30 / 47
第7話 ふたり、森の中で
1
——胸が苦しい。身体が鉛のように重くてうまく動かない。
腹の底から何かが込みあげて、喉がごぼごぼと音を立てる。堪えきれず、ロッテは熱いものを吐き出した。
「ごぼっ、げぼっ……けほっ……」
身体中が不快なもので溢れていて、それを拒絶するように全身が打ち震えて、口から鼻から溢れ出すそれを止めることもできなくて。なんとか身体を動かすと、ごろりと転がりかけたロッテの身体を誰かがしっかと抱き止めた。
小刻みに肩で息をして、やっとの思いで瞼を開く。薄闇がかった不鮮明な視界に、ロッテの顔を覗き込む誰かの顔がぼんやりと映り込んだ。
「ゲオルグ、さん……?」
二、三度、瞬きを繰り返してロッテが呟くと、ゲオルグは強張っていた頬を緩ませて、安堵したように微笑んだ。ぐっしょりと濡れた赤銅色の髪からぽたぽたと雫が滴っていて、ほんの少し目尻が赤い。
「目が覚めて良かった。……身体は? 痛むところはないか?」
尋ねられて、重い手足を動かしてみる。少し感覚は鈍いけれど、身体のどこにも痛みはなかった。
ロッテが弱々しく首を振ると、ゲオルグは小さく頷いて、ふたたびロッテを砂利の上に横たえた。
「ゲオルグさん……わたし……」
「落ちた場所が岩場でなくてよかった。もう少し流れが速ければ危ないところだったが……」
そう口にして、彼は額から流れ落ちる水を手の甲でぐいと拭った。
——そっか、わたし崖から落ちて……
おそらくロッテはエリクシアを採取したあと、崖から落ちて川で溺れ、ゲオルグに助けられたのだろう。まだ記憶は覚束ないけれど、全身ずぶ濡れのゲオルグがロッテの顔を覗き込んでいるこの状況が、ロッテの推測が間違いではないことを証明していた。
ロッテは小さく息を吐くと、ゆっくりと身を起こした。ふと身体を見下ろせば、肌蹴たケープの合間で濡れたブラウスに薄っすらと白い肌が透けていた。
ロッテは目をまるくして、慌ててケープの前を空いた左手でぎゅっと掻き集めた。
「こ、これは違う……! お前が息をしていなかったから救命処置で……心肺蘇生法を施すうえで仕方なくしたことで! 決してやましい気持ちがあったわけではないからな!」
ゲオルグに全力で下心を否定されて、ロッテは黙って俯いた。
そんなこと、言われなくてもわかっている。例えシャルロッテへの想いが叶わぬものだとしても、ゲオルグの周りには容姿も家柄もロッテなんか比較にならない素敵な女性が山ほどいる。その最たる例がディアナで、美人でスタイルも抜群の彼女がそばにいるのに、わざわざゲオルグがロッテに下心を抱くなんて考えられない。
——でも、ゲオルグさんにとってはただの救命処置に過ぎなかったとしても。
ゲオルグに背を向けて、ロッテは指先で唇に触れた。
心臓マッサージも人工呼吸も人命救助の手段でしかない。そんなことはわかっている。以前のロッテなら、きっと簡単に割り切ることができていた。
けれど、今のロッテは以前とは違う。ゲオルグのことを、はっきりと異性として意識してしまっている。
貧相な身体を見られるなんて恥ずかしいし、唇を重ね合わせる行為に抵抗だってある。それに、ロッテは初めてだったのだ。異性とキスをするなんて。
「その……大丈夫、か……?」
躊躇いがちなゲオルグに顔を覗き込まれて、ロッテは琥珀の瞳を見開いた。その拍子に、未だ何かを握り続ける自分の右手が眼に映る。
ロッテが握り締めていたのは、花びらも葉も茎も一片たりとも欠けていない、美しい姿のままのエリクシアの花だった。
途端にロッテは嬉しくなって、満面の笑みで顔を上げた。
「ゲオルグさん、これっ……!」
握っていたエリクシアの花をゲオルグの目の前に差し出すと、ゲオルグは一瞬きょとと目をまるくして、それからふっと吹き出した。今までに聞いたことのない晴れやかな笑い声が、川のほとりに軽快に響く。
