魔女見習いのロッテ

柴咲もも

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第8話 さよなら、わたしの初恋の人

 ガラスのピペットで透明な精油を一滴、フラスコの中の薬液に落とす。ぽんと弾ける音がして、ふわりと輪になった煙が浮かんだ。薄っすらと色付いていた薬液がすっかり透明になったのを見届けて、ロッテはほろりと涙をこぼした。
「できた……」
「え?」
 ぽつりと漏れた呟きに、カウチに掛けて祈るように両手を結んでいたディアナが顔を上げた。ロッテはゆっくりとディアナを振り返り、ふるふると震えながら、もう一度その言葉を口にした。
「できっ……できましたぁ!」
 緊張の糸がぷつりと切れて、ロッテの両眼から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。急いで駆け寄ったディアナに助けられながら、完成した透明の薬液を小瓶に移し終えると、ロッテは祈るようにその薬瓶をディアナに手渡した。
「お師匠様の媚薬と違って、エリクシアの霊薬は一定の量を服用しなければ効果がありません。必ずこの小瓶の全量を飲ませるように、ホラント医師せんせいに伝えてください」
「わかったわ。あとは殿下と私たちに任せて、あなたはゆっくり休みなさい」
 ディアナは大きく頷くと、ふらふらのロッテを連れて窓辺に向かい、カウチの上に寝かせてくれた。そうして寝室から毛布を持ってきて、ロッテのからだに掛けてくれた。
「ほんとうに、あなたはよくやったわ」
 めずらしく優しい声で囁いて、ディアナはそっと、短くなったロッテの髪を撫でてくれた。ちからなく笑うロッテを困ったように見下ろして、それからロッテの目元を手のひらで覆って。ロッテが目を閉じたのを確認すると、彼女は靴音をたてないように静かに部屋を出ていった。

 研究室にひとりきり。ロッテは小さく息を吐き、カウチの上に寝そべったまま、膝を抱えてまるくなった。
 城に戻ってから休む間もなく調薬を開始して、早くも三日が過ぎていた。できることは全部やりきって、心もからだもくたくただ。
 シャルロッテは大丈夫だろうか。調薬中に連絡はなかったから、きっとまだ息があるはずだ。
 疲れているせいか、眼を閉じると嫌な想像ばかりが頭をよぎる。不安に押し潰されそうになりながら、ロッテは毛布の端をきゅっと握り締めた。
 ——誰かにそばにいて欲しい。ぎゅうって抱きしめて貰いたい。
 そのときロッテが思い浮かべたのは、魔獣が徘徊する森での夜にロッテを優しく抱き締めてくれた、逞しいあの人のぬくもりだった。


***


 ロッテがエリクシアの調薬を終えてから五日が過ぎた。
 ディアナに薬瓶を託したあと、まる二日死んだように眠り続けていたロッテは、三日目の朝に目を覚ましてからディアナのつきっきりの介抱を受け、この日、ようやくひとりで部屋を出歩けるまでに回復した。いつもはつんけんしているディアナだけれど、ここ数日、彼女はずっと優しくて。朝から晩まで嫌な顔ひとつせずに、ロッテの世話を引き受けてくれていた。
 ——何かお礼をしなきゃ。
 頭を悩ませながら朝食を取り、ロッテはいつもの地味なエプロン姿に着替えた。
 今日はユリウスとの約束で、疫病患者の療養施設にシャルロッテの見舞いに行くことになっている。出掛ける準備を済ませると、ロッテはディアナに連れられて研究室をあとにした。

 宮殿の外に出るのは八日ぶりだ。燦々と降りそそぐ陽の光が眩しくて、ロッテは手のひらで目元に陰をつくり、琥珀の瞳を細めた。
 真っ白な柱が立ち並ぶ道の先に、片翼の鷹の紋章を掲げた黒塗りの馬車が停まっている。馬車のそばにはフィオラント王家の礼服を身に纏ったユリウスが立っていて、彼はロッテに気が付くと、穏やかな笑みを浮かべ、それから恭しく頭を下げた。
「気を付けて行ってらっしゃい」
 ロッテの肩をぽんと叩いてディアナが言った。振り返ったロッテが「はい!」と返事をすると、彼女はくすりと微笑んで、ロッテにひらひらと手を振ってみせた。
 ロッテが馬車の前に進みでると、ユリウスは紳士らしく丁重にロッテの前に手を差し出した。
「今日はありがとう。身体はもう大丈夫?」
 ロッテはちょっぴり躊躇って、白い手袋に覆われたユリウスの手にそっと触れた。
 ほんの少し緊張はしたけれど、以前のような浮かれた気分にはならなかった。ただ、彼が纏う穏やかな空気から、シャルロッテが無事でいること、そのことで彼が誰よりも安堵していることが伝わった気がした。

 ロッテとユリウスを乗せた馬車は、貧民街を通り抜けて、街の片隅に建つ疫病患者の療養施設に向かった。施設の玄関前ではホラント医師が待っていて、馬車を降りたロッテを見ると、ユリウスがそうしたように、彼もまたロッテに深々と頭を下げた。
 シャルロッテの病室は、以前の底冷えする無機質な病棟から施設の二階にある陽の当たる部屋に移動したという。ホラント医師に部屋の前まで案内されて、ロッテがちょっぴり緊張しながら木製の扉を軽く叩くと、シャルロッテの可愛らしい返事が聞こえた。


