滅びゆく竜の物語

柴咲もも

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第二章 死する狼のための鎮魂歌

月明かりの街で②

「ゼノってさ、マリアのこと好きなの?」

 それは春先のよく晴れた昼下がりのことだった。
 いつもどおり丘の上の特等席に座り、祖父から譲り受けた本のページを開いたゼノに、唐突にイシュナードが言った。

「なんだよそれ。何を根拠に……」
「だって、いつもマリアのこと見てるだろ?」

 露骨に不機嫌になるゼノを見て、イシュナードは朗らかに笑った。

 当時のゼノは、愛だの恋だのといった感情は、自分とは無縁のものだと思っていた。毎朝あの丘に向かう理由が、狩りの練習で森を行き来するマリアンルージュを見るためだったことに、自分でも全く気が付いていなかった。
 その日、イシュナードに指摘されて初めて、ゼノは自身の行動の理由と、その意味を知ったのだ。
 けれど、それで何かが変わったという訳でもない。所詮ゼノは闇色の鱗の一族であり、里の住人には煙たがれる存在だった。人気者のマリアンルージュに近付きたいなどとは露ほどにも考えることはなく、胸の内に燻るその感情も、そのまま忘れることにした。
 マリアンルージュとは、きっと一生、言葉を交わすことすらないのだろうと思っていた。

 ――彼女がイシュナードに求婚した、あの日まで。



***


 月明かりに照らされた石畳の道を、ゼノは走った。
 人気のない青褪めた夜の街に乾いた靴音が響く。誰もいない街の広場の、その中央に造られた噴水のある泉の前で、ゼノは足を止めた。乱れた息を整えようと何度か深呼吸を繰り返すと、冷たい空気に肺が満たされ、昂ぶっていた感情が僅かばかり落ち着いた気がした。
 無邪気に微笑んだマリアンルージュの顔を思い出し、小さく溜息をつく。

 マリアンルージュは何もわかっていない。
 子供の頃からずっと、ゼノはマリアンルージュのことを気にしてきた。住む世界が違うからと、 自身の気持ちを誤魔化しながら。

 マリアンルージュは里の誰もが認める男イシュナードのものになるのだと思っていた。
 あの優秀で美しい完璧なイシュナードに、引き篭もりの落ちこぼれであるゼノが敵うはずもない。同じ舞台に上がろうなどとは考えもしなかった。
 関わりあったりさえしなければ、彼女を想うその気持ちも、ただの憧れで終わるものだと信じていた。
 けれど、イシュナードがマリアンルージュの申し出を断ったあの日、初めて彼女と言葉を交わしたことで何かが変わってしまった。
 彼女がくれた「好き」というたった一言が、憧れで終わるはずだった、胸の奥で燻り続けていたその想いに火をつけてしまった。一度火がついてしまったその想いは、イシュナードの存在で歯止めが掛けられていただけだった。

 イシュナードが里を去ってもマリアンルージュは変わらなかったから。
 他の誰も選ぼうとはしなかったから。
 だからこそ、彼女は変わらずイシュナードを想い、彼の帰りを待ち続けているのだと、そう思っていた。
 焼け落ちたあの村でマリアンルージュと再会したとき、彼女がイシュナードを捜していると知って、ゼノは確かに安堵した。
 イシュナードの存在が、再び、ゼノの叶わない想いの歯止めになってくれると信じて。

 だが、現実は違っていた。
 想いは日を重ねるごとに膨らみ続け、驚くべき速さで成熟してしまった。
 今のゼノは、はっきりと自覚している。
 マリアンルージュに対して抱いているこの感情が、恋と呼ばれるものだということを。


「ゼノ……?」

 静まり返った広場に、マリアンルージュのか細い声が響いた。
 振り返らずに、ゼノは噴水を見上げた。
 水飛沫が月明かりを反射してあたりをきらめかせるその風景が、幻想的で美しいと思えた。
 凍てつくような静寂の中、乾いた靴音がゆっくりと近づいて、ゼノの真後ろで止まった。
 
「ごめん、無神経すぎた。夜のあいだくらい、一人で静かに過ごしたかったよね」

 振り返らないゼノの背中に向かって、マリアンルージュが頭を下げる。

「ここ数日、仕事で疲れて一人で眠りにつく、その繰り返しで少し寂しかったから。だから嬉しくてつい、きみの気持ちを考えてあげられなかった。本当にすまなかったと――」
「そういうことではありません」

 僅かな苛立ちを覚え、ゼノはマリアンルージュの言葉を遮った。
 理解わかっていて挑発しているのなら、どれほど有難いだろう。打ち明けたくない胸の内を一から説明しなければ理解しない、マリアンルージュの鈍感さは、ある種の凶器にも似ていた。

