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最終話 フィオラント王国の花の魔女
番外編 騎士と休暇と海辺の街②
テーブルに並んだ料理が綺麗に平らげられるのを見届けると、ロッテはてきぱきと食器を流しに片付けて、熱いコーヒーを淹れて、そそくさと部屋を出ていった。
忙しないな、とも思いつつ、精一杯のもてなしを考えてくれるロッテの気持ちは思いのほか嬉しいもので。淹れたてのコーヒーの香りを楽しみながら、改めて部屋の中を眺めていると、ややあって扉の陰からひょっこりとロッテが顔を覗かせた。
「ゲオルグさん、寝間着って持ってきてますか?」
「いや。だが着替えならある」
「よかった。わたし、男の人が着れる服は持ってないから」
そう言って、ロッテがほっと胸をなでおろす。
当然だ。むしろ、すんなりと男物の服を出されるほうが状況的にややこしい。
ゲオルグが脳内で軽く突っ込みを入れていると、ロッテがちょこちょこと近付いてきて、両手でゲオルグの手を取った。
「お風呂沸かしたので、よかったら先にどうぞ」
はにかむように微笑むものだから。
風呂があるなら食事の前に入るべきだったのではないか、などと、薄汚れた自分の姿を今更ながらに気にしつつ、ゲオルグはロッテに勧められるがままに浴室に向かった。
店の裏側に造られた浴室は、大きな窓が庭に面しており、蔦植物が絡まる柵の向こうに広い海が見渡せた。きらきらと星が瞬く夜空と穏やかな海の取り合わせは見事なもので、温かい湯に浸かりながらこの景色を愉しむのは確かに気持ちが良さそうだ。
浴室内を見ると、白いタイル敷きの床の一部が四角く掘り下げられていて、その窪みの中をたっぷりのお湯が満たしていた。ゲオルグは一瞬面食らって、それからその窪みが浴槽なのだと気が付いた。
フィオラントでは、浴槽といえば置き型のバスタブが一般的で、手脚を伸ばして浸かれるような広々とした浴槽は、王宮や一部の上流貴族の館でしかお目にかかることがないものだった。目の前の浴槽は、都会育ちで王宮暮らしの長かったゲオルグでも、初めて目にする代物だ。
「これはすごいな……」
「でしょう? わたしも初めて見たとき感動しちゃいました」
唖然とするゲオルグに嬉しそうにそう言うと、ロッテはてきぱきとタオルと着替えの準備を終えて、「ゆっくり使ってくださいね」と言い残して、ぱたぱたと靴音をたてながら脱衣所を出て行った。
薄汚れた服を脱ぎ捨てて、浴室内に足を踏み入れる。部屋の隅には石鹸や香油の瓶が置かれており、それらは優しい花の香りがした。
おそらくはロッテの手製だと思われる石鹸を両手で泡立てながら、ゲオルグは真剣にこの後のことを考えた。
ロッテは至れり尽くせりゲオルグをもてなしてくれたものの、これまでのやり取りの中に性的な行為を匂わせるものは一切なかった。
けれど、誰が何と言おうと、ふたりは想い合う恋人同士なのだ。久しぶりの再会だし、当然そういう展開にもなるはずだ。フィオラントでのことを鑑みれば、自制できるかどうかもわからない。
気が付けば、ゲオルグはそれはもう念入りに身体の隅々まで洗いこんでいた。
我ながら張り切りすぎで恥ずかしい、とは思うものの、健康な男が半年ぶりの恋人との逢瀬で張り切らないわけがない。
窓の外は満天の星で埋め尽くされて、まるい月がぽっかりと浮かんでいた。
勢いよく窓を開け放ち、熱い湯船に身体を沈めて旅の疲れを癒やしながら、ゲオルグはのぼせあがった頭を涼やかな夜風で冷ましたのだった。
***
ゲオルグが入浴を終えて替えの服に着替えていると、唐突に脱衣所の扉が開かれた。すっかり気が抜けていたところで驚いて振り返ると、脱衣所の前にロッテが立っていた。彼女は「あ」と小声で呟くと、ゲオルグの顔を見上げて言った。
