59 / 90
第二章 死する狼のための鎮魂歌
心変わりと、その理由②
しおりを挟む
「まさか兄ちゃんが、一発で伸されちまうとはなぁ……」
宿屋『羊の安らぎ亭』の一室で、ダニエルは腕を組み、肩を落として唸った。
目の前のソファには、見るも無残な姿のゼノが寝かされている。まぶたは青く変色し、腫れ上がった唇の端には血が滲んでいた。鉱山で鍛えられた男の拳には、想像以上の破壊力があったようだ。
床に膝立ちになり、心配そうにゼノの顔を覗き込んだマリアンルージュが、冷水で湿らせたタオルを痛々しい患部にそっとあてた。
「大丈夫?」
優しく声を掛けられ、ゼノは小さく頷きを返した。我ながら情けない、と溜め息が洩れる。
喧嘩は得意ではないけれど、あのような大振りの攻撃であれば、いつもなら簡単にかわすことができたはずだ。
「あまり気落ちするんじゃないよ。体格差からして結果は目に見えていたじゃないか。……まぁ、取り敢えず、あんたには明日から厨房に入ってもらうけどね」
マリアンルージュの後ろからゼノの様子を覗いていたヴァネッサがおおらかに笑う。慰めているつもりだろうが、ゼノはむしろ追い討ちをかけらた気分だった。
給仕の仕事に関しては、元々接客には向いていないのだから異論はない。ヴァネッサの判断は、先程の盛大な負け犬っぷりをネタに、ゼノが客に弄り倒されかねないことを考慮してのことだろう。
「すみません……」
ちからなくゼノが呟くと、ヴァネッサはやれやれと肩を竦めて微笑んだ。
そのまま暫く様子を眺めたあと、思い立ったようにポンと手を打ったヴァネッサは、食堂に残した客を気にしたのか若いふたりに気を遣ったのか、隣で唸り続ける夫を引きずるようにして、さっさと部屋を出て行ってしまった。
扉が閉まり、部屋の中に沈黙が訪れた。
「……出過ぎた真似をしました」
しばらくして、気怠げな声でゼノが呟いた。痛みを訴えるまぶたを薄すらと開いて、天井から吊り下げられた簡素なシャンデリアを見上げる。
「そんなことない、すごく助かったよ。あのお客さん、何を言っているのか良く分からなかったし、いきなり手を掴まれてびっくりしちゃったから」
負傷したゼノを労わっているつもりなのか、マリアンルージュが妙に明るく振る舞ってみせる。
片目の視界が霞んだままで、すぐ傍に居るというのに、ゼノにはマリアンルージュの表情が読み取れなかった。けれど今のゼノにとっては、それが救いのようにさえ感じられた。情けないと落胆されるのも辛いが、過剰に心配されるのは、それよりも更に辛い。
まぶたの上に乗せられたタオルを押し退け、ゼノは片腕で顔を覆った。
喧嘩で負けたことはどうでもよかった。問題は、もっと別のところにあった。
「ごめん」
唐突に、マリアンルージュが呟いた。怪訝に思ったゼノの視線が、自然とマリアンルージュに向けられる。
「さっきの……きみが殴られたあのとき、わたしはお客さんのほうを心配してしまったんだ。てっきり、きみは竜気を纏っているものだと思っていたから……」
そう言って、マリアンルージュはゼノに頭を下げた。
「……かまいませんよ」
むしろ、それは当然のことだとゼノは思う。
マリアンルージュは、ゼノが常に竜気で身を守っていたことを知っていた。その特性を理解している者なら、誰だってそうだろう。
例え圧倒的な体格差のある相手に本気で殴られたとしても、竜気を纏った状態であれば、ほとんど無傷でいられる。相手が力任せな殴り方をすれば、逆にその拳が粉砕してしまうのがオチだ。
以前のゼノであれば、躊躇いなく相手の自滅を誘発していだろう。
けれど、マリアンルージュと行動を共にしている以上、あれだけ多くの見物客の目の前で、そのような異常な光景を見せるわけにはいかなかった。
ゼノが異種族だと知られれば、当然、その疑惑はマリアンルージュにも向けられる。
異種族に対する人間の考え方は様々だが、ひとたび人間に怪我を負わせてしまえば、間違いなく畏怖と憎悪の対象にされるだろう。
避ければ良いのだと、すぐに気が付いた。
だが、その思考とは裏腹に、ゼノの身体は反射的に防御体勢に入ってしまった。纏いかけた竜気を慌てて解いたその瞬間に、思い切り左から殴られてしまったのだ。
「竜気を纏うの、やめたんだね」
