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第二章 死する狼のための鎮魂歌
追われる獣③
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追手はマリアンルージュを追うだろうか。
レティシアに気が付いて、土の山を登って来たりはしないだろうか。
不安と恐怖でガタガタと震える肩を抱き、レティシアは息を潜めた。
やがて近付いてきた複数の靴音が、分岐路で立ち止まる。やまなりの土の壁を一枚隔てた向こう側から、三人の息遣いが聞こえてきた。
追手は明らかに土の山を怪しんでいる。三人の追っ手のうち、ひとりが土の山に足を掛けた、そのとき。
壁の向こう、もう一方の通路の奥で、何かが地面に転がる乾いた音が鳴り響いた。
ふたたび靴音が鳴り、追手の気配が遠ざかる。マリアンルージュの狙い通り、三人の追手の足音は隣の通路へと遠ざかっていった。
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
胸の内で繰り返し、唇を噛み締める。
土の斜面を駆け下りて、レティシアは薄明るい坑道を、入り口へと向かって駆け出した。
***
どれくらい時間が経ったのか。
光苔の緑がかった弱々しい光と、月雫の花の香を頼りに、レティシアは坑道を走り続けた。
すでに息は細切れで、足取りも覚束なかった。小石に蹴つまずき、湿った土の上に何度か倒れて転がった。膝や腕に血が滲んでも、レティシアは構うことなく走り続けた。
ただの足手纏いで居続けるのはもう嫌だった。
一刻も早く、助けを呼んで来なければ。
レティシアを逃がすためにマリアンルージュが犠牲になるなんてことは、絶対にあってはならなかった。もし、マリアンルージュがアリシアのように、あの男達に蹂躙され、殺されてしまったら、きっとこの先、レティシアは一生、自分自身を許すことができないだろう。
やがて、涙で滲んだレティシアの視界に、陽の光が映り込んだ。円を描く光の輪の中に、岩肌に打ち付けられた、腐りかけた板張りの階段が見える。
ぐっと奥歯を噛み締めて、レティシアはぽっかりと空いた穴の真下に駆け寄った。
頭上を見上げ、五感を研ぎ澄ます。風の音が聞こえたけれど、人の気配は感じられなかった。
階段を駆け上がり、陽の光の元に飛び出せば、澱んだ空気が消え去って、心地良い風がレティシアの肌をくすぐった。
(必ず、助けを呼んでくるから……)
沈黙する廃坑を振り返る。
遠くに望む居住区で、正午を知らせる鐘塔の鐘の音が響いていた。
***
昼下がりの鉱山地区の街へと続く坂道を、鉱山夫たちが列を成して歩いていた。
廃坑から続く坂道を駆け上がってきたレティシアは、坂道の上の鉱山夫たちを目にして思わず足を止めると、素早く土嚢の陰に身を隠した。
――人間は恐い。信用できない。
身体中を恐怖が突き抜け、全身がガタガタと震えだす。両腕を抱き、レティシアはその場にしゃがみ込んだ。
――もうだめだ、街へは戻れない。
諦めかけた、そのとき、レティシアの脳裏にマリアンルージュの言葉が過ぎった。
憲兵隊を名乗るあの男達が街に来たのはつい先日のことだったはずだ。そんな短期間で、奴等が街の住人と手を組めるだろうか。
鉱山夫に紛れて街に行くことができれば、追手の目から身を隠すことができる。これは、レティシアが憲兵隊に見つからずに街へと戻る、又と無い機会だと思えた。
顔を上げて立ち上がる。
ごくりと息を呑み、土嚢の陰から飛び出すと、レティシアは遠ざかる鉱山夫の列へ向かって、坂道を走り出した。
街へ戻ったら、なんとか身を隠しながら路地裏を通り抜けて、リュックが待つあの宿に戻ってみせる。
レティシアが意を決した、そのとき。
鉱山夫の列からふたつの人影が抜け出し、廃坑へと続く坂道をレティシアの方へと向かって降りてきた。
両眼を大きく見開いて、レティシアが足を止める。がくがくと膝が震えだし、呼吸が乱れ、全身が総毛立った。
制服をきっちりと着込んだふたりの男は、震え上がるレティシアに目を止めると、その顔にあの男に似た不敵な笑みを浮かべた。
踵を返し、元来た道を引き返そうとしたものの、追手に背を向けると同時にレティシアの喉元が縄のような何かに締め上げられた。
叫びにもならないかすれた息を洩らし、レティシアが喉を掻きむしる。首に掛けられた縄が喉に食い込み、呼吸が妨げられた。視界が霞がかり、天地が逆転する。
体勢を崩したレティシアは、そのまま勢い良く後方へと引き倒された。
――ああ、わたしはなんて運が悪いの。
ここで殺されてしまったら、レティシアを逃がすために犠牲になったアリシアと、今もその身を投げ打ってくれているマリアンルージュに、なんと言って謝ればいいのか。
薄れゆく意識のなかで、誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