「もう良いんですか?」
「ああ、良い湯だった」
笑顔で一言そう告げて、ゲオルグはロッテの横をすり抜けた。食堂と居間を兼ねた先ほどの部屋に戻り、ぐるりと部屋の中を見渡して、それから店の待合室に向かう。窓辺に置かれた長椅子にゆったりと腰を下ろすと、ふうと一息ついて、そうしてはたと首を傾げた。
浴室から水の音が聞こえてくる。ゲオルグと入れ替わりでロッテが風呂に入っているのだから、何らおかしなことでもないはずだ。
おかしいのは、ロッテが脱衣所に入ってきたタイミングだ。あの状況では、ゲオルグが浴室を出るのがもう少し遅れていれば、入浴中に鉢合わせていてもおかしくなかった。
——もしかすると、ロッテは……
「いやいやいや、それはないだろう。都合よく考えすぎだ」
独り言ちて、ゲオルグは赤銅色の髪を掻き毟った。
ゲオルグの理性の箍が外れやすいことは、ロッテだって充分に理解しているはずだ。今のこの状況で浴室でふたりきりになったりすれば、ゲオルグは間違いなくロッテに手を出してしまう。間違いなくだ。
ロッテは以前から「そういうことはベッドでしたい」と言っていたし、流石にその展開は避けたいと考えているだろう。
「……そうだよな」
ぽつりとそう呟いて、ゲオルグは顔を上げ、ぼんやりと考えた。
ロッテと離れていたこの半年間。
長かった。辛かった。
もう二度と会えやしないのではないかと、諦めかけたこともあった。
あの魔女が——リーゼロッテが王宮にやって来なければ、今こうしてロッテの側にいることさえも、きっとあり得ないことだったのだ。
***
時は数日前に遡る。
その日、ゲオルグは休暇の申請をするために、ユリウスの元を訪れた。
ロッテの無実を証明しようと手は尽くしたものの、何一つ結果を残すことが出来なかったから、その最終手段として、彼女の師であり、フィオラントで唯一王に意見することが許される契約の魔女に口添えを頼みに行くためだ。
——偉大なる森の魔女リーゼロッテの協力を仰ぎたい。
ゲオルグの願いは聞き入れられなかった。ユリウスとしてもゲオルグに協力したいのは山々だったようだが、「王太子ユリウスとその騎士アインベルクは魔女の術中にある」という宰相の説が罷り通っている限り、発言権は認められていないとのことだった。
「今の私では、きみに任務外の外出許可を出すことができない。どうしてもと言うのなら、直接陛下に許可を頂く他はない」
ユリウスにそう勧められて、ゲオルグはひとり玉座の間へと向かった。
無謀な試みであることは重々承知の上だった。たとえ逆賊として縛り上げられることになったとしても構うものかと意を決して、ゲオルグは荘厳な扉の前に立ったのだ。
「恐れながら、失礼致します!」
声を張り上げ、重い扉を押し開いて、ゲオルグは硬直した。
広々とした玉座の間には父が率いる親衛隊がずらりと並び、ロッテに追放処分が下されたあの時と同じように、壇上には宰相と国王と父の姿があった。そして、その場に居合わせる皆の視線は唯一点に——真紅の絨毯に悠然と立つ黒いドレスの女へと向けられていた。
偉大なる森の魔女リーゼロッテ。彼女がその人なのだとゲオルグが理解するのは容易かった。何故なら、ゲオルグは一度だけではあるものの、彼女と直接話をしたことがあったからだ。
何やら王と謁見中であったらしい。流れるような黒髪の美しいその魔女は、ちらりとゲオルグを一瞥すると、「丁度良い」と呟いて、何事もなかったかのように壇上の国王に告げた。
「聞けば、私の弟子は今、追放処分を受けて国外に居るそうではありませんか。願わくは、その経緯について説明していただきたいのです」
「経緯も何もない。お前の弟子を名乗ったその魔女は、在ろう事か魔女の秘薬を用いて王家の転覆を謀った。この薬がその確固たる証拠だ」