「貴女も子供ではないのだから、わかるでしょう? 確かに、あの厳格な里では婚前の男女が情を交わすことなどあり得ない。ですが、貴女が思っているほど俺は理性的ではありません」

 吐き捨てるように告げて振り返ると、真っすぐにゼノをみつめるマリアンルージュと目が合った。翡翠の瞳に水飛沫が映り込み、きらきらと輝いている。
 見つめ合った時間は僅かなものだった。
 一度だけ俯いて大きく息を吐くと、マリアンルージュは躊躇いがちにゼノの顔を覗き込んだ。
 青褪めた月の光に照らされたマリアンルージュの頬は、ほんのりと紅く色付いて見えた。
 
「わたしだって、きみが思っているほど無知じゃない。になるかもしれないのは、ちゃんと理解《わか》ってるよ」

 囁くように呟いて、はにかんだ笑顔を浮かべる。
 マリアンルージュのその言葉は、ゼノの苛立ちと迷いを瞬時に掻き消した。

 理解しているのなら、その先を知っていたのなら、今迄の言葉の意味は全て、ゼノの考えとは違っていたのではないか。
 マリアンルージュがゼノに向けていた感情は、ゼノの彼女に対する想いと同じ意味合いのものなのではないのか。

 もう一度、ゼノはマリアンルージュの瞳を見つめた。
 今度はどちらとも瞳を逸らそうとはしなかった。
 瞬きもせず見つめ合ったマリアンルージュのその頬に、躊躇いがちに手を伸ばす。
 彼女は静かに目を伏せて、ゼノの手のひらに頬を寄せた。

 愛おしい、と初めて思った。

 彼女の頬にかかる柔らかな朱紅い髪に、ゼノは指先を絡ませた。仄かな甘い香りに誘われて、薄紅く色付いたその唇に惹き寄せられていく。
 互いの唇が触れ合おうとした、そのときだった。

 彼女の首筋に伸ばした指先が、硬く冷たい感覚を覚え、はっとして、ゼノはその目を見開いた。
 零れ落ちる髪の隙間に、見覚えのある闇色の石が輝いて見える。それ以上、ゼノは動くことができなかった。
 余計なことなど思い出さずに、ひとときの感情に身を委ねてしまいたかった。けれど、その想いとは裏腹に、ゼノの身体を突き動かしていたあの熱は、急速に冷めていった。

「……すみません、どうかしていました」

 マリアンルージュの肩にそっと触れ、一歩後に退く。深刻な面持ちのゼノに戸惑いを見せながらも、マリアンルージュはゆっくりと首を横に振った。

「こっちこそ、ごめん。ほんと、どうかしてたね」

 手のひらで口元を覆い、俯いたマリアンルージュが、冷たい夜風に身を震わせた。

「とりあえず、部屋に戻らない? 寒くて凍えそうだよ」

 困ったように微笑むマリアンルージュの言葉に、ゼノが小さく頷きを返す。改めて、マリアンルージュの姿を確認した。
 淡い色のナイトドレスにショールを肩に掛けたマリアンルージュは、ゼノが部屋を飛び出したあのときのままだった。
 考えるまでもない。あのあとすぐに、ゼノのあとを追ってきたのだろう。こんなに寒い夜の街に、如何わしい考えに捉われて慌てて逃げ出しただけのゼノを心配して、なんの躊躇いもなく飛び出してきたのだ。

 石畳みの坂道を登るマリアンルージュの背中を追って、ゼノは広場をあとにした。

 ふたり並んで、夜の街を歩く。
 ゼノもマリアンルージュも、互いの顔を見ないよう可笑しな気を遣っていたが、その距離感が不思議と心地よかった。

「俺が言うのもなんですが、貴女は異性に隙を見せすぎです」

 坂道の向こうの宿の灯りに眼を向けたまま、ゼノはぽつりと呟いた。
 腑に落ちないといった表情で、マリアンルージュがゼノの横顔を見上げる。

「……そうかな」
「あの男……オルランド、でしたか。彼貴女に気があったと思いますよ」
「オルランドが? まさか――」

 明るく笑い飛ばそうとしたマリアンルージュだったが、不意にその言葉尻を濁す。思い当たることでもあったのだろう。

「……そうなのかな」
「そうですよ」

 考え込むマリアンルージュに素っ気なくそう返し、ゼノは足速に坂道を登ると、マリアンルージュが慌てて後を追ってきた。


 とりあえず、今はこれで充分だろう。
 他の男に付け入る隙を見せないよう、彼女自身が自覚していれば。


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