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第二章 死する狼のための鎮魂歌
竜の鱗①
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自由都市アルティジエに夜の帳が下りる。
夜空に瞬く星のように街の明かりが灯るなか、夕食時を終えた『羊の安らぎ亭』は、昨夜の慌ただしさとは一変した静かなときを迎えていた。
夕刻に廃坑を包囲していたアルティジエ自警団は、その後、レティシアとマリアンルージュを襲った数名のレジオルディネの憲兵隊員、及びそれに協力したと思わしき同隊員を、街の留置施設へと連行した。
結果的にレジオルド憲兵隊の全隊員が連行されたことで、『羊の安らぎ亭』の客室のほぼ全てが空き部屋になってしまった。
廃坑から戻ったゼノは、女将のヴァネッサの指示のもと、使用済みの客室の後片付けを任されていた。
右手にモップ、左手に木製のバケツを提げ、客室棟一階の廊下を奥へと進む。一階の清掃は大方片付き、あとは最奥の一室が残るのみだ。
廊下の突き当たりに位置する部屋の前で立ち止まると、ゼノはふと天井を見上げた。
丁度この真上に位置する部屋で、今、マリアンルージュが休んでいる。引き裂かれた衣服や泥に塗れた身体から状況を察したヴァネッサが気を利かせ、空元気を出してみせるマリアンルージュに、今夜はゆっくり休むようにと言いつけたからだ。
廃坑から戻った後も、マリアンルージュはリュックやレティシアに対し気丈に振舞うばかりだった。ヴァネッサが止めなければ、今も一緒に客室を片付けて回っていた事だろう。
涙で頬を濡らした、怯えた瞳のマリアンルージュの顔を思い出し、ゼノは奥歯を噛み締めた。
廃坑の暗がりのなかで、マリアンルージュがあの男に何をされたのか。
その全てを聞き出すことが、ゼノにはできなかった。その件については、ゼノが触れてはならないような気がしたからだ。
あの男に鱗を見られ、触れられた。それだけでも耐え難い屈辱だったに違いない。それにも関わらず、追い討ちをかけるように、ゼノも彼女の鱗を見てしまったのだ。
不本意とはいえ、傷口に塩を塗ったようなものだ。
己の首の後ろ側、うなじの下にあたるその部位に、ゼノは無意識に指で触れた。
***
客室の清掃を終え、厨房に戻ったゼノを迎え入れたのは、いつもより小洒落たティーポットを手にしたヴァネッサだった。
揃いのカップとソーサーを載せたトレイにポットを置き、ゼノに差し出して、ヴァネッサは笑顔で言った。
「おつかれさん。今夜はもう上がっていいよ」
「どうも」
軽く頭を下げてトレイを受け取ったゼノの鼻腔を、ポットから漂う嗅ぎ慣れない匂いがくすぐった。優しくて甘い香りだ。
一日の仕事の終わりに、ヴァネッサは毎晩温かいお湯を沸かしてくれていた。けれど、今夜のポットの中身はいつものお湯ではない。それなりに拘ったハーブが使われているようだった。
「珍しいですね」
軽く蓋を持ちあげて、ポットの中を覗きながらゼノが言うと、ヴァネッサは小さく息を吐いた。
「あんたにじゃないよ。……ほら、あんなことがあったあとだろう? あの子には元気になって欲しいんだ」
察しろと言いたげに、ヴァネッサがゼノを見上げる。
「あの子って……俺に、これを運べってことですか?」
「何おどろいてんだい。当然だろう?」
ヴァネッサの言う『あの子』がマリアンルージュのことだと瞬時に理解し、ゼノは慌てて首を振った。
行動を共にする仲間とはいえ、ゼノは歴とした男だ。あのようなことがあった後なのだから、廃坑でマリアンルージュを襲った連中と同類に思われていてもおかしくない。
こういう場合は同性に世話を任せたほうが無難なはずだ。
「それならレティシアのほうが適任でしょう。同性ですし、きっとマリアも安心できます」
「ひでぇなぁ。レティだって被害者なんだぜ?」
唐突に背後から声をかけられ、ゼノが慌てて後方を振り返ると、厨房の入り口で呆れたように肩を竦めるリュックと目が合った。
「マリアはレティの前で弱音を吐けないだろ。要らない気を遣って辛い気持ちを抱え込んで、余計に疲れるだけだ」
リュックがゼノに歩み寄り、ぽんと肩を叩く。ゼノが恐る恐るヴァネッサに目を向けると、同意を促すように大きく頷かれた。そしてとどめを刺すように、その一言が告げられた。
