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第2話 ロッテ、王宮に上がる
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ユリウスの執務室をあとにして、ロッテは足取り重く部屋に戻り、旅行鞄の中身をベッドの上に広げてみた。
薬草学の知識はあるものの、ロッテが実際に調薬した経験はそう多くない。ファナの森にやってくるのは魔女に用がある客ばかりだったから、魔法が使えないロッテなんかは用無しで、せいぜい薬草茶で客をもてなすくらいのことしかしていなかった。リーゼロッテは調薬よりも便利な魔法を使って依頼をこなしていたから、あの屋敷には専門的な調薬器具も殆どなかった。持ってくることができたのは乳鉢と試験管、簡単なろ過器程度のものだ。
薬草学の本をぱらぱらとめくってみると、様々な調薬器具の詳細が、イラスト付きで記されていた。宮廷に仕える医師や薬師に認めてもらえるような、森の魔女リーゼロッテの名を傷付けない効果の高い薬を作るには、専門的な道具と素材と、経験が必要になるはずだ。
必要なもののメモを取り、お気に入りのケープを羽織って、ロッテは部屋をあとにした。
ずっと森のなかで暮らしてきたのだから、街に——しかもこの国で一番賑やかなフィオラントの街に出掛けられるなんて、願ってもないことのはずなのに。まったく気乗りしないまま、ロッテはとぼとぼと長い廊下を歩いた。
——せっかく街に出掛けるなら、ユリウス様と一緒がよかった。
国王の代わりに政務にも携わる多忙な王太子を相手に無理な願いだとは理解している。けれど、この状況ではそう願ってしまっても無理はない、とロッテは思う。これから一緒に街に出るのはよりにもよって、出会ったときからロッテを毛嫌いしている、あのゲオルグなのだから。
がっくりと肩を落として俯いたまま宮殿を出ると、庭園にはまばゆい陽の光があふれていた。ロッテの憂鬱な気分とは裏腹に、空は青く晴れ渡り、涼やかな風が庭園の樹々の木の葉を揺らしている。きらきらと輝く白いタイル敷きの道の先には黒塗りの馬車が停められており、その傍に相変わらず不機嫌な顔のゲオルグが立っていた。
ロッテが馬車の数歩手前で立ち止まり、車体に刻まれた片翼の鷹の紋章を見上げていると、つかつかと靴音を響かせて、ゲオルグが側までやってきた。先の服装にケープを羽織っただけのロッテを見て、彼は微かに眉を顰めた。
「着替えなくて良いのか」
華やかな都会育ちのゲオルグにとって、ロッテの服装は街に出るにはお粗末過ぎるものなのだろう。けれども、ロッテはこれ以上に上等な服なんて持っていないし、綺麗で可愛らしいアクセサリーの類も持っていなかった。それでも、ユリウスと出掛けるなら髪を編む程度のことはしただろうけれど、同行するのはこのゲオルグだ。
「このままで大丈夫です」
ロッテが素っ気なく答えると、ゲオルグは無言で馬車の扉を開き、はやく乗れとでも言うようにロッテをちらりと一瞥した。促されるままに馬車に乗り込み、ロッテが座席に着くいたところで、車体が大きく傾いて、ゲオルグが向かいの席に腰を下ろした。ややあって馬の嘶きが響き、馬車がガタゴトと音を立てて動き出す。
昨日、馬車に乗ったときは、ロッテの隣にはユリウスが座っていた。窮屈さや息苦しさはまったく感じなくて、ただ胸がどきどきして、窓の外を流れる景色に心が弾む思いだった。けれども今日は、昨日と同じ馬車に乗っているはずなのに、向かいの席にゲオルグが座っているというだけで、車内がやたらと窮屈に感じられる。窓の外の景色も色褪せて見えるし、重苦しい沈黙にますます気が滅入ってしまう。居心地の悪さを肌で感じながら、ロッテはおそるおそるゲオルグの様子を盗み見た。
騎士の正装をしていたときは、威厳があって落ち着いた大人の男性に見えなくもなかったけれど、私服になったゲオルグは無愛想な表情も相まって、必要以上に威圧的な空気を纏っていた。監視役なのだから当然といえば当然なのかもしれない。けれど、少しくらい愛想良くできないものなのだろうか。
