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第二章 死する狼のための鎮魂歌
羊の安らぎ亭②
路地裏の階段を降りた先、薄暗い地下街の片隅で、ゼノは立ち尽くしていた。茫然と向けられた視線の先には、薄汚れた家屋が建っている。
あらゆるものを精巧に偽造するかつての裏世界の名匠の、その工房だった建物には、以前の面影は残っていない。傾きかけた木製の扉には鉄の錠が掛けられており、窓は埃に覆われて、人の気配も感じられなかった。
任せて欲しいと大見得を切った矢先にこれでは、まるで格好がつかない。マリアンルージュにも呆れられることだろう。
困り果てたように、ゼノは肩を落とした。
かと言って、いつまでもここで時間を浪費するわけにもいかない。『羊の安らぎ亭』でゼノの帰りを待つマリアンルージュに、早急にこのことを伝え、今後のことについて話し合わなければならない。
小さく溜め息をつくと、ゼノは商業区へ続く階段を登りはじめた。途中、ふと階下を見下ろすと、ぎらついた眼でゼノを見上げる薄汚れた姿の老人と目が合った。物言いたげな老人はおもむろに口を開き、しゃがれた声でゼノに話しかけた。
「もう三十年ほど前になる。二人組の旅人が、この路地裏を訪れた。……あんた、あのときの一人によく似ている。一体何者だい?」
老人の突然の問いに、ゼノが一瞬動きを止める。ややあって、その顔に苦い笑みが浮かんだ。
老人の濁った青い瞳を、ゼノは覚えていた。あのときの彼は、まだ働き盛りの壮年だった。
老人のことを思い出したことで、ゼノはようやく全てが腑に落ちた。
人間――短命種とは不便なものだ。二千年を生きる竜人族とは違い、その命はあまりにも短すぎる。
三十年の年月は、名匠と呼ばれた一人の男が生涯を終えるには充分過ぎた。
老人の問いに無言で首を振ると、ゼノは階段を昇り、路地裏を後にした。商業区の舗装された道を、足早に通り過ぎる。夕闇に染まる街の片隅で、『羊の安らぎ亭』は暖かい明かりを灯していた。
「さて、どうしたものか……」
呟いて空を仰いだあと、意を決したように、ゼノは木製の扉を開いた。
***
「いらっしゃいませ!」
扉をくぐると、快活な若い女性の声が響いた。店内には、昼間には感じられなかった華やかな雰囲気が漂っている。
給仕服を着た若い女性店員が、胸の前で木製のトレイを抱きかかえるようにしてゼノの前に進み出た。彼女が足を踏み出すたびに、膝丈のフレアスカートがふわりと揺れる。臙脂色のワンピースとフリルがあしらわれたエプロン姿のその女性は、朱紅い髪を左肩の上で緩くまとめていた。
「……マリア?」
半ば呆然としてゼノが確認すると、マリアンルージュはにこやかに微笑んで、スカートの端をつまみ上げ、軽くお辞儀をしてみせた。
「どうかな? 似合ってる?」
浮かれた様子で問われたが、ゼノは返事ができなかった。
ヤンの村で再会したときからマリアンルージュはぶかぶかのローブを身に纏っており、ゼノと森で行動を共にするうちに、すっかり薄汚れてしまっていた。その姿に見慣れてしまったこともあってか、久しぶりに身なりを整え薄化粧を施した彼女は、元の容姿も相まって大変美しく見えた。
「やっぱり似合わない?」
言葉を詰まらせたままゼノが黙っていると、ちょっぴり気落ちした上目遣いでマリアンルージュが小首を傾げた。
「……え? いえ、その……良いと思います」
流石に「見惚れていた」とは言えなかった。けれど、ゼノの返事に満足したのか、マリアンルージュはにっこりと笑うと、元の浮かれた調子でゼノの手を取った。
「な、なんですか?」
「練習! ちょっと付き合って!」
戸惑うゼノにはお構いなしにマリアンルージュはテーブルへ向かい、ゼノを椅子に座らせた。