壇上からリーゼロッテを見下ろして、宰相が高圧的に言い放つ。けれどもリーゼロッテはどこ吹く風で、さらりとそれを聞き流すと、つかつかと壇上に上がり、宰相の前に進み出た。それからゆったりとした所作で広間を振り返り、ゲオルグをちょいちょいと手招いた。
「騎士殿、こちらへ」
ゲオルグは言われるままに壇上に上がり、はっと我に返った。そして、偉大なる森の魔女の恐ろしさの真髄を思い知ることになった。
壇上に上がったゲオルグがリーゼロッテの傍に立った、その一瞬で、彼女は宰相の手から媚薬の小瓶を取り上げて、あろうことかゲオルグの口にその全量を流し込んだのだ。
あのときの比ではなかった。
毛穴という毛穴からぶわりと汗が噴き出して、身体の中心から末端までが燃え盛るように熱くなった。股間に血液が集まって、これまでに類を見ないほどに男根が膨張し、太く固く反り上がる。全身を支配しようと駆け巡るその欲を必死に堪えはしたものの、憐れなことに、ゲオルグは完全に勃起した股間をその場に居合わせた全員の目に晒すことになった。
「くっ……!」
脂汗を額に滲ませて、ゲオルグはその場にがくりと膝をついた。憐れみに似た溜め息混じりの呟きが皆の口から漏れる。股間を押さえて蹲るゲオルグを優美な微笑みで見下ろすと、リーゼロッテはすらりと伸びた指先でゲオルグの頬をそっと撫でた。
美しく艶やかな唇が、甘い誘惑の言葉を囁いた。
「可哀想な騎士殿……どうかしら? 私の足を舐めてくだされば、抱かれてさしあげてもよろしくてよ?」
「ばっ……馬鹿を言うな! 俺は……」
咄嗟に顔を上げて反論し、ゲオルグはすぐさま後悔した。ほっそりとした女の腕が両頬を掠め、ゲオルグの顔を豊満な胸の谷間へと抱き寄せる。誘うようなあまい香りに眩暈を覚え、股間がいっそう奮い立った。
——違う! 違う違う! ロッテ、俺は……!
ゲオルグは無我夢中で固く両眼を閉じた。全神経を総動員させて、外れかけた理性の箍を修復する。
傍目には羨ましい限りの光景だった。だが、ゲオルグにとってはそうではない。必死に湧き上がる欲望を抑え続けた。
ややあって、もはや性感帯と化したゲオルグの耳元をリーゼロッテの吐息が掠めた。
「すまないな、騎士殿。だが、愛する女と、なによりも其方自身の気持ちを一瞬でも疑った罰だと思って受け入れてくれ」
顔面が、ふたたび柔らかな感触に包まれる。それから魔女は、ようやくゲオルグを解放した。
「ご覧頂いた通りですわ。この薬は飲んだ者の精力を増強こそするものの、使用者の虜にしたりは致しません。それに、そもそも私は、私の利にならないものなど作りません。私ならこうして……」
つかつかと靴音を響かせて広間に控える親衛隊のひとりに歩み寄ると、リーゼロッテはその目の前でぱちんと指を鳴らした。直後、ずさりと重々しい音が響き、親衛隊が跪く。
「このとおり、簡単に相手を意のままにできますもの」
その場に居合わせた全ての者が息を飲んだ。
この国の王は、とんでもない悪魔と契約を結んでしまったのだ、と、きっと誰もが考えた。
「あのレシピは私の弟子を魔女にするために作ったもの。私が魔女を名乗るのに薬など必要ないけれど、あの子を魔女足らしめるには必要不可欠なものでしたから」
壇上の玉座に座す国王と、その傍に立つ宰相を改めて振り返り、リーゼロッテはふわりと微笑んだ。
軽い靴音が広間に反響する。リーゼロッテはふたたび壇上に上がると、王には目もくれず、宰相の眼前へと進み出た。
「それにしても宰相殿、私には貴方様のお考えが理解できません。あの子はエリクシアの霊薬を調薬することが出来る、魔女のなかでも希少な逸材です。如何に古参の宮廷医師や宮廷魔術師が吠えようとも、本来なら決して他国に渡すわけにはいかないはず。それを何故、国外追放などと……」