ロッテが息の詰まる思いで俯いていると、ゲオルグが訝しげに眉を顰めて口を開いた。
「何か言いたいことがありそうだな」
無感情な低い声に、ロッテはぎくりと身を強張らせた。黒曜石の瞳が鋭い視線を放ち、鏃のようにロッテに刺さる。こくりと唾を飲み、膝を隠すスカートを握り締めて、ロッテはか細い声を絞り出した。
「……ディアナさんに聞きました。ふたりでわたしの監視をするそうですね」
「それで機嫌が悪いのか」
ゲオルグが大袈裟に溜め息を吐く。被害者ぶったその態度が、ロッテを無性に腹立たせた。唇を尖らせて、目を据わらせて、ロッテはゲオルグを睨め付けた。
「理由もなく一方的に疑われたら不機嫌にもなります」
「疑わしい事がないのなら護衛が付いているようなものだろう。堂々としていれば良い」
ゲオルグが鼻で笑い、背もたれに身を預けて腕を組む。それはまた、ひどく不遜な態度だったけれど、ロッテは腹を立てるどころか呆然と目を瞬かせるばかりだった。ゲオルグの言い分が、ユリウスとまったく同じだったからだ。
ロッテが言い返さなかったからか、ゲオルグはふいと窓の外に目を向けて、それからしばらく押し黙った。ふたたび訪れた気不味い沈黙のなか、ロッテは落ち着かない気持ちのまま、ゲオルグとは反対側の窓の外に目をやった。
流れる景色が緩やかな坂道から賑やかな表通りに変わり、行き交う人々に溢れた街角が見えたころ、ようやくゲオルグが口を開いた。
「俺は……なにもお前を疑っているわけではない。ただ……」
躊躇いがちに呟かれた低い声にロッテが顔をあげた、ちょうどそのとき、通りの端に馬車が停まり、ややあって扉が外側から開かれた。ゲオルグがすぐさま口を噤み、席を立つ。
「『ただ』——なんですか?」
途切れた言葉の先を、ロッテは慌てて促した。けれど、ゲオルグはそれ以上何も告げず、ひとりでさっさと馬車を降りてしまった。
***
通りを行き交う人々の喧騒を背に、ロッテは商店街の案内板を見上げていた。わかりやすく店の配置が描かれた地図から三軒の花屋と五軒の食料品店の場所のメモを取り、早速雑踏のなかへと踏み込んだ。
最初にロッテが訪ねたのは、一番近くにあった食料品店だった。小麦粉や砂糖をはじめ、様々な食材が所狭しと並べられた商品棚を、ロッテは琥珀の瞳をまんまるくして眺めて歩いて回った。花や香草はもちろんのこと、食料品店で取り扱われる馬油や菜種油も調薬には欠かせない材料だ。馬油の入った大小の壺を前にしてロッテが悩んでいると、すぐ後ろに控えていたゲオルグが口を出してきた。
「何を悩んでいる」
「……馬油と菜種油を買いたいんですけど、小さめの壺に入ったものでも結構重たいから荷物になりそうで」
「それなら今はすぐに必要な分だけ買っておけ。残りは後日、まとめて宮殿に届けさせれば良い。他に必要なものはあるか」
「えっと、ここにメモして……」
ロッテが懐からメモを取り出して見せると、ゲオルグはそれをぱっと取り上げて、人混みをずんずん掻き分けて、店の奥のカウンターに向かって歩き出した。コップほどの大きさの壺に入った馬油と菜種油、それから目に付いた香草をいくつか選んで両腕に抱え、ロッテは慌ててゲオルグの後を追いかけた。ゲオルグは支払いを終えると、当然のようにロッテの荷物を抱えて店を出た。
ロッテが次に訪ねたのは花屋だった。森で見慣れたものから図鑑でしか見たことのないものまで、店内は様々な草花であふれかえっていて、ロッテはまた瞳をまるくして、呆然とその光景に魅入ってしまった。
長いことぼんやりしていたせいか、痺れを切らしたゲオルグに肩を軽く小突かれて。ロッテは慌てて使い慣れたハーブをいくつか選ぶと、鮮度が重要なものだけ鉢植えのまま城に届けてもらうように手配して、残りを束ねてもらって店を出た。
「あとは何が必要なんだ」
ひととおり花屋と食料品店を回り終えたころ、ゲオルグに尋ねられた。メモを確認するまでもない。ロッテが本当に欲しいものは——今のロッテに必要なものは、遠心分離機や蒸留器など、ファナの森では目にすることすらできなかった調薬器具の数々だった。
