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第二章 死する狼のための鎮魂歌
惨劇の記憶②
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朝市で賑わう往来を避けるように、レティシアは裏路地へと逃げ込んだ。
人混みに紛れて身を隠すこともできたはずだった。けれど今のレティシアには、村を襲った憲兵隊を名乗る男達も、街の住人も関係なかった。
人間は信用できない。いくら助けを求めようとも、彼等は憲兵隊の言葉を鵜呑みにし、異種族であるレティシアを引き渡すだろう。
この街でレティシアが信じられる存在はふたりだけ。そのうちのひとりであるマリアンルージュは、あの悪魔を前に、宿に置き去りにしてきてしまった。もうひとり、助けれくれるはずのリュックは、今もあの宿の一室でレティシアの帰りを待っていることだろう。
ふたりの助けが望めない以上、レティシアは追手から逃げ回ることしかできなかった。ただひたすら人目を避け、人間の声や臭いから遠ざかるように細い道を駆け抜けた。
錯乱して闇雲に動き回ったために、レティシアは今、自分が何処を走っているのかもわからなかった。
石畳で舗装されていた道路はいつの間にか剥き出しの地面へと変わり、人が暮らす民家はどこにも見当たらなくなっていた。曲がりくねった一本道の両脇には土嚢が壁のように積み重ねられており、視界は悪く、身を隠すものは何もない。
奴等に見つかれば、たちまち捕らえられてしまう。辱めを受けて、虫螻のように始末されるのだ。
あのときレティシアを守り、身代わりになった姉のように。
***
逃げ惑う人狼の叫声が響く混乱の最中、殺戮者の手はふたりが身を潜める離れへと向けられた。
逸早くそれを察したアリシアは、床下の小さな貯蔵庫に小柄なレティシアを押し込んで、
「絶対に声を出してはダメ。彼奴らが村を去るまでここで待つの。夜になったら森へ逃げなさい。無事に逃げ延びることができたら、あいつを捜して伝えて欲しいの」
そう言って、怯えて震えるだけのレティシアに最後の言葉を託した。
「“わたしを選んでくれて、ありがとう”って……」
狼狽するレティシアに向けて歪に微笑むと、アリシアは静かに貯蔵庫の蓋を閉めた。
暗闇の中でレティシアは耳を塞いだ。やがて、扉が軋む音が室内に響き、背筋を凍らせるような不気味な笑い声と、アリシアの悲痛な叫びが耳に届いた。
床の上で続けられる残虐な行為から逃避するように、レティシアは耳を塞いだまま、幼い日に姉と口ずさんだ歌を、声にならない声で歌い続けた。
焼け落ちる小屋から這い出して、姉や仲間の遺体から目を背けながら、無我夢中で森へ逃れた。奇跡的にリュックと再会し、人間の街で僅かな希望を見出し、ようやくあの悍ましい記憶から解き放たれることができると思っていた。……それなのに。
悪夢はまだ、終わっていなかったのだ。
***
小石に足を取られ、レティシアは地面へと倒れ込んだ。どれほど走り続けたのだろう。疲労のためか恐怖のためか、膝が震えて立ち上がれない。
もう駄目だ。あの金色の髪の悪魔からは逃れられない。
アリシアやソフィのように、わたしもあの悪魔に蹂躙されるのだ。
レティシアの頬を、一筋の涙がつたった。
清々しく晴れ渡る、雲ひとつない青い空を、レティシアはゆっくりと仰ぎ見た。
「レティ! レティ!」
繰り返し名を呼ばれて我に返った。レティシアの瞳に映ったのは晴れ渡る青空ではなく、泣きそうな顔で息を切らすマリアンルージュだった。
「やっと見つけた。レティ、まだ走れる?」
確めるようにそう言うと、マリアンルージュは後方を気にしながらレティシアの手を引いた。
脚の震えは止まっていた。大丈夫、まだ走れる。
レティシアはマリアンルージュの顔を見上げ、大きく頷いた。
「レティ、落ち着いて。音と臭いに集中して。ここは風下だから、きみなら彼等の動きを察知できる」
レティシアを勇気付けようとするマリアンルージュのその声は、微かに震えていた。
おそらく、マリアンルージュはレティシアの記憶を垣間見たのだろう。浴場でのマリアンルージュの言葉を思い出し、レティシアは思った。
