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第二章 死する狼のための鎮魂歌
鎮魂歌①
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我ながら酷い執着心だ、とゼノは思った。
これまでゼノは、自身の嗅覚や聴覚を当てにしたことなど一度たりともなかった。イヌ科の動物とは違い、竜人族のそれは人間と然程変わらないものだったからだ。
目印として残されていた月雫の花は、幾度目かの分岐路で姿を消していた。それでも、空気の澱んだ廃坑の中に点々と遺されたマリアンルージュの匂いを辿り、その声の元を突き止めることが出来たのは、偏にゼノの彼女に対する執着心に寄るものに違いなかった。
抗議するように張り上げられた声に耳を澄ませて、彼女がまだ無事であることを知り、安堵する。
道すがら拾ったシャベルを武器代わりに手にし、光苔が照らす通路を真っ直ぐに駆ける。時折り立ち止まって耳を澄まし、声のする方へとひた走った。
彼女が居るその場所までは、僅かな距離しか残されていないはずだった。けれど、ゼノの想いを嘲笑うかのように、坑道内に響いていた彼女の声は唐突に途絶えた。
ややあって、微かな悲鳴と共に不快な笑い声が耳に届いた。
全身から血の気が引いていくのが判る。
弾む心音と耳障りな乱れた呼吸に、ゼノは眉を顰めた。
シャベルの柄を握り締め、足音を忍ばせて、声の途切れた方へと近付いて行く。
群生する光苔に照らされた駄々広い空間。その中央で、制服を着込んだ黄金色の髪の男が蹲っていた。
いや、違う。男は誰かに馬乗りになっていた。
男の股の間から投げ出された白い脚。それが彼女のものであることは、瞬時に理解できた。
酷く冷静な気分だった。
下卑た笑い声を上げ、興奮して息を荒げる男の背後に、ゼノはゆっくりと歩み寄った。手にしていたシャベルを振り被り、男の頭部を思い切り薙いだ。
破裂音に似た派手な音を立て、男の身体が跳ね上がる。朱紅い飛沫を点々と撒き散らし、男は剥き出しの岩肌に倒れ込んだ。
竜気を纏わずに殴りつけたとはいえ、完全な不意打ちだ。相当の衝撃を与えたはずだった。にも関わらず、男はすぐさま顔を上げた。振り乱した黄金色の髪の隙間から、ぎらついた碧眼が覗く。
躊躇いなど欠片もなかった。間髪入れず、ゼノは再度、男の頭部を目掛けてシャベルを振り抜いた。
剥き出しの岩肌に囲まれた空間に、派手な金属音が鳴り響く。瞬時に抜かれた男の長剣とシャベルの刃が交わり、火花を散らした。
――疾い!
思うや否や、男がその剣を振るう。弧を描いた切っ先がシャベルの柄と刃を切り離した。
弾き飛ばされて転がった刃の耳触りな音に眉を顰め、ゼノはさらなる追撃に身構えた。だが、ゼノの予測に反し、男はぴたりと動きを止めた。
「誰かと思えば、あのぼろ宿の……」
しゃがみ込んだままゼノの顔を見上げ、ジュリアーノが呟いた。光苔に照らされた鮮血が、額から顔の半分を黒々と染め上げている。
不意打ちで食らわせた一撃が効いているのだろう。額に手を当てたジュリアーノは、立ち上がるでもなく地面に剣をつき、ふたたび鋭い眼光をゼノへと向けた。
「ゼノ……」
消え入るようなか細い声だった。振り返らずとも、マリアンルージュがゆっくりと身を起こすのがわかった。
ジュリアーノの動きに注意を向けたまま二、三歩退がって距離をとると、ゼノは座り込むマリアンルージュへ目を向けた。
間に合ったのか、間に合わなかったのか。ゼノには判断できなかった。
ゼノを見上げるマリアンルージュの怯えた瞳は涙で濡れて、大きく肌蹴た胸元の、その左側の胸の下で、朱紅い鱗が鈍く光を反射していた。
人型を取っていても隠すことのできないこの鱗は、竜人族の最大の弱点だ。他人に見られることは耐え難い屈辱でしかない。
「……すみません」
視線を逸らし、手を差し伸べる。怯えるようにその手を握った彼女の手は、微かに震えていた。
俯いておずおずと胸元を押さえるマリアンルージュに、ゼノは落ち着いた口調で告げた。
「あとは俺に任せて、行ってください」
「嫌だ! ゼノも一緒に……」
弾かれたように顔を上げ、マリアンルージュが声を荒げる。
だが、その想いに応えるでもなく、未だ鋭い眼光を向け続けるジュリアーノと視線を交えたまま、ゼノは淡々と続けた。
「俺は彼に確認しなければならないことがあります。マリアはレティとリュックのところへ行って、彼らを安心させてあげてください」
「でも……」
「彼に一撃を加えたとき、俺は竜気を纏っていませんでした。自慢にもなりませんが、俺は非力です。おそらく彼はすぐに立ち上がって……」
言い終える前に、ゼノの視線の先でジュリアーノがゆっくりと立ち上がった。血液がこびり付いた頭部を押さえたまま、握り締めた剣の切っ先をこちらに突き付けて。
「レティを逃した貴女なら、わかるでしょう?」
諭すようにゼノが告げると、瞳に涙を潤ませてマリアンルージュは静かに頷いた。
「――待ってるから」
祈るようにそう言い残し、辿々しい足取りで坑道へと向かう。
