滅びゆく竜の物語

柴咲もも

文字の大きさ
60 / 90
第二章 死する狼のための鎮魂歌

金の林檎①

「まだ腫れてるね……」

 俯いたゼノの頬を隠す闇色の髪を指先ですくい、顔を覗き込んで、マリアンルージュが小さく息を吐いた。
 赤々と腫れ上がっていたゼノの頬には痛々しい青痣が浮きあがり、切れた唇の端にはかさぶたが被さっている。依然としてまぶたは腫れぼったく視界も狭まってはいるが、昨夜とは違い、はっきりと目の前のものが見える程度に視力は回復していた。
 おかげで、現在の状況はゼノにとっては有難い反面、少々厄介でもあった。
 マリアンルージュの無防備さは相変わらずであり、怪我の具合を確認するためとはいえ、整ったその顔を躊躇いなくゼノの顔に近付けてくる。
『世界律』を遵守するゼノにとって、マリアンルージュは唯一の交配可能な相手である。ゼノ自身、恋愛感情は抜きにしても、マリアンルージュをそういった対象として意識している自覚があった。
 この状況で、自身の身体が熱を上げるのを止められるはずもなく、怪我のために顔色の変化が判別し難いことが救いのように思えていた。

「準備ができたら厨房にくるようにって、おじさんが言ってたよ」

 ゼノに着替えを手渡すと、マリアンルージュは救急箱を抱きかかえて立ち上がった。

「先に行ってるね」

 柔らかな笑顔とともにそう言い残して、マリアンルージュは静かに扉を閉めた。
 廊下が軋む微かな音が遠ざかっていくのを確かめて、ゼノは洗濯された白いシャツに腕を通し、胸のボタンを留めた。エプロンを腰に巻き、ベッドから立ち上がる。

 朝の仕込みはもう始まっているだろう。料理の経験は無いが、雇われの身である以上、与えられた仕事はこなさなければならない。
 なにより、マリアンルージュだけを働かせるわけにはいかなかった。

 窓を開けて、早朝の冷えた空気を胸いっぱいに吸い込むと、ゼノは部屋に鍵をかけ、厨房へと向かった。



***


「それで? 怪我の方は大丈夫なのかい?」

 動物の骨や鶏ガラが煮え立つ大鍋をかき混ぜながらダニエルが訊ねると、厨房の隅に座り込んでバケツいっぱいのポタモの皮を剥いていたゼノが「おかげさまで」と頷いた。
 まだ客入りのない食堂から、軽快な靴音と椅子やテーブルを動かす音が聞こえてくる。マリアンルージュとヴァネッサが開店の準備をしているのだろう。床の掃除からテーブルの準備まで、鉱山夫と工房の職人達が昼食に訪れる前に終わらせなければならないのだ。
 マリアンルージュが働き始める前は、ヴァネッサひとりで全ての準備をしていたこともあり、店内の清掃はおざなりになりがちだったと聞く。
 だが、ここ数日で『羊の安らぎ亭』の館内は目に見えて綺麗になった。それに貢献しているのが間違いなくマリアンルージュである以上、ヴァネッサがマリアンルージュを可愛がり、傍に置きたがるのも当然のことだろう。

 二杯目のバケツを引き寄せて、ゼノがポタモの皮を剥きはじめた、ちょうどそのとき、水桶を片手に提げたマリアンルージュが、厨房を抜けて裏庭へと出て行った。僅かな間をおいて裏の戸口が開き、マリアンルージュが再び厨房へ姿を見せる。
 脇目も振らず食堂へ戻るマリアンルージュの姿をゼノが目で追っていると、その視線に気が付いたダニエルがニヤニヤと顔に笑って口を開いた。

「恋人じゃないってのは本当のようだが、お前さんはマリアのことがよっぽど気になってるみてぇだな」

 唐突に話しかけられて、ゼノは危うく手にしたポタモを落としかけた。手のひらから転がり落ちるポタモをゼノが慌てて両手で掴むのと同時に、床に落ちた包丁が乾いた金属音を立てる。
 取り乱すゼノを尻目に、出汁の摂れたスープを口に含み、ダニエルは舌鼓を打った。