広告の件で宿の主人であるダニエルに話を持ち掛け、無事に雇われの身になったゼノとマリアンルージュだったが、即採用されたという訳ではなかった。
ダニエルには渋い顔をされたものの、あとから顔を出した女将のヴァネッサの口添えのおかげで無事に承諾を得ることになったのだ。
どうやらヴァネッサはマリアンルージュを気に入ったらしく、ふたりを住み込みの従業員として雇っただけでなく、利用客がいない客室を快く貸し与えてくれた。
働き口と滞在場所の両方が決まり安心したゼノは、その足で裏路地へ出掛けた訳だが、ゼノの留守中、部屋に居たマリアンルージュにヴァネッサから提案があったらしい。
「今日の夕食時、つまり、今から働いてみないかって。だから、お客様第一号ってことで、ちょっとだけ付き合ってよ!」
茶目っ気たっぷりに微笑まれ、ゼノは困惑した。練習と言われても、何をどうすれば良いのかわからない。
「じゃあ、何か、おすすめの飲み物を……」
ゼノが適当に頼むと、マリアンルージュは「かしこまりました」と軽く頭を下げ、踵を返して厨房の中へ駆け込んで行った。
僅かな間をおいて再び食堂へ姿を現した彼女は、酒の瓶とグラスが載ったトレイを手にしていた。
「この街特産の果実酒です」
ゼノにグラスを手渡して、マリアンルージュが酒を注ぎはじめた、ちょうどそのとき。
カランカランと小気味の良い音を響かせて店の扉が開いた。仕事を終えた職人と鉱山夫達がやってきたのだ。
「いらっしゃいませ!」
マリアンルージュの明るい声が食堂に響くと、仕事帰りの男達の視線が一点に集中した。新顔の、若い女性従業員を前に、そこかしこからどよめきが起こる。
「空いているお席へどうぞ」
大勢の客を相手に動じることなく、マリアンルージュはにっこりと微笑んで大人数の客を手際良くテーブルへと案内していく。とても初めてとは思えない、見事な立ち回りだった。
感心したゼノがふと厨房へ目を向けると、ダニエルとヴァネッサが顔を覗かせて食堂を眺め、満足気に頷いているのが目に入った。
ゼノの視線に気がつくと、ふたりはしたり顔で親指を立て、ゼノに上機嫌な笑みをみせた。
あらゆるものを精巧に偽造するかつての裏世界の名匠の、その工房だった建物には、以前の面影は残っていない。傾きかけた木製の扉には鉄の錠が掛けられており、窓は埃に覆われて、人の気配も感じられなかった。
任せて欲しいと大見得を切った矢先にこれでは、まるで格好がつかない。マリアンルージュにも呆れられることだろう。
困り果てたように、ゼノは肩を落とした。
かと言って、いつまでもここで時間を浪費するわけにもいかない。『羊の安らぎ亭』でゼノの帰りを待つマリアンルージュに、早急にこのことを伝え、今後のことについて話し合わなければならない。
小さく溜め息をつくと、ゼノは商業区へ続く階段を登りはじめた。途中、ふと階下を見下ろすと、ぎらついた眼でゼノを見上げる薄汚れた姿の老人と目が合った。物言いたげな老人はおもむろに口を開き、しゃがれた声でゼノに話しかけた。
「もう三十年ほど前になる。二人組の旅人が、この路地裏を訪れた。……あんた、あのときの一人によく似ている。一体何者だい?」
老人の突然の問いに、ゼノが一瞬動きを止める。ややあって、その顔に苦い笑みが浮かんだ。
老人の濁った青い瞳を、ゼノは覚えていた。あのときの彼は、まだ働き盛りの壮年だった。
老人のことを思い出したことで、ゼノはようやく全てが腑に落ちた。
人間――短命種とは不便なものだ。二千年を生きる竜人族とは違い、その命はあまりにも短すぎる。
三十年の年月は、名匠と呼ばれた一人の男が生涯を終えるには充分過ぎた。
老人の問いに無言で首を振ると、ゼノは階段を昇り、路地裏を後にした。商業区の舗装された道を、足早に通り過ぎる。夕闇に染まる街の片隅で、『羊の安らぎ亭』は暖かい明かりを灯していた。
「さて、どうしたものか……」
