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竜騎士は少女の幸せを願う
第0話 ラプラシア王女の婚約
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森と湖の国ラプラシアは、長い間、峡谷の国リンデガルムと拮抗状態にあった。
国を護る騎士達は、湖の精霊と呼ばれる額に二本の角を持つ白馬ラプラスに跨り、森を、草原を駆ける。深緑の森と広大な草原に映える幻想的な美しさとは相反し、勇猛果敢な白馬の騎士達は、国の英雄的存在だった。
飛竜に跨り空を駆ける、隣国リンデガルムの竜騎士団と互角に渡り合えるのは、大陸広しと言えど、このラプラシア騎士団くらいのものだ。
両国は互いに不干渉を掲げていたが、その膠着状態についに終止符が打たれる。
神暦一〇八五年風の月七日――その日は、ラプラシア王国王女の十七回目の生誕祭であった。
***
遠方で花火を打ち上げる音が聞こえる。
柔らかな草の絨毯の上でゆっくりと身を起こし、マナは西の空に目を向けた。
深緑に覆われた壮麗な山々を背に聳え立つラプラシア城下町の鐘塔。その向こう側に、城壁に囲われたラプラシア王城が見える。
「軽率だったかなぁ……」
小さく肩を落とし溜息をつくと、マナは濃紺色のエプロンワンピースの裾を摘み上げた。
侍女のエステルを口車にのせ、仕事着を借りて城を抜け出したことを、今更になって後悔していた。
生誕祭の朝に主役である王女が城を抜け出したなんて、今頃、城は大騒ぎだろう。
本当に、どうしてこんなことをしたのか、マナ自身もわからない。
昨夜、ラプラシア王城の玉座の間に呼び出され、父であるラプラシア国王から隣国リンデガルムの王子との婚約について知らされた。
生誕祭に王子を招き、盛大な宴を催すのだと。
王女として生まれた以上、さらなる国の発展のために、政略結婚で他国の王家に嫁ぐことは覚悟していた。事実、昨夜話を聞かされた時点では、マナは自身の婚約について一切の不満もなかった。
侍女を呼び出し、階下で噂される婚約相手の情報を聞き出しては、まだ見ぬその姿を想像して楽しんでいたくらいだ。
気が変わったのは、今朝目が覚めてからだった。
いや、正確には、気が変わったと言うのはおかしい。マナが今、胸に抱くこの感情は、もっと複雑なものだった。
記憶が、蘇ってしまったのだ。
見たこともない懐かしい風景。会ったこともない愛おしいひと。
胸を引き裂く狂おしいまでの剥き出しの感情が、十七歳の誕生日を迎えた朝、目覚めたマナの中に濁流のように流れ込んできたのだ。
はじめは夢だと思った。
自分でも、いつ、何故そう確信したのかわからない。けれど、この記憶が過去に何処かに実在した、自身と誰かのものであると、マナにはそう思えてならなかった。
だって、そうでなければ、たった一度見た夢で、こんなにも胸が苦しくなるわけがない。
「婚約なんて無理だよ……」
抱えた膝に顔を埋め、マナは低く唸った。
何時のものかも、存在するかもわからない相手への想いで婚約を破棄するなど、父は許さないだろう。
だが、この想いはどうやら筋金入りだった。簡単に忘れて、新しい婚約者への想いで塗り替えられるものだとは、到底思えない。
「……帰らなきゃ」
意を決することもできず、ちから無く項垂れたマナがゆっくりと立ち上がった。
そのときだった。
黒い影が上空を過ぎり、マナの目の前に翼を広げた飛竜が舞い降りた。
陽の光を受けて輝く漆黒の鱗に覆われた躰。二本の腕の代わりに生えた翼。琥珀色の瞳と額に埋め込まれた紅玉。
その姿は、幼い頃母に聞いた伝説の神竜そのものだった。
マナは息を飲み、その場に立ち尽くした。
平静を保とうと試みたが無駄だった。がたがたと震えだした両腕を抱え、身を竦めると、唐突に漆黒の飛竜が頭を下げ、それと同時に、頭上から男の声が降ってきた。
「意外だな。逃げ出すものだと思った」
見ると、黒い影が飛竜の背からマナを見下ろしていた。黒鉄の鎧を全身に纏ったその男は、軽々と飛竜から飛び降りると、マナの前へ進み出て頭に被った兜を脱いだ。
