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177 ドビュッシー/アラベスク
しおりを挟む「上海豫園を知っているか?」
この世の楽園と錯覚させるくらいライトアップされた庭園を歩きながら、テオドアはフランクリンに尋ねた。フランクリンは先ほど出店で買った小籠包のパックを片手に答える。
「知ってるもなにも、いま俺たちがいるところだろうが」
フランクリンは箸で小さな小籠包を丸々口に運び、悶絶した。口の中でこれでもかと熱々の肉汁が爆発。フランクリンは苦しみながらも本場の味を堪能する。
「……相棒。ショーロンポーは奥が深いぜ。試練を越えた者にしか味わえない褒美が、後になってやってくる」
「あまり先のほうを見据えるのは間違いだ。一度で扱えるのは、運命の鎖のたったひとつの輪だけなのだからーーそんな台詞をチャーチルは疾っくに言っている。勉強不足だぜ、相棒」
場当たり的なのもよくないが、待ちすぎて機会を見失うなんてこともあるんだからよ、とテオドアは呆れたように、けれど丁寧に補足して言う。それに対してフランクリンは、俺はチャービルしか知らねぇな、と白身魚の料理やサラダなどに用いるセリ科の香草を持ち出してきた。
普通ならば絶対噛み合わない会話を噛み合わせられるテオドアは、即座に切り返す。
「フランス語じゃセルフィーユって言うらしいぜ。あの国はどんな草でも素敵なレディみたいな名前をつけやがる」
「娘ができたらその名前をつけてやれよ」
「お断りだ。せめてミルフィーユにするよ。千枚の葉って意味らしいからな」
「そりゃあいい。ちょっとやそっとじゃ木から落ちることはない」
そうしてフランクリンはテオドアの真意に気づいた。
「相棒。ボスとの契約を続けるつもりなのか?」
ああ、とテオドアは迷うことなく頷いた。
「ホリーと一緒に日本に住むよ。もしかしたら、一生住むかもしれない」
そうか、とフランクリンも短く言って頷いた。テオドアは答えをわかっていながら、フランクリンに訊く。
「フランクリン。お前はどうするんだ?」
「俺はーー当初の予定通りだ。ボスのワールドツアーが終わったらアメリカに戻る。本来のボスのところで働く」
「この仕事は退屈か?」
「まあな。いまのボスは誰かに嫌われることはあっても、命を狙われるほど性格もひねくれてない。皮肉なことにボスの命を狙ったのは、同じ日本人だけだしな」
多少興奮していてボスの手を掴んで離さない人間もいたが、凶器を持って近づく人間は世界にいなかった。ボスは世界に愛されていた。同じ種族、同じ言葉を話す人間だけがボスを襲撃した。
「だったら、日本にいたほうが刺激的かもしれないぜ?」
「といっても、仕事は制圧までだろ? 闇雲に命を奪いたくはないが、俺の主義じゃないんだ。なんせ俺はーー」
「元オーケストラだから、か?」
テオドアの問いにフランクリンは沈黙した。
オーケストラ。世界中に存在しているとされる秘密結社。構成員は楽団員と呼ばれ、彼らの目的は困窮している人間の救済。お題目は立派だが、それに用いられるのは、無慈悲の正義と圧倒的な武力とされている。
フランクリンは孤児だったところを彼らに拾われ、戦闘訓練を積まされた。そして、いくつかの汚れ仕事をこなしていった。
フランクリンは自分の鼻柱を擦って言う。
「染み付いた血の匂いってのは中々取れねぇもんさ」
「お前はそんな仕事が嫌で、オーケストラを辞めたんだろ?」
「辞めたんじゃない。脱け出したんだ。命惜しさにな」
「お前ほどの実力者が、そう簡単にやられるとは思わないが」
「そりゃあよ、オーケストラに存在する最高位メンバーにはなれなかったが、俺も腕には自信があった。だが組織の掟を知ったときビビっちまったのさ」
楽団員は、必ず自らの罪を償わないといけない。
「救済のためとはいえ、奴らがなんで無慈悲に武力を振りかざせるのか、わかったんだ。奴らは必ず時期を見計らって、命をもって自らの罪を償う。自分の育てた弟子に、自らを始末してもらうんだ」
「イヤになるくらい上手いシステムだな。その弟子たちは師匠の死を乗り越えて、より強くなる」
「完全にキマッちまってるだろ。酒の一滴も飲まねぇで、シラフでそんな運命を受け入れられるんだからよ」
フランクリンはまたひとつ小籠包を口に運ぶ。やっと熱さになれてきた。フランクリンは輝く上海の庭園を見ながら、己の罪を悔いた。