人差し指で喉元を突かれ、宰相が露骨に眉を顰める。リーゼロッテは構わず続けた。
「ええ、ええ、存じておりますわ。貴方様は私が気に入らないのでしょう? 私と、あのとき私に溺れた腑抜けの王が」
「黙れ黙れ! 邪悪な魔女め……!」
「貴方様は亡き王妃に心酔なさっていましたものね。王が王妃の後釜に私を選んだことが、相当お気に召さなかったのでしょう? 私は貴方様の意を汲んで森の奥に閉じ篭ったというのに、それだけでは事足りなかったのかしら」
冷酷無比な宰相が声を荒げた姿を目にしたのは、それが初めてだった。
朦朧とする意識を掻き集め、床の上に蹲ったまま、ゲオルグはこのやり取りが一刻も早く終わるようにと祈り続けた。
***
リーゼロッテの言葉で玉座の間は一時騒然となったものの、ロッテの追放処分は取り消され、宰相への詰問は後日改めて行われることになった。
玉座の間を飛び出したその足で隣室の控えの間に飛び込んで、下腹部に溜まった熱を解き放ち、ようやく平静を取り戻して。げっそりとしながらゲオルグが廊下に出ると、部屋の前にリーゼロッテが立っていた。
妖艶な黒い魔女は廊下の手摺りに背を預けて腕を組み、尊大な口振りでゲオルグに言った。
「気分はどうだ?」
「……もう大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「すまなかったな、騎士殿。でもまぁ、全ては愛弟子の無実の罪を晴らすためだ。理解してくれ」
リーゼロッテが高慢に笑う。ゲオルグとて、今更文句を言うつもりはなかった。酷い目に遭わされはしたものの、結果的にはそのお陰でロッテの処分が撤回されたのだから。
「まさか、宰相ともあろうものが私怨で動いていたとは思いもしませんでした」
「……まぁ、私怨だけではなかろうよ。あやつにも色々事情はあったのだろう。ムカつくから軽く呪っておいてやったけどな」
さらりと恐ろしいことを口にして、リーゼロッテがけらけら笑う。それから人差し指をゲオルグの眼前に突き付けて、魔女は言った。
「ま、目的は達成したし? 私はファナの森に帰らせてもらう……が! もしまだ媚薬の効果が切れていないと言うのであれば、特別に優秀な薬師を紹介しよう。居場所は——」
忙しないな、とも思いつつ、精一杯のもてなしを考えてくれるロッテの気持ちは思いのほか嬉しいもので。淹れたてのコーヒーの香りを楽しみながら、改めて部屋の中を眺めていると、ややあって扉の陰からひょっこりとロッテが顔を覗かせた。
「ゲオルグさん、寝間着って持ってきてますか?」
「いや。だが着替えならある」
「よかった。わたし、男の人が着れる服は持ってないから」
そう言って、ロッテがほっと胸をなでおろす。
当然だ。むしろ、すんなりと男物の服を出されるほうが状況的にややこしい。
ゲオルグが脳内で軽く突っ込みを入れていると、ロッテがちょこちょこと近付いてきて、両手でゲオルグの手を取った。
「お風呂沸かしたので、よかったら先にどうぞ」
はにかむように微笑むものだから。
風呂があるなら食事の前に入るべきだったのではないか、などと、薄汚れた自分の姿を今更ながらに気にしつつ、ゲオルグはロッテに勧められるがままに浴室に向かった。
店の裏側に造られた浴室は、大きな窓が庭に面しており、蔦植物が絡まる柵の向こうに広い海が見渡せた。きらきらと星が瞬く夜空と穏やかな海の取り合わせは見事なもので、温かい湯に浸かりながらこの景色を愉しむのは確かに気持ちが良さそうだ。
浴室内を見ると、白いタイル敷きの床の一部が四角く掘り下げられていて、その窪みの中をたっぷりのお湯が満たしていた。ゲオルグは一瞬面食らって、それからその窪みが浴槽なのだと気が付いた。
