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番外編
朝霧の森を駆ける④
雪溶けの季節になった。
イシュナードに求婚を断られて以来、わたしは花嫁修行と称して、料理や裁縫、家畜の世話から子育てまで、いろいろなことを母に教わる日々を送っていた。
里のみんなは、わたしとイシュナードのことについて薄々気付いていたようで、たびたび若い男性がわたしの元を訪れた。
そんなある日、わたしは父に呼び出された。
ちょうど部屋で刺繍の練習をしていたときのことだった。
「お前、まさかあの小僧が来るのを待っているわけじゃないだろうな」
新しい婚姻相手を決めようとしないわたしに痺れを切らしたのか、責めるように父が言い放った。
あの日、わたしが父の意向に逆らってゼノの話を聞いたことを理由に、父はわたしと彼の関係を疑っていた。
「そんなんじゃない。イシュナードに断られたからって、すぐに次の相手を決められないだけだよ」
誤解と怒りの矛先がゼノに向けられないように、わたしは即座に父の言葉を否定した。
あの日から、わたしは一度もゼノと会っていない。以前のように、森へと続くあの道で目を合わせることすらしていなかった。
収穫祭の夜、彼は祭りの席に現れなかったから。
わたしがイシュナードに振られたと知ってからも、彼は成人の儀の資格を得ようとしなかったから。
彼の気持ちは、ひとかけらもわたしに向けられていないことを理解した。
あの日、彼がわたしを追ってきたのは、彼の優しさ故のことで。その優しさが残酷に思えた。
もし父が言うように、彼が成人し、求婚しに訪れていたら、きっとわたしは周囲のことなんか目もくれずに申し出を受けたと思う。
でも、そんなことは、絶対にあり得なくて。
「イシュナードのこと、まだ諦めてないんだ。そのために花嫁修行だって頑張ってるんだから」
険しい表情でわたしを見下ろす父に、刺繍を施した布地を差し出して、わたしは言った。
「大丈夫、ちゃんと理解してるよ。この里で幸せになろうと思うなら、婚姻相手はイシュナードしかいない。だから、認めてもらえるように頑張るよ」
それは本心だった。
想う相手に想われることは、そう簡単ではないことを知ってしまったから。
ならばせめて、添い遂げる相手は彼を傷つけない人であって欲しい。
わたしは、そう願った。
***
外界の視察に出ていたイシュナードが忽然と姿を消したのは、それからすぐのことだった。 同行していた者を問いただしても、その消息は全く掴めなかった。
里のみんながイシュナードの奇行に考えを巡らせるなかで、わたしはふと思った。
あのときのゼノの言葉は間違いではなかったのだと。
イシュナードが去ったあと、しばらくは慌ただしい毎日が続いた。けれど、里のみんなが落ち着きを取り戻すのに、そう時間はかからなかった。
誰もが相変わらずだった。
この里の人々は、変化を望まない。
まるで、時の流れに身を任せて、緩やかに滅びゆくことを受け入れているかのように。
そしてそれは、わたしも同じだった。
イシュナードがいなくなってから変わったことといえば、わたしの暮らしに新しい日課が加わったことだ。
わたしは子供のころから、毎朝、川に水を汲みに行っていた。だから、里の外れの川の近くで闇色の鱗の一族が暮らしていることも知っていた。
ある日、水汲みの帰りに彼の家の前を横切ってみた。
特に期待はしていなかった。本当になんとなく。彼の家を近くで見てみようと思ったのだ。
だから、あれは本当に、わたしにとっては奇跡のようなものだった。
目の前の部屋の窓辺に人影があった。
それが誰のものか気がついて、わたしは慌ててその場から逃げ出した。
わたしの存在に気付くことなく、彼は静かに本を読んでいた。
それは毎朝の、彼の日課のようだった。
それからというもの、わたしは毎朝、水汲みの帰りに本を読む彼の姿を探すようになった。
