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第2話 ロッテ、王宮に上がる
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初めて森の外に出たロッテにとって、窓の外を流れる景色はどれもこれも新鮮で、すべてがきらきらと輝いて見えた。これまでのロッテには、森の外の世界は額縁に飾られた風景画のようなもので、図鑑に描かれたイラストから想像してみるだけの、手の届かないものだった。リーゼロッテが水鏡のまじないを使い、ときどき村のお祭りや王都の様子を水面に映して見せてくれたけれど、それらはどこか現実味が欠けていて、夢の世界の出来事のように思えていたのだ。
ユリウスに出会わなければ、ロッテはあのちっぽけな森で、ちっぽけな世界で一生を終えていたに違いない。
揺れる馬車の座席に身を委ねて、ロッテは静かに目を閉じた。
しばらくすると、不意に馬車の揺れが小さくなった。砂利で敷き詰められていた街道が石畳みに舗装された道へと変わったのだ。街道の先に石造りの橋が見えると、ロッテは弾かれるように席を立ち、窓から身を乗り出した。
アーチ状の橋の下を、透きとおった川の水がさらさらと流れてゆく。涼しげに揺れる水面の奥で、川魚の鱗がきらきらと輝いていた。
「きれい……」
ロッテがうっとりと呟いた、ちょうどそのとき、石橋を渡り終えた馬車ががたんと大きく揺れた。宙に浮いた身体が半分ほど窓の外に投げ出され、ロッテは咄嗟に窓の縁にへばりついた。御者席から声を掛けられた気がしたけれど、どきどきと高鳴る胸の音がうるさくて、ロッテには御者の声が聞こえなかった。
ほうっと息をついて馬車の中を振り返ると、扉の横の取っ手を握り締めたユリウスが、大きく眼を見開いて腰を浮かせていた。よくよく見ると、彼のもう一方の手はロッテの服の端を握っていた。
「大丈夫?」
「……すみません。はじめて見るものばかりで、つい興奮してしまって」
心配するユリウスに、ロッテは消え入るような声で答えた。恥ずかしくて情けなくて、顔から火を噴きそうで。ロッテが馬車の座席の上で小さくなっていると、ユリウスはくすりと笑ってロッテに言った。
「それなら、王都に着いたら買い出しついでに街の見学もしてみるといい。王宮のハーブ園や薬草園もきっと気に入ると思うし、護衛をつけて街の外に出掛けてくれても構わないよ」
「街の外に出るのに、護衛が必要なんですか?」
ロッテは少し驚いた。確かに人影はないけれど、窓の外に広がるのどかな景色に危険が潜んでいるとはとても思えない。
「ごく稀にだけど、はぐれ魔獣が出ることもあるからね。行商に出る者は必ず護衛を雇っているし。それに、きみは女の子だから」
そう言うと、ユリウスは傍に立て掛けていた剣の柄を指先でそっと撫でた。
馬車はがたごとと音を立てて、夕陽に染まる石畳みの街道を進み続けた。やがて道の向こうに高い城壁が現れると、ロッテはなんとなくユリウスの言葉の意味を理解した。
町を囲む城壁には幾つもの古い傷痕が刻まれていて、それはきっと、ずっと昔の度重なる魔獣の襲撃によって刻まれたものに違いなかった。けれど、フィオラントの人々は今も、魔獣の脅威に怯えているのかもしれない。
***
跳ね橋を渡って城門をくぐると、都の中央通りはユリウスの帰還を祝う人々の歓声であふれていた。通りに面した煉瓦造りの家々の窓辺から、花びらやカラーテープが雨のように降り注ぐ。馬車の窓から民衆に手を振るユリウスの隣で、ロッテはひたすらに身を縮こまらせた。