「否定はしませんが、俺が彼女を気にかけているのは、彼女がまだ旅に不慣れだからであって……決して恋愛がどうこうというものでは――」

「ありません」と言いかけて、ゼノはふと、あの人狼ヒトオオカミの少年のことを思い出した。
 そういえば、彼も同じようなことを言っていた。マリアンルージュのことを好きなら、曖昧に誤魔化さずにはっきりと好意を示すようにと。
 けれどゼノには、マリアンルージュに対して抱くこの感情が、恋愛のそれであるのかどうかがわからない。
 元々他人と接する機会がなかったところに、初めて好意的に接してくれる異性が現れたのだ。しかも、マリアンルージュは幼いゼノが憧れに似た感情を抱いていた相手でもある。舞い上がった気持ちになるのも仕方が無いことだろう。
 しかしながら、果たしてそれは、相手がマリアンルージュ故のことなのだろうか。
 例えば他の誰かが相手であったとしても、同じように優しく接して貰えさえすれば、同様の感情を抱くのではないか。
 ゼノには、その答えがわからなかった。

「マリアとは、そういった感情を抱けるほど長い付き合いはありませんから……」

 そう呟いて、ゼノは小さく溜め息を吐いた。
 そもそも、ゼノとマリアンルージュは互いに相手のことをよく知らないのだ。

「お前さん、面白おもしれぇことを言うなぁ。恋愛感情を抱くには時間が必要だと、そう思ってんのか」
「一過性の感情を恋だと錯覚する人もいるのでしょうが、そんなものはそのとき限りの、唯の情欲に過ぎないのではないかと思うんです」
「ふむ……」

 ゼノの反応を楽しむように茶化した言葉を口にしていたダニエルだったが、対するゼノは大真面目だった。
 床に落ちた包丁を拾い上げ、手の中のポタモを見つめたまま真顔で答えを返すゼノに、ダニエルは腕を組み、唸りながら首を捻った。

 やはり、愛だの恋だのそういった話は男二人でするものではないようだ。重い空気が漂う厨房で、二人は黙々と仕込みを続けた。
 やがて、ゼノがバケツ五杯分のポタモの皮剥きを終えた頃、客入りを知らせる明るい声が厨房に響いた。


感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

亡き姉の身代わりとして嫁いだ私ですが、離縁状を置いた翌朝、夫が私の「真実」に気づいたようです』

まさき
恋愛
「サインはもう、いただきました。あとは私がこの屋敷を出るだけです」 ​五年間の結婚生活。侯爵令嬢エルゼが演じ続けたのは、亡き姉・ロザリーの「身代わり」という配役だった。 夫であるカイル公爵が愛していたのは、かつて雪の中で自分を救ってくれた初恋の少女・ロザリー。 生き写しの妹であるエルゼを娶りながらも、彼は一度も彼女を「エルゼ」と呼ぶことはなかった。 ​冷淡な視線、姉と比較される日々。 「君はどこまでいっても、ロザリーの代わりにはなれない」 その言葉を最後に、エルゼは静かに離縁状を置き、屋敷を去る決意をする。 ​しかし、彼女が消えた翌朝。 カイルは、エルゼが大切に遺していった古い小箱を見つける。 そこにあったのは、十五年前のあの日、彼が「命の恩人」に預けたはずの片方のカフスボタン。 そして、幼いエルゼが綴った、あまりにも切ない真実の日記だった。 ​――「あの日、雪の中で貴方を抱きしめていたのは、お姉様ではなく、私だったのです」 ​真実を知り、絶望の中でエルゼを追うカイル。 だが、すべてを捨てて「自分」を取り戻したエルゼは、もう二度と、彼の隣で微笑む仮面の妻には戻らない。 ​これは、名前を奪われた女が自由を掴み、愚かな夫が真実の愛を失うまでの、静かで鮮やかな再生の物語。

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

君への気持ちが冷めたと夫から言われたので家出をしたら、知らぬ間に懸賞金が掛けられていました

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【え? これってまさか私のこと?】 ソフィア・ヴァイロンは貧しい子爵家の令嬢だった。町の小さな雑貨店で働き、常連の男性客に密かに恋心を抱いていたある日のこと。父親から借金返済の為に結婚話を持ち掛けられる。断ることが出来ず、諦めて見合いをしようとした矢先、別の相手から結婚を申し込まれた。その相手こそ彼女が密かに思いを寄せていた青年だった。そこでソフィアは喜んで受け入れたのだが、望んでいたような結婚生活では無かった。そんなある日、「君への気持ちが冷めたと」と夫から告げられる。ショックを受けたソフィアは家出をして行方をくらませたのだが、夫から懸賞金を掛けられていたことを知る―― ※他サイトでも投稿中