端整な顔立ちに、濃い色の髪と碧眼が映える、なかなかの男前だ。
「驚かせてすまなかった。王城へ向かうつもりだったのだが、飛竜のことをすっかり忘れていてね。都合良く王城の使用人を見つけたと思い、声を掛けさせてもらった次第だ」
そう言うと、男はマナの衣服を指で差した。
なるほど、確かにこの服は侍女のエステルの仕事着であり、王城の使用人のもので間違いなかった。マナが納得して顔を上げると、男は期待を寄せるような眼でマナを見ていた。
要するに、この男は宴のあいだ飛竜を置いておける場所を知りたいのだろう 。
騎士団の厩舎の場所なら知ってはいた。けれど、飛竜ともなると話は別だ。
「王城に行って直接聞いたほうが良いと思います」
マナが言うと、男はにやりと口の端を上げて。
「では、案内してもらおう」
「へ……?」
間髪入れず続けられた男の言葉に、マナは思わず間抜けな声を出してしまった。
唖然とするマナを他所に再び兜を被ると、男は軽々とマナを抱き上げて、そのまま飛竜に跨った。
ぐんと手綱を引かれ、飛竜が大空に舞い上がる。
風を切る鋭利な音が耳に痛い。
きつく目を閉じると、マナは甲に覆われた男の腕にしがみついた。
ふわりと身体が宙に浮くような不思議な感覚のあと、目を開けると、漆黒の鱗に覆われた竜の頭の向こうに、青い空が広がっていた。
――空を飛びたい。
遠い昔、そう願ったことを、マナは思い出した。
空を飛ぶことが、こんなにも自由で開放的な気持ちになれるものだとは思わなかった。先刻までの沈んだ気持ちが嘘のようだ。
あの願いは漠然と、同調から口にした言葉だったけれど、あのひとが空を飛びたいと言ったその気持ちが、今なら理解る気がした。
「良い眺めだろう」
身を乗り出して空の旅を楽しむマナの耳に、笑いを含んだ声が届いた。
上空から眺める景色に夢中で、今自分がどういった状態にあるのかを、マナはすっかり忘れていた。
よくよく見れば、飛竜の背から落ちないよう、男の逞しい腕がマナの身体を支えていた。
見知らぬ男に抱きかかえられているというのに、何故だか嫌な感じがしないことを、マナは不思議に思った。
「昔から空を飛ぶのが夢だった。竜騎士を目指したのも、半分は夢のためだ」
「もう半分は……?」
マナの問いに、男は答えなかった。
風を切る音で、男の耳にはマナの声が届かなかったのかもしれない。
男が再び手綱を引くと、瞬く間に飛竜が高度を下げ、王城の庭園へと舞い降りた。
「あっという間ね! あの丘から王城まで歩けば数刻はかかるのに」
飛竜の背から飛び降り、マナは興奮を抑えきれずに声を上げた。
「元気が出たようでなによりだ」
男はそう言って、はしゃぐマナに背を向けた。その視線の先には、内門へと続く長い階段があった。
確かに気が滅入ってはいたけれど、そもそもこの男は城へ案内させるためにマナを飛竜に乗せたのではなかったか。
不可解な言葉に首を傾げる。同時に今の状況を思い出し、マナは慌てて飛竜の陰に身を隠した。
婚約の宴の前に御忍びで城を抜け出したのだ。侍女のエステルどころか、城中の者がマナを捜しているはずだ。
良い経験をさせて貰った礼に城を案内しようと思ってはいたものの、考えるまでもなく、今のマナはそのような気楽な立場にはなかった。
「ごめんなさい。庭園を抜ければ門兵がいるから、飛竜のことはそちらで聞いて」
そう言い残して、マナは慌ててその場を後にした。
去り際に、男の声が聞こえた気がした。
「もう半分は、――願いを叶えるためだ」
***
自室に戻ると、侍女のエステルに泣き出しそうな顔で出迎えられた。
涙目で訴えるエステルに平謝りしながらドレスに着替えて、マナは婚約の宴の開催を待った。
窓から見える庭園の端に、数匹の飛竜が見えた。今夜の宴に訪れた隣国リンデガルムの竜騎士達の飛竜だ。
深緑をさらに色濃くした落ち着いた色の鱗の翼竜の中に、一際目立つ漆黒の鱗の翼竜がいた。
「不思議。あの竜だけ色が違うのね」
出窓から庭園を見下ろしてマナが呟くと、エステルは浮かれた様子で口を開いた。
「リンデガルムの漆黒の翼竜は、代々王家に仕える神竜だと聞きましたよ。神だなんて大袈裟ですが、王族の騎竜であることに間違いはないようです」