気付かれないように、遠くから彼を眺めるだけ。
声を掛けるなんてできなかった。そんな勇気は何処にもない。
ただ、彼の姿を目にするだけで、その一日が幸せなものになる気がして。
代わり映えのない毎日でも、ほんの少し楽しく思えるようになった。
***
少し肌寒い朝だった。
いつものように水汲みを終え、彼の家へ向かったわたしは、窓辺を見て足を止めた。
彼の姿が窓辺になかった。
こんなこともたまにはある。そう思ったけれど、次の日も見当たらなくて。
思い切って、彼の母親にそのことを尋ねた。
彼の母親は憔悴した様子で、わたしに小さな紙切れを差し出した。
紙に綴られた文字列を読んで、わたしは弾かれるようにその場から駆け出した。
家に戻り、狩りに出るときと同じように素早く身支度を整えて、森に向かった。
――イシュナードを捜すため、里を降ります。
手紙にはそう書かれていた。
彼は里の外に出たのだ。
それは、わたしが最も恐れていたことだった。
イシュナードを追って外の世界に出た彼は、この里に帰ってくるだろうか。
彼を孤立させ続けたこの里に帰ってくる理由が、彼にはあるだろうか。
いいや、彼はきっと帰ってこない。もう二度と、彼には会えない。
「そんなの嫌だ!」
誰にともなく、わたしは声を張り上げた。
いつかイシュナードが言っていた。一緒に外の世界に行かないか、と。
今がそのときだ。
記憶を辿り、イシュナードに教わった結界の抜け道を思い出しながら、森の小径を駆けた。
わたしは今、里の掟を破り、禁じられた行為に手を染めている。
それなのに、不思議と身体が、心が軽かった。
里の皆の期待に応え、ずっと正しい行いを心掛けてきた。
里の大人たちが決めた厳しい掟を守り、自分の気持ちから目を逸らし続けてきた。
でも今は、わたしを縛るものは何もない。
朝霧に覆われた森を抜け、まだ見ぬ外の世界に期待に胸を膨らませる。
大切な、大好きな、恋い焦がれた彼の元へ、いつか辿りつけると信じて。
――わたしは、旅に出る。
イシュナードに求婚を断られて以来、わたしは花嫁修行と称して、料理や裁縫、家畜の世話から子育てまで、いろいろなことを母に教わる日々を送っていた。
里のみんなは、わたしとイシュナードのことについて薄々気付いていたようで、たびたび若い男性がわたしの元を訪れた。
そんなある日、わたしは父に呼び出された。
ちょうど部屋で刺繍の練習をしていたときのことだった。
「お前、まさかあの小僧が来るのを待っているわけじゃないだろうな」
新しい婚姻相手を決めようとしないわたしに痺れを切らしたのか、責めるように父が言い放った。
あの日、わたしが父の意向に逆らってゼノの話を聞いたことを理由に、父はわたしと彼の関係を疑っていた。
「そんなんじゃない。イシュナードに断られたからって、すぐに次の相手を決められないだけだよ」
誤解と怒りの矛先がゼノに向けられないように、わたしは即座に父の言葉を否定した。
あの日から、わたしは一度もゼノと会っていない。以前のように、森へと続くあの道で目を合わせることすらしていなかった。
収穫祭の夜、彼は祭りの席に現れなかったから。
わたしがイシュナードに振られたと知ってからも、彼は成人の儀の資格を得ようとしなかったから。
彼の気持ちは、ひとかけらもわたしに向けられていないことを理解した。
あの日、彼がわたしを追ってきたのは、彼の優しさ故のことで。その優しさが残酷に思えた。
もし父が言うように、彼が成人し、求婚しに訪れていたら、きっとわたしは周囲のことなんか目もくれずに申し出を受けたと思う。
でも、そんなことは、絶対にあり得なくて。
「イシュナードのこと、まだ諦めてないんだ。そのために花嫁修行だって頑張ってるんだから」
険しい表情でわたしを見下ろす父に、刺繍を施した布地を差し出して、わたしは言った。
「大丈夫、ちゃんと理解してるよ。この里で幸せになろうと思うなら、婚姻相手はイシュナードしかいない。だから、認めてもらえるように頑張るよ」