大変なことになってしまった。かたかたと震える膝の上で、きゅっと両手を握り締める。期待に満ちた人々の声で、ロッテは今更ながらに我が身が置かれた状況を思い知らされていた。
この歓声は偉大なる森の魔女リーゼロッテに向けられたもので、人々が歓迎している相手は決して魔女見習いのロッテなどではない。ロッテには魔獣の襲撃から都を守るちからなんてないし、王や民衆を苦しめる疫病を治せるかどうかだってわからない。それなのに、課せられた使命が、身に余る重責が、ロッテの肩に重くのし掛かかっていた。
不安に胸が張り裂けそうで、居た堪れない思いで目を瞑った、そのときだった。優しいぬくもりがロッテの震える両手をふわりと包み込み、ハッとなって顔をあげると、穏やかな橄欖石の瞳がまっすぐにロッテをみつめていた。
「大丈夫、ちからが足りないのは私も同じだ」
そう囁いて、ユリウスがロッテの手をかたく握り締める。
「私が今こうしていられるのは、皆のちからを借りているからだ。私は皆の期待に応えたい。だからロッテ、きみにもちからを貸して欲しい。私を信じてくれないか」
ユリウスのやわらかな低音が紡いだ言葉は、萎んでいたロッテの気持ちをそっと後押ししてくれた。ロッテは大きく頷いて、窓の外——都の中心に位置する小高い丘の頂を仰いだ。
いつのまにか外は夜の色に染まり、見上げた丘の上に蒼白い月明かりに照らされた宮殿が佇んでいた。ユリウスとロッテを乗せた馬車は、ゲオルグの先導で居住区と商業区を通り抜け、立ち並ぶ樹々の間の長い坂道を上った。やがて道が拓けると、金色の柵に囲まれた広々とした庭園の向こう側に白亜の宮殿が現れた。
***
両脇にずらりと並ぶ複雑な紋様が刻まれた白い石柱を見上げながら、ロッテはユリウスの背中を追って歩いた。点々と灯る明かりの先には豪奢な扉があって、その前に煌びやかな衣装に身を包んだ女性がひとり立っていた。ユリウスとロッテの更に数歩先を歩いていたゲオルグが軽く手を挙げると、彼女はつんと澄ましたまま扉に備え付けられた真鍮製のドアノッカーを打ち鳴らした。
重々しい金属音が鳴り響く。ややあって、両開きの巨大な扉が開かれた。
「ご無事のご帰還で何よりです、殿下」
そう言って恭しく頭を下げると、彼女はユリウスに道を譲るようにしずしずと扉の脇に退いた。颯爽と進み出たゲオルグが、彼女の隣に並び立つ。
「留守をありがとう、ディアナ」
ユリウスは朗らかに微笑んで、それからロッテを振り返った。釣られるように、ディアナの視線がロッテに向けられる。月の光に煌めく白金の長い髪の隙間から、紅玉のように輝く赤い瞳が覗かせて、ロッテのつま先から頭のてっぺんまで二度見すると、彼女はぴくりと眉根を寄せた。
「そちらがリーゼロッテ様ですか? 随分とお若いように見えますが……」
訝しむディアナにユリウスは一瞬目を丸くしたものの、すぐにくすくすと笑い出した。ゲオルグがやれやれと肩を竦め、ディアナが困惑した様子で「どうしました?」と首を傾げる。ひとしきり笑って満足したのか、ディアナとゲオルグを改めて見比べて、ユリウスがようやく口を開いた。
「……いや、ごめん。相変わらずきみたちは同じ反応をするなと思ってね」
そう言って無邪気に笑う。ディアナは切れ長の目をぱちくりと瞬かせてユリウスを見ていたけれど、小さく溜め息をつくと、ふたたびロッテに目を向けた。
「あ、えっと……リーゼロッテの代わりに参りました、ロッテです」
ロッテが慌ててぺこりと頭を下げると、ディアナは整った細い眉を片側だけ吊り上げて、それから訝しげに首を傾げ、冷淡な口振りで告げた。