どくん、と心臓が胸を打った。
エステルの言葉が正しければ、さきほどのあの男は王家の者だということになる。
あの男が、生誕祭と婚約祝いを兼ねた今日の宴に参列する隣国の王族であるならば、或いは――。
「さぁ、時間になりましたよ」
軽く頭を下げてエステルが部屋の扉を開く。
心なしか浮かれた足取りで、マナは自室を後にした。
***
天井に煌めくシャンデリアがいつもより輝いて見える。華やかな紋様が散りばめられた絨毯のうえをゆっくりと歩きながら、マナは周囲を見渡した。
飾り立てられた椅子やテーブルが並ぶ大広間に溢れた大勢の客人は、宴の主役であるマナを拍手喝采で迎え入れた。
中央の玉座に座る父王の前にマナが進み出ると、わずかに遅れてふたつの人影が広間に姿を現した。
彼らが今夜招かれたリンデガルムの王族であることを、振り向かずとも、マナは直感的に感じ取った。
「お目にかかれて光栄です、陛下。リンデガルム第二王子セイラムと申します」
敬愛の意を込めて発せられたその声に違和感を覚え、マナはハッとして振り返った。その瞳に、セイラム王子の――婚約者の姿が映る。
リンデガルム王家の紋章が刻まれた礼服に身を包んだ青年は、黒鉄の鎧のあの男によく似た端整な顔立ちをしていた。けれど、煌びやかな光に輝く蜂蜜色の髪は、彼があの男とは別人であることをはっきりと示していた。
「堅苦しい挨拶は無しで良い、セイラム王子。娘のマナだ」
「ラプラシア第一王女マナです。お見知りおきを……」
父王に促され、マナはセイラムの前に進み出た。
半ば呆然となりながら、優雅にお辞儀をしたマナの言葉に、セイラムが柔かな笑みを浮かべる。
「マナ王女。本日は十七歳の生誕の日を迎えられ、誠におめでとうございます」
そう告げると、彼は一歩後退し、側で控えていたもうひとりの男を紹介した。
「私の守護騎士を務めるセイジです。婚礼を終えれば、私の妃である貴女の護衛を任せることもあるでしょう。お見知り置きください」
「リンデガルム第十三王子セイジです。此度のご婚約、誠におめでとうございます」
セイラム王子に良く似た端整な顔立ちの、濃い色の髪と碧眼を持つその男は、マナの顔を一瞥すると、深々と一礼した。
国を護る騎士達は、湖の精霊と呼ばれる額に二本の角を持つ白馬ラプラスに跨り、森を、草原を駆ける。深緑の森と広大な草原に映える幻想的な美しさとは相反し、勇猛果敢な白馬の騎士達は、国の英雄的存在だった。
飛竜に跨り空を駆ける、隣国リンデガルムの竜騎士団と互角に渡り合えるのは、大陸広しと言えど、このラプラシア騎士団くらいのものだ。
両国は互いに不干渉を掲げていたが、その膠着状態についに終止符が打たれる。
神暦一〇八五年風の月七日――その日は、ラプラシア王国王女の十七回目の生誕祭であった。
***
遠方で花火を打ち上げる音が聞こえる。
柔らかな草の絨毯の上でゆっくりと身を起こし、マナは西の空に目を向けた。
深緑に覆われた壮麗な山々を背に聳え立つラプラシア城下町の鐘塔。その向こう側に、城壁に囲われたラプラシア王城が見える。
「軽率だったかなぁ……」
小さく肩を落とし溜息をつくと、マナは濃紺色のエプロンワンピースの裾を摘み上げた。
侍女のエステルを口車にのせ、仕事着を借りて城を抜け出したことを、今更になって後悔していた。
生誕祭の朝に主役である王女が城を抜け出したなんて、今頃、城は大騒ぎだろう。
本当に、どうしてこんなことをしたのか、マナ自身もわからない。
昨夜、ラプラシア王城の玉座の間に呼び出され、父であるラプラシア国王から隣国リンデガルムの王子との婚約について知らされた。
生誕祭に王子を招き、盛大な宴を催すのだと。
王女として生まれた以上、さらなる国の発展のために、政略結婚で他国の王家に嫁ぐことは覚悟していた。事実、昨夜話を聞かされた時点では、マナは自身の婚約について一切の不満もなかった。
侍女を呼び出し、階下で噂される婚約相手の情報を聞き出しては、まだ見ぬその姿を想像して楽しんでいたくらいだ。
気が変わったのは、今朝目が覚めてからだった。