「まったく、お前というやつは……花も良いが、自分の命も少しは大切にしてくれ」
そう呟いて、それからしばらくのあいだ、ゲオルグは腹を抱えて笑い続けた。魔獣が徘徊する危険な森の中だというのに、ロッテも一緒になって笑ってしまった。
***
「これでよし、っと……」
ガラスの容器に蓋をすると、きゅぽっと可愛らしい音がした。容器に詰めたエリクシアの花をロッテがポーチにしまい込むと、黙ってその様子を見ていたゲオルグが、川沿いの穴蔵を指差して口を開いた。
「じきに陽が暮れる。武器がないと魔獣に遭遇したときのことが心配だが、今夜はそこの穴蔵でやり過ごすとしよう」
陽はすっかり沈んでしまって、聞こえるのは風に揺れる木の葉の音と、さらさらと流れる水の音だけだ。ロッテがこくりと頷くと、ゲオルグは砂利の上に散らばった木の枝を拾いながら、穴蔵に向かって歩き出した。
いつ魔獣が現れるかも知れないのに武器がないなんて大変だ。ロッテは慌てて腰の後ろに手を回した。指先が感じた固い手触りにホッとする。ゲオルグに手渡された短剣は、激流に飲まれることなくロッテの腰に括り付けられていた。
「ゲオルグさん、これ……」
ゲオルグに駆け寄ってロッテが短剣を手渡すと、ゲオルグは二、三度目を瞬かせて、「ああ、そうか」と呟いて、ロッテの手から短剣を受け取った。
ゲオルグの話に拠れば、ロッテが崖壁から落ちたあのとき、彼は咄嗟にロッテを追って崖から飛び降りてしまったらしく、剣や他の手荷物は全てフリッツとカミルの元に置いてきてしまったらしい。
後先考えない行動なんてゲオルグらしくない、とロッテは思った。けれど、普段冷静な彼がそこまでして自分のことを助けようとしてくれたのだと考えると、純粋に嬉しいと思わずにはいられなかった。
今、ふたりの手持ちにあるものは、ロッテのポーチの中身だけだ。持ってきた道具のほとんどはぐっしょりと水に濡れていて使い物になるかどうかもわからない。けれど、それでも全てが流されずに済んだことは、ロッテにとっては幸いだった。
「砂利の上よりかは幾らかマシだろう」
そう言うと、ゲオルグは剥き出しの岩肌に腰を下ろし、拾ってきた木の枝で焚き火の準備をはじめた。それからちらりとあたりを見回して、チッと小さく舌を打った。どうやら火付け石も預けてきた手荷物の中に入っていたらしい。
「魔法で火は熾せないのか」
「そんな便利なちからありません」
ロッテがぷいとそっぽを向くと、ゲオルグは「だろうな」と呟いて、そして笑った。あまりに自然に笑うから、ロッテもつられて笑ってしまった。ゲオルグは結局、時間をかけて枯れ枝で火を熾した。
焚き火の火が安定すると、ゲオルグは濡れた服を脱いで、水気を絞って木の枝に干した。冷たい夜気に当てられてロッテがくしゅんとくしゃみをすると、彼はちらりとロッテを見て、いつもよりも控えめな口振りで言った。
「……その、お前も、いつまでも濡れた服を着ていると風邪を引くだろう。向こうを向いておくから服を脱げ。水気を絞って干しておけば、明日の朝には乾くはずだ」
ロッテはびくりと身を縮こまらせた。
例えゲオルグがロッテを異性として微塵も意識していなくても、ロッテだって年頃の女の子なのだ。ゲオルグが異性であることに変わりはないし、異性の前で服を脱ぐなんて、そんなはしたない真似を出来るわけがない。
ロッテの反応から先の発言を後悔したのか、ゲオルグは顔を背け、そのまま黙り込んでしまった。ロッテも黙ったまま膝を抱いて、ふるりと身を震わせた。
ゲオルグの言うことは尤もだ。標高が高いこともあり、この山の夜は寒い。凍死するほどではないけれど、このまま濡れた服を着ていれば、ロッテは間違いなく風邪をひいてしまうだろう。