それは本心だった。
想う相手に想われることは、そう簡単ではないことを知ってしまったから。
ならばせめて、添い遂げる相手は彼を傷つけない人であって欲しい。
わたしは、そう願った。
***
外界の視察に出ていたイシュナードが忽然と姿を消したのは、それからすぐのことだった。 同行していた者を問いただしても、その消息は全く掴めなかった。
里のみんながイシュナードの奇行に考えを巡らせるなかで、わたしはふと思った。
あのときのゼノの言葉は間違いではなかったのだと。
イシュナードが去ったあと、しばらくは慌ただしい毎日が続いた。けれど、里のみんなが落ち着きを取り戻すのに、そう時間はかからなかった。
誰もが相変わらずだった。
この里の人々は、変化を望まない。
まるで、時の流れに身を任せて、緩やかに滅びゆくことを受け入れているかのように。
そしてそれは、わたしも同じだった。
イシュナードがいなくなってから変わったことといえば、わたしの暮らしに新しい日課が加わったことだ。
わたしは子供のころから、毎朝、川に水を汲みに行っていた。だから、里の外れの川の近くで闇色の鱗の一族が暮らしていることも知っていた。
ある日、水汲みの帰りに彼の家の前を横切ってみた。
特に期待はしていなかった。本当になんとなく。彼の家を近くで見てみようと思ったのだ。
だから、あれは本当に、わたしにとっては奇跡のようなものだった。
目の前の部屋の窓辺に人影があった。
それが誰のものか気がついて、わたしは慌ててその場から逃げ出した。
わたしの存在に気付くことなく、彼は静かに本を読んでいた。
それは毎朝の、彼の日課のようだった。
それからというもの、わたしは毎朝、水汲みの帰りに本を読む彼の姿を探すようになった。
気付かれないように、遠くから彼を眺めるだけ。
声を掛けるなんてできなかった。そんな勇気は何処にもない。
ただ、彼の姿を目にするだけで、その一日が幸せなものになる気がして。
代わり映えのない毎日でも、ほんの少し楽しく思えるようになった。
***
少し肌寒い朝だった。
いつものように水汲みを終え、彼の家へ向かったわたしは、窓辺を見て足を止めた。
彼の姿が窓辺になかった。
こんなこともたまにはある。そう思ったけれど、次の日も見当たらなくて。
思い切って、彼の母親にそのことを尋ねた。
彼の母親は憔悴した様子で、わたしに小さな紙切れを差し出した。
紙に綴られた文字列を読んで、わたしは弾かれるようにその場から駆け出した。
家に戻り、狩りに出るときと同じように素早く身支度を整えて、森に向かった。
――イシュナードを捜すため、里を降ります。
手紙にはそう書かれていた。
彼は里の外に出たのだ。
それは、わたしが最も恐れていたことだった。
イシュナードを追って外の世界に出た彼は、この里に帰ってくるだろうか。
彼を孤立させ続けたこの里に帰ってくる理由が、彼にはあるだろうか。
いいや、彼はきっと帰ってこない。もう二度と、彼には会えない。
「そんなの嫌だ!」
誰にともなく、わたしは声を張り上げた。
いつかイシュナードが言っていた。一緒に外の世界に行かないか、と。
今がそのときだ。
記憶を辿り、イシュナードに教わった結界の抜け道を思い出しながら、森の小径を駆けた。
わたしは今、里の掟を破り、禁じられた行為に手を染めている。
それなのに、不思議と身体が、心が軽かった。
里の皆の期待に応え、ずっと正しい行いを心掛けてきた。
里の大人たちが決めた厳しい掟を守り、自分の気持ちから目を逸らし続けてきた。
でも今は、わたしを縛るものは何もない。
朝霧に覆われた森を抜け、まだ見ぬ外の世界に期待に胸を膨らませる。
大切な、大好きな、恋い焦がれた彼の元へ、いつか辿りつけると信じて。
――わたしは、旅に出る。
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