「ディアナよ、占星術師として宮廷に仕えているわ。よろしくね、ただのロッテさん」
見た目はまったく違うのに、ディアナの態度は初対面のときのゲオルグとそっくりだった。
——この娘はどうにも信用なりません。
荘園を背にした街道で耳にしたあの言葉が頭の中で反芻される。
ロッテはただ、ユリウスのちからになりたいだけなのに、ゲオルグもディアナもロッテのことを胡散臭い存在だと決めつけているようで、それが悔しくてたまらない。馬車の中で聞いたユリウスの言葉を思い出しながらロッテは少しうつむいて、きゅっと両手を握り締めた。対するディアナはロッテなんかにかけらも興味が無いようで、さっさとユリウスに向き直ると、先ほどの顔が嘘のように優美に微笑み、「そんなことよりも」と口を開いた。
「殿下、シャルロッテ様がいらしていますわ」
「ロッテが!?」
耳打ちするように告げられたディアナの言葉に、ユリウスが弾んだ声を上げる。唐突に名前を呼ばれ、ロッテは驚いて顔を上げた。はっと我に返ったユリウスが素早くロッテを振り返る。
「すまない、驚かせてしまったね。シャルロッテと言うのは私の婚約者のことで、私を含め親しいものは彼女のことをロッテと呼んでいるんだ。だから、初めて君の名前を聞いたとき驚いたんだよ」
少しはにかむようにユリウスが笑う。それと同時に、後頭部を鈍器で殴られたようなひどい眩暈がロッテを襲った。ご機嫌なユリウスは続けて何やら話しているけれど、ユリウスのどの言葉もロッテの耳には届いていなかった。
白みがかった頭の中に、ユリウスの優しい笑顔が、凛々しい横顔が、ロッテの名を聞いて驚いたときのあの顔が、次々と浮かんでは消えていく。頭の中が真っ白になったところで、急に肩を小突かれた。
「ただのロッテさん」
皮肉めいた口振りで名前を呼ばれ、ロッテはようやく我に返った。慌ててあたりを見回すと、扉の前に残されているのは不満げな表情のディアナとロッテだけになっていた。
「あの……ユリウス様と騎士さんは……?」
「貴女がぼーっとしてる間に宮殿に戻られたわ」
狼狽えるロッテを見下ろしながら、ツンと澄ましてディアナが言った。
改めて見ると、彼女はとても美人だった。ほっそりと長い首と鎖骨の浮き出た肌は綺麗な小麦色で、すらりと長い手足と細くくびれた腰が創り出す繊細なシルエットの美しさを、ビジューが散りばめられた濃紺色のドレスがより際立たせている。何より一番にロッテの目を引いたのは、大きく開かれた胸元で存在を主張する豊満な乳房だった。くっきりと刻まれた胸の谷間をこれ見よがしに見せつけられているようで、ロッテはいつの間にかなだらかな自分の胸に手を当てて、ちょっぴり落ち込んでしまっていた。
ディアナは素早く踵を返すと、つかつかと靴音を響かせて広々としたホールを歩き出した。それからロッテを振り返り、うんざりした様子で告げた。
「さっさとついてきなさいな。貴女の部屋に案内するから」
***
ロッテが案内されたのは、宮廷の奥にある中庭に面した部屋で、研究室として用意された広い部屋と、私室として用意された小部屋が扉一枚で繋がっていた。あらかじめ備え付けられた家具や寝具は一見簡素ではあるけれど、リーゼロッテの屋敷でロッテが使っていた物とは違い、どれも造りがしっかりしていて使い心地が良さそうだった。
必要なものは後日改めて確認するとのユリウスの言伝を残し、ディアナはさっさとロッテの部屋を出て行ってしまい、ひとり残されたロッテは旅行鞄を抱いたまま、ぼんやりとベッドの端に腰を下ろした。