異性の前で裸も同然の姿になるだなんて、とんでもないとは思うけれど。でも、もしかしたら、緊急時にそんなことを考ること自体、間違っているのかもしれない。
散々迷って躊躇って、ロッテは決めた。
「お……お願い、します……」
おずおずと服を脱いで濡れた服を手渡すと、ゲオルグは「お、おう」と頷いて、ロッテの服をかたく絞り、自分の服と同様に木の枝に干した。それからロッテに背を向けたまま「ん」と右手を差し出した。
ロッテは顔を赤らめて、慌てて首を振った。
「あ、あとは自分でやります」
「遠慮するな」
「いえ、その……し、下着……だから……」
消え入りそうな声で呟くと、ゲオルグの肩がびくりと跳ねた。軽い咳払いに混じって「そ、そうか」と呟く声がする。
「そのまま、向こう向いててください、ね……?」
ロッテが念を押すと、ゲオルグは黙って頷いて、大きな身体を縮こまらせて、そのままロッテに背を向けた。
***
どのくらい時間が経っただろう。火の粉がぱちぱちと弾ける音を聞きながら、ロッテはふと顔を上げた。魔獣が徘徊する夜の森に、武器も持たずにいるというのに、不思議と怖いとは思わない。多分、その理由はきっと。
湿ったシュミーズの裾を握り、ロッテはちらりと隣を見た。あれからずっとゲオルグは押し黙ったままで、ちらりともロッテを見ようとしない。鍛えられた体躯を堂々と晒し、胡座をかいて火の番に徹している。生真面目なゲオルグらしく、下着一枚で蹲るロッテに気を遣っているのだろう。
ロッテがちらちらとゲオルグの様子を窺っていると、真っ直ぐに焚き火をみつめたまま、ゲオルグが口を開いた。
「眠っていいぞ」
素っ気なくそう言って、木枝で火を掻き混ぜる。ぱちぱちと弾けた火の粉が花火のように舞い散った。
「……ゲオルグさんは?」
「もう少し火の番をしておく」
「それなら、わたしも待ってます。ブラウスくらいなら乾くかもしれませんし」
ロッテが膝を抱えなおして言うと、ゲオルグは「そうか」と呟いて、それからまた黙り込んでしまった。
穴蔵の岩壁に、炎に映し出された長い影が揺れていた。川の向こう側でも樹々の影が風に揺れて、夜空には星が瞬いている。ぼんやりと欠けた月を眺めていたロッテの視線は、また、ゆるゆると隣に向かってしまった。
真っ直ぐに焚き火をみつめるゲオルグの身体には、あちこちに大小様々な傷痕が残っていた。均整の取れた筋肉質な肉体が炎に照らされて、浮かび上がる陰影が艶かしい。精悍な顔はどこか憂い気で、黒曜石の瞳に炎の影が映り込んで、綺麗だった。
しばらくのあいだ、ロッテはじっとゲオルグの横顔をみつめていた。ロッテの視線を感じるからか、ゲオルグはずっと気まずそうに表情を強張らせていたけれど、やがて深々と溜め息を吐き、ちらりとロッテに目を向けて言った。
「……そんなにみつめるな」
「どうして……?」
ロッテが小首を傾げると、ゲオルグは困ったように眉間に少し皺を寄せて、顔を背け、口元を手のひらで覆い隠した。
「……妙な気を起こしそうになる」
「妙って……」
ひんやりと冷たい岩肌に手をついて、ロッテは身を乗り出した。赤銅色の髪の隙間からかたちの良い彼の耳が覗く。その耳がほんのりと赤く染まっていた。
なぜかはわからない。けれど、ロッテは胸がぽかぽかと暖かくなったような気がした。もう一方の手も岩肌につくと、ロッテはさらに身を乗り出した。そうすれば、ゲオルグの顔を見られるような気がして。
少しだけ身を屈めて、ゲオルグの顔を覗き込む。同時にゲオルグが振り返り、真近で視線がぶつかった。黒曜石の瞳が大きく見開かれ、ゲオルグの喉が、ごくりと大きな音を立てた。