フィオラントでは、浴槽といえば置き型のバスタブが一般的で、手脚を伸ばして浸かれるような広々とした浴槽は、王宮や一部の上流貴族の館でしかお目にかかることがないものだった。目の前の浴槽は、都会育ちで王宮暮らしの長かったゲオルグでも、初めて目にする代物だ。
「これはすごいな……」
「でしょう? わたしも初めて見たとき感動しちゃいました」
唖然とするゲオルグに嬉しそうにそう言うと、ロッテはてきぱきとタオルと着替えの準備を終えて、「ゆっくり使ってくださいね」と言い残して、ぱたぱたと靴音をたてながら脱衣所を出て行った。
薄汚れた服を脱ぎ捨てて、浴室内に足を踏み入れる。部屋の隅には石鹸や香油の瓶が置かれており、それらは優しい花の香りがした。
おそらくはロッテの手製だと思われる石鹸を両手で泡立てながら、ゲオルグは真剣にこの後のことを考えた。
ロッテは至れり尽くせりゲオルグをもてなしてくれたものの、これまでのやり取りの中に性的な行為を匂わせるものは一切なかった。
けれど、誰が何と言おうと、ふたりは想い合う恋人同士なのだ。久しぶりの再会だし、当然そういう展開にもなるはずだ。フィオラントでのことを鑑みれば、自制できるかどうかもわからない。
気が付けば、ゲオルグはそれはもう念入りに身体の隅々まで洗いこんでいた。
我ながら張り切りすぎで恥ずかしい、とは思うものの、健康な男が半年ぶりの恋人との逢瀬で張り切らないわけがない。
窓の外は満天の星で埋め尽くされて、まるい月がぽっかりと浮かんでいた。
勢いよく窓を開け放ち、熱い湯船に身体を沈めて旅の疲れを癒やしながら、ゲオルグはのぼせあがった頭を涼やかな夜風で冷ましたのだった。
***
ゲオルグが入浴を終えて替えの服に着替えていると、唐突に脱衣所の扉が開かれた。すっかり気が抜けていたところで驚いて振り返ると、脱衣所の前にロッテが立っていた。彼女は「あ」と小声で呟くと、ゲオルグの顔を見上げて言った。
「もう良いんですか?」
「ああ、良い湯だった」
笑顔で一言そう告げて、ゲオルグはロッテの横をすり抜けた。食堂と居間を兼ねた先ほどの部屋に戻り、ぐるりと部屋の中を見渡して、それから店の待合室に向かう。窓辺に置かれた長椅子にゆったりと腰を下ろすと、ふうと一息ついて、そうしてはたと首を傾げた。
浴室から水の音が聞こえてくる。ゲオルグと入れ替わりでロッテが風呂に入っているのだから、何らおかしなことでもないはずだ。
おかしいのは、ロッテが脱衣所に入ってきたタイミングだ。あの状況では、ゲオルグが浴室を出るのがもう少し遅れていれば、入浴中に鉢合わせていてもおかしくなかった。
——もしかすると、ロッテは……
「いやいやいや、それはないだろう。都合よく考えすぎだ」
独り言ちて、ゲオルグは赤銅色の髪を掻き毟った。
ゲオルグの理性の箍が外れやすいことは、ロッテだって充分に理解しているはずだ。今のこの状況で浴室でふたりきりになったりすれば、ゲオルグは間違いなくロッテに手を出してしまう。間違いなくだ。
ロッテは以前から「そういうことはベッドでしたい」と言っていたし、流石にその展開は避けたいと考えているだろう。
「……そうだよな」
ぽつりとそう呟いて、ゲオルグは顔を上げ、ぼんやりと考えた。
ロッテと離れていたこの半年間。
長かった。辛かった。
もう二度と会えやしないのではないかと、諦めかけたこともあった。
あの魔女が——リーゼロッテが王宮にやって来なければ、今こうしてロッテの側にいることさえも、きっとあり得ないことだったのだ。
***
時は数日前に遡る。
その日、ゲオルグは休暇の申請をするために、ユリウスの元を訪れた。
ロッテの無実を証明しようと手は尽くしたものの、何一つ結果を残すことが出来なかったから、その最終手段として、彼女の師であり、フィオラントで唯一王に意見することが許される契約の魔女に口添えを頼みに行くためだ。