窓の外に目を向けてみると、見えるのは剪定された樹々の影ばかりだった。宮廷の一階にあるこの部屋からは、広々とした外の世界も懐かしいファナの森も見えない。
ごろりとベッドに寝転んで、ロッテはゆっくりまぶたを閉じた。
馬車に長く揺られたせいか、初めてのことばかりで疲れたのか、もっと別の原因があるのかはわからないけれど。
それ以上何も考える気にならなくて。ロッテはそのまま深い眠りに落ちてしまった。
ユリウスに出会わなければ、ロッテはあのちっぽけな森で、ちっぽけな世界で一生を終えていたに違いない。
揺れる馬車の座席に身を委ねて、ロッテは静かに目を閉じた。
しばらくすると、不意に馬車の揺れが小さくなった。砂利で敷き詰められていた街道が石畳みに舗装された道へと変わったのだ。街道の先に石造りの橋が見えると、ロッテは弾かれるように席を立ち、窓から身を乗り出した。
アーチ状の橋の下を、透きとおった川の水がさらさらと流れてゆく。涼しげに揺れる水面の奥で、川魚の鱗がきらきらと輝いていた。
「きれい……」
ロッテがうっとりと呟いた、ちょうどそのとき、石橋を渡り終えた馬車ががたんと大きく揺れた。宙に浮いた身体が半分ほど窓の外に投げ出され、ロッテは咄嗟に窓の縁にへばりついた。御者席から声を掛けられた気がしたけれど、どきどきと高鳴る胸の音がうるさくて、ロッテには御者の声が聞こえなかった。
ほうっと息をついて馬車の中を振り返ると、扉の横の取っ手を握り締めたユリウスが、大きく眼を見開いて腰を浮かせていた。よくよく見ると、彼のもう一方の手はロッテの服の端を握っていた。
「大丈夫?」
「……すみません。はじめて見るものばかりで、つい興奮してしまって」
心配するユリウスに、ロッテは消え入るような声で答えた。恥ずかしくて情けなくて、顔から火を噴きそうで。ロッテが馬車の座席の上で小さくなっていると、ユリウスはくすりと笑ってロッテに言った。
「それなら、王都に着いたら買い出しついでに街の見学もしてみるといい。王宮のハーブ園や薬草園もきっと気に入ると思うし、護衛をつけて街の外に出掛けてくれても構わないよ」
「街の外に出るのに、護衛が必要なんですか?」
ロッテは少し驚いた。確かに人影はないけれど、窓の外に広がるのどかな景色に危険が潜んでいるとはとても思えない。
「ごく稀にだけど、はぐれ魔獣が出ることもあるからね。行商に出る者は必ず護衛を雇っているし。それに、きみは女の子だから」
そう言うと、ユリウスは傍に立て掛けていた剣の柄を指先でそっと撫でた。
馬車はがたごとと音を立てて、夕陽に染まる石畳みの街道を進み続けた。やがて道の向こうに高い城壁が現れると、ロッテはなんとなくユリウスの言葉の意味を理解した。
町を囲む城壁には幾つもの古い傷痕が刻まれていて、それはきっと、ずっと昔の度重なる魔獣の襲撃によって刻まれたものに違いなかった。けれど、フィオラントの人々は今も、魔獣の脅威に怯えているのかもしれない。
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跳ね橋を渡って城門をくぐると、都の中央通りはユリウスの帰還を祝う人々の歓声であふれていた。通りに面した煉瓦造りの家々の窓辺から、花びらやカラーテープが雨のように降り注ぐ。馬車の窓から民衆に手を振るユリウスの隣で、ロッテはひたすらに身を縮こまらせた。
大変なことになってしまった。かたかたと震える膝の上で、きゅっと両手を握り締める。期待に満ちた人々の声で、ロッテは今更ながらに我が身が置かれた状況を思い知らされていた。
