日はクリステルを最も癒してくれる、愛くるしい幼女姿のヴァンパイアは、兄貴分とともに出かけているらしい。
また、先日からこの別邸に入った人狼の若者たちも、揃って出かけているという。
クリステルは、シュヴァルツとザハリアーシュが座るソファの前に腰かけ、挨拶する。
「ごきげんよう、シュヴァルツさま。ザハリアーシュさま。こちらは、最近評判の菓子店で見つけたフィナンシェなのですけど、バターの香りがとても素敵ですの。新作だという胡桃とレーズンのパウンドケーキもございますから、ぜひ食べ比べてみてくださいな」
にこりと笑って手土産の菓子を差し出すと、幻獣の王たるドラゴンと『大陸最強』の二つ名を持つ人狼が、揃って幸せそうな笑みを浮かべる。
「よく来たな、クリステル。人狼の子たちは遅くなると言っていたが、フランとソーマディアスはじきに戻るはずだ」
「そうなのですか? 嬉しいです」
フランことフランシェルシアとソーマディアスは、それぞれ『ヴァンパイアの王』と『純血のヴァンパイア』という、とんでもない力を持つ上位種だ。
ただ、フランシェルシアはいまだ幼く力の制御が不安定である。責任感が皆無なニート系ヴァンパイアであるソーマディアスとふたりだけで外出しているのは、正直かなり心配だ。
(まぁ……ソーマディアスさまには、お兄さま謹製の制御首輪――もとい、チョーカーを装備していただいておりますから、暴走することはないでしょうし。彼がそばにいれば、フランさまに危険が及ぶようなことにはまずならないでしょう。きっと大丈夫……だと、信じたいところです)
クリステルの兄エセルバートは、優秀な魔導具の研究者だ。彼が今までに作ったものは、どれも素晴らしい性能を誇っていた。ブラコンである彼女の贔屓目を別にしても、エセルバートの魔導具は信用に値するはずだ。
ほっほ、と笑ったのは、黙っていれば中性的な美人にしか見えないザハリアーシュだ。
「よう来たのぅ、お嬢さん。せっかく若い娘さんが来てくれたのに、迎えるのが年寄りばかりで申し訳ないの」
クリステルは手土産を広げながら笑いかける。
「とんでもありません、ザハリアーシュさま。それに、そのお姿で『年寄り』などと言われても、とてもそんなふうに思えませんわ」
何しろ彼の外見は、多く見積もっても二十代の半ば。白くつややかな髪にアメジストの瞳を持つ美青年だ。
年齢は立派な老人である彼が、これほど若々しい容姿をしているのには、理由がある。彼は若い頃、この大陸中を冒険していた折に、不老の妙薬と言われる人魚の生き血を舐めたのだ。
見た目は白皙の美青年、中身は経験豊かなご老体のザハリアーシュが、再びほっほ、と笑う。
「いやはや……。それにしても、この年になってこれほど愉快な経験ができるとは思わなんだわ。まさか、大陸の西を統べる黒のドラゴン殿と、こうして茶飲み話ができるとはのぅ」
「ええ、本当に」
にこにこと笑ってクリステルはうなずいた。
幻獣の王たるドラゴンのシュヴァルツが、こうしてスイーツを楽しむようになったのは、彼女の地道な餌付け――もとい、何度も繰り返したプレゼントの成果である。
素敵なお菓子の魅力が、種族の垣根を越えて通じるものであると証明されて、クリステルはとっても嬉しい。
別邸に常備されている最上級のコーヒー豆は、ザハリアーシュの口に合ったようだ。洗練されたデザインのカップを持ち、満足げな微笑を浮かべてコーヒーの香りを楽しんでいる彼の姿は、うっとりするほど麗しい。
一方、見た目も中身も素敵な紳士であるシュヴァルツは、胡桃とレーズンのパウンドケーキがいたくお気に召したらしい。先ほどから黙々とそれを口にしていたが、残りが半分になったところで手を止めた。
「……実に美味かった。これならば、フランも喜ぶだろう」
(はう……っ)
――本当はもっと食べたいだろうに、可愛がっている子どものためにケーキを残しておく、マッチョ紳士。
素晴らしい重低音の美声と相俟って、このドラゴンの化身はちょくちょくクリステルの萌えポイントを突いてくれる。
あやうく『可愛いなぁ、もうっ』と萌え転がりそうになる己をどうにか立て直し、クリステルはシュヴァルツに問いかけた。
「そ……そういえば、シュヴァルツさま。最近、一角獣さまにはお会いしていらっしゃいますか?」
黒髪のドラゴンの化身は、うむ、とうなずく。