その声が彼女自身のものなのか、他の誰かのものなのか、レティシアにはもうわからなかった。
レティシアに気が付いて、土の山を登って来たりはしないだろうか。
不安と恐怖でガタガタと震える肩を抱き、レティシアは息を潜めた。
やがて近付いてきた複数の靴音が、分岐路で立ち止まる。やまなりの土の壁を一枚隔てた向こう側から、三人の息遣いが聞こえてきた。
追手は明らかに土の山を怪しんでいる。三人の追っ手のうち、ひとりが土の山に足を掛けた、そのとき。
壁の向こう、もう一方の通路の奥で、何かが地面に転がる乾いた音が鳴り響いた。
ふたたび靴音が鳴り、追手の気配が遠ざかる。マリアンルージュの狙い通り、三人の追手の足音は隣の通路へと遠ざかっていった。
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
胸の内で繰り返し、唇を噛み締める。
土の斜面を駆け下りて、レティシアは薄明るい坑道を、入り口へと向かって駆け出した。
***
どれくらい時間が経ったのか。
光苔の緑がかった弱々しい光と、月雫の花の香を頼りに、レティシアは坑道を走り続けた。
すでに息は細切れで、足取りも覚束なかった。小石に蹴つまずき、湿った土の上に何度か倒れて転がった。膝や腕に血が滲んでも、レティシアは構うことなく走り続けた。
ただの足手纏いで居続けるのはもう嫌だった。
一刻も早く、助けを呼んで来なければ。
レティシアを逃がすためにマリアンルージュが犠牲になるなんてことは、絶対にあってはならなかった。もし、マリアンルージュがアリシアのように、あの男達に蹂躙され、殺されてしまったら、きっとこの先、レティシアは一生、自分自身を許すことができないだろう。
やがて、涙で滲んだレティシアの視界に、陽の光が映り込んだ。円を描く光の輪の中に、岩肌に打ち付けられた、腐りかけた板張りの階段が見える。
ぐっと奥歯を噛み締めて、レティシアはぽっかりと空いた穴の真下に駆け寄った。
頭上を見上げ、五感を研ぎ澄ます。風の音が聞こえたけれど、人の気配は感じられなかった。
階段を駆け上がり、陽の光の元に飛び出せば、澱んだ空気が消え去って、心地良い風がレティシアの肌をくすぐった。
(必ず、助けを呼んでくるから……)
沈黙する廃坑を振り返る。
遠くに望む居住区で、正午を知らせる鐘塔の鐘の音が響いていた。
***
昼下がりの鉱山地区の街へと続く坂道を、鉱山夫たちが列を成して歩いていた。
廃坑から続く坂道を駆け上がってきたレティシアは、坂道の上の鉱山夫たちを目にして思わず足を止めると、素早く土嚢の陰に身を隠した。
――人間は恐い。信用できない。
身体中を恐怖が突き抜け、全身がガタガタと震えだす。両腕を抱き、レティシアはその場にしゃがみ込んだ。
――もうだめだ、街へは戻れない。
諦めかけた、そのとき、レティシアの脳裏にマリアンルージュの言葉が過ぎった。
憲兵隊を名乗るあの男達が街に来たのはつい先日のことだったはずだ。そんな短期間で、奴等が街の住人と手を組めるだろうか。
鉱山夫に紛れて街に行くことができれば、追手の目から身を隠すことができる。これは、レティシアが憲兵隊に見つからずに街へと戻る、又と無い機会だと思えた。
顔を上げて立ち上がる。
ごくりと息を呑み、土嚢の陰から飛び出すと、レティシアは遠ざかる鉱山夫の列へ向かって、坂道を走り出した。
街へ戻ったら、なんとか身を隠しながら路地裏を通り抜けて、リュックが待つあの宿に戻ってみせる。
レティシアが意を決した、そのとき。
鉱山夫の列からふたつの人影が抜け出し、廃坑へと続く坂道をレティシアの方へと向かって降りてきた。
両眼を大きく見開いて、レティシアが足を止める。がくがくと膝が震えだし、呼吸が乱れ、全身が総毛立った。
制服をきっちりと着込んだふたりの男は、震え上がるレティシアに目を止めると、その顔にあの男に似た不敵な笑みを浮かべた。
踵を返し、元来た道を引き返そうとしたものの、追手に背を向けると同時にレティシアの喉元が縄のような何かに締め上げられた。
叫びにもならないかすれた息を洩らし、レティシアが喉を掻きむしる。首に掛けられた縄が喉に食い込み、呼吸が妨げられた。視界が霞がかり、天地が逆転する。
体勢を崩したレティシアは、そのまま勢い良く後方へと引き倒された。
――ああ、わたしはなんて運が悪いの。
ここで殺されてしまったら、レティシアを逃がすために犠牲になったアリシアと、今もその身を投げ打ってくれているマリアンルージュに、なんと言って謝ればいいのか。
薄れゆく意識のなかで、誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
その声が彼女自身のものなのか、他の誰かのものなのか、レティシアにはもうわからなかった。
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