囁くように告げて、マリアンルージュは顔を覆っていたゼノの腕を退かした。冷水で濡れたタオルを絞り、赤く腫れたゼノの頬を冷やす。
「どうしてやめたの? ……ってきいちゃダメかな?」
ぼんやりとシャンデリアを見上げるゼノの瞳を、マリアンルージュが覗き込んだ。流れ落ちた朱紅い髪から、ふわりと甘い香りがする。
もしも今、視界が晴れていたら、いくら無表情が十八番のゼノでも、感情が表情に出てしまっていただろう。
視界が霞んでいて本当に助かった。そう思いながら、ゼノは腫れ上がった唇を動かした。
「皆と同じ感覚でいたほうが興味深そうだと思った。……それだけのことです」
朧げに眼に映るマリアンルージュから視線を逸らし、ゼノは素っ気なく呟いた。
すでに、陽が落ちてだいぶ経っていた。月明かりに照らされた窓の外は思いのほか明るかったが、隙間から吹き込む夜の外気は肌に冷たい。
以前のゼノなら、このような感覚は覚えもしなかっただろう。
竜気を纏うのを止めた本当の理由。
そんなもの、言えるわけがなかった。
マリアンルージュと同じように、この世界に触れてみたい。ただそれだけのことなのだから。
「冷えてきたね」
そう言って、マリアンルージュは立ち上がり、部屋の暖炉に火を灯した。積み上げられた蒔が燃えて、火の粉がパチパチと爆ぜる音が、部屋のなかに小気味良く響いていた。
宿屋『羊の安らぎ亭』の一室で、ダニエルは腕を組み、肩を落として唸った。
目の前のソファには、見るも無残な姿のゼノが寝かされている。まぶたは青く変色し、腫れ上がった唇の端には血が滲んでいた。鉱山で鍛えられた男の拳には、想像以上の破壊力があったようだ。
床に膝立ちになり、心配そうにゼノの顔を覗き込んだマリアンルージュが、冷水で湿らせたタオルを痛々しい患部にそっとあてた。
「大丈夫?」
優しく声を掛けられ、ゼノは小さく頷きを返した。我ながら情けない、と溜め息が洩れる。
喧嘩は得意ではないけれど、あのような大振りの攻撃であれば、いつもなら簡単にかわすことができたはずだ。
「あまり気落ちするんじゃないよ。体格差からして結果は目に見えていたじゃないか。……まぁ、取り敢えず、あんたには明日から厨房に入ってもらうけどね」
マリアンルージュの後ろからゼノの様子を覗いていたヴァネッサがおおらかに笑う。慰めているつもりだろうが、ゼノはむしろ追い討ちをかけらた気分だった。
給仕の仕事に関しては、元々接客には向いていないのだから異論はない。ヴァネッサの判断は、先程の盛大な負け犬っぷりをネタに、ゼノが客に弄り倒されかねないことを考慮してのことだろう。
「すみません……」
ちからなくゼノが呟くと、ヴァネッサはやれやれと肩を竦めて微笑んだ。
そのまま暫く様子を眺めたあと、思い立ったようにポンと手を打ったヴァネッサは、食堂に残した客を気にしたのか若いふたりに気を遣ったのか、隣で唸り続ける夫を引きずるようにして、さっさと部屋を出て行ってしまった。
扉が閉まり、部屋の中に沈黙が訪れた。
「……出過ぎた真似をしました」
しばらくして、気怠げな声でゼノが呟いた。痛みを訴えるまぶたを薄すらと開いて、天井から吊り下げられた簡素なシャンデリアを見上げる。
「そんなことない、すごく助かったよ。あのお客さん、何を言っているのか良く分からなかったし、いきなり手を掴まれてびっくりしちゃったから」
負傷したゼノを労わっているつもりなのか、マリアンルージュが妙に明るく振る舞ってみせる。
片目の視界が霞んだままで、すぐ傍に居るというのに、ゼノにはマリアンルージュの表情が読み取れなかった。けれど今のゼノにとっては、それが救いのようにさえ感じられた。情けないと落胆されるのも辛いが、過剰に心配されるのは、それよりも更に辛い。
まぶたの上に乗せられたタオルを押し退け、ゼノは片腕で顔を覆った。
喧嘩で負けたことはどうでもよかった。問題は、もっと別のところにあった。
「ごめん」
唐突に、マリアンルージュが呟いた。怪訝に思ったゼノの視線が、自然とマリアンルージュに向けられる。
「さっきの……きみが殴られたあのとき、わたしはお客さんのほうを心配してしまったんだ。てっきり、きみは竜気を纏っているものだと思っていたから……」