「十日ほど前に、様子を見に行った。残念ながら、そなたの友人に紹介された牝馬には相手にされなかったようだが……。角も半分以上再生していたし、元気そうであったぞ」
シュヴァルツの友達の一角獣は、魔力の根源である角を損傷してしまったため、現在は王室所有の牧場で保護されている。ディアン・ケヒトという名の彼は、大変喧嘩っ早くて女好きの一角獣だ。
彼の角が折れた原因には、クリステルも無関係ではないため、ほっとした。
そこで、半目になったザハリアーシュがシュヴァルツを見る。
「ドラゴン殿……。一角獣殿の、あのどんよりと落ち込んでいる様子は、とても『元気そう』とは言い難いのではないか?」
「む?」
シュヴァルツが首をかしげる。可愛い。
「あら。ザハリアーシュさまも、一角獣さまのお見舞いに行かれましたの?」
問いかけたクリステルに、ザハリアーシュはなんとも言えない表情でうなずいた。
「わしも随分と長く生きておるが、今まで遠目にしか一角獣を見たことがなかったのでな。ぜひ一度間近でその美しさを見てみたいと思ったんじゃが……」
はぁ、とザハリアーシュがため息をつく。
「彼の一角獣殿は、たしかに見事な姿をしておったぞ。ただ、キノコが生えていそうなじめじめとした木陰で、死んだようにぴくりとも動かない様子を見ても、ちっとも感動せんわ」
(うわぁ……)
どうやら、一角獣は失恋のショックで大層落ちこんでいるらしい。
先日、彼に自慢の牝馬を紹介したのは、ネイトだ。武門貴族の後継である彼は、できることなら一角獣の子を育ててみたい、と熱望していた。
だが残念ながら、その願いは簡単に叶うものではなかったようだ。
世の中とはままならないものなのだな、とクリステルが嘆息していると、シュヴァルツがさらりと口を開いた。
「あやつが気に入った雌に拒絶されて落ちこむのは、よくあることだ。放っておいても、すぐに元通りになる」
「……あの、シュヴァルツさま。一角獣さまは、そんなにその……女性に敬遠されてしまうことが多いのですか?」
かなり遠まわしに『あの一角獣って、モテないの?』と問いかけたクリステルに、シュヴァルツはノータイムでうなずく。
「ああ。あやつの見た目は、一角獣の中でもかなり美しいほうらしいのだがな。どうも、あの歯に衣着せぬ物言いと、すぐに頭に血が上る性格と、喧嘩を見ると喜んで参加しにいく子どもっぽさが、雌たちにとってはあまり好まれんところのようだ」
「……なるほど」
ジェントルなドラゴンによる解説に、クリステルは納得するしかなかった。仮に彼女が一角獣の恋愛対象になる生物だったとしても、そんなに面倒くさそうな男など、心の底から遠慮したい。
「ところで、お嬢さん。ひとつ聞きたいんじゃが……。わしの孫娘のことで、東の里からなんぞ連絡があったりはせんか?」
ザハリアーシュの問いかけに、クリステルは顔を上げる。
そういえば、彼らの故郷である東の人狼の里から、近いうちに使者がやってくる予定があると聞いていた。
この別邸には現在、彼の孫娘であるオルドリシュカが滞在している。彼女は、東の人狼の里の次期族長と目されている少女だ。しかしオルドリシュカは、それを押し付けてくる周囲のうっとうしい手管に嫌気がさして、出奔してしまった。そんな彼女を呼び戻そうと、彼らの里から使者が来るらしいのだ。
クリステルの反応を見ただけで、ザハリアーシュはそれを察したのだろう。困った顔をした彼は、柔らかな口調で言った。
「わしらの里の者が迷惑をかけて、すまなんだ。じゃが、オルドリシュカが里に戻るにせよ、戻らぬにせよ、今後、わしらの里とこの国の交流がはじまるのは、悪いことではないと思っておるんじゃ」
「はい。わたしもですわ」
現在、この国と東の人狼の里との間に、交流らしい交流はほとんどない。たとえきっかけがどんなものであっても、互いをよく知る機会に繋がるのであれば、それはいいことだと思う。
ザハリアーシュは、柔らかくほほえんだ。
「わしらの里は、長いことほかの里や人間の国との交流から遠ざかっていた。狭い世界に閉じこもり、仲間たちの安寧だけを求めることが悪いとは言わん。じゃがわしは、はじめて外の世界を見たときの感動を、今もはっきりと思い出せる。……人狼も人間も、美しいものを美しいと感じる心は同じはずじゃ。ならば、互いにそれを共有することで、新たな関係を築くこともできるのではないかのぅ」
「……はい。ザハリアーシュさま」