「自分のしてきたことを思うと、あんなキラキラした若者たちの近くにいちゃいけねぇと、つくづく思う」
フランクリンの視線の先には、ボスと、ボスの婚約者が楽しそうに笑っている。あんなふうに笑顔あふれる世界を、フランクリンはいつも夢見ていた。
テオドアは、相棒の意思を尊重することに決めた。
「わかったよ。無理に引き止めはしない」
しかし、残念だとテオドアは思う。テオドアとフランクリンはもう十年来の仲だ。どんなときも一緒だった。この数ヶ月は世界中を一緒に旅をしてきた。
テオドアの胸に募る感情は、実に単純な寂寥感。
「寂しくなるな」
テオドアは微笑んだ。やれやれと、フランクリンは首を横に振る。
「何言ってんだ。これからお前は家族と過ごす時間が増えて、すぐに俺のことなんて忘れるさ」
「俺たちはもう兄弟みたいなものだろ。忘れはしないさ」
違いねぇ、とフランクリンは少し照れたように呟いてから、思い出したように言う。
「前のボスが言ってたな。血の繋がった兄弟は生まれたときに役割が決まっちまうが、義兄弟なら好きなときに兄と弟、どっちにもなれるって」
「お前はどっちをやってるつもりだったんだ?」
「決まってるさ。お前の思う逆だよ」
「じゃあどっちもだ」
「それだとお前は嘘つきになっちまうぜ。そもそも兄弟だと思ってないってな」
「ああ、それでいいさ。俺たちはやっぱり、相棒以外にはなれねぇのかもな」
テオドアは名残惜しそうに、くだらない会話を終える。
そこに。
「オニーサンたち。占いをしていかないかい? 安くしとくよ」
二十代後半くらいだろうか。露店を出していた中国人らしき女性が英語で声をかけてきた。小さなテーブルに水晶玉を乗っけて、いかにも胡散臭い雰囲気をかぐわしいくらいにプンプン匂わせて、漂わせてもいる。
テオドアは一応訊いてみる。
「いくらだ?」
「ひとり100元」
「未来を視るにしては、安い値段だ」
「そう思うなら、そこのQRコードにスマホをかざしてよ。中国で使える決済アプリは入れてきたんだろ?」
「それは勘か? それとも占いか?」
「どちらにせよ、私の力だよ」
「面白い。やってみよう」
テオドアはQRコードにスマホをかざして、会計を済ませる。
「まいどあり」
そうして女性はーー水晶玉をテーブルからどけた。テオドアは思わず突っ込む。
「おい、水晶を覗くんじゃないのか?」
「無色透明の石英ガラスを覗いて未来が見えたら、その者は間違いなく救世主だ。生憎、私の仕える神はこっちなのさ」
女性が出したのは、タロットカード。絵柄は大アルカナのナンバー・ゼロ。
愚者。
「……タロット占いか。で、何を占ってくれるんだ?」
「金運、家族、恋愛、健康、仕事、諸々さ」
「わかった。やってくれ」
女性は他に21枚のカードを出して、よくシャッフルする。タロットには様々な占い方があるが、女性が好むのはホロスコープ展開法だった。獣帯十二宮図ーー占星術を用いた方法である。
カードをシャッフルし、上から7番目のカードを机の中央に置き、そこから12枚のカードを反時計回りに、円を描くように置いていった。
「オニーサン、どれもいまがピークだね。これ以上の幸せを探そうとしても、中々見当たらない。一番色濃く出たのは[正義]のカード。オニーサン、今年誰かを助けたりしなかったかい?」
「占い師のよくやる手法だな。大きな枠を用意して、誰にでも当てはまることを言う」
「5月7日。日本のハンバーガーショップ。刃物で刺されそうになった少女を救った。5月25日。同じく日本の路上。鈍器で殴打されたスター歌手を救ったーーこんなふうに具体的に言ってしまうと怯える客もいるんだよ」
テオドアだけではなく、フランクリンも驚愕する。テオドアは可能な限り、冷静に努めた。
「……あのとき、周りに怪しい気配はなかった。当然、あんたの気配も。どうやって視たんだ?」
女性は、右手の親指と人差し指を繋げてリングをつくる。そのリングをテオドアに向けて、微笑む。
「私の力だよ」
「……具体性に欠けるが、まあいい。他に気を付けたほうがいいことは?」
「オニーサン。奥さんいるね?」
「ああ」
「可能な限り、早く近くに呼んだほうがいい。このままだと危ない。具体的には言わなくてもわかるよね?」
「きっと……辞めた仕事のゴタゴタに巻き込まれるってところだろうな」