この歓声は偉大なる森の魔女リーゼロッテに向けられたもので、人々が歓迎している相手は決して魔女見習いのロッテなどではない。ロッテには魔獣の襲撃から都を守るちからなんてないし、王や民衆を苦しめる疫病を治せるかどうかだってわからない。それなのに、課せられた使命が、身に余る重責が、ロッテの肩に重くのし掛かかっていた。
不安に胸が張り裂けそうで、居た堪れない思いで目を瞑った、そのときだった。優しいぬくもりがロッテの震える両手をふわりと包み込み、ハッとなって顔をあげると、穏やかな橄欖石の瞳がまっすぐにロッテをみつめていた。
「大丈夫、ちからが足りないのは私も同じだ」
そう囁いて、ユリウスがロッテの手をかたく握り締める。
「私が今こうしていられるのは、皆のちからを借りているからだ。私は皆の期待に応えたい。だからロッテ、きみにもちからを貸して欲しい。私を信じてくれないか」
ユリウスのやわらかな低音が紡いだ言葉は、萎んでいたロッテの気持ちをそっと後押ししてくれた。ロッテは大きく頷いて、窓の外——都の中心に位置する小高い丘の頂を仰いだ。
いつのまにか外は夜の色に染まり、見上げた丘の上に蒼白い月明かりに照らされた宮殿が佇んでいた。ユリウスとロッテを乗せた馬車は、ゲオルグの先導で居住区と商業区を通り抜け、立ち並ぶ樹々の間の長い坂道を上った。やがて道が拓けると、金色の柵に囲まれた広々とした庭園の向こう側に白亜の宮殿が現れた。
***
両脇にずらりと並ぶ複雑な紋様が刻まれた白い石柱を見上げながら、ロッテはユリウスの背中を追って歩いた。点々と灯る明かりの先には豪奢な扉があって、その前に煌びやかな衣装に身を包んだ女性がひとり立っていた。ユリウスとロッテの更に数歩先を歩いていたゲオルグが軽く手を挙げると、彼女はつんと澄ましたまま扉に備え付けられた真鍮製のドアノッカーを打ち鳴らした。
重々しい金属音が鳴り響く。ややあって、両開きの巨大な扉が開かれた。
「ご無事のご帰還で何よりです、殿下」
そう言って恭しく頭を下げると、彼女はユリウスに道を譲るようにしずしずと扉の脇に退いた。颯爽と進み出たゲオルグが、彼女の隣に並び立つ。
「留守をありがとう、ディアナ」
ユリウスは朗らかに微笑んで、それからロッテを振り返った。釣られるように、ディアナの視線がロッテに向けられる。月の光に煌めく白金の長い髪の隙間から、紅玉のように輝く赤い瞳が覗かせて、ロッテのつま先から頭のてっぺんまで二度見すると、彼女はぴくりと眉根を寄せた。
「そちらがリーゼロッテ様ですか? 随分とお若いように見えますが……」
訝しむディアナにユリウスは一瞬目を丸くしたものの、すぐにくすくすと笑い出した。ゲオルグがやれやれと肩を竦め、ディアナが困惑した様子で「どうしました?」と首を傾げる。ひとしきり笑って満足したのか、ディアナとゲオルグを改めて見比べて、ユリウスがようやく口を開いた。
「……いや、ごめん。相変わらずきみたちは同じ反応をするなと思ってね」
そう言って無邪気に笑う。ディアナは切れ長の目をぱちくりと瞬かせてユリウスを見ていたけれど、小さく溜め息をつくと、ふたたびロッテに目を向けた。
「あ、えっと……リーゼロッテの代わりに参りました、ロッテです」
ロッテが慌ててぺこりと頭を下げると、ディアナは整った細い眉を片側だけ吊り上げて、それから訝しげに首を傾げ、冷淡な口振りで告げた。
「ディアナよ、占星術師として宮廷に仕えているわ。よろしくね、ただのロッテさん」
見た目はまったく違うのに、ディアナの態度は初対面のときのゲオルグとそっくりだった。
——この娘はどうにも信用なりません。
荘園を背にした街道で耳にしたあの言葉が頭の中で反芻される。