「……調薬で使う道具なんですけど、どんな店を探せばいいのかわからなくて」
ロッテがおずおずとメモを見せると、ゲオルグは眉間に皺を寄せて食い入るようにメモをみつめ、それからロッテの手を取って、人混みを掻き分けながら歩き出した。
「えっ、あの、どこに行くんですか?」
「職人街だ。あそこなら専門の道具を扱っている店があるし、工房で道具を作らせる事もできる」
振り返ることなくそう言って、ゲオルグは入り組んだ路地裏をどんどん進んだ。建物と建物の隙間にできた裏道は狭く、大柄なゲオルグが前を歩くとロッテの視界の殆どが彼の背中で埋まってしまった。見上げれば屋根の間に窮屈な空がのぞいていて、ロッテは何故か、樹々の枝葉の隙間に空が見えるファナの森を思い出した。
ユリウスに連れられて森の小道を歩いたあのときが、昨日のことなのにとても懐かしい。危険な森の中だというのにちょっぴり胸がときめいて、何か素敵なことが起こりそうな、そんな予感がしたものだ。
今、一緒に街を歩いているのがユリウスだったなら、きっとあのときのように胸がドキドキして、心躍る気分でいられたに違いない。
ユリウスが、そばにいてくれたなら。
ロッテと同じ名前を口にして、輝かしい笑顔を浮かべていたユリウスの姿が思い出される。ロッテはちょっぴり切なくなって、先を行く広い背中にぽそりと訊ねた。
「……あの、シャルロッテ様って、どんな方なんですか?」
あんなふうに彼を喜ばせることができる女性とは、一体どんな人なのだろう。
ロッテがじっと背中をみつめていると、ゲオルグはちらりとロッテを振り返り、淡々とした口振りで答えた。
「心配しなくとも、お前のような田舎娘じゃ逆立ちしても比較にならない、素晴らしいお方だ」
***
ゲオルグがロッテを案内したのは、職人街の片隅にある硝子職人の工房だった。煙突からは黒い煙がもくもくと空にのぼり、煤にまみれた窓の向こうで赤々と炎が燃え盛っていた。扉を開いて工房に入ると、室内は尋常でない熱気に満たされていて、直接火に接しているわけでもないのに肌がちりちりと焼けるようだった。
広い部屋の奥には大きな炉があって、男がひとり、来客に構うことなく作業を続けていた。慣れた足取りで近付いたゲオルグが、男の背中に声を掛ける。
「相変わらず精が出るな。話はできるか」
男はぴたりと手を止めて、顔を覆う鉄製のマスクを頭のうえに押し上げた。無精髭を生やした厳つい顔をのぞかせて、ゲオルグと入り口に突っ立ったままのロッテを交互に見比べると、男は小さく頷いた。
試験管や蒸留器、ビーカーにフラスコ、液体をはかる硝子管など、ロッテは一通り必要なものを職人に説明した。以前にも宮廷の薬師から発注を受けたことがあったらしく、職人は意外にもすんなりとロッテの頼みを聞き入れてくれた。
調薬器具の発注を終えたロッテは、工房のとなりに併設された小さな店で、いろいろな硝子細工を見て回った。窓辺の棚の前で立ち止まり、可愛らしいティーセットを眺めてロッテがうっとりしていると、職人が隣にやって来ておおらかに笑った。
「気に入ってくれたかい?」
「はい……とっても綺麗で可愛いですね」
「ありがとよ。お嬢ちゃんみたいな可愛らしい娘さんに使ってもらえたら、俺もこいつを作った甲斐があるってもんだ」
職人はそう言うと、戸口の前で腕を組んで突っ立っているゲオルグを振り返り、「なぁ」と慣れ親しんだ声を掛けた。ゲオルグの鋭い視線が、ちらりとロッテに向けられる。
「そこの無愛想な騎士さんよ、ティーセットのひとつくらい余分に買っても構わんだろう?」
「ふざけるな。買うのは必要なものだけだ」
「どうせ金は国から出るんだ。ひとつやふたつ物が増えたって構わねえさ」
ゲオルグを無視してにやりと笑うと、職人は手早くティーセットを箱に詰め、ロッテにそれを手渡した。大きな溜め息がひとつ聞こえたけれど、ゲオルグがそれ以上、ロッテと職人の会話に口を挟むことはなかった。