——偉大なる森の魔女リーゼロッテの協力を仰ぎたい。
ゲオルグの願いは聞き入れられなかった。ユリウスとしてもゲオルグに協力したいのは山々だったようだが、「王太子ユリウスとその騎士アインベルクは魔女の術中にある」という宰相の説が罷り通っている限り、発言権は認められていないとのことだった。
「今の私では、きみに任務外の外出許可を出すことができない。どうしてもと言うのなら、直接陛下に許可を頂く他はない」
ユリウスにそう勧められて、ゲオルグはひとり玉座の間へと向かった。
無謀な試みであることは重々承知の上だった。たとえ逆賊として縛り上げられることになったとしても構うものかと意を決して、ゲオルグは荘厳な扉の前に立ったのだ。
「恐れながら、失礼致します!」
声を張り上げ、重い扉を押し開いて、ゲオルグは硬直した。
広々とした玉座の間には父が率いる親衛隊がずらりと並び、ロッテに追放処分が下されたあの時と同じように、壇上には宰相と国王と父の姿があった。そして、その場に居合わせる皆の視線は唯一点に——真紅の絨毯に悠然と立つ黒いドレスの女へと向けられていた。
偉大なる森の魔女リーゼロッテ。彼女がその人なのだとゲオルグが理解するのは容易かった。何故なら、ゲオルグは一度だけではあるものの、彼女と直接話をしたことがあったからだ。
何やら王と謁見中であったらしい。流れるような黒髪の美しいその魔女は、ちらりとゲオルグを一瞥すると、「丁度良い」と呟いて、何事もなかったかのように壇上の国王に告げた。
「聞けば、私の弟子は今、追放処分を受けて国外に居るそうではありませんか。願わくは、その経緯について説明していただきたいのです」
「経緯も何もない。お前の弟子を名乗ったその魔女は、在ろう事か魔女の秘薬を用いて王家の転覆を謀った。この薬がその確固たる証拠だ」
壇上からリーゼロッテを見下ろして、宰相が高圧的に言い放つ。けれどもリーゼロッテはどこ吹く風で、さらりとそれを聞き流すと、つかつかと壇上に上がり、宰相の前に進み出た。それからゆったりとした所作で広間を振り返り、ゲオルグをちょいちょいと手招いた。
「騎士殿、こちらへ」
ゲオルグは言われるままに壇上に上がり、はっと我に返った。そして、偉大なる森の魔女の恐ろしさの真髄を思い知ることになった。
壇上に上がったゲオルグがリーゼロッテの傍に立った、その一瞬で、彼女は宰相の手から媚薬の小瓶を取り上げて、あろうことかゲオルグの口にその全量を流し込んだのだ。
あのときの比ではなかった。
毛穴という毛穴からぶわりと汗が噴き出して、身体の中心から末端までが燃え盛るように熱くなった。股間に血液が集まって、これまでに類を見ないほどに男根が膨張し、太く固く反り上がる。全身を支配しようと駆け巡るその欲を必死に堪えはしたものの、憐れなことに、ゲオルグは完全に勃起した股間をその場に居合わせた全員の目に晒すことになった。
「くっ……!」
脂汗を額に滲ませて、ゲオルグはその場にがくりと膝をついた。憐れみに似た溜め息混じりの呟きが皆の口から漏れる。股間を押さえて蹲るゲオルグを優美な微笑みで見下ろすと、リーゼロッテはすらりと伸びた指先でゲオルグの頬をそっと撫でた。
美しく艶やかな唇が、甘い誘惑の言葉を囁いた。
「可哀想な騎士殿……どうかしら? 私の足を舐めてくだされば、抱かれてさしあげてもよろしくてよ?」
「ばっ……馬鹿を言うな! 俺は……」
咄嗟に顔を上げて反論し、ゲオルグはすぐさま後悔した。ほっそりとした女の腕が両頬を掠め、ゲオルグの顔を豊満な胸の谷間へと抱き寄せる。誘うようなあまい香りに眩暈を覚え、股間がいっそう奮い立った。
——違う! 違う違う! ロッテ、俺は……!