「それさえ乗り切れば、新たな命の兆しも見える。ひとりを救うことは、ふたりを救うことになる。それと、いまの雇用主は大事にするべきだ。一生の付き合いになるからね。ま、こんなところだね。100元で命をふたつ買えたと思えば、安いだろ?」
「まったくだ」
安堵するテオドアを見て、フランクリンも女性の占いに興味が出てきた。フランクリンはスマホで決済を済ます。
「まいどあり」
女性はフランクリンをじっと見ながら、カードをシャッフルしていく。それからまた、1枚のカードを中央に置き、周りに12枚のカードを並べていった。
「これはひどいね。ほとんどのカードが逆位置で出ている。オニーサンは[悪魔]に憑かれているようだ。オニーサンが家族と思っている人間は皆、不幸になる。その人間たちを助けに行こうと選択すれば、オニーサンも不幸になる」
フランクリンにも、これから起こる大体の未来がわかった。
元の仕事に戻れば、組織もろとも自分は消えてなくなる、と。
「……何かアドバイスは?」
「幸い、ひとつだけ正位置のカードがある。[愚者]だ。こだわりの心は手放してしまったほうが生きやすいーーそうカードは示しているよ」
「仲間を見捨てて、明日食うメシがウマいのか?」
「そう思っているのはオニーサンだけで、向こうはそう思っていないかもよ。ただの道具に過ぎないと思っているかもよ?」
「拾われた恩には報いたい」
「平気で相棒の奥さんを売るような奴らにかい?」
フランクリンの表情は固まった。確固たる意思が揺るぎ始めた。女性はさらに続ける。
「オニーサン。大いなる影から逃げられたと思っているようだけど、そんなことはないよ。大いなる影はずっとオニーサンを見ている。いつか必ず裁かれると知っているから手を出さないだけ。大いなる影はオニーサンがどういう償いの道を歩むのか、観察しているだけーー」
これは最後の忠告だよ。
女性の目は、獲物を前にした大蛇のようだった。
ーー◆◆◆◆◆◆◆ーー
二人の客が去った後、占い師の女性はスマホを持って電話をかけた。
「ニイハオ、アヤナシ先生。ニューヨークに転がっているゴミ掃除、予定通りよろしくお願いします。ロングアイランドにお住まいの女性が巻き込まれないように、イサベルかアラウァンカのどちらかを派遣しておくと良いかもしれません。脱走者はしばらく鏡セアラの護衛を続けるみたいです。なので、今日のところは見逃してあげました。報告以上です……ほ、ほんとですか? あ、ありがとうございます……で、では先生、サヨーナラ」
占い師は電話を切った。そして拙い日本語で、自分の気持ちをこっそり囁く。
「……アイシテマス、アヤナシセンセー」
電話の相手に「あなたくらいですよ。丁寧にちゃんと報告をしてくれるのは。これからも頑張ってくださいね」と誉められて、女性は顔を真っ赤に赤らめる。
「ムフフフ。これでまたアヤナシ先生の私に対する好感度がアップしました。好感度を下げ続けているラリサとは大違いです」
オーケストラ最高位メンバーのひとり。
ナンバーⅧ。
[力]の劉逸美。
コードネーム、真夜中の水晶。
リウ・イーメイは最高位メンバーに選出されるだけあって、あらゆる格闘術を習得しているが、単純な腕力はメンバーの中でも下位に位置している。
しかし「力」はなにも腕力に限って示される言葉ではない。
獰猛な獣に怯えず、優しき心を持って相手に接することで、ライオンやその他の猛獣も安らかに眠らせることができる。未来のヴィジョンを明確にすることで、力強く生きていくこともできる。
イーメイの「力」とは、どんな悲惨な未来を直視しても怯まない、意思の強さである。
とはいえ、かなりの精度を誇るイーメイの占いにも弱点はある。透き通った心で占いに臨まないと、未来が見えないのだ。
イーメイには何度占っても見えない未来がある。原因はーー
「なんで私とアヤナシ先生が結婚する未来が見えないのでしょうか? 別に私はアヤナシ先生とあんなことやこんなことをしてそんなことまでしようなんて、ほんのちょびっとしか思ってないのに」
まさしくそれである。
得てして「力」とは、コントロール出来てこそ、真の「力」を発揮できるのである。
【ドビュッシー/アラベスク第一番(Arabesque No.1)・アラベスク第二番(Arabesque No.2)・了】
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