発注した器具の詳細を、職人がさらさらと紙に書き留める。差し出された明細書を受け取りながら、ロッテはふと、職人の腕に目を止めた。袖捲りしたシャツから覗く腕の一部が、ほんのりと赤みを帯びて膨らんでいる。
「それ、火傷ですよね」
「ん……? ああ、こんな仕事だからなぁ。軽い火傷なんて日常茶飯事よ」
そう言って、職人がガハハと笑う。ロッテは少し考えて、それからゲオルグに駆け寄って、手荷物のなかから薄桃色の花と馬油の壺を持ち出すと、職人の元に駆け戻った。
「アニシアの花の種は火傷の痛みや炎症を抑えてくれます。乾燥させてすり潰して粉末状にしたものを馬油と混ぜ合わせてペースト状になるまで練ったら患部に塗ってください。清潔な布をあてて包帯で巻いて毎日交換すれば、このくらいの火傷なら綺麗に治ると思います」
花びらを剥いて種子を取り出しながらロッテが簡単に説明すると、職人は「へぇ」と感心して、それから「お嬢ちゃんは物知りだねぇ」と笑ってみせた。
***
注文した商品の配達を頼み終えて工房を出た頃には、正午はとっくに過ぎていた。ロッテとゲオルグはふたたび商店街に戻り、露店でパンをひとつずつ買って食べた。
馬車へと向かう帰り道、通りがかった小物屋の前で、ロッテはふと足を止めた。店先のショーウインドウに並べられた華やかなアクセサリーの数々——中でも一際目を惹く白い花の髪飾りに、ロッテは瞬時に魅入られた。
「うわぁ、綺麗……」
「言っておくが、余計なものは買わないからな」
ぶっきらぼうにロッテを牽制して、ゲオルグがずんずんと先に進む。はじめから強請るつもりなんてないのにと、ちょっぴり頬を膨らませて、ロッテは急いでゲオルグの背中を追いかけた。
薬草学の知識はあるものの、ロッテが実際に調薬した経験はそう多くない。ファナの森にやってくるのは魔女に用がある客ばかりだったから、魔法が使えないロッテなんかは用無しで、せいぜい薬草茶で客をもてなすくらいのことしかしていなかった。リーゼロッテは調薬よりも便利な魔法を使って依頼をこなしていたから、あの屋敷には専門的な調薬器具も殆どなかった。持ってくることができたのは乳鉢と試験管、簡単なろ過器程度のものだ。
薬草学の本をぱらぱらとめくってみると、様々な調薬器具の詳細が、イラスト付きで記されていた。宮廷に仕える医師や薬師に認めてもらえるような、森の魔女リーゼロッテの名を傷付けない効果の高い薬を作るには、専門的な道具と素材と、経験が必要になるはずだ。
必要なもののメモを取り、お気に入りのケープを羽織って、ロッテは部屋をあとにした。
ずっと森のなかで暮らしてきたのだから、街に——しかもこの国で一番賑やかなフィオラントの街に出掛けられるなんて、願ってもないことのはずなのに。まったく気乗りしないまま、ロッテはとぼとぼと長い廊下を歩いた。
——せっかく街に出掛けるなら、ユリウス様と一緒がよかった。
国王の代わりに政務にも携わる多忙な王太子を相手に無理な願いだとは理解している。けれど、この状況ではそう願ってしまっても無理はない、とロッテは思う。これから一緒に街に出るのはよりにもよって、出会ったときからロッテを毛嫌いしている、あのゲオルグなのだから。
がっくりと肩を落として俯いたまま宮殿を出ると、庭園にはまばゆい陽の光があふれていた。ロッテの憂鬱な気分とは裏腹に、空は青く晴れ渡り、涼やかな風が庭園の樹々の木の葉を揺らしている。きらきらと輝く白いタイル敷きの道の先には黒塗りの馬車が停められており、その傍に相変わらず不機嫌な顔のゲオルグが立っていた。
ロッテが馬車の数歩手前で立ち止まり、車体に刻まれた片翼の鷹の紋章を見上げていると、つかつかと靴音を響かせて、ゲオルグが側までやってきた。先の服装にケープを羽織っただけのロッテを見て、彼は微かに眉を顰めた。
「着替えなくて良いのか」
華やかな都会育ちのゲオルグにとって、ロッテの服装は街に出るにはお粗末過ぎるものなのだろう。けれども、ロッテはこれ以上に上等な服なんて持っていないし、綺麗で可愛らしいアクセサリーの類も持っていなかった。それでも、ユリウスと出掛けるなら髪を編む程度のことはしただろうけれど、同行するのはこのゲオルグだ。