いや、正確には、気が変わったと言うのはおかしい。マナが今、胸に抱くこの感情は、もっと複雑なものだった。
記憶が、蘇ってしまったのだ。
見たこともない懐かしい風景。会ったこともない愛おしいひと。
胸を引き裂く狂おしいまでの剥き出しの感情が、十七歳の誕生日を迎えた朝、目覚めたマナの中に濁流のように流れ込んできたのだ。
はじめは夢だと思った。
自分でも、いつ、何故そう確信したのかわからない。けれど、この記憶が過去に何処かに実在した、自身と誰かのものであると、マナにはそう思えてならなかった。
だって、そうでなければ、たった一度見た夢で、こんなにも胸が苦しくなるわけがない。
「婚約なんて無理だよ……」
抱えた膝に顔を埋め、マナは低く唸った。
何時のものかも、存在するかもわからない相手への想いで婚約を破棄するなど、父は許さないだろう。
だが、この想いはどうやら筋金入りだった。簡単に忘れて、新しい婚約者への想いで塗り替えられるものだとは、到底思えない。
「……帰らなきゃ」
意を決することもできず、ちから無く項垂れたマナがゆっくりと立ち上がった。
そのときだった。
黒い影が上空を過ぎり、マナの目の前に翼を広げた飛竜が舞い降りた。
陽の光を受けて輝く漆黒の鱗に覆われた躰。二本の腕の代わりに生えた翼。琥珀色の瞳と額に埋め込まれた紅玉。
その姿は、幼い頃母に聞いた伝説の神竜そのものだった。
マナは息を飲み、その場に立ち尽くした。
平静を保とうと試みたが無駄だった。がたがたと震えだした両腕を抱え、身を竦めると、唐突に漆黒の飛竜が頭を下げ、それと同時に、頭上から男の声が降ってきた。
「意外だな。逃げ出すものだと思った」
見ると、黒い影が飛竜の背からマナを見下ろしていた。黒鉄の鎧を全身に纏ったその男は、軽々と飛竜から飛び降りると、マナの前へ進み出て頭に被った兜を脱いだ。
端整な顔立ちに、濃い色の髪と碧眼が映える、なかなかの男前だ。
「驚かせてすまなかった。王城へ向かうつもりだったのだが、飛竜のことをすっかり忘れていてね。都合良く王城の使用人を見つけたと思い、声を掛けさせてもらった次第だ」
そう言うと、男はマナの衣服を指で差した。
なるほど、確かにこの服は侍女のエステルの仕事着であり、王城の使用人のもので間違いなかった。マナが納得して顔を上げると、男は期待を寄せるような眼でマナを見ていた。
要するに、この男は宴のあいだ飛竜を置いておける場所を知りたいのだろう 。
騎士団の厩舎の場所なら知ってはいた。けれど、飛竜ともなると話は別だ。
「王城に行って直接聞いたほうが良いと思います」
マナが言うと、男はにやりと口の端を上げて。
「では、案内してもらおう」
「へ……?」
間髪入れず続けられた男の言葉に、マナは思わず間抜けな声を出してしまった。
唖然とするマナを他所に再び兜を被ると、男は軽々とマナを抱き上げて、そのまま飛竜に跨った。
ぐんと手綱を引かれ、飛竜が大空に舞い上がる。
風を切る鋭利な音が耳に痛い。
きつく目を閉じると、マナは甲に覆われた男の腕にしがみついた。
ふわりと身体が宙に浮くような不思議な感覚のあと、目を開けると、漆黒の鱗に覆われた竜の頭の向こうに、青い空が広がっていた。
――空を飛びたい。
遠い昔、そう願ったことを、マナは思い出した。
空を飛ぶことが、こんなにも自由で開放的な気持ちになれるものだとは思わなかった。先刻までの沈んだ気持ちが嘘のようだ。
あの願いは漠然と、同調から口にした言葉だったけれど、あのひとが空を飛びたいと言ったその気持ちが、今なら理解る気がした。
「良い眺めだろう」
身を乗り出して空の旅を楽しむマナの耳に、笑いを含んだ声が届いた。
上空から眺める景色に夢中で、今自分がどういった状態にあるのかを、マナはすっかり忘れていた。
よくよく見れば、飛竜の背から落ちないよう、男の逞しい腕がマナの身体を支えていた。
見知らぬ男に抱きかかえられているというのに、何故だか嫌な感じがしないことを、マナは不思議に思った。
「昔から空を飛ぶのが夢だった。竜騎士を目指したのも、半分は夢のためだ」
「もう半分は……?」
マナの問いに、男は答えなかった。