ロッテはただ、ユリウスのちからになりたいだけなのに、ゲオルグもディアナもロッテのことを胡散臭い存在だと決めつけているようで、それが悔しくてたまらない。馬車の中で聞いたユリウスの言葉を思い出しながらロッテは少しうつむいて、きゅっと両手を握り締めた。対するディアナはロッテなんかにかけらも興味が無いようで、さっさとユリウスに向き直ると、先ほどの顔が嘘のように優美に微笑み、「そんなことよりも」と口を開いた。
「殿下、シャルロッテ様がいらしていますわ」
「ロッテが!?」
耳打ちするように告げられたディアナの言葉に、ユリウスが弾んだ声を上げる。唐突に名前を呼ばれ、ロッテは驚いて顔を上げた。はっと我に返ったユリウスが素早くロッテを振り返る。
「すまない、驚かせてしまったね。シャルロッテと言うのは私の婚約者のことで、私を含め親しいものは彼女のことをロッテと呼んでいるんだ。だから、初めて君の名前を聞いたとき驚いたんだよ」
少しはにかむようにユリウスが笑う。それと同時に、後頭部を鈍器で殴られたようなひどい眩暈がロッテを襲った。ご機嫌なユリウスは続けて何やら話しているけれど、ユリウスのどの言葉もロッテの耳には届いていなかった。
白みがかった頭の中に、ユリウスの優しい笑顔が、凛々しい横顔が、ロッテの名を聞いて驚いたときのあの顔が、次々と浮かんでは消えていく。頭の中が真っ白になったところで、急に肩を小突かれた。
「ただのロッテさん」
皮肉めいた口振りで名前を呼ばれ、ロッテはようやく我に返った。慌ててあたりを見回すと、扉の前に残されているのは不満げな表情のディアナとロッテだけになっていた。
「あの……ユリウス様と騎士さんは……?」
「貴女がぼーっとしてる間に宮殿に戻られたわ」
狼狽えるロッテを見下ろしながら、ツンと澄ましてディアナが言った。
改めて見ると、彼女はとても美人だった。ほっそりと長い首と鎖骨の浮き出た肌は綺麗な小麦色で、すらりと長い手足と細くくびれた腰が創り出す繊細なシルエットの美しさを、ビジューが散りばめられた濃紺色のドレスがより際立たせている。何より一番にロッテの目を引いたのは、大きく開かれた胸元で存在を主張する豊満な乳房だった。くっきりと刻まれた胸の谷間をこれ見よがしに見せつけられているようで、ロッテはいつの間にかなだらかな自分の胸に手を当てて、ちょっぴり落ち込んでしまっていた。
ディアナは素早く踵を返すと、つかつかと靴音を響かせて広々としたホールを歩き出した。それからロッテを振り返り、うんざりした様子で告げた。
「さっさとついてきなさいな。貴女の部屋に案内するから」
***
ロッテが案内されたのは、宮廷の奥にある中庭に面した部屋で、研究室として用意された広い部屋と、私室として用意された小部屋が扉一枚で繋がっていた。あらかじめ備え付けられた家具や寝具は一見簡素ではあるけれど、リーゼロッテの屋敷でロッテが使っていた物とは違い、どれも造りがしっかりしていて使い心地が良さそうだった。
必要なものは後日改めて確認するとのユリウスの言伝を残し、ディアナはさっさとロッテの部屋を出て行ってしまい、ひとり残されたロッテは旅行鞄を抱いたまま、ぼんやりとベッドの端に腰を下ろした。
窓の外に目を向けてみると、見えるのは剪定された樹々の影ばかりだった。宮廷の一階にあるこの部屋からは、広々とした外の世界も懐かしいファナの森も見えない。
ごろりとベッドに寝転んで、ロッテはゆっくりまぶたを閉じた。
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