ゲオルグは無我夢中で固く両眼を閉じた。全神経を総動員させて、外れかけた理性の箍を修復する。
傍目には羨ましい限りの光景だった。だが、ゲオルグにとってはそうではない。必死に湧き上がる欲望を抑え続けた。
ややあって、もはや性感帯と化したゲオルグの耳元をリーゼロッテの吐息が掠めた。
「すまないな、騎士殿。だが、愛する女と、なによりも其方自身の気持ちを一瞬でも疑った罰だと思って受け入れてくれ」
顔面が、ふたたび柔らかな感触に包まれる。それから魔女は、ようやくゲオルグを解放した。
「ご覧頂いた通りですわ。この薬は飲んだ者の精力を増強こそするものの、使用者の虜にしたりは致しません。それに、そもそも私は、私の利にならないものなど作りません。私ならこうして……」
つかつかと靴音を響かせて広間に控える親衛隊のひとりに歩み寄ると、リーゼロッテはその目の前でぱちんと指を鳴らした。直後、ずさりと重々しい音が響き、親衛隊が跪く。
「このとおり、簡単に相手を意のままにできますもの」
その場に居合わせた全ての者が息を飲んだ。
この国の王は、とんでもない悪魔と契約を結んでしまったのだ、と、きっと誰もが考えた。
「あのレシピは私の弟子を魔女にするために作ったもの。私が魔女を名乗るのに薬など必要ないけれど、あの子を魔女足らしめるには必要不可欠なものでしたから」
壇上の玉座に座す国王と、その傍に立つ宰相を改めて振り返り、リーゼロッテはふわりと微笑んだ。
軽い靴音が広間に反響する。リーゼロッテはふたたび壇上に上がると、王には目もくれず、宰相の眼前へと進み出た。
「それにしても宰相殿、私には貴方様のお考えが理解できません。あの子はエリクシアの霊薬を調薬することが出来る、魔女のなかでも希少な逸材です。如何に古参の宮廷医師や宮廷魔術師が吠えようとも、本来なら決して他国に渡すわけにはいかないはず。それを何故、国外追放などと……」
人差し指で喉元を突かれ、宰相が露骨に眉を顰める。リーゼロッテは構わず続けた。
「ええ、ええ、存じておりますわ。貴方様は私が気に入らないのでしょう? 私と、あのとき私に溺れた腑抜けの王が」
「黙れ黙れ! 邪悪な魔女め……!」
「貴方様は亡き王妃に心酔なさっていましたものね。王が王妃の後釜に私を選んだことが、相当お気に召さなかったのでしょう? 私は貴方様の意を汲んで森の奥に閉じ篭ったというのに、それだけでは事足りなかったのかしら」
冷酷無比な宰相が声を荒げた姿を目にしたのは、それが初めてだった。
朦朧とする意識を掻き集め、床の上に蹲ったまま、ゲオルグはこのやり取りが一刻も早く終わるようにと祈り続けた。
***
リーゼロッテの言葉で玉座の間は一時騒然となったものの、ロッテの追放処分は取り消され、宰相への詰問は後日改めて行われることになった。
玉座の間を飛び出したその足で隣室の控えの間に飛び込んで、下腹部に溜まった熱を解き放ち、ようやく平静を取り戻して。げっそりとしながらゲオルグが廊下に出ると、部屋の前にリーゼロッテが立っていた。
妖艶な黒い魔女は廊下の手摺りに背を預けて腕を組み、尊大な口振りでゲオルグに言った。
「気分はどうだ?」
「……もう大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「すまなかったな、騎士殿。でもまぁ、全ては愛弟子の無実の罪を晴らすためだ。理解してくれ」
リーゼロッテが高慢に笑う。ゲオルグとて、今更文句を言うつもりはなかった。酷い目に遭わされはしたものの、結果的にはそのお陰でロッテの処分が撤回されたのだから。
「まさか、宰相ともあろうものが私怨で動いていたとは思いもしませんでした」
「……まぁ、私怨だけではなかろうよ。あやつにも色々事情はあったのだろう。ムカつくから軽く呪っておいてやったけどな」
さらりと恐ろしいことを口にして、リーゼロッテがけらけら笑う。それから人差し指をゲオルグの眼前に突き付けて、魔女は言った。
「ま、目的は達成したし? 私はファナの森に帰らせてもらう……が! もしまだ媚薬の効果が切れていないと言うのであれば、特別に優秀な薬師を紹介しよう。居場所は——」
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