滅びゆく竜の物語

柴咲もも

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第二章 死する狼のための鎮魂歌

竜の鱗②

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 結局、ふたりに押し切られるようなかたちで、ゼノはマリアンルージュの待つ部屋へ向かうことになった。
 重い足取りで階段を上がり、廊下の突き当たりで立ち止まる。手にしたトレイと閉ざされた扉のあいだを、何度か視線が行き来した。
 散々躊躇ったあと、ゼノが扉を叩こうと手を伸ばしたときだった。

「入らないの?」

 後方からマリアンルージュの声がした。
 慌てて振り返ったゼノの目に、ナイトドレスに身を包んだマリアンルージュの姿が映る。ほんのりと上気した肌と湿った柔らかな朱紅い髪から、湯浴みを終えたばかりなのだとわかった。
 想定外の事態に狼狽えるゼノを見てくすりと笑うと、マリアンルージュはゼノの手元――ティーセットの載ったトレイを目線で指した。

「……それ、おばさんから?」

 小首を傾げて尋ねるマリアンルージュの様子はいつもとさほど変わらない。
 特に思い詰めた様子もなく部屋の扉を開くと、マリアンルージュはゼノの手からティーセットを受け取って、真っ直ぐに窓際に置かれたソファへと向かった。ローテーブルにカップとソーサーを並べ、手慣れた様子でハーブティーを淹れはじめる。
 あまりに自然に振る舞われて、ゼノは呆然と立ち尽くした。ハーブティーをカップに注ぎながら、マリアンルージュが口を開く。

「片付け、手伝えなくてごめん。大丈夫だって言ったんだけど、おばさん気を遣ってくれたみたいで……」
「いえ、気にしないでください」

 ゼノが応えると、マリアンルージュはこくりと頷いてソファに腰を下ろした。

「座ったら? せっかくのお茶が冷めちゃうよ」

 隣の空いたスペースを目線で指し、棒立ちのままのゼノを促すと、マリアンルージュは湯気の立つカップに口を付けた。「美味しい」と一言零し、ふたたびゼノに笑いかける。その表情かおにはゼノに対する警戒心など微塵も感じられない。
 確かにリュックやヴァネッサが言うように、今のゼノがマリアンルージュにできることといえば、傍で元気付けるくらいしかないのだろう。
 どうすればマリアンルージュを元気付けることが出来るのか。
 思考を巡らせつつ、ゼノはソファの端に腰を下ろした。

「……やっぱり、嫌だよね」

 不意に、マリアンルージュが表情を曇らせる。
 予想だにしなかった発言に状況が把握できず、ゼノは慌ててソファとマリアンルージュを見比べた。
 動揺するゼノの様子に気付いてか否か、マリアンルージュは静かに目を伏せ、囁くように言葉を連ねる。

「ゼノがわたしと、前よりも距離を置いてるのがわかるよ。男の人に鱗を見られたんだから穢れてるって思われても仕方ないけど……」

 諦めにも似たその言葉に、ゼノははっと息を呑んだ。
 今ふたりが腰掛けているソファは二人掛けのもので、先にマリアンルージュが座っていても、スペースには充分な空きがあった。
 それにも関わらず、マリアンルージュに怖がられるのではないかという不安から、ゼノは必要以上に距離を取って座ったのだ。

 ふたりの故郷では、婚姻前に例の鱗を他人――それも異性に見せることは、淫らで穢らわしい行為だと教えられる。
 例えマリアンルージュ自身にその気がなかったとしても、現実に異性に鱗を見られたのだから、ゼノが必要以上に距離を取れば、嫌悪感を抱いていると誤解されてもおかしくない。

「違っ……、穢れてるだなんて思っていません!」
「無理しなくて良いよ。だって、他の男あんなヤツに撫で回された身体なんて、自分でも気持ち悪いから……」

 慌てて否定するゼノには目もくれず、消え入りそうな声でそう零すと、マリアンルージュはソファのうえで膝を抱えた。

「……洗っても洗っても消えないんだ。鱗に触れられたときの感覚が蘇って、身体中がぞわぞわして、思い出したくないのに震えが止まらない……」

 小さくうずくまるマリアンルージュの背中が小刻みに震えていた。か細い肩に、ゼノは思わず手を伸ばした。けれど、その手はマリアンルージュに届く前に、ソファの上に下ろされた。

 あんなことがあったのに、何も気にしていないわけがなかった。
 思い詰めた様子を見せないように、ゼノに気を遣わせないように、マリアンルージュは彼女なりに精一杯気を張っていたのだ。
 おかしな気を遣う必要などなかったのだ。いつもどおりの、あのぎこちない態度で接していれば、それだけで良かったのだ。
 ゼノは今更になって気が付いた。

「……穢れているだなんて思いません。ただ……」

 逡巡し、躊躇いがちに口を開く。

「傍に居て良いのか、わからなかったんです」

 時計の針が刻む音が静寂の中に響いていた。先の言葉を最後に、ふたりの会話は途切れてしまった。
 膝を抱えて俯いたままのマリアンルージュが、今、どんな気持ちでいるのか、ゼノには解らない。ただ、これ以上傍に居ても悪戯に彼女を傷付けるだけな気がして、ゼノは静かに席を立った。
 床が軋む微かな音が部屋に響く。ソファから離れようと一歩足を踏み出して、ゼノは動きを止めた。

「行かないで……」

 振り向いたゼノと、マリアンルージュの視線が重なる。泣き出しそうな瞳を潤ませてゼノを見上げるマリアンルージュの指先が、ゼノの袖の端を握っていた。

「……ひとりにしないで」

 そこにいるのは、ゼノが知っている、いつもの無邪気で元気な彼女ではなかった。幼い子供のように、酷く弱々しくて。縋るようなその視線に胸が痛み、ゼノはそれ以上身動きが取れなくなっていた。

「……俺が、怖くないんですか?」

 躊躇いがちに訊ねれば、マリアンルージュは黙って首を振った。

「俺だって男です。貴女に酷いことをした輩と本質は変わらないかもしれませんよ」

 念を押すように告げる。
 あの薄暗い通路でマリアンルージュの嬌声を耳にしたとき、心臓が跳ね上がるような衝撃を覚えた。危機に瀕する彼女の声を聞いて、僅かに気が高揚したのだ。
 そして同時に、彼女にあのような声を上げさせた輩をズタズタに引き裂いてやりたいとも思った。
 あのときのゼノは、マリアンルージュを助けようとしたわけではなかった。己の所有物に手を出されたことに対して憤ったのだ。


「……ゼノは、わたしがあの男に何をされたと思ってるの?」

 苦々しく顔を歪めるゼノの顔を心配そうに覗き込み、マリアンルージュが囁いた。

「服を破られて身体中を撫で回されて、……鱗に触られた。……でも、それだけだよ 」

 袖を握っていたマリアンルージュの指先が手の甲をなぞり、ゼノの指先に触れる。どちらからとも知れぬまま、指先が絡み合った。

「わたしは……きみのわたしを見る目が変わってしまうほうが怖い。穢らわしい存在だと思われて、きみが離れていってしまうんじゃないかって……それだけが怖くてたまらない」

 うな垂れて首を振り、マリアンルージュは震える声を絞り出す。向けられた真剣な眼差しとその想いを前に、ゼノは思わず声を荒げた。

「穢らわしいなんて思いません! ただ、俺は男で、不本意とはいえ貴女の……を見てしまったわけで……あんなことがあったあとで、傍に居られたくないだろうと……」

 引き裂かれた布のあいだから覗いた白い肌と、胸の下で艶めかしく輝く朱紅い鱗が、今もゼノの瞼の裏に鮮明に焼き付いていた。
 本来なら、一生を添い遂げる者だけが知る筈の、彼女の秘密――

「……忘れるように努力します。絶対に、誰にも言いませんから……」

 出来もしない約束を口にして、ゼノは口を引き結ぶ。その瞬間、絡み合った指先がきゅっと握られた。

「忘れないで……」

 祈るようにマリアンルージュが囁いた。指先を引かれ、ふたたびソファに引き戻される。
 躊躇いがちに腕を伸ばし、細い肩を抱き寄せる。胸に顔を埋めるマリアンルージュを、ゼノはただ、そっと抱きしめた。


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