刃を失ったシャベルを片手に、ゼノはふたたびジュリアーノと対峙した。
これまでゼノは、自身の嗅覚や聴覚を当てにしたことなど一度たりともなかった。イヌ科の動物とは違い、竜人族のそれは人間と然程変わらないものだったからだ。
目印として残されていた月雫の花は、幾度目かの分岐路で姿を消していた。それでも、空気の澱んだ廃坑の中に点々と遺されたマリアンルージュの匂いを辿り、その声の元を突き止めることが出来たのは、偏にゼノの彼女に対する執着心に寄るものに違いなかった。
抗議するように張り上げられた声に耳を澄ませて、彼女がまだ無事であることを知り、安堵する。
道すがら拾ったシャベルを武器代わりに手にし、光苔が照らす通路を真っ直ぐに駆ける。時折り立ち止まって耳を澄まし、声のする方へとひた走った。
彼女が居るその場所までは、僅かな距離しか残されていないはずだった。けれど、ゼノの想いを嘲笑うかのように、坑道内に響いていた彼女の声は唐突に途絶えた。
ややあって、微かな悲鳴と共に不快な笑い声が耳に届いた。
全身から血の気が引いていくのが判る。
弾む心音と耳障りな乱れた呼吸に、ゼノは眉を顰めた。
シャベルの柄を握り締め、足音を忍ばせて、声の途切れた方へと近付いて行く。
群生する光苔に照らされた駄々広い空間。その中央で、制服を着込んだ黄金色の髪の男が蹲っていた。
いや、違う。男は誰かに馬乗りになっていた。
男の股の間から投げ出された白い脚。それが彼女のものであることは、瞬時に理解できた。
酷く冷静な気分だった。
下卑た笑い声を上げ、興奮して息を荒げる男の背後に、ゼノはゆっくりと歩み寄った。手にしていたシャベルを振り被り、男の頭部を思い切り薙いだ。
破裂音に似た派手な音を立て、男の身体が跳ね上がる。朱紅い飛沫を点々と撒き散らし、男は剥き出しの岩肌に倒れ込んだ。
竜気を纏わずに殴りつけたとはいえ、完全な不意打ちだ。相当の衝撃を与えたはずだった。にも関わらず、男はすぐさま顔を上げた。振り乱した黄金色の髪の隙間から、ぎらついた碧眼が覗く。
躊躇いなど欠片もなかった。間髪入れず、ゼノは再度、男の頭部を目掛けてシャベルを振り抜いた。
剥き出しの岩肌に囲まれた空間に、派手な金属音が鳴り響く。瞬時に抜かれた男の長剣とシャベルの刃が交わり、火花を散らした。
――疾い!
思うや否や、男がその剣を振るう。弧を描いた切っ先がシャベルの柄と刃を切り離した。
弾き飛ばされて転がった刃の耳触りな音に眉を顰め、ゼノはさらなる追撃に身構えた。だが、ゼノの予測に反し、男はぴたりと動きを止めた。
「誰かと思えば、あのぼろ宿の……」
しゃがみ込んだままゼノの顔を見上げ、ジュリアーノが呟いた。光苔に照らされた鮮血が、額から顔の半分を黒々と染め上げている。
不意打ちで食らわせた一撃が効いているのだろう。額に手を当てたジュリアーノは、立ち上がるでもなく地面に剣をつき、ふたたび鋭い眼光をゼノへと向けた。
「ゼノ……」
消え入るようなか細い声だった。振り返らずとも、マリアンルージュがゆっくりと身を起こすのがわかった。
ジュリアーノの動きに注意を向けたまま二、三歩退がって距離をとると、ゼノは座り込むマリアンルージュへ目を向けた。
間に合ったのか、間に合わなかったのか。ゼノには判断できなかった。
ゼノを見上げるマリアンルージュの怯えた瞳は涙で濡れて、大きく肌蹴た胸元の、その左側の胸の下で、朱紅い鱗が鈍く光を反射していた。
人型を取っていても隠すことのできないこの鱗は、竜人族の最大の弱点だ。他人に見られることは耐え難い屈辱でしかない。
「……すみません」
視線を逸らし、手を差し伸べる。怯えるようにその手を握った彼女の手は、微かに震えていた。
俯いておずおずと胸元を押さえるマリアンルージュに、ゼノは落ち着いた口調で告げた。
「あとは俺に任せて、行ってください」
「嫌だ! ゼノも一緒に……」
弾かれたように顔を上げ、マリアンルージュが声を荒げる。
だが、その想いに応えるでもなく、未だ鋭い眼光を向け続けるジュリアーノと視線を交えたまま、ゼノは淡々と続けた。
「俺は彼に確認しなければならないことがあります。マリアはレティとリュックのところへ行って、彼らを安心させてあげてください」
「でも……」
「彼に一撃を加えたとき、俺は竜気を纏っていませんでした。自慢にもなりませんが、俺は非力です。おそらく彼はすぐに立ち上がって……」
言い終える前に、ゼノの視線の先でジュリアーノがゆっくりと立ち上がった。血液がこびり付いた頭部を押さえたまま、握り締めた剣の切っ先をこちらに突き付けて。
「レティを逃した貴女なら、わかるでしょう?」
諭すようにゼノが告げると、瞳に涙を潤ませてマリアンルージュは静かに頷いた。
「――待ってるから」
祈るようにそう言い残し、辿々しい足取りで坑道へと向かう。
刃を失ったシャベルを片手に、ゼノはふたたびジュリアーノと対峙した。
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