「ロッテ……!」
 部屋に入ると一番に、シャルロッテの柔らかな笑顔に迎えられた。ユリウスが扉の前に立ち止まり、シャルロッテと頷き合う。
「私は医師せんせいと話があるから、きみは彼女の話し相手になってあげて」
 穏やかに微笑んでロッテに言うと、ユリウスはホラント医師と階段を降りていった。ロッテはぼんやりとふたりを見送って、それから病室の扉を静かに閉めた。
 シャルロッテの病室は床も壁も真っ白で、窓辺に置かれた腰の高さほどの棚の上に、花瓶に生けた薄紅色の花が飾ってあった。心地よい風がそよそよと吹いて、真っ白なカーテンを揺らしている。愛らしい小鳥の声が窓の向こうから聴こえてきて、ロッテは不思議と懐かしい気持ちになった。
「今日は来てくれてありがとう。そこに掛けて、少しおしゃべりをしましょう?」
 白い鳥籠のような東屋で顔を合わせていたときと同じように、シャルロッテはうきうきとしながらロッテに席を勧めてくれた。ベッドの隣に置かれた木製の椅子に腰掛けて、ロッテは改めてシャルロッテと向かい合った。
 疫病エッケハイドから回復して間もないシャルロッテは随分と痩せ細って、以前よりもいっそう儚く見えた。少し心苦しそうに、それでも微笑みは絶やさずに、彼女はほっそりとした腕を伸ばし、短くなったロッテの髪に触れた。
「とても危険な目にあったんですってね。本当にごめんなさい。怖かったでしょう?」
 囁くように呟いて、シャルロッテは瑠璃色の瞳を翳らせた。ロッテは「いいえ」と首を振ると、
「ゲオルグさんが、ずっとそばにいてくれましたから……」
 そう呟いて、俯いた。
 悔しくて、情けなくて、涙がじわりと瞳を濡らした。
 ずっとゲオルグに想われていた、命を懸けてでも救いたいと思われていたシャルロッテのことが、羨ましくて堪らない。彼女は病に侵されて、ずっと苦しんでいたのに。誰にも頼らずに病魔と戦い続けていたのに。
「……ごめんなさい」
 ロッテは膝の上で両手をきゅっと握り締めた。シャルロッテはぱちくりと眼を瞬かせると、ふわりと微笑んで、言った。
「ロッテはゲオルグのことが好きなのね」

 風が吹いて、窓辺で白いカーテンが翻る。ロッテは琥珀の瞳をまるくして顔をあげた。
「好き……なんでしょうか」
「自分でわからないの?」
 困ったように尋ねられて、視線がゆるゆると膝の上に落ちてしまう。
 ロッテは頷くことしかできなかった。だってロッテはユリウスのことが好きで、恋をしていたはずだったから。
「わたしが好きなのは……」
「ねえ、ロッテ。初めて好きになった人を、ずっと好きでいなければならないわけではないのよ」
 言葉の先を遮られて、ロッテはごくりと息を飲んだ。恐る恐る顔を上げると、穏やかに微笑むシャルロッテと目が合った。
「シャルロッテ様……わたしがユリウス様を好きだって、知って……?」
「初めて会ったときにね、そうなんじゃないかって思ったの。でも、庭園でゲオルグと話をしているあなたを見て考えが変わったわ。あなたがとても幸せそうに見えたから」
 シャルロッテはそう言うと、可愛らしく小首を傾げてみせた。それからもう一度手を伸ばし、呆然と目を瞬かせるロッテの髪にそっと触れた。
「考えてみて。あなたが今、一番そばにいて欲しいのは誰なのか」
「わたしが今、そばにいて欲しいのは……」
 呟いて、拳にぎゅっとちからが篭る。
 朗らかに笑うゲオルグの顔を、ロッテを抱きしめる逞しい腕のぬくもりを思い出して——涙がひと粒、こぼれ落ちた。
 ——ああ、わたし、ゲオルグさんが好きだったんだ。

 ユリウスとシャルロッテの幸せを素直に喜ぶことができたのは、ロッテの恋が見返りを求めない健気なものだったからではない。
 ロッテの恋は、幼い日に憧れた、美しいだけの尊い気持ちなんかじゃなくて。他の誰かを妬んだり、羨ましく思ったり。そうした醜い感情こそが、ロッテが知らなかった、知ろうとしなかった、本当の恋という気持ちだったのだ。
 ——でも、今更そんなことに気が付いたって、遅すぎる。
 ロッテが泥のように眠っているあいだに、ゲオルグは通常の任務に戻ってしまっていた。魔獣の討伐で各地を飛び回り続けているのは相変わらずで、調薬中はもちろんのこと、ロッテが目を覚ましてからも、一度も顔を見せていない。少しでもロッテに好意を抱いているのなら、一言ぐらい言伝があっても良さそうなものなのに。
 魔獣が棲むあの森で、ふたりきりの夜に互いに求め合ったりもしたけれど、日常に戻って冷静になれば、どんなに愚かなことだったのかがよくわかる。好きな男がいると口にしながら別の男に抱かれる女なんて、穢らわしいものでしかないのだから。
 純真無垢なシャルロッテは、森から戻ったゲオルグの目に、どんなに清廉で美しく映ったことだろう。あれからゲオルグがロッテの前に顔を出さないのは、きっとそういうことなのだ。

「バカだなぁ、わたし……」
 ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を拭い、ロッテは無理矢理に笑顔をつくった。
 シャルロッテには言わない。言えない。
 ゲオルグに焦がれるこの想いをロッテが胸に秘めたように、ゲオルグにもその想いを胸に秘めていて欲しいから。
 好きな人が好きな人のために自分の使命を全うする——彼が選んだその舞台に、一緒に立っていたいから。

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