マリアンルージュも怖いのだ。それでもレティシアを守るために、この広い人間の街を走り回り、レティシアを見つけ出してくれた。
ふたりで逃げ延びるために、今自分にできることをしなければ。
繋いだ手を握り締め、レティシアは耳を澄ませた。
足音が聞こえる。近付いてくるのは二、三人。臭いから察するに、それは最も最悪な状況だった。
あの金色の髪の悪魔が、一本道の向こう側からふたりの居場所へと近付いていた。
「行こう」
レティシアと瞳を合わせ、状況を把握したマリアンルージュが道の先を視線で指し示す。緩やかに降る坂道を、ふたりは駆け出した。
***
レティシアを守りたい。
マリアンルージュのその気持ちは本当だった。
竜気を使って戦えば、或いは、炎のちからを使えば、彼等を退けることができるかもしれない。
けれど、『羊の安らぎ亭』でジュリアーノが見せた実力は相当のものだった。男と女の身体的な能力の違いもさる事ながら、マリアンルージュはゼノほど竜気の扱いにも長けてはいない。
相手が生身の人間である以上、一対一なら望みはあるかもしれないものの、レティシアを守りながらとなれば状況は一変する。三人か、それ以上の人数を相手にすることを考えれば、状況は圧倒的に不利に思えた。一人の相手をしているうちにレティシアを奪われ、盾にされてしまえば、そこで勝敗は決してしまうだろう。
なんとか有利な状況を、せめてレティシアだけでも安全な状況を作り出さなければ。
祈るようにきつくまぶたを閉じると、マリアンルージュは覚悟を決め、顔を上げて目を見開いた。
ふたりが辿り着いたその先に現れたのは、人の手を離れた仄暗い岩の洞穴――閉鎖された廃坑のようだった。
見渡す視界の端に、横倒しになった壊れたトロッコや、柄の折れたつるはしが映る。鉄の錠で閉ざされた地中へ続く穴の他に、身を隠す場所など何処にもなかった。
***
走り去る朱紅い髪の女の後ろ姿を眺めながら、ジュリアーノは僅かに考え込んだ。
記憶の中で、森に飛び込んだ小さな影と逃げ出した幼い少女が重なった。
「こんなところに隠れていたとは……」
その整った顔に不敵な笑みを張り付かせると、彼は愛撫するように腰に携えた剣を指先で撫であげた。
――獲物は二匹。全身の血が滾る。
さあ、狩りの時間だ。
人混みに紛れて身を隠すこともできたはずだった。けれど今のレティシアには、村を襲った憲兵隊を名乗る男達も、街の住人も関係なかった。
人間は信用できない。いくら助けを求めようとも、彼等は憲兵隊の言葉を鵜呑みにし、異種族であるレティシアを引き渡すだろう。
この街でレティシアが信じられる存在はふたりだけ。そのうちのひとりであるマリアンルージュは、あの悪魔を前に、宿に置き去りにしてきてしまった。もうひとり、助けれくれるはずのリュックは、今もあの宿の一室でレティシアの帰りを待っていることだろう。
ふたりの助けが望めない以上、レティシアは追手から逃げ回ることしかできなかった。ただひたすら人目を避け、人間の声や臭いから遠ざかるように細い道を駆け抜けた。
錯乱して闇雲に動き回ったために、レティシアは今、自分が何処を走っているのかもわからなかった。
石畳で舗装されていた道路はいつの間にか剥き出しの地面へと変わり、人が暮らす民家はどこにも見当たらなくなっていた。曲がりくねった一本道の両脇には土嚢が壁のように積み重ねられており、視界は悪く、身を隠すものは何もない。
奴等に見つかれば、たちまち捕らえられてしまう。辱めを受けて、虫螻のように始末されるのだ。
あのときレティシアを守り、身代わりになった姉のように。
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逃げ惑う人狼の叫声が響く混乱の最中、殺戮者の手はふたりが身を潜める離れへと向けられた。
逸早くそれを察したアリシアは、床下の小さな貯蔵庫に小柄なレティシアを押し込んで、
「絶対に声を出してはダメ。彼奴らが村を去るまでここで待つの。夜になったら森へ逃げなさい。無事に逃げ延びることができたら、あいつを捜して伝えて欲しいの」
そう言って、怯えて震えるだけのレティシアに最後の言葉を託した。
「“わたしを選んでくれて、ありがとう”って……」
狼狽するレティシアに向けて歪に微笑むと、アリシアは静かに貯蔵庫の蓋を閉めた。