かつてこの大陸中を見て回ったという『大陸最強』の二つ名を持つ人狼の老人は、クリステルよりも遥かにたくさんのものを見てきたはずだ。美しいものも、醜いものも。
彼とて、これまでずっと関係を断絶していた人間と人狼が、そう簡単に交流を深められるとは思っていないだろう。異なる人種ゆえ、互いに知らないことも、理解し合えないこともある。
だが、最初から無理だとあきらめる必要もない。
たとえどれほど難しい問題が目の前に積み重なっていたとしても、勇気を出して最初の一歩を踏み出さなければ、何もはじまらないのだ。
「お嬢さんや。勝手なことと思うかもしれんが、わしはおまえさんに――おまえさんたちに期待しているんじゃ。おまえさんも、いずれこの国の王になる坊も、わしの孫娘らを友と呼んでくれた。おまえさんたちが、これからこの国をどんなふうに導いていくのか、ほんに楽しみでなぁ」
胸の奥が、熱い。嬉しくて、苦しい。
クリステルは、喜びに震えそうになる声でどうにか答える。
「ありがとう、ございます。……ご期待に沿えるよう、精一杯務めさせていただきますわ」
そんな彼女を見ていたシュヴァルツが、ザハリアーシュに向けて口を開いた。
「人狼の。東の里のほうは、どうなのだ? そなたの孫娘が族長とならずとも、ほかに里を率いていける者がいるのか?」
ザハリアーシュは、わずかに首を捻る。
「そうですなぁ……。わしから見ても、あの娘ほど族長にふさわしい器量の者はおらんのですが。まぁ、どうにかなるのではありませんかな。たったひとりの娘に、里の未来をすべて押し付けるような真似は、しとうないんじゃ。わしのほうからあの娘に、族長になれと言うつもりはありませんわ」
のんびりとした答えに、シュヴァルツは、そうか、とうなずいた。
「いや、先日クリステルたちの学園で行われた宴に、そなたの孫娘が参加しただろう? そのとき、あの娘とカークライルのダンスを見ていたフランが、似合いのふたりだとひどく喜んでいてな」
「ほほぅ?」
(……はい?)
クリステルは、目を丸くした。
学園で行われた宴というのは、学生交流会のことだろう。たしかに、あのときダンスのパートナーとなったオルドリシュカとカークライルは、大変似合いのふたりではあった。
「今後、この国とそなたの里が交流をはじめるのなら、あの娘がカークライルに嫁ぐことも可能かもしれんな」
「それは、悪くないお話ですなぁ。あの若者でしたら、孫娘を任せるのになんの不安もありませんしの」
ほっほ、と笑うザハリアーシュは、実に楽しげだ。
クリステルにとって、オルドリシュカと彼女の側仕えのツェツィーリエは、まだ出会ったばかりではあるものの大切な友人である。そのオルドリシュカが、ウォルターの側近候補筆頭のカークライルに嫁いでくれたなら――それは、とても楽しそうだ。
フォークワース侯爵家の次男坊であるカークライルには、まだ婚約者がいない。カークライルがいずれウォルターの側近として正式に立つとき、彼の隣にいるのが自分の友人であれば、どれほど心強いことか。
クリステルは、ぐっと両手の拳を握りしめた。
(シュヴァルツさまとザハリアーシュさまは、冗談まじりにおっしゃっているだけかもしれませんけれど……っ。これは、本気で計画を立てて進めてもいい案件かもしれません!)
何しろ、クリステルがいずれこの国の王妃となったとき、彼女が相手にしなければならないのは、海千山千の宮廷人たち。信頼できる相手は、ひとりでも多くそばにいてもらいたいのだ。
もちろん、オルドリシュカ本人が望まないのであれば、無理強いするつもりはない。
しかし、幸い彼女はカークライルに対し、非常に好印象を抱いている様子だった。……それは恋愛感情とはほど遠い、『コイツの剣術、めっちゃキレイ』というものではあったが、好感度が高いことは間違いない。
残念ながら、クリステル自身も色恋沙汰にとんと疎いため、彼らの仲を取り持つのは難しそうだ。
それでも、彼らのお互いに対する好感度が上がるように、さりげなくお膳立てすることくらいはできるかもしれない。
為せば成る、という名言もある。誰の迷惑になる話でもないことだし、コッソリ地道にこつこつと策を練らせてもらおう。よしよし、とクリステルはひそかに決意を固める。
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