滅びゆく竜の物語

柴咲もも

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第二章 死する狼のための鎮魂歌

心変わりと、その理由②

「まさか兄ちゃんが、一発で伸されちまうとはなぁ……」

 宿屋『羊の安らぎ亭』の一室で、ダニエルは腕を組み、肩を落として唸った。
 目の前のソファには、見るも無残な姿のゼノが寝かされている。まぶたは青く変色し、腫れ上がった唇の端には血が滲んでいた。鉱山で鍛えられた男の拳には、想像以上の破壊力があったようだ。
 床に膝立ちになり、心配そうにゼノの顔を覗き込んだマリアンルージュが、冷水で湿らせたタオルを痛々しい患部にそっとあてた。

「大丈夫?」

 優しく声を掛けられ、ゼノは小さく頷きを返した。我ながら情けない、と溜め息が洩れる。
 喧嘩は得意ではないけれど、あのような大振りの攻撃であれば、いつもなら簡単にかわすことができたはずだ。

「あまり気落ちするんじゃないよ。体格差からして結果は目に見えていたじゃないか。……まぁ、取り敢えず、あんたには明日から厨房に入ってもらうけどね」

 マリアンルージュの後ろからゼノの様子を覗いていたヴァネッサがおおらかに笑う。慰めているつもりだろうが、ゼノはむしろ追い討ちをかけらた気分だった。
 給仕の仕事に関しては、元々接客には向いていないのだから異論はない。ヴァネッサの判断は、先程の盛大な負け犬っぷりをネタに、ゼノが客に弄り倒されかねないことを考慮してのことだろう。

「すみません……」

 ちからなくゼノが呟くと、ヴァネッサはやれやれと肩を竦めて微笑んだ。
 そのまま暫く様子を眺めたあと、思い立ったようにポンと手を打ったヴァネッサは、食堂に残した客を気にしたのか若いふたりに気を遣ったのか、隣で唸り続ける夫を引きずるようにして、さっさと部屋を出て行ってしまった。
 扉が閉まり、部屋の中に沈黙が訪れた。


「……出過ぎた真似をしました」

 しばらくして、気怠げな声でゼノが呟いた。痛みを訴えるまぶたを薄すらと開いて、天井から吊り下げられた簡素なシャンデリアを見上げる。

「そんなことない、すごく助かったよ。あのお客さん、何を言っているのか良く分からなかったし、いきなり手を掴まれてびっくりしちゃったから」

 負傷したゼノを労わっているつもりなのか、マリアンルージュが妙に明るく振る舞ってみせる。
 片目の視界が霞んだままで、すぐ傍に居るというのに、ゼノにはマリアンルージュの表情が読み取れなかった。けれど今のゼノにとっては、それが救いのようにさえ感じられた。情けないと落胆されるのも辛いが、過剰に心配されるのは、それよりも更に辛い。
 まぶたの上に乗せられたタオルを押し退け、ゼノは片腕で顔を覆った。
 喧嘩で負けたことはどうでもよかった。問題は、もっと別のところにあった。


「ごめん」

 唐突に、マリアンルージュが呟いた。怪訝に思ったゼノの視線が、自然とマリアンルージュに向けられる。

「さっきの……きみが殴られたあのとき、わたしはお客さんのほうを心配してしまったんだ。てっきり、きみは竜気を纏っているものだと思っていたから……」

 そう言って、マリアンルージュはゼノに頭を下げた。

「……かまいませんよ」

 むしろ、それは当然のことだとゼノは思う。
 マリアンルージュは、ゼノが常に竜気で身を守っていたことを知っていた。その特性を理解している者なら、誰だってそうだろう。
 例え圧倒的な体格差のある相手に本気で殴られたとしても、竜気を纏った状態であれば、ほとんど無傷でいられる。相手が力任せな殴り方をすれば、逆にその拳が粉砕してしまうのがオチだ。

 以前のゼノであれば、躊躇いなく相手の自滅を誘発していだろう。
 けれど、マリアンルージュと行動を共にしている以上、あれだけ多くの見物客の目の前で、そのような異常な光景を見せるわけにはいかなかった。
 ゼノが異種族だと知られれば、当然、その疑惑はマリアンルージュにも向けられる。
 異種族に対する人間の考え方は様々だが、ひとたび人間に怪我を負わせてしまえば、間違いなく畏怖と憎悪の対象にされるだろう。

 避ければ良いのだと、すぐに気が付いた。
 だが、その思考とは裏腹に、ゼノの身体は反射的に防御体勢に入ってしまった。纏いかけた竜気を慌てて解いたその瞬間に、思い切り左から殴られてしまったのだ。

「竜気を纏うの、やめたんだね」

 囁くように告げて、マリアンルージュは顔を覆っていたゼノの腕を退かした。冷水で濡れたタオルを絞り、赤く腫れたゼノの頬を冷やす。

「どうしてやめたの? ……ってきいちゃダメかな?」

 ぼんやりとシャンデリアを見上げるゼノの瞳を、マリアンルージュが覗き込んだ。流れ落ちた朱紅い髪から、ふわりと甘い香りがする。

 もしも今、視界が晴れていたら、いくら無表情が十八番おはこのゼノでも、感情が表情かおに出てしまっていただろう。
 視界が霞んでいて本当に助かった。そう思いながら、ゼノは腫れ上がった唇を動かした。

「皆と同じ感覚でいたほうが興味深おもしろそうだと思った。……それだけのことです」

 朧げに眼に映るマリアンルージュから視線を逸らし、ゼノは素っ気なく呟いた。
 すでに、陽が落ちてだいぶ経っていた。月明かりに照らされた窓の外は思いのほか明るかったが、隙間から吹き込む夜の外気は肌に冷たい。
 以前のゼノなら、このような感覚は覚えもしなかっただろう。

 竜気を纏うのを止めた本当の理由。
 そんなもの、言えるわけがなかった。
 マリアンルージュと同じように、この世界に触れてみたい。ただそれだけのことなのだから。


「冷えてきたね」

 そう言って、マリアンルージュは立ち上がり、部屋の暖炉に火を灯した。積み上げられた蒔が燃えて、火の粉がパチパチと爆ぜる音が、部屋のなかに小気味良く響いていた。


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