ロッテは動けなかった。冷えた岩肌に触れる指先を、ただきゅっと握り締めた。心臓がとくとくと早鐘を打つ。どうしてか瞳が潤み、視界がぼやけていた。
呆然としてロッテを見下ろしていたゲオルグは、やがてぐっと口元を引き結び、躊躇いがちに手を伸ばすと、ロッテの湿った髪に触れた。節くれだった指先がロッテの輪郭をなぞり、頬に手を添えられる。
あたたかい、とロッテは思った。
宮中で暮らしていたころは、ゲオルグがロッテに触れることなんてほとんどなかった。触れられたことといえば、媚薬でおかしくなったときくらいで、あのときのロッテはただ混乱するばかりだったけれど。こんなふうに優しく触れてくれるなら、なんの抵抗も感じない。
大きくてあたたかい手のひらに、ロッテは頬を擦り寄せた。ふっと息を零して見上げれば、ゲオルグの顔が目の前にあって。鼻先が微かに触れて、彼の吐息を肌で感じた。
ロッテが恐る恐る目蓋を閉じると、彼は指先でロッテの唇をなぞり、それからそっと、唇を重ね合わせた。
腹の底から何かが込みあげて、喉がごぼごぼと音を立てる。堪えきれず、ロッテは熱いものを吐き出した。
「ごぼっ、げぼっ……けほっ……」
身体中が不快なもので溢れていて、それを拒絶するように全身が打ち震えて、口から鼻から溢れ出すそれを止めることもできなくて。なんとか身体を動かすと、ごろりと転がりかけたロッテの身体を誰かがしっかと抱き止めた。
小刻みに肩で息をして、やっとの思いで瞼を開く。薄闇がかった不鮮明な視界に、ロッテの顔を覗き込む誰かの顔がぼんやりと映り込んだ。
「ゲオルグ、さん……?」
二、三度、瞬きを繰り返してロッテが呟くと、ゲオルグは強張っていた頬を緩ませて、安堵したように微笑んだ。ぐっしょりと濡れた赤銅色の髪からぽたぽたと雫が滴っていて、ほんの少し目尻が赤い。
「目が覚めて良かった。……身体は? 痛むところはないか?」
尋ねられて、重い手足を動かしてみる。少し感覚は鈍いけれど、身体のどこにも痛みはなかった。
ロッテが弱々しく首を振ると、ゲオルグは小さく頷いて、ふたたびロッテを砂利の上に横たえた。
「ゲオルグさん……わたし……」
「落ちた場所が岩場でなくてよかった。もう少し流れが速ければ危ないところだったが……」
そう口にして、彼は額から流れ落ちる水を手の甲でぐいと拭った。
——そっか、わたし崖から落ちて……
おそらくロッテはエリクシアを採取したあと、崖から落ちて川で溺れ、ゲオルグに助けられたのだろう。まだ記憶は覚束ないけれど、全身ずぶ濡れのゲオルグがロッテの顔を覗き込んでいるこの状況が、ロッテの推測が間違いではないことを証明していた。
ロッテは小さく息を吐くと、ゆっくりと身を起こした。ふと身体を見下ろせば、肌蹴たケープの合間で濡れたブラウスに薄っすらと白い肌が透けていた。
ロッテは目をまるくして、慌ててケープの前を空いた左手でぎゅっと掻き集めた。
「こ、これは違う……! お前が息をしていなかったから救命処置で……心肺蘇生法を施すうえで仕方なくしたことで! 決してやましい気持ちがあったわけではないからな!」
ゲオルグに全力で下心を否定されて、ロッテは黙って俯いた。
そんなこと、言われなくてもわかっている。例えシャルロッテへの想いが叶わぬものだとしても、ゲオルグの周りには容姿も家柄もロッテなんか比較にならない素敵な女性が山ほどいる。その最たる例がディアナで、美人でスタイルも抜群の彼女がそばにいるのに、わざわざゲオルグがロッテに下心を抱くなんて考えられない。
——でも、ゲオルグさんにとってはただの救命処置に過ぎなかったとしても。
ゲオルグに背を向けて、ロッテは指先で唇に触れた。
心臓マッサージも人工呼吸も人命救助の手段でしかない。そんなことはわかっている。以前のロッテなら、きっと簡単に割り切ることができていた。