そう言って、マリアンルージュはゼノに頭を下げた。
「……かまいませんよ」
むしろ、それは当然のことだとゼノは思う。
マリアンルージュは、ゼノが常に竜気で身を守っていたことを知っていた。その特性を理解している者なら、誰だってそうだろう。
例え圧倒的な体格差のある相手に本気で殴られたとしても、竜気を纏った状態であれば、ほとんど無傷でいられる。相手が力任せな殴り方をすれば、逆にその拳が粉砕してしまうのがオチだ。
以前のゼノであれば、躊躇いなく相手の自滅を誘発していだろう。
けれど、マリアンルージュと行動を共にしている以上、あれだけ多くの見物客の目の前で、そのような異常な光景を見せるわけにはいかなかった。
ゼノが異種族だと知られれば、当然、その疑惑はマリアンルージュにも向けられる。
異種族に対する人間の考え方は様々だが、ひとたび人間に怪我を負わせてしまえば、間違いなく畏怖と憎悪の対象にされるだろう。
避ければ良いのだと、すぐに気が付いた。
だが、その思考とは裏腹に、ゼノの身体は反射的に防御体勢に入ってしまった。纏いかけた竜気を慌てて解いたその瞬間に、思い切り左から殴られてしまったのだ。
「竜気を纏うの、やめたんだね」
囁くように告げて、マリアンルージュは顔を覆っていたゼノの腕を退かした。冷水で濡れたタオルを絞り、赤く腫れたゼノの頬を冷やす。
「どうしてやめたの? ……ってきいちゃダメかな?」
ぼんやりとシャンデリアを見上げるゼノの瞳を、マリアンルージュが覗き込んだ。流れ落ちた朱紅い髪から、ふわりと甘い香りがする。
もしも今、視界が晴れていたら、いくら無表情が十八番のゼノでも、感情が表情に出てしまっていただろう。
視界が霞んでいて本当に助かった。そう思いながら、ゼノは腫れ上がった唇を動かした。
「皆と同じ感覚でいたほうが興味深そうだと思った。……それだけのことです」
朧げに眼に映るマリアンルージュから視線を逸らし、ゼノは素っ気なく呟いた。
すでに、陽が落ちてだいぶ経っていた。月明かりに照らされた窓の外は思いのほか明るかったが、隙間から吹き込む夜の外気は肌に冷たい。
以前のゼノなら、このような感覚は覚えもしなかっただろう。
竜気を纏うのを止めた本当の理由。
そんなもの、言えるわけがなかった。
マリアンルージュと同じように、この世界に触れてみたい。ただそれだけのことなのだから。
「冷えてきたね」
そう言って、マリアンルージュは立ち上がり、部屋の暖炉に火を灯した。積み上げられた蒔が燃えて、火の粉がパチパチと爆ぜる音が、部屋のなかに小気味良く響いていた。
0
あなたにおすすめの小説
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
いや、無理。 (完結)
詩海猫(8/29書籍発売)
恋愛
細かいことは気にせずお読みください。
もはや定番となった卒業パーティー、急に冷たくなって公の場にエスコートすらしなくなった婚約者に身に覚えのない言い掛かりをつけられ、婚約破棄を突きつけられるーーからの新しい婚約者の紹介へ移るという、公式行事の私物化も甚だしい一連の行動に、私は冷めた瞳をむけていたーー目の前の男は言い訳が終わると、
「わかってくれるだろう?ミーナ」
と手を差し伸べた。
だから私はこう答えた。
「いや、無理」
と。
私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました
放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。
だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。
「彼女は可哀想なんだ」
「この子を跡取りにする」
そして人前で、平然と言い放つ。
――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」
その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。
「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる