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第二章 死する狼のための鎮魂歌
遭遇②
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当時のマリアンルージュは、まさか自分が近い将来、里を出ることになるとは思ってもみなかった。
里の住人の期待に応えるために、皆が納得してくれる、最良の男性を婚姻相手に選んだつもりだった。
けれど、マリアンルージュに婚姻の話を持ちかけられて、彼は――イシュナードは言ったのだ。
『きみは本当に、僕のことが好きなの?』
マリアンルージュはその問いに答えることができなかった。家族や里の皆と同様に、イシュナードはマリアンルージュに優しくしてくれていた。容姿端麗でなんでも卒なくこなす彼は、他の年頃の男性に比べ、頼りになる相手だと思っていた。
けれど、その気持ちが『恋』であるかと問われれば、マリアンルージュにははっきり「そうだ」と答えることができなかった。
里の未来のために最も優秀な男を選ぶこと。それこそが、里で唯一の未婚の女であるマリアンルージュに与えられた最も重要な役割なのだと、そう思っていたのだから。
だが、イシュナードはそのとき既に気付いていたのだろう。マリアンルージュがいつもみつめていた相手がイシュナードではなく、彼と行動を共にしていたゼノであったことに。
イシュナードに求婚を断られた帰り道、初めてゼノに声を掛けられて、マリアンルージュはようやく自身の想いに気が付いた。しかし、もしマリアンルージュが婚姻相手にゼノを選んだら里の皆はどう思うのか。そう考えたら、それ以上何もできなかった。
平穏な暮らしを守るために、ゼノは敢えて里の住人から距離を置いていた。そんな彼に迷惑がかかるのではないかと考えたのもひとつの理由ではあった。けれど、当時のマリアンルージュはそれよりも、里の皆に落胆されることを恐れたのだ。
マリアンルージュは、自身の想いよりも里での平穏な暮らしを優先した。まさか、イシュナードやゼノが里を去る日が来るなんて、全く考えもせずに。
「ゼノが里を去ったことを知って、思ったんだ。もしかしたら、このまま二度と、彼は里に戻ってこないんじゃないかって。そう考えたらいてもたってもいられなくて、何の準備もせずに里を飛び出してきてしまった。
どう勘違いしたのかわからないけど、ゼノはわたしもイシュナードを捜しているのだと思い込んで、旅の同行を許してくれた。でも、それが間違いだと知ったら……わたしが、ただ彼の傍に居たいがために、彼の思い違いを利用しているとわかったら。きっと彼は、わたしを傍に置いてはくれないから……」
話を終えたマリアンルージュは、再びカップのお湯を啜った。白い湯気はとうのむかしに消えており、ふと顔をあげれば、黙って話を聞いていたリュックに物言いたげな眼を向けられていた。
「さ、辛気臭い話はやめて、とっとと朝ごはん食べちゃおう」
部屋を満たす重い空気を振り払うように、無理矢理に明るい声を出す。三人は無言でテーブルを囲み、朝食を取った。
温かいスープとマフィンは、まだ目覚めきっていない早朝の胃袋を優しく満たしてくれた。
食事を終えて一息つくと、マリアンルージュは席を立ち、小鍋と食器を片付けた。朝食を運んできたときと同じように食器を積み上げたトレイを片手に持ち、空いた方の手を小鍋に伸ばすと、マリアンルージュよりも寸分はやく、レティシアが小鍋を手に取った。
「ひとりで大丈夫だよ。部屋でゆっくりしてて」
マリアンルージュはそう言って、ソファに座るようレティシアを促した。けれど、レティシアは小鍋を抱きかかえたままふるふると首を横に振り、小走りに扉へと駆けて行ってしまった。
「なんだ、懐いてんじゃん」
「……え?」
「レティのやつ、ねえちゃんと一緒にいたいんだよ」
頬杖をついて穏やかな笑みを浮かべるリュックの言葉を聞いて、マリアンルージュは胸の奥がきゅんと締め付けられた。
完全に信じてもらえたわけではないのだとしても、レティシアが自分から手伝おうと思ってくれた――マリアンルージュと行動を共にすることを望んでくれた、その気持ちが嬉しかった。
