魔女見習いのロッテ

柴咲もも

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第5話 大切な人のために

 その日はぽかぽかと暖かく、そよぐ風が優しかったので、ロッテは約束の時間より少し早めに庭園に向かい、いつもの東屋でシャルロッテを待っていた。丸いテーブルの上に学術書とノートを広げ、本文を翻訳していく。けれど、目標のページまで翻訳が終わり、約束の時間をとうに過ぎても、シャルロッテは姿を見せなかった。
 シャルロッテが人一倍研究熱心で、そして人一倍患者の命を大切に思っていることは、何度も会って話しているうちに、ロッテにも充分に理解できていた。急患が出たのか、それとも研究に没頭していて手が放せないのか。忙しく駆け回るシャルロッテの姿を思い浮かべ、くすりと笑みを溢すと、ロッテはふたたび学術書に目を向けて続きのページを翻訳しはじめた。

 愛らしい小鳥のさえずりが庭園に響き、吹き抜ける風に樹々がざわめいて。心地よい陽気に誘われるようにロッテがうとうととしはじめたころ、王宮の前庭から馬の嘶きが聞こえた。
 シャルロッテの馬車が到着したのだろうか。
 今日はどんな話をしようかとロッテがうきうきしていると、ややあって宮殿からこちらに向かってくる人影が見えた。
「シャルロッテ様!」
 ロッテは声を弾ませて、勢いよく東屋を飛び出した。けれど、白い小径を東屋に向かってくるその人物の姿をはっきりと目にすると、ロッテの足はその場に縫い止められてしまった。
「ユリウス、様……?」
 白い小径をこちらに向かってきたのはシャルロッテではなかった。上腕に刻まれた片翼の鷹の紋章が陽の光に輝く。胡桃色の髪を乱し、息を切らせるユリウスの表情は、いつもの穏やかな彼のものとは違っていた。橄欖石の瞳でロッテの姿を認めると、彼はつかつかとロッテに歩み寄り、細い手首をしっかと握り締めた。
「話は後だ。一緒に来てくれ」
 鬼気迫る様相に、心臓がどくんと大きく胸を打った。ロッテは是非もなく頷いて、元来た道をすぐさま歩き出すユリウスの背中を追いかけた。

 王宮の長い廊下を駆けるように通り抜けると、玄関前にはすでに黒塗りの馬車が停まっていた。ユリウスとロッテが車両に乗り込むのと同時に御者がすぐさま鞭を振るう。馬車は白亜の宮殿を後に、市街区へと続く坂道を転がるように走り出した。
「どこに……向かっているんですか……?」
「隔離地域の療養施設だ」
「シャルロッテ様の……?」
 ロッテが訊ねると、ユリウスは真っ直ぐに前方を見据えたまま頷いた。額に汗を滲ませて、膝の上で握った拳をふるふると震わせて、ユリウスは必死に自分を宥めようとしているようだった。
 何かとても良くないことが起こってしまった。
 ユリウスの表情を見ているだけで、それは容易に想像できた。
「ロッテがエッケハイドに感染した。発症して半日……これまでの症例から鑑みれば、保って七日だ」
「七日……って、そんな……」
 震える声が唇から洩れる。
 疫病エッケハイドが重い病だとは聞かされていたけれど、そんなに短期間で人を死に至らしめるものだったなんて。
 ロッテは蒼白になって、縋るようにユリウスに問い質した。
「でも、国王陛下は今もご存命なんですよね?」
「父は他の皆とは違う。宮廷の魔術師が総出で禁術を用いて保たせているだけだ」
「そんな……」
 疫病についてはシャルロッテから説明を受けていた。その症状にはいくつか段階があって、発症してから内部組織が壊れていく様子も教えられていた。進行が著しく速いことだって知っていた、はずなのに。
 ロッテは今までどこかで楽観視していたのだ。身近な人は、疫病とは無縁だったから。
「それなら……シャルロッテ様は今までどれほどの……」
 ロッテと同じ年頃の少女の身で、シャルロッテはどれほど多くの患者を看取ってきたのだろう。感染してしまえば助からないのを誰よりも知っていて、それでも尚、疫病と闘い続けて。目の前で消えゆく命を救えない自身の不甲斐なさに、どれほど打ちのめされてきたのだろう。
 庭園の東屋で初めて会ったあのとき、ロッテの手を取って「ありがとう」と微笑んだシャルロッテを思い出して、涙がぽろぽろと溢れ出した。
「ロッテがきみを呼んでいる。彼女の最後の願いを聞いてあげて欲しい」
 相変わらず前方を見据えるユリウスの瞳は涙に濡れてはいなかった。けれど、淡々と言葉を紡いだ彼の声は微かに震えていた。