けれど、今のロッテは以前とは違う。ゲオルグのことを、はっきりと異性として意識してしまっている。
貧相な身体を見られるなんて恥ずかしいし、唇を重ね合わせる行為に抵抗だってある。それに、ロッテは初めてだったのだ。異性とキスをするなんて。
「その……大丈夫、か……?」
躊躇いがちなゲオルグに顔を覗き込まれて、ロッテは琥珀の瞳を見開いた。その拍子に、未だ何かを握り続ける自分の右手が眼に映る。
ロッテが握り締めていたのは、花びらも葉も茎も一片たりとも欠けていない、美しい姿のままのエリクシアの花だった。
途端にロッテは嬉しくなって、満面の笑みで顔を上げた。
「ゲオルグさん、これっ……!」
握っていたエリクシアの花をゲオルグの目の前に差し出すと、ゲオルグは一瞬きょとと目をまるくして、それからふっと吹き出した。今までに聞いたことのない晴れやかな笑い声が、川のほとりに軽快に響く。
「まったく、お前というやつは……花も良いが、自分の命も少しは大切にしてくれ」
そう呟いて、それからしばらくのあいだ、ゲオルグは腹を抱えて笑い続けた。魔獣が徘徊する危険な森の中だというのに、ロッテも一緒になって笑ってしまった。
***
「これでよし、っと……」
ガラスの容器に蓋をすると、きゅぽっと可愛らしい音がした。容器に詰めたエリクシアの花をロッテがポーチにしまい込むと、黙ってその様子を見ていたゲオルグが、川沿いの穴蔵を指差して口を開いた。
「じきに陽が暮れる。武器がないと魔獣に遭遇したときのことが心配だが、今夜はそこの穴蔵でやり過ごすとしよう」
陽はすっかり沈んでしまって、聞こえるのは風に揺れる木の葉の音と、さらさらと流れる水の音だけだ。ロッテがこくりと頷くと、ゲオルグは砂利の上に散らばった木の枝を拾いながら、穴蔵に向かって歩き出した。
いつ魔獣が現れるかも知れないのに武器がないなんて大変だ。ロッテは慌てて腰の後ろに手を回した。指先が感じた固い手触りにホッとする。ゲオルグに手渡された短剣は、激流に飲まれることなくロッテの腰に括り付けられていた。
「ゲオルグさん、これ……」
ゲオルグに駆け寄ってロッテが短剣を手渡すと、ゲオルグは二、三度目を瞬かせて、「ああ、そうか」と呟いて、ロッテの手から短剣を受け取った。
ゲオルグの話に拠れば、ロッテが崖壁から落ちたあのとき、彼は咄嗟にロッテを追って崖から飛び降りてしまったらしく、剣や他の手荷物は全てフリッツとカミルの元に置いてきてしまったらしい。
後先考えない行動なんてゲオルグらしくない、とロッテは思った。けれど、普段冷静な彼がそこまでして自分のことを助けようとしてくれたのだと考えると、純粋に嬉しいと思わずにはいられなかった。
今、ふたりの手持ちにあるものは、ロッテのポーチの中身だけだ。持ってきた道具のほとんどはぐっしょりと水に濡れていて使い物になるかどうかもわからない。けれど、それでも全てが流されずに済んだことは、ロッテにとっては幸いだった。
「砂利の上よりかは幾らかマシだろう」
そう言うと、ゲオルグは剥き出しの岩肌に腰を下ろし、拾ってきた木の枝で焚き火の準備をはじめた。それからちらりとあたりを見回して、チッと小さく舌を打った。どうやら火付け石も預けてきた手荷物の中に入っていたらしい。
「魔法で火は熾せないのか」
「そんな便利なちからありません」
ロッテがぷいとそっぽを向くと、ゲオルグは「だろうな」と呟いて、そして笑った。あまりに自然に笑うから、ロッテもつられて笑ってしまった。ゲオルグは結局、時間をかけて枯れ枝で火を熾した。
焚き火の火が安定すると、ゲオルグは濡れた服を脱いで、水気を絞って木の枝に干した。冷たい夜気に当てられてロッテがくしゅんとくしゃみをすると、彼はちらりとロッテを見て、いつもよりも控えめな口振りで言った。