「そう……じゃあ、一緒に行こっか」
感極まる気持ちを抑えてにこやかに微笑むと、マリアンルージュはレティシアを連れて、ふたたび厨房へと向かった。
厨房では、宿泊客の朝食の準備をするヴァネッサが忙しなく動き回っていた。どうやらダニエルはゼノと共に朝の市場に出掛けたようだ。
レティシアを部屋に送り届けたら急いで手伝いに戻ろう。そう考えて、マリアンルージュは厨房をあとにした。
食堂を通り抜け、ふたたび客室のある別棟への通路に向かうと、通路の向こう側から数人の足音が聞こえてきた。昨日の宿泊客、つまり、レジオルディネの憲兵隊のものだろう。
足音と共に近づく人の気配を察してか、レティシアがマリアンルージュの後ろに身を隠す。マリアンルージュには気を許してくれたものの、面識のない人間を信用できる筈もない。怯えるレティシアを庇うように、マリアンルージュは壁際へと身を寄せた。
僅かな間を置いて食堂に入ってきたのは、輝かんばかりの金色の髪と澄んだ碧い瞳を持つ憲兵隊隊長のジュリアーノだった。
壁際に佇むマリアンルージュに気が付くと、彼は一瞬その足を止め、不敵な笑みを浮かべて壁際へと向かって来た。
「これはこれは、朝一でお嬢さんに出迎えていただけるとは運が良い――」
そう言って恭しく頭を下げ、不躾にマリアンルージュに手を伸ばす。指先が触れる前にマリアンルージュが後退り、後ろで縮こまっていたレティシアにぶつかった。驚いて顔を上げたレティシアがマリアンルージュの手を握りしめ、立ち竦むマリアンルージュの陰からジュリアーノの顔を覗き見た。
その瞬間――
それは、悍ましいまでの激情だった。
レティシアの小さな手のひらから、夥しい憎悪にも似た負の感情が、狂気を孕む凄惨な記憶が、マリアンルージュのなかに濁流のように流れ込んできた。
蹂躙される美しい人狼の娘。
泣き叫ぶ娘のドレスを引き裂き、華奢な身体に覆い被さって腰を振り、悦楽に酔いしれた笑みを浮かべる、その男の顔は――
「まさか、そんな……」
マリアンルージュの翡翠の瞳が驚愕に見開かれる。
ほんの一瞬前までその手を握っていた小さな手のひらは、いつの間にか消え失せていた。
里の住人の期待に応えるために、皆が納得してくれる、最良の男性を婚姻相手に選んだつもりだった。
けれど、マリアンルージュに婚姻の話を持ちかけられて、彼は――イシュナードは言ったのだ。
『きみは本当に、僕のことが好きなの?』
マリアンルージュはその問いに答えることができなかった。家族や里の皆と同様に、イシュナードはマリアンルージュに優しくしてくれていた。容姿端麗でなんでも卒なくこなす彼は、他の年頃の男性に比べ、頼りになる相手だと思っていた。
けれど、その気持ちが『恋』であるかと問われれば、マリアンルージュにははっきり「そうだ」と答えることができなかった。
里の未来のために最も優秀な男を選ぶこと。それこそが、里で唯一の未婚の女であるマリアンルージュに与えられた最も重要な役割なのだと、そう思っていたのだから。
だが、イシュナードはそのとき既に気付いていたのだろう。マリアンルージュがいつもみつめていた相手がイシュナードではなく、彼と行動を共にしていたゼノであったことに。
イシュナードに求婚を断られた帰り道、初めてゼノに声を掛けられて、マリアンルージュはようやく自身の想いに気が付いた。しかし、もしマリアンルージュが婚姻相手にゼノを選んだら里の皆はどう思うのか。そう考えたら、それ以上何もできなかった。
平穏な暮らしを守るために、ゼノは敢えて里の住人から距離を置いていた。そんな彼に迷惑がかかるのではないかと考えたのもひとつの理由ではあった。けれど、当時のマリアンルージュはそれよりも、里の皆に落胆されることを恐れたのだ。
マリアンルージュは、自身の想いよりも里での平穏な暮らしを優先した。まさか、イシュナードやゼノが里を去る日が来るなんて、全く考えもせずに。
「ゼノが里を去ったことを知って、思ったんだ。もしかしたら、このまま二度と、彼は里に戻ってこないんじゃないかって。そう考えたらいてもたってもいられなくて、何の準備もせずに里を飛び出してきてしまった。