風を切る音で、男の耳にはマナの声が届かなかったのかもしれない。
男が再び手綱を引くと、瞬く間に飛竜が高度を下げ、王城の庭園へと舞い降りた。
「あっという間ね! あの丘から王城まで歩けば数刻はかかるのに」
飛竜の背から飛び降り、マナは興奮を抑えきれずに声を上げた。
「元気が出たようでなによりだ」
男はそう言って、はしゃぐマナに背を向けた。その視線の先には、内門へと続く長い階段があった。
確かに気が滅入ってはいたけれど、そもそもこの男は城へ案内させるためにマナを飛竜に乗せたのではなかったか。
不可解な言葉に首を傾げる。同時に今の状況を思い出し、マナは慌てて飛竜の陰に身を隠した。
婚約の宴の前に御忍びで城を抜け出したのだ。侍女のエステルどころか、城中の者がマナを捜しているはずだ。
良い経験をさせて貰った礼に城を案内しようと思ってはいたものの、考えるまでもなく、今のマナはそのような気楽な立場にはなかった。
「ごめんなさい。庭園を抜ければ門兵がいるから、飛竜のことはそちらで聞いて」
そう言い残して、マナは慌ててその場を後にした。
去り際に、男の声が聞こえた気がした。
「もう半分は、――願いを叶えるためだ」
***
自室に戻ると、侍女のエステルに泣き出しそうな顔で出迎えられた。
涙目で訴えるエステルに平謝りしながらドレスに着替えて、マナは婚約の宴の開催を待った。
窓から見える庭園の端に、数匹の飛竜が見えた。今夜の宴に訪れた隣国リンデガルムの竜騎士達の飛竜だ。
深緑をさらに色濃くした落ち着いた色の鱗の翼竜の中に、一際目立つ漆黒の鱗の翼竜がいた。
「不思議。あの竜だけ色が違うのね」
出窓から庭園を見下ろしてマナが呟くと、エステルは浮かれた様子で口を開いた。
「リンデガルムの漆黒の翼竜は、代々王家に仕える神竜だと聞きましたよ。神だなんて大袈裟ですが、王族の騎竜であることに間違いはないようです」
どくん、と心臓が胸を打った。
エステルの言葉が正しければ、さきほどのあの男は王家の者だということになる。
あの男が、生誕祭と婚約祝いを兼ねた今日の宴に参列する隣国の王族であるならば、或いは――。
「さぁ、時間になりましたよ」
軽く頭を下げてエステルが部屋の扉を開く。
心なしか浮かれた足取りで、マナは自室を後にした。
***
天井に煌めくシャンデリアがいつもより輝いて見える。華やかな紋様が散りばめられた絨毯のうえをゆっくりと歩きながら、マナは周囲を見渡した。
飾り立てられた椅子やテーブルが並ぶ大広間に溢れた大勢の客人は、宴の主役であるマナを拍手喝采で迎え入れた。
中央の玉座に座る父王の前にマナが進み出ると、わずかに遅れてふたつの人影が広間に姿を現した。
彼らが今夜招かれたリンデガルムの王族であることを、振り向かずとも、マナは直感的に感じ取った。
「お目にかかれて光栄です、陛下。リンデガルム第二王子セイラムと申します」
敬愛の意を込めて発せられたその声に違和感を覚え、マナはハッとして振り返った。その瞳に、セイラム王子の――婚約者の姿が映る。
リンデガルム王家の紋章が刻まれた礼服に身を包んだ青年は、黒鉄の鎧のあの男によく似た端整な顔立ちをしていた。けれど、煌びやかな光に輝く蜂蜜色の髪は、彼があの男とは別人であることをはっきりと示していた。
「堅苦しい挨拶は無しで良い、セイラム王子。娘のマナだ」
「ラプラシア第一王女マナです。お見知りおきを……」
父王に促され、マナはセイラムの前に進み出た。
半ば呆然となりながら、優雅にお辞儀をしたマナの言葉に、セイラムが柔かな笑みを浮かべる。
「マナ王女。本日は十七歳の生誕の日を迎えられ、誠におめでとうございます」
そう告げると、彼は一歩後退し、側で控えていたもうひとりの男を紹介した。
「私の守護騎士を務めるセイジです。婚礼を終えれば、私の妃である貴女の護衛を任せることもあるでしょう。お見知り置きください」
「リンデガルム第十三王子セイジです。此度のご婚約、誠におめでとうございます」
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