暗闇の中でレティシアは耳を塞いだ。やがて、扉が軋む音が室内に響き、背筋を凍らせるような不気味な笑い声と、アリシアの悲痛な叫びが耳に届いた。
床の上で続けられる残虐な行為から逃避するように、レティシアは耳を塞いだまま、幼い日に姉と口ずさんだ歌を、声にならない声で歌い続けた。
焼け落ちる小屋から這い出して、姉や仲間の遺体から目を背けながら、無我夢中で森へ逃れた。奇跡的にリュックと再会し、人間の街で僅かな希望を見出し、ようやくあの悍ましい記憶から解き放たれることができると思っていた。……それなのに。
悪夢はまだ、終わっていなかったのだ。
***
小石に足を取られ、レティシアは地面へと倒れ込んだ。どれほど走り続けたのだろう。疲労のためか恐怖のためか、膝が震えて立ち上がれない。
もう駄目だ。あの金色の髪の悪魔からは逃れられない。
アリシアやソフィのように、わたしもあの悪魔に蹂躙されるのだ。
レティシアの頬を、一筋の涙がつたった。
清々しく晴れ渡る、雲ひとつない青い空を、レティシアはゆっくりと仰ぎ見た。
「レティ! レティ!」
繰り返し名を呼ばれて我に返った。レティシアの瞳に映ったのは晴れ渡る青空ではなく、泣きそうな顔で息を切らすマリアンルージュだった。
「やっと見つけた。レティ、まだ走れる?」
確めるようにそう言うと、マリアンルージュは後方を気にしながらレティシアの手を引いた。
脚の震えは止まっていた。大丈夫、まだ走れる。
レティシアはマリアンルージュの顔を見上げ、大きく頷いた。
「レティ、落ち着いて。音と臭いに集中して。ここは風下だから、きみなら彼等の動きを察知できる」
レティシアを勇気付けようとするマリアンルージュのその声は、微かに震えていた。
おそらく、マリアンルージュはレティシアの記憶を垣間見たのだろう。浴場でのマリアンルージュの言葉を思い出し、レティシアは思った。
マリアンルージュも怖いのだ。それでもレティシアを守るために、この広い人間の街を走り回り、レティシアを見つけ出してくれた。
ふたりで逃げ延びるために、今自分にできることをしなければ。
繋いだ手を握り締め、レティシアは耳を澄ませた。
足音が聞こえる。近付いてくるのは二、三人。臭いから察するに、それは最も最悪な状況だった。
あの金色の髪の悪魔が、一本道の向こう側からふたりの居場所へと近付いていた。
「行こう」
レティシアと瞳を合わせ、状況を把握したマリアンルージュが道の先を視線で指し示す。緩やかに降る坂道を、ふたりは駆け出した。
***
レティシアを守りたい。
マリアンルージュのその気持ちは本当だった。
竜気を使って戦えば、或いは、炎のちからを使えば、彼等を退けることができるかもしれない。
けれど、『羊の安らぎ亭』でジュリアーノが見せた実力は相当のものだった。男と女の身体的な能力の違いもさる事ながら、マリアンルージュはゼノほど竜気の扱いにも長けてはいない。
相手が生身の人間である以上、一対一なら望みはあるかもしれないものの、レティシアを守りながらとなれば状況は一変する。三人か、それ以上の人数を相手にすることを考えれば、状況は圧倒的に不利に思えた。一人の相手をしているうちにレティシアを奪われ、盾にされてしまえば、そこで勝敗は決してしまうだろう。
なんとか有利な状況を、せめてレティシアだけでも安全な状況を作り出さなければ。
祈るようにきつくまぶたを閉じると、マリアンルージュは覚悟を決め、顔を上げて目を見開いた。
ふたりが辿り着いたその先に現れたのは、人の手を離れた仄暗い岩の洞穴――閉鎖された廃坑のようだった。
見渡す視界の端に、横倒しになった壊れたトロッコや、柄の折れたつるはしが映る。鉄の錠で閉ざされた地中へ続く穴の他に、身を隠す場所など何処にもなかった。
***
走り去る朱紅い髪の女の後ろ姿を眺めながら、ジュリアーノは僅かに考え込んだ。
記憶の中で、森に飛び込んだ小さな影と逃げ出した幼い少女が重なった。
「こんなところに隠れていたとは……」
その整った顔に不敵な笑みを張り付かせると、彼は愛撫するように腰に携えた剣を指先で撫であげた。
――獲物は二匹。全身の血が滾る。
さあ、狩りの時間だ。
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