「……その、お前も、いつまでも濡れた服を着ていると風邪を引くだろう。向こうを向いておくから服を脱げ。水気を絞って干しておけば、明日の朝には乾くはずだ」
ロッテはびくりと身を縮こまらせた。
例えゲオルグがロッテを異性として微塵も意識していなくても、ロッテだって年頃の女の子なのだ。ゲオルグが異性であることに変わりはないし、異性の前で服を脱ぐなんて、そんなはしたない真似を出来るわけがない。
ロッテの反応から先の発言を後悔したのか、ゲオルグは顔を背け、そのまま黙り込んでしまった。ロッテも黙ったまま膝を抱いて、ふるりと身を震わせた。
ゲオルグの言うことは尤もだ。標高が高いこともあり、この山の夜は寒い。凍死するほどではないけれど、このまま濡れた服を着ていれば、ロッテは間違いなく風邪をひいてしまうだろう。
異性の前で裸も同然の姿になるだなんて、とんでもないとは思うけれど。でも、もしかしたら、緊急時にそんなことを考ること自体、間違っているのかもしれない。
散々迷って躊躇って、ロッテは決めた。
「お……お願い、します……」
おずおずと服を脱いで濡れた服を手渡すと、ゲオルグは「お、おう」と頷いて、ロッテの服をかたく絞り、自分の服と同様に木の枝に干した。それからロッテに背を向けたまま「ん」と右手を差し出した。
ロッテは顔を赤らめて、慌てて首を振った。
「あ、あとは自分でやります」
「遠慮するな」
「いえ、その……し、下着……だから……」
消え入りそうな声で呟くと、ゲオルグの肩がびくりと跳ねた。軽い咳払いに混じって「そ、そうか」と呟く声がする。
「そのまま、向こう向いててください、ね……?」
ロッテが念を押すと、ゲオルグは黙って頷いて、大きな身体を縮こまらせて、そのままロッテに背を向けた。
***
どのくらい時間が経っただろう。火の粉がぱちぱちと弾ける音を聞きながら、ロッテはふと顔を上げた。魔獣が徘徊する夜の森に、武器も持たずにいるというのに、不思議と怖いとは思わない。多分、その理由はきっと。
湿ったシュミーズの裾を握り、ロッテはちらりと隣を見た。あれからずっとゲオルグは押し黙ったままで、ちらりともロッテを見ようとしない。鍛えられた体躯を堂々と晒し、胡座をかいて火の番に徹している。生真面目なゲオルグらしく、下着一枚で蹲るロッテに気を遣っているのだろう。
ロッテがちらちらとゲオルグの様子を窺っていると、真っ直ぐに焚き火をみつめたまま、ゲオルグが口を開いた。
「眠っていいぞ」
素っ気なくそう言って、木枝で火を掻き混ぜる。ぱちぱちと弾けた火の粉が花火のように舞い散った。
「……ゲオルグさんは?」
「もう少し火の番をしておく」
「それなら、わたしも待ってます。ブラウスくらいなら乾くかもしれませんし」
ロッテが膝を抱えなおして言うと、ゲオルグは「そうか」と呟いて、それからまた黙り込んでしまった。
穴蔵の岩壁に、炎に映し出された長い影が揺れていた。川の向こう側でも樹々の影が風に揺れて、夜空には星が瞬いている。ぼんやりと欠けた月を眺めていたロッテの視線は、また、ゆるゆると隣に向かってしまった。
真っ直ぐに焚き火をみつめるゲオルグの身体には、あちこちに大小様々な傷痕が残っていた。均整の取れた筋肉質な肉体が炎に照らされて、浮かび上がる陰影が艶かしい。精悍な顔はどこか憂い気で、黒曜石の瞳に炎の影が映り込んで、綺麗だった。
しばらくのあいだ、ロッテはじっとゲオルグの横顔をみつめていた。ロッテの視線を感じるからか、ゲオルグはずっと気まずそうに表情を強張らせていたけれど、やがて深々と溜め息を吐き、ちらりとロッテに目を向けて言った。
「……そんなにみつめるな」
「どうして……?」
