滅びゆく竜の物語

柴咲もも

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第一章 旅の途中

懐かしい声②

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 虫の鳴き声ひとつしない静まり返った村の通りを、オルランドはマリア連れて歩いていた。
 道の両脇に立ち並ぶ住人を失った家屋の扉や窓が、夜の風に煽られて、時折軋むような音を立てる。空を覆っていた雲はいつの間にか風に流され、月明かりがぼんやりと闇の中に村の全景を浮かび上がらせていた。
 手にしたランタンで道の先を照らし、もう一方の手には空の水桶を提げて、度々村の見取り図を確認しながら、広場へと続く坂道を登る。オルランドから半歩遅れて、替えの服が入った布袋を抱えたマリアが歩いていた。
 凄惨な襲撃事件の直後だと言うのに、オルランドには静寂に包まれた村が不気味に感じられない。これまでの任務でこういった状況に慣れてしまったこともあるが、それ以上に、アルバーノの不可解な行動の真意に気がついてしまったことが大きく影響していた。

 ――そういうことか。

 平常時のアルバーノならば、やはりマリアに作業衣を貸し与えていたのだ。だが、彼は今回、敢えてそうしなかった。
 肌や衣類が血にまみれることを厭わずに作業を手伝うマリアを見て、アルバーノは考えたのだ。森から戻ったオルランドが、自然な流れでマリアとふたりきりになる状況を作り出す筋書きを。

 余計な世話にもほどがあった。
 つまるところ、隊員の数名、少なくともアルバーノとジルドは、オルランドがマリアに対して特別な想いを抱いているものだと勘違いしているのだろう。
 確かに、出会いが特殊だったぶん接し方も特異なものになってはいるが、オルランドが彼女に対して抱いている感情は恋愛のそれではない。彼女が無知で危うい存在であるが故に、世話を焼いてしまっているだけだ。
 オルランドは深々と溜め息をつき、隣を歩くマリアの様子を盗み見た。

 真っ直ぐに前を見据えたまま、マリアは軽やかな足取りで坂道を歩いていた。
 月明かりを浴びて青みがかる柔らかな朱紅い髪は腰にかかるほど長く、彼女が足を踏み出すたびにふわりと風に揺れていた。長い睫毛に縁取られた翡翠の瞳は夜の明かりに反射してきらきらと輝き、薄紅色の唇は瑞々しく潤いを保っている。村娘のような野暮ったい服の上からでもよくわかる、くびれた腰からの柔らかな丸みを帯びるラインは、少女と言うより成熟した大人の女性を思わせた。

 確かに、マリアは美しい。今迄にオルランドが救ったどの村の娘よりも、社交の場で出会ったどの女性よりも、娼館で抱いたどの女よりも、純粋で輝いて見えた。
 袖口から伸びたほっそりと白い腕は、触れればさぞやわらかく、しっとりとなめらかなことだろう。吸い付くような肌の感触を想像し、オルランドは慌てて首を振った。
 任務続きで疲れているのか、余計な気を遣われた所為か、意識せずとも如何わしいことを考えてしまいそうになる。
 大きく息を吐いてもう一度隣に眼を向ければ、オルランドの視線に気付いたマリアがにこやかに微笑んだ。無防備な笑顔に気恥ずかしさがこみ上げて、オルランドは意味もなく顔を背けてしまった。

 実に馬鹿馬鹿しい!
 年甲斐もなく無意味に焦る自分自身に、オルランドは苛立ちを覚えていた。
 思春期の少年でもあるまいし、このような感情を今更抱くなど、あまりにも滑稽ではないか。
 万が一オルランドが彼女に想いを寄せたとして、まだ二十歳はたちかそこらであろう彼女に対し、オルランドの年齢は三十に差し掛かる。政略結婚ならば良くある年齢差だろうが、そのような世界とは無縁な彼女からすれば、こんな年の離れた男からの好意など迷惑甚だしいはずだ。

「……オルランド?」

 不意に名前を呼ばれて振り返ると、マリアが心配したようにオルランドを見上げていた。

「すまない、少し疲れたようだ」

 慌てて笑顔を作り、見取り図を確認する。
 この通りを道なりに歩けば、やがては中央広場に行き当たる。アルバーノの報告が正しいのならば、その広場は件の襲撃で大勢の村人が犠牲になった場所であり、今も犠牲者の遺体が無数に安置されている。
 幾度となく野盗の襲撃に曝された村を見てきたオルランドだが、このような時間に多くの遺体が置かれた場所を通ることには未だに抵抗があった。
 村の地理に詳しくない以上、出来ることならこのまま広場を通り抜けたいところだが、平和な土地で育ったであろうマリアにとっては、相当耐え難い状況になるだろう。
 迂回するべきかどうか暫し考え込んだあと、オルランドはマリアに判断を委ねることにした。先刻からオルランドの隣で様子を窺っていたマリアの手を取り、傍に引き寄せると、オルランドはランタンの灯りで見取り図を照らしてみせた。

「このまま進むと中央広場に突き当たる。昼間のうちにきみたちが村人の遺体を運び集めた広場だ。抵抗があるようなら、時間はかかるが迂回することもできるが、私もこの村には詳しくない。……このまま進んでも大丈夫だろうか?」

 オルランドが問うと、マリアは村の見取り図を覗き込み、大きく頷いて云った。

(大丈夫、このまま進もう。生きているものは必ず死ぬのだから、死者を恐れたりはしないよ)

 その言葉のとおり、広場を通り抜ける際にマリアが取り乱すことは様子は一度としてなかった。怖気づくことなく広場に足を踏み入れて、彼女は一切の言葉もなくオルランドの後をついてきた。

 変わり者だと思ってはいたが、ここまで肝が座っているとは想像だにしていなかった。
 オルランドが知る限り、女子供というのは大概闇を恐れるものであり、無数の死体が側にあるというだけでも、その恐怖は尋常ではないものだったはずだ。

 オルランドの脳裏にふと、野盗の隠れ家で見た光景が過った。マリアの捜し人は、おそらくあの惨状を作り上げた男だ。もしかしたら、彼女もその男と同様に人の死に対して何も感じない、冷酷で残忍な生き物なのかもしれない。
 オルランドが眉間に皺を寄せた、そのときだった。水桶の取っ手を握っていたオルランドの手首に、あたたかな指先が触れた。柔らかで温かいその感触が何なのか、オルランドはすぐに理解できた。

(オルランド、なにか話をしよう……)

 それは消えてしまいそうなほどの、か細い聲だった。
 オルランドに触れたマリアの指先は、凍えるようにかたかたと震えていた。


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