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番外編
朝霧の森を駆ける②
幾らか季節が巡って、陽の短い季節になった。
木の葉がひしめく森の小径を、わたしは父と兄に付き添われて歩いていた。イシュナードに婚姻を申し込むために、だ。
里で唯一の年頃の娘だったわたしにとって、婚姻とは里の将来を担う優秀な男の血を遺すためのものだった。
わたしの前ではあんなだけど、イシュナードは里の若い男のなかでは最も優秀で、皆の期待を一身に背負っていた。
彼こそがわたしの婚姻相手に相応しい、選ばれるべき存在だと、里の誰もが考えていたと思う。
だから、わたしは――、それなのに。
「ごめん。その申し出は受け入れられないよ」
いつもよりも少し緊張して婚姻を申し込んだわたしに、イシュナードは言った。後方に控えていた父と兄が驚いたのが、振り向かなくてもわかった。
状況を理解できずに思考を空回りさせるわたしに向かって、イシュナードは今までにないほど優しい口調で尋ねた。
「本当に、きみは僕のことが好きなのかな。僕はきみが大好きだから、僕の一生をきみに捧げてもいいけど。でも、きみが本当に好きなのは……」
わたしはただ、イシュナードの口から紡がれる言葉に耳を傾けることしかできなかった。
呆然とするわたしの瞳を愛おしむように見つめて、彼は続けた。
「きみの瞳がいつも追いかけているのは、僕じゃなくて、ゼノだろう?」
イシュナードの口から発せられたその名前に、わたしはびくりと肩を震わせた。
まさか、イシュナードの口から彼の名前を告げられるとは思ってもみなかったから。
「……なにを根拠に? わたしは、彼と一度も口をきいたことすらないのに」
やっとの思いで口にした。その声が微かに震えているのが自分でもわかった。
だって、彼――ゼノとは何の接点もなかった。
里と森を繋ぐ道を見下ろすあの丘で、本を読み耽る彼をみかけた。
それが気になって、森を行き来するたびにその姿を探してしまいはしたけれど、稀に目が合ったことだってあったけれど、そんなときだって、彼はつまらなそうに本のページに視線を落とすだけだった。
まるで、わたしの姿なんて、その目に映っていないかのように。
常に異性から好意を寄せられていたのに、よりにも寄って、全くわたしのことを見ていない彼のことを好きだなんて。
「そんなわけ、ないよ」
わたしは俯いて、吐き捨てるように言った。
「そう……、でも考えてごらん。今のままでは、僕のすべてをきみに捧げることはできないよ」
優しい瞳だった。けれど毅然とした態度で、イシュナードはわたしを突き放した。
***
「冗談じゃ済まないぞ。絶対にあってはならんからな。よりにもよって、あの闇色の一族の小僧など……!」
帰り道、父が声を荒げて言った。
父も兄も、他の家族も、わたしを取り巻く里の人々は皆、彼をつまはじきものにする。そんな彼らの中心にいるわたしも、きっと彼の目には同じような存在として映っているのだろう。だから目を合わせても、見えていないふりをするのだ。
イシュナードには申し訳ないことをしてしまった。無意識に、彼を利用してしまっていた。
イシュナードに指摘されて、初めてわたしは自分の本当の気持ちに気が付いた。
子供の頃から、わたしはイシュナードの側を駆け回っていた。でもそれは、イシュナードがいつもゼノと一緒に居たからだったのだろう。この闇色のペンダントを欲しがったときだって、わたしはゼノのことを想っていたに違いない。
森の小径を降りながら、耳元で揺れるペンダントに、わたしはそっと指先で触れた。
茫然と空を見上げると、樹々の合間をゆっくりと流れていく雲が見えた。
「待って!」
唐突に声が響いた。
声の主の姿なんて、ほんの少しも見えなかったはずなのに。直接話をしたことなど、一度もない相手のはずなのに。その声が誰のものなのか、わたしにはすぐに判ってしまった。
振り返ったわたしの前に、父と兄が立ち塞がる。ふたりの肩越しに、夜の空を思わせる闇色の髪が見えた。
――ゼノ。
心臓が跳ね上がるように、どくん、と大きく胸を打った。
「違うんだ。イシュナードがきみの申し出を断ったの は、理由があるんだよ」
立ち塞がるふたりに構うことなく、彼は真っ直ぐにわたしを見据えて言った。
彼の呼吸は僅かに弾んでいて、わたしを走って追ってきたことが容易に想像できた。
「マリア、先に行きなさい」
振り向かずに、低い声で父が告げた。有無を言わせぬ強い口調だった。
でも、わたしは父の気迫に圧されはしても、その場から離れようとは微塵も思わなかった。足が勝手に、ゼノの元へと向かっていた。父と兄のあいだを擦り抜けて、わたしは引き寄せられるように坂道を登った。
「マリア!」
父の制止にも構うことなく、一歩一歩、歩みを進める。
いつも伏し目がちの紅い瞳を見開いて、驚いたようにわたしを見つめるゼノの顔が、なんだか可笑しかった。
「父さんも兄さんも、先に帰って。わたしは彼の話が聞きたい」
父と兄を振り返って、わたしは告げた。
その言葉を口にしたとき、自分が一体どんな表情をしていたのかはわからない。
けれど、呆然として動きを止めた父と兄が黙ってその場を去っていったのだから、それまでの父や家族に従順だったわたしとは何かが違っていたのだと思う。
ふたりきりになった森の小径で、わたしは彼に笑いかけた。
「話を、聞かせてくれる?」
その日、わたしははじめて、長いあいだ想い焦がれたその人と、言葉を交わした。
木の葉がひしめく森の小径を、わたしは父と兄に付き添われて歩いていた。イシュナードに婚姻を申し込むために、だ。
里で唯一の年頃の娘だったわたしにとって、婚姻とは里の将来を担う優秀な男の血を遺すためのものだった。
わたしの前ではあんなだけど、イシュナードは里の若い男のなかでは最も優秀で、皆の期待を一身に背負っていた。
彼こそがわたしの婚姻相手に相応しい、選ばれるべき存在だと、里の誰もが考えていたと思う。
だから、わたしは――、それなのに。
「ごめん。その申し出は受け入れられないよ」
いつもよりも少し緊張して婚姻を申し込んだわたしに、イシュナードは言った。後方に控えていた父と兄が驚いたのが、振り向かなくてもわかった。
状況を理解できずに思考を空回りさせるわたしに向かって、イシュナードは今までにないほど優しい口調で尋ねた。
「本当に、きみは僕のことが好きなのかな。僕はきみが大好きだから、僕の一生をきみに捧げてもいいけど。でも、きみが本当に好きなのは……」
わたしはただ、イシュナードの口から紡がれる言葉に耳を傾けることしかできなかった。
呆然とするわたしの瞳を愛おしむように見つめて、彼は続けた。
「きみの瞳がいつも追いかけているのは、僕じゃなくて、ゼノだろう?」
イシュナードの口から発せられたその名前に、わたしはびくりと肩を震わせた。
まさか、イシュナードの口から彼の名前を告げられるとは思ってもみなかったから。
「……なにを根拠に? わたしは、彼と一度も口をきいたことすらないのに」
やっとの思いで口にした。その声が微かに震えているのが自分でもわかった。
だって、彼――ゼノとは何の接点もなかった。
里と森を繋ぐ道を見下ろすあの丘で、本を読み耽る彼をみかけた。
それが気になって、森を行き来するたびにその姿を探してしまいはしたけれど、稀に目が合ったことだってあったけれど、そんなときだって、彼はつまらなそうに本のページに視線を落とすだけだった。
まるで、わたしの姿なんて、その目に映っていないかのように。
常に異性から好意を寄せられていたのに、よりにも寄って、全くわたしのことを見ていない彼のことを好きだなんて。
「そんなわけ、ないよ」
わたしは俯いて、吐き捨てるように言った。
「そう……、でも考えてごらん。今のままでは、僕のすべてをきみに捧げることはできないよ」
優しい瞳だった。けれど毅然とした態度で、イシュナードはわたしを突き放した。
***
「冗談じゃ済まないぞ。絶対にあってはならんからな。よりにもよって、あの闇色の一族の小僧など……!」
帰り道、父が声を荒げて言った。
父も兄も、他の家族も、わたしを取り巻く里の人々は皆、彼をつまはじきものにする。そんな彼らの中心にいるわたしも、きっと彼の目には同じような存在として映っているのだろう。だから目を合わせても、見えていないふりをするのだ。
イシュナードには申し訳ないことをしてしまった。無意識に、彼を利用してしまっていた。
イシュナードに指摘されて、初めてわたしは自分の本当の気持ちに気が付いた。
子供の頃から、わたしはイシュナードの側を駆け回っていた。でもそれは、イシュナードがいつもゼノと一緒に居たからだったのだろう。この闇色のペンダントを欲しがったときだって、わたしはゼノのことを想っていたに違いない。
森の小径を降りながら、耳元で揺れるペンダントに、わたしはそっと指先で触れた。
茫然と空を見上げると、樹々の合間をゆっくりと流れていく雲が見えた。
「待って!」
唐突に声が響いた。
声の主の姿なんて、ほんの少しも見えなかったはずなのに。直接話をしたことなど、一度もない相手のはずなのに。その声が誰のものなのか、わたしにはすぐに判ってしまった。
振り返ったわたしの前に、父と兄が立ち塞がる。ふたりの肩越しに、夜の空を思わせる闇色の髪が見えた。
――ゼノ。
心臓が跳ね上がるように、どくん、と大きく胸を打った。
「違うんだ。イシュナードがきみの申し出を断ったの は、理由があるんだよ」
立ち塞がるふたりに構うことなく、彼は真っ直ぐにわたしを見据えて言った。
彼の呼吸は僅かに弾んでいて、わたしを走って追ってきたことが容易に想像できた。
「マリア、先に行きなさい」
振り向かずに、低い声で父が告げた。有無を言わせぬ強い口調だった。
でも、わたしは父の気迫に圧されはしても、その場から離れようとは微塵も思わなかった。足が勝手に、ゼノの元へと向かっていた。父と兄のあいだを擦り抜けて、わたしは引き寄せられるように坂道を登った。
「マリア!」
父の制止にも構うことなく、一歩一歩、歩みを進める。
いつも伏し目がちの紅い瞳を見開いて、驚いたようにわたしを見つめるゼノの顔が、なんだか可笑しかった。
「父さんも兄さんも、先に帰って。わたしは彼の話が聞きたい」
父と兄を振り返って、わたしは告げた。
その言葉を口にしたとき、自分が一体どんな表情をしていたのかはわからない。
けれど、呆然として動きを止めた父と兄が黙ってその場を去っていったのだから、それまでの父や家族に従順だったわたしとは何かが違っていたのだと思う。
ふたりきりになった森の小径で、わたしは彼に笑いかけた。
「話を、聞かせてくれる?」
その日、わたしははじめて、長いあいだ想い焦がれたその人と、言葉を交わした。
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