***


 ユリウスとロッテを乗せた馬車は人通りの多い市街区の前を通り過ぎ、寂れた路地裏を進んだ。華やかな市街区とは一変して陰鬱な空気を漂わせる貧民街。その突き当たりの拓けた土地に、教会に似た白い建物が建っていた。
 建物の前庭には花屋の店先を飾るそれとは違う、薬草学の本に記された多種多様な薬草が植えられており、誰に教えられたわけでもないのに、ロッテにはその建物がシャルロッテの話に聞いた疫病患者の療養施設なのだと一目でわかった。
 玄関前に馬車が停まると、ほどなくして扉が開き、中から白衣を着た年配の男が現れた。逸早く馬車を降りたユリウスが白衣の男に歩み寄る。ロッテも慌てて馬車を降り、ユリウスの背中を追いかけた。
「お久しぶりです、ホラント医師せんせい
「お待ちしておりました、殿下。どうぞこちらへ」
 ホラントと呼ばれたその男は深々と頭を下げると、大きく扉を開き、ユリウスとロッテを施設の中に招き入れた。

 床も壁も天井も真っ白な建物の内部は王族が住まう白亜の宮殿に似て、けれども雰囲気だけは、あの華やかな空間のものとは全く異なっていた。無機質な通路には命の気配が感じられず、奥へ奥へと進むにつれ、空気がひんやりと底冷えしていくようだ。
 誰もが黙したまま、点々と小窓が並ぶ長い廊下を進んでいった。やがて廊下の両側に整然と並ぶいくつもの扉が現れる。のぞき窓が鉄の板で封鎖されたそれらの扉は、まるで死者を弔う棺のようだった。
 ホラント医師は最奥の扉の前で立ち止まると、軽く扉をノックして、のぞき窓に耳を寄せて室内に声をかけた。
「シャルロッテ様、王太子殿下がお見えになりました」
 廊下がしんと静まり返る。その直後、扉の奥でカタリと小さな音がした。ホラント医師がユリウスを振り返り、数歩後ろに身を引いた。ユリウスが小さく頷いて、扉を開けようとドアノブに手を伸ばす。指先が触れるよりも先に、扉越しでもはっきりと聞こえるほどのシャルロッテの声が廊下に響いた。
「入らないで!」
 いつもの優しい声とは違う。強く牽制するような彼女の声は、ロッテが初めて耳にするものだった。はっと顔を上げたユリウスが、見開かれた橄欖石の瞳に分厚い扉を映す。ぐっと唇を引き結ぶと、彼は穏やかに扉の向こうに話しかけた。
「ごめん、うっかりしていたよ。直接顔を合わせることはできないって、ホラント医師に聞いていたのに……」
 そう言って、ユリウスは縋るように冷たい扉に額をあてた。
 ほんの少しの沈黙。
 ややあって、シャルロッテが弱々しく声を震わせた。
「……ごめんなさい。わたし、何の役にも立たないどころか、足手まといになってしまって……」
「馬鹿を言わないでくれ。きみが足手まといだなんてあり得ない。誰よりも皆のために尽くしてくれていたことを、他ならぬ私が知っているよ」
 優しく宥めるようにユリウスが告げる。くすんと鼻をすする音がして、扉の向こうでシャルロッテが微笑んだ気がした。

 しばらくのあいだ、ユリウスは黙って扉に身を寄せていた。きっとシャルロッテも同じように、扉の向こう側で身を寄せているに違いない。愛し合うふたりは今、扉一枚を隔てて互いに寄り添っている。目に映るのは扉に身を寄せるユリウスの背中だけだったけれど、気がつけば涙がぽろぽろと溢れ出し、ロッテの頬を濡らしていた。
 ほんの束の間の逢瀬だった。やがてシャルロッテは意を決したようにその言葉を口にした。
「……殿下、お願いがあります。わたしの遺体は埋葬せずにホラント医師に引き渡してください。せめて死んだあとくらい、皆の役に立ちたいから……」
 祈るように静かに、シャルロッテは儚い願いを囁いた。弾かれるように顔を上げ、ユリウスが蒼白になって分厚い扉に縋り付く。
「やめてくれ……そんなことを言わないでくれ……きみがいなくなってしまったら、私は……私は……!」
「大丈夫、貴方は強い人だから。きっとたくさんの人々に愛される、素晴らしい王になれるわ」
 幼い子供に言い聞かせるように、シャルロッテの声は優しく穏やかだった。その身が病に侵されたことを知ったとき、彼女は己の死を受け入れ、そして決心したのだろう。死して尚、この研究の礎になることを。
「ロッテ、そこにいるでしょう?」
 シャルロッテに名前を呼ばれて、ロッテは慌てて顔を上げた。分厚い扉と壁に阻まれて、お互いの顔すら見えないのに、シャルロッテの優しい笑顔が目に浮かぶようで。しゃくりあげそうになるのを必死で堪えて、ロッテはこくこくと頷いた。
「殿下のことをお願いね。疫病に苦しむ皆をわたしの代わりに助けてあげて……」
 胸が張り裂けてしまいそうだった。気丈に振る舞うシャルロッテも、扉の前で泣き崩れるユリウスも、あまりにも哀しすぎて。
 ——まだ、終わっていない。希望はまだ残っている。
 祈るように胸元で両手を結び、自分にそう言い聞かせて、ロッテは長い廊下を歩き出した。

「愛してるわ……ユリウス……」
「私もだ……今までも、これからも、誰よりもきみを愛してる……」
 囁き合うふたりの声が聞こえた。
 それはまるで、婚姻の儀で紡がれる愛の誓いのようだった。

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