どう勘違いしたのかわからないけど、ゼノはわたしもイシュナードを捜しているのだと思い込んで、旅の同行を許してくれた。でも、それが間違いだと知ったら……わたしが、ただ彼の傍に居たいがために、彼の思い違いを利用しているとわかったら。きっと彼は、わたしを傍に置いてはくれないから……」
話を終えたマリアンルージュは、再びカップのお湯を啜った。白い湯気はとうのむかしに消えており、ふと顔をあげれば、黙って話を聞いていたリュックに物言いたげな眼を向けられていた。
「さ、辛気臭い話はやめて、とっとと朝ごはん食べちゃおう」
部屋を満たす重い空気を振り払うように、無理矢理に明るい声を出す。三人は無言でテーブルを囲み、朝食を取った。
温かいスープとマフィンは、まだ目覚めきっていない早朝の胃袋を優しく満たしてくれた。
食事を終えて一息つくと、マリアンルージュは席を立ち、小鍋と食器を片付けた。朝食を運んできたときと同じように食器を積み上げたトレイを片手に持ち、空いた方の手を小鍋に伸ばすと、マリアンルージュよりも寸分はやく、レティシアが小鍋を手に取った。
「ひとりで大丈夫だよ。部屋でゆっくりしてて」
マリアンルージュはそう言って、ソファに座るようレティシアを促した。けれど、レティシアは小鍋を抱きかかえたままふるふると首を横に振り、小走りに扉へと駆けて行ってしまった。
「なんだ、懐いてんじゃん」
「……え?」
「レティのやつ、ねえちゃんと一緒にいたいんだよ」
頬杖をついて穏やかな笑みを浮かべるリュックの言葉を聞いて、マリアンルージュは胸の奥がきゅんと締め付けられた。
完全に信じてもらえたわけではないのだとしても、レティシアが自分から手伝おうと思ってくれた――マリアンルージュと行動を共にすることを望んでくれた、その気持ちが嬉しかった。
「そう……じゃあ、一緒に行こっか」
感極まる気持ちを抑えてにこやかに微笑むと、マリアンルージュはレティシアを連れて、ふたたび厨房へと向かった。
厨房では、宿泊客の朝食の準備をするヴァネッサが忙しなく動き回っていた。どうやらダニエルはゼノと共に朝の市場に出掛けたようだ。
レティシアを部屋に送り届けたら急いで手伝いに戻ろう。そう考えて、マリアンルージュは厨房をあとにした。
食堂を通り抜け、ふたたび客室のある別棟への通路に向かうと、通路の向こう側から数人の足音が聞こえてきた。昨日の宿泊客、つまり、レジオルディネの憲兵隊のものだろう。
足音と共に近づく人の気配を察してか、レティシアがマリアンルージュの後ろに身を隠す。マリアンルージュには気を許してくれたものの、面識のない人間を信用できる筈もない。怯えるレティシアを庇うように、マリアンルージュは壁際へと身を寄せた。
僅かな間を置いて食堂に入ってきたのは、輝かんばかりの金色の髪と澄んだ碧い瞳を持つ憲兵隊隊長のジュリアーノだった。
壁際に佇むマリアンルージュに気が付くと、彼は一瞬その足を止め、不敵な笑みを浮かべて壁際へと向かって来た。
「これはこれは、朝一でお嬢さんに出迎えていただけるとは運が良い――」
そう言って恭しく頭を下げ、不躾にマリアンルージュに手を伸ばす。指先が触れる前にマリアンルージュが後退り、後ろで縮こまっていたレティシアにぶつかった。驚いて顔を上げたレティシアがマリアンルージュの手を握りしめ、立ち竦むマリアンルージュの陰からジュリアーノの顔を覗き見た。
その瞬間――
それは、悍ましいまでの激情だった。
レティシアの小さな手のひらから、夥しい憎悪にも似た負の感情が、狂気を孕む凄惨な記憶が、マリアンルージュのなかに濁流のように流れ込んできた。
蹂躙される美しい人狼の娘。
泣き叫ぶ娘のドレスを引き裂き、華奢な身体に覆い被さって腰を振り、悦楽に酔いしれた笑みを浮かべる、その男の顔は――
「まさか、そんな……」
マリアンルージュの翡翠の瞳が驚愕に見開かれる。
ほんの一瞬前までその手を握っていた小さな手のひらは、いつの間にか消え失せていた。
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