「このままで大丈夫です」
ロッテが素っ気なく答えると、ゲオルグは無言で馬車の扉を開き、はやく乗れとでも言うようにロッテをちらりと一瞥した。促されるままに馬車に乗り込み、ロッテが座席に着くいたところで、車体が大きく傾いて、ゲオルグが向かいの席に腰を下ろした。ややあって馬の嘶きが響き、馬車がガタゴトと音を立てて動き出す。
昨日、馬車に乗ったときは、ロッテの隣にはユリウスが座っていた。窮屈さや息苦しさはまったく感じなくて、ただ胸がどきどきして、窓の外を流れる景色に心が弾む思いだった。けれども今日は、昨日と同じ馬車に乗っているはずなのに、向かいの席にゲオルグが座っているというだけで、車内がやたらと窮屈に感じられる。窓の外の景色も色褪せて見えるし、重苦しい沈黙にますます気が滅入ってしまう。居心地の悪さを肌で感じながら、ロッテはおそるおそるゲオルグの様子を盗み見た。
騎士の正装をしていたときは、威厳があって落ち着いた大人の男性に見えなくもなかったけれど、私服になったゲオルグは無愛想な表情も相まって、必要以上に威圧的な空気を纏っていた。監視役なのだから当然といえば当然なのかもしれない。けれど、少しくらい愛想良くできないものなのだろうか。
ロッテが息の詰まる思いで俯いていると、ゲオルグが訝しげに眉を顰めて口を開いた。
「何か言いたいことがありそうだな」
無感情な低い声に、ロッテはぎくりと身を強張らせた。黒曜石の瞳が鋭い視線を放ち、鏃のようにロッテに刺さる。こくりと唾を飲み、膝を隠すスカートを握り締めて、ロッテはか細い声を絞り出した。
「……ディアナさんに聞きました。ふたりでわたしの監視をするそうですね」
「それで機嫌が悪いのか」
ゲオルグが大袈裟に溜め息を吐く。被害者ぶったその態度が、ロッテを無性に腹立たせた。唇を尖らせて、目を据わらせて、ロッテはゲオルグを睨め付けた。
「理由もなく一方的に疑われたら不機嫌にもなります」
「疑わしい事がないのなら護衛が付いているようなものだろう。堂々としていれば良い」
ゲオルグが鼻で笑い、背もたれに身を預けて腕を組む。それはまた、ひどく不遜な態度だったけれど、ロッテは腹を立てるどころか呆然と目を瞬かせるばかりだった。ゲオルグの言い分が、ユリウスとまったく同じだったからだ。
ロッテが言い返さなかったからか、ゲオルグはふいと窓の外に目を向けて、それからしばらく押し黙った。ふたたび訪れた気不味い沈黙のなか、ロッテは落ち着かない気持ちのまま、ゲオルグとは反対側の窓の外に目をやった。
流れる景色が緩やかな坂道から賑やかな表通りに変わり、行き交う人々に溢れた街角が見えたころ、ようやくゲオルグが口を開いた。
「俺は……なにもお前を疑っているわけではない。ただ……」
躊躇いがちに呟かれた低い声にロッテが顔をあげた、ちょうどそのとき、通りの端に馬車が停まり、ややあって扉が外側から開かれた。ゲオルグがすぐさま口を噤み、席を立つ。
「『ただ』——なんですか?」
途切れた言葉の先を、ロッテは慌てて促した。けれど、ゲオルグはそれ以上何も告げず、ひとりでさっさと馬車を降りてしまった。
***
通りを行き交う人々の喧騒を背に、ロッテは商店街の案内板を見上げていた。わかりやすく店の配置が描かれた地図から三軒の花屋と五軒の食料品店の場所のメモを取り、早速雑踏のなかへと踏み込んだ。
最初にロッテが訪ねたのは、一番近くにあった食料品店だった。小麦粉や砂糖をはじめ、様々な食材が所狭しと並べられた商品棚を、ロッテは琥珀の瞳をまんまるくして眺めて歩いて回った。花や香草はもちろんのこと、食料品店で取り扱われる馬油や菜種油も調薬には欠かせない材料だ。馬油の入った大小の壺を前にしてロッテが悩んでいると、すぐ後ろに控えていたゲオルグが口を出してきた。
「何を悩んでいる」
「……馬油と菜種油を買いたいんですけど、小さめの壺に入ったものでも結構重たいから荷物になりそうで」