呟いて空を仰いだあと、意を決したように、ゼノは木製の扉を開いた。
***
「いらっしゃいませ!」
扉をくぐると、快活な若い女性の声が響いた。店内には、昼間には感じられなかった華やかな雰囲気が漂っている。
給仕服を着た若い女性店員が、胸の前で木製のトレイを抱きかかえるようにしてゼノの前に進み出た。彼女が足を踏み出すたびに、膝丈のフレアスカートがふわりと揺れる。臙脂色のワンピースとフリルがあしらわれたエプロン姿のその女性は、朱紅い髪を左肩の上で緩くまとめていた。
「……マリア?」
半ば呆然としてゼノが確認すると、マリアンルージュはにこやかに微笑んで、スカートの端をつまみ上げ、軽くお辞儀をしてみせた。
「どうかな? 似合ってる?」
浮かれた様子で問われたが、ゼノは返事ができなかった。
ヤンの村で再会したときからマリアンルージュはぶかぶかのローブを身に纏っており、ゼノと森で行動を共にするうちに、すっかり薄汚れてしまっていた。その姿に見慣れてしまったこともあってか、久しぶりに身なりを整え薄化粧を施した彼女は、元の容姿も相まって大変美しく見えた。
「やっぱり似合わない?」
言葉を詰まらせたままゼノが黙っていると、ちょっぴり気落ちした上目遣いでマリアンルージュが小首を傾げた。
「……え? いえ、その……良いと思います」
流石に「見惚れていた」とは言えなかった。けれど、ゼノの返事に満足したのか、マリアンルージュはにっこりと笑うと、元の浮かれた調子でゼノの手を取った。
「な、なんですか?」
「練習! ちょっと付き合って!」
戸惑うゼノにはお構いなしにマリアンルージュはテーブルへ向かい、ゼノを椅子に座らせた。
広告の件で宿の主人であるダニエルに話を持ち掛け、無事に雇われの身になったゼノとマリアンルージュだったが、即採用されたという訳ではなかった。
ダニエルには渋い顔をされたものの、あとから顔を出した女将のヴァネッサの口添えのおかげで無事に承諾を得ることになったのだ。
どうやらヴァネッサはマリアンルージュを気に入ったらしく、ふたりを住み込みの従業員として雇っただけでなく、利用客がいない客室を快く貸し与えてくれた。
働き口と滞在場所の両方が決まり安心したゼノは、その足で裏路地へ出掛けた訳だが、ゼノの留守中、部屋に居たマリアンルージュにヴァネッサから提案があったらしい。
「今日の夕食時、つまり、今から働いてみないかって。だから、お客様第一号ってことで、ちょっとだけ付き合ってよ!」
茶目っ気たっぷりに微笑まれ、ゼノは困惑した。練習と言われても、何をどうすれば良いのかわからない。
「じゃあ、何か、おすすめの飲み物を……」
ゼノが適当に頼むと、マリアンルージュは「かしこまりました」と軽く頭を下げ、踵を返して厨房の中へ駆け込んで行った。
僅かな間をおいて再び食堂へ姿を現した彼女は、酒の瓶とグラスが載ったトレイを手にしていた。
「この街特産の果実酒です」
ゼノにグラスを手渡して、マリアンルージュが酒を注ぎはじめた、ちょうどそのとき。
カランカランと小気味の良い音を響かせて店の扉が開いた。仕事を終えた職人と鉱山夫達がやってきたのだ。
「いらっしゃいませ!」
マリアンルージュの明るい声が食堂に響くと、仕事帰りの男達の視線が一点に集中した。新顔の、若い女性従業員を前に、そこかしこからどよめきが起こる。
「空いているお席へどうぞ」
大勢の客を相手に動じることなく、マリアンルージュはにっこりと微笑んで大人数の客を手際良くテーブルへと案内していく。とても初めてとは思えない、見事な立ち回りだった。
感心したゼノがふと厨房へ目を向けると、ダニエルとヴァネッサが顔を覗かせて食堂を眺め、満足気に頷いているのが目に入った。
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