「あんなことがあったんだ。独りじゃ心細いってもんだよ」
夜空に瞬く星のように街の明かりが灯るなか、夕食時を終えた『羊の安らぎ亭』は、昨夜の慌ただしさとは一変した静かなときを迎えていた。
夕刻に廃坑を包囲していたアルティジエ自警団は、その後、レティシアとマリアンルージュを襲った数名のレジオルディネの憲兵隊員、及びそれに協力したと思わしき同隊員を、街の留置施設へと連行した。
結果的にレジオルド憲兵隊の全隊員が連行されたことで、『羊の安らぎ亭』の客室のほぼ全てが空き部屋になってしまった。
廃坑から戻ったゼノは、女将のヴァネッサの指示のもと、使用済みの客室の後片付けを任されていた。
右手にモップ、左手に木製のバケツを提げ、客室棟一階の廊下を奥へと進む。一階の清掃は大方片付き、あとは最奥の一室が残るのみだ。
廊下の突き当たりに位置する部屋の前で立ち止まると、ゼノはふと天井を見上げた。
丁度この真上に位置する部屋で、今、マリアンルージュが休んでいる。引き裂かれた衣服や泥に塗れた身体から状況を察したヴァネッサが気を利かせ、空元気を出してみせるマリアンルージュに、今夜はゆっくり休むようにと言いつけたからだ。
廃坑から戻った後も、マリアンルージュはリュックやレティシアに対し気丈に振舞うばかりだった。ヴァネッサが止めなければ、今も一緒に客室を片付けて回っていた事だろう。
涙で頬を濡らした、怯えた瞳のマリアンルージュの顔を思い出し、ゼノは奥歯を噛み締めた。
廃坑の暗がりのなかで、マリアンルージュがあの男に何をされたのか。
その全てを聞き出すことが、ゼノにはできなかった。その件については、ゼノが触れてはならないような気がしたからだ。
あの男に鱗を見られ、触れられた。それだけでも耐え難い屈辱だったに違いない。それにも関わらず、追い討ちをかけるように、ゼノも彼女の鱗を見てしまったのだ。
不本意とはいえ、傷口に塩を塗ったようなものだ。
己の首の後ろ側、うなじの下にあたるその部位に、ゼノは無意識に指で触れた。
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客室の清掃を終え、厨房に戻ったゼノを迎え入れたのは、いつもより小洒落たティーポットを手にしたヴァネッサだった。
揃いのカップとソーサーを載せたトレイにポットを置き、ゼノに差し出して、ヴァネッサは笑顔で言った。
「おつかれさん。今夜はもう上がっていいよ」
「どうも」
軽く頭を下げてトレイを受け取ったゼノの鼻腔を、ポットから漂う嗅ぎ慣れない匂いがくすぐった。優しくて甘い香りだ。
一日の仕事の終わりに、ヴァネッサは毎晩温かいお湯を沸かしてくれていた。けれど、今夜のポットの中身はいつものお湯ではない。それなりに拘ったハーブが使われているようだった。
「珍しいですね」
軽く蓋を持ちあげて、ポットの中を覗きながらゼノが言うと、ヴァネッサは小さく息を吐いた。
「あんたにじゃないよ。……ほら、あんなことがあったあとだろう? あの子には元気になって欲しいんだ」
察しろと言いたげに、ヴァネッサがゼノを見上げる。
「あの子って……俺に、これを運べってことですか?」
「何おどろいてんだい。当然だろう?」
ヴァネッサの言う『あの子』がマリアンルージュのことだと瞬時に理解し、ゼノは慌てて首を振った。
行動を共にする仲間とはいえ、ゼノは歴とした男だ。あのようなことがあった後なのだから、廃坑でマリアンルージュを襲った連中と同類に思われていてもおかしくない。
こういう場合は同性に世話を任せたほうが無難なはずだ。
「それならレティシアのほうが適任でしょう。同性ですし、きっとマリアも安心できます」
「ひでぇなぁ。レティだって被害者なんだぜ?」
唐突に背後から声をかけられ、ゼノが慌てて後方を振り返ると、厨房の入り口で呆れたように肩を竦めるリュックと目が合った。
「マリアはレティの前で弱音を吐けないだろ。要らない気を遣って辛い気持ちを抱え込んで、余計に疲れるだけだ」
リュックがゼノに歩み寄り、ぽんと肩を叩く。ゼノが恐る恐るヴァネッサに目を向けると、同意を促すように大きく頷かれた。そしてとどめを刺すように、その一言が告げられた。
「あんなことがあったんだ。独りじゃ心細いってもんだよ」
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