「それなら今はすぐに必要な分だけ買っておけ。残りは後日、まとめて宮殿に届けさせれば良い。他に必要なものはあるか」
「えっと、ここにメモして……」
ロッテが懐からメモを取り出して見せると、ゲオルグはそれをぱっと取り上げて、人混みをずんずん掻き分けて、店の奥のカウンターに向かって歩き出した。コップほどの大きさの壺に入った馬油と菜種油、それから目に付いた香草をいくつか選んで両腕に抱え、ロッテは慌ててゲオルグの後を追いかけた。ゲオルグは支払いを終えると、当然のようにロッテの荷物を抱えて店を出た。
ロッテが次に訪ねたのは花屋だった。森で見慣れたものから図鑑でしか見たことのないものまで、店内は様々な草花であふれかえっていて、ロッテはまた瞳をまるくして、呆然とその光景に魅入ってしまった。
長いことぼんやりしていたせいか、痺れを切らしたゲオルグに肩を軽く小突かれて。ロッテは慌てて使い慣れたハーブをいくつか選ぶと、鮮度が重要なものだけ鉢植えのまま城に届けてもらうように手配して、残りを束ねてもらって店を出た。
「あとは何が必要なんだ」
ひととおり花屋と食料品店を回り終えたころ、ゲオルグに尋ねられた。メモを確認するまでもない。ロッテが本当に欲しいものは——今のロッテに必要なものは、遠心分離機や蒸留器など、ファナの森では目にすることすらできなかった調薬器具の数々だった。
「……調薬で使う道具なんですけど、どんな店を探せばいいのかわからなくて」
ロッテがおずおずとメモを見せると、ゲオルグは眉間に皺を寄せて食い入るようにメモをみつめ、それからロッテの手を取って、人混みを掻き分けながら歩き出した。
「えっ、あの、どこに行くんですか?」
「職人街だ。あそこなら専門の道具を扱っている店があるし、工房で道具を作らせる事もできる」
振り返ることなくそう言って、ゲオルグは入り組んだ路地裏をどんどん進んだ。建物と建物の隙間にできた裏道は狭く、大柄なゲオルグが前を歩くとロッテの視界の殆どが彼の背中で埋まってしまった。見上げれば屋根の間に窮屈な空がのぞいていて、ロッテは何故か、樹々の枝葉の隙間に空が見えるファナの森を思い出した。
ユリウスに連れられて森の小道を歩いたあのときが、昨日のことなのにとても懐かしい。危険な森の中だというのにちょっぴり胸がときめいて、何か素敵なことが起こりそうな、そんな予感がしたものだ。
今、一緒に街を歩いているのがユリウスだったなら、きっとあのときのように胸がドキドキして、心躍る気分でいられたに違いない。
ユリウスが、そばにいてくれたなら。
ロッテと同じ名前を口にして、輝かしい笑顔を浮かべていたユリウスの姿が思い出される。ロッテはちょっぴり切なくなって、先を行く広い背中にぽそりと訊ねた。
「……あの、シャルロッテ様って、どんな方なんですか?」
あんなふうに彼を喜ばせることができる女性とは、一体どんな人なのだろう。
ロッテがじっと背中をみつめていると、ゲオルグはちらりとロッテを振り返り、淡々とした口振りで答えた。
「心配しなくとも、お前のような田舎娘じゃ逆立ちしても比較にならない、素晴らしいお方だ」
***
ゲオルグがロッテを案内したのは、職人街の片隅にある硝子職人の工房だった。煙突からは黒い煙がもくもくと空にのぼり、煤にまみれた窓の向こうで赤々と炎が燃え盛っていた。扉を開いて工房に入ると、室内は尋常でない熱気に満たされていて、直接火に接しているわけでもないのに肌がちりちりと焼けるようだった。
広い部屋の奥には大きな炉があって、男がひとり、来客に構うことなく作業を続けていた。慣れた足取りで近付いたゲオルグが、男の背中に声を掛ける。
「相変わらず精が出るな。話はできるか」
男はぴたりと手を止めて、顔を覆う鉄製のマスクを頭のうえに押し上げた。無精髭を生やした厳つい顔をのぞかせて、ゲオルグと入り口に突っ立ったままのロッテを交互に見比べると、男は小さく頷いた。
試験管や蒸留器、ビーカーにフラスコ、液体をはかる硝子管など、ロッテは一通り必要なものを職人に説明した。以前にも宮廷の薬師から発注を受けたことがあったらしく、職人は意外にもすんなりとロッテの頼みを聞き入れてくれた。