ロッテが小首を傾げると、ゲオルグは困ったように眉間に少し皺を寄せて、顔を背け、口元を手のひらで覆い隠した。
「……妙な気を起こしそうになる」
「妙って……」
ひんやりと冷たい岩肌に手をついて、ロッテは身を乗り出した。赤銅色の髪の隙間からかたちの良い彼の耳が覗く。その耳がほんのりと赤く染まっていた。
なぜかはわからない。けれど、ロッテは胸がぽかぽかと暖かくなったような気がした。もう一方の手も岩肌につくと、ロッテはさらに身を乗り出した。そうすれば、ゲオルグの顔を見られるような気がして。
少しだけ身を屈めて、ゲオルグの顔を覗き込む。同時にゲオルグが振り返り、真近で視線がぶつかった。黒曜石の瞳が大きく見開かれ、ゲオルグの喉が、ごくりと大きな音を立てた。
ロッテは動けなかった。冷えた岩肌に触れる指先を、ただきゅっと握り締めた。心臓がとくとくと早鐘を打つ。どうしてか瞳が潤み、視界がぼやけていた。
呆然としてロッテを見下ろしていたゲオルグは、やがてぐっと口元を引き結び、躊躇いがちに手を伸ばすと、ロッテの湿った髪に触れた。節くれだった指先がロッテの輪郭をなぞり、頬に手を添えられる。
あたたかい、とロッテは思った。
宮中で暮らしていたころは、ゲオルグがロッテに触れることなんてほとんどなかった。触れられたことといえば、媚薬でおかしくなったときくらいで、あのときのロッテはただ混乱するばかりだったけれど。こんなふうに優しく触れてくれるなら、なんの抵抗も感じない。
大きくてあたたかい手のひらに、ロッテは頬を擦り寄せた。ふっと息を零して見上げれば、ゲオルグの顔が目の前にあって。鼻先が微かに触れて、彼の吐息を肌で感じた。
ロッテが恐る恐る目蓋を閉じると、彼は指先でロッテの唇をなぞり、それからそっと、唇を重ね合わせた。
あなたにおすすめの小説
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
あっ、追放されちゃった…。
satomi
恋愛
ガイダール侯爵家の長女であるパールは精霊の話を聞くことができる。がそのことは誰にも話してはいない。亡き母との約束。
母が亡くなって喪も明けないうちに義母を父は連れてきた。義妹付きで。義妹はパールのものをなんでも欲しがった。事前に精霊の話を聞いていたパールは対処なりをできていたけれど、これは…。
ついにウラルはパールの婚約者である王太子を横取りした。
そのことについては王太子は特に魅力のある人ではないし、なんにも感じなかったのですが、王宮内でも噂になり、家の恥だと、家まで追い出されてしまったのです。
精霊さんのアドバイスによりブルハング帝国へと行ったパールですが…。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
番ではないと言われた王妃の行く末
にのまえ
恋愛
獣人の国エスラエルの王妃スノーは、人間でありながら“番”として選ばれ、オオカミ族の王ローレンスと結婚した。しかし三年間、彼に番と認められることも愛されることもなく、白い結婚のまま冷遇され続ける。
それでも王妃として国に尽くしてきたスノーだったが、ある日、ローレンスが別の令嬢レイアーを懐妊させ、側妃として迎えると知る。ついに心が折れたスノーは離縁を決意し、国を去ろうとする。
しかしその道中、レイアー嬢の実家の襲撃に遭い、スノーは命を落とす寸前、自身の命と引き換えに広域回復魔法で多くの命を救う。
これでスノーの、人生は終わりのはずだった。
だが次に目を覚ますと、スノーは三年前の結婚式当日に戻っていた。何度死んでも、何度拒絶しても、結婚式の誓いの瞬間へと戻される。
番から逃れようと、スノーは何度も死を選ぶが――。