調薬器具の発注を終えたロッテは、工房のとなりに併設された小さな店で、いろいろな硝子細工を見て回った。窓辺の棚の前で立ち止まり、可愛らしいティーセットを眺めてロッテがうっとりしていると、職人が隣にやって来ておおらかに笑った。
「気に入ってくれたかい?」
「はい……とっても綺麗で可愛いですね」
「ありがとよ。お嬢ちゃんみたいな可愛らしい娘さんに使ってもらえたら、俺もこいつを作った甲斐があるってもんだ」
職人はそう言うと、戸口の前で腕を組んで突っ立っているゲオルグを振り返り、「なぁ」と慣れ親しんだ声を掛けた。ゲオルグの鋭い視線が、ちらりとロッテに向けられる。
「そこの無愛想な騎士さんよ、ティーセットのひとつくらい余分に買っても構わんだろう?」
「ふざけるな。買うのは必要なものだけだ」
「どうせ金は国から出るんだ。ひとつやふたつ物が増えたって構わねえさ」
ゲオルグを無視してにやりと笑うと、職人は手早くティーセットを箱に詰め、ロッテにそれを手渡した。大きな溜め息がひとつ聞こえたけれど、ゲオルグがそれ以上、ロッテと職人の会話に口を挟むことはなかった。
発注した器具の詳細を、職人がさらさらと紙に書き留める。差し出された明細書を受け取りながら、ロッテはふと、職人の腕に目を止めた。袖捲りしたシャツから覗く腕の一部が、ほんのりと赤みを帯びて膨らんでいる。
「それ、火傷ですよね」
「ん……? ああ、こんな仕事だからなぁ。軽い火傷なんて日常茶飯事よ」
そう言って、職人がガハハと笑う。ロッテは少し考えて、それからゲオルグに駆け寄って、手荷物のなかから薄桃色の花と馬油の壺を持ち出すと、職人の元に駆け戻った。
「アニシアの花の種は火傷の痛みや炎症を抑えてくれます。乾燥させてすり潰して粉末状にしたものを馬油と混ぜ合わせてペースト状になるまで練ったら患部に塗ってください。清潔な布をあてて包帯で巻いて毎日交換すれば、このくらいの火傷なら綺麗に治ると思います」
花びらを剥いて種子を取り出しながらロッテが簡単に説明すると、職人は「へぇ」と感心して、それから「お嬢ちゃんは物知りだねぇ」と笑ってみせた。
***
注文した商品の配達を頼み終えて工房を出た頃には、正午はとっくに過ぎていた。ロッテとゲオルグはふたたび商店街に戻り、露店でパンをひとつずつ買って食べた。
馬車へと向かう帰り道、通りがかった小物屋の前で、ロッテはふと足を止めた。店先のショーウインドウに並べられた華やかなアクセサリーの数々——中でも一際目を惹く白い花の髪飾りに、ロッテは瞬時に魅入られた。
「うわぁ、綺麗……」
「言っておくが、余計なものは買わないからな」
ぶっきらぼうにロッテを牽制して、ゲオルグがずんずんと先に進む。はじめから強請るつもりなんてないのにと、ちょっぴり頬を膨らませて、ロッテは急いでゲオルグの背中を追いかけた。
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夜ごとの契りで身体を繋がれ、元婚約者への想いすら「不義」として塗り潰されていく。
恐怖に震える香子だったが、閉ざされた寝所で待っていたのは、想像を絶するほど重く、激しい寵愛で……?
「痛くはしない。……お前が私のことしか考えられなくなるまで、何度でも教え込もう」
逃げ場のない愛に心が絡め取られていく中、彰仁は香子を守るため、「ある残酷な嘘」を用いて彼女を試す。
それは、愛するがゆえに彼女を嫉妬と絶望で壊し、「帝なしでは息もできない」状態へ作り変えるための、狂気じみた遊戯だった。
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守るために壊し、愛するために縛る。
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※AI画像を使用しています。
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