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207 ラヴェル/ボレロ
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死ぬほどの思いをしても、死にはしない。
もしも17歳の間桐真人に、いまの間桐真人が何かアドバイスできることがあるとすれば、人生は何が起こるか本当にわからないということかもしれない。
当初の予定通り、僕はアメリカ合衆国のメイン州ポートランドから帰国。懐かしき日本に帰ってきた。
アメリカを発つ前に、僕はそれなりに仲良くなったケビン・バーフォード警部に別れを告げに行った。しかしバーフォード警部は別れを惜しむことなく、涙の一滴も溢さず、たいそうご機嫌だった。
なんでも長らく疎遠だった元カノと復縁したらしい。
僕はアメリカ最後の夜に、バーフォード警部とバーフォード警部の元カノであり今カノのオデット・ムーアさんからディナーに誘われた。別段親交を深めたかったわけではないけれど、これも何かの縁だし、バーフォード警部の死にかけの表情を生き返らせた女性に興味があったからだ。
元バレリーナのオデットさんは背も高くて笑顔が素敵で、おそらく僕以外の男性から見ても、とても魅力的な女性だと思う。はっきりいって、バーフォード警部なんて事故物件に住む必要のない女性だった。
人生損してるとまで大袈裟な表現はさすがにしないけれど、いつもスカしているバーフォード警部と付き合う人生なんて、得しているとはゴマをすっても言えなかった。
全然関係ないけど、豚カツ屋さんで事前にめちゃくちゃすり鉢でゴマを潰すのに、結局全部ソースで食べちゃうから、あれってほとんど無駄な労働だよなって思うのは僕だけだろうか。
まあ、どちらにしろゴマをすることに関しては一家言あると評判の僕は、オデットさんを誉めつつ、僕のアピールもしつつ、バレリーナ友だちで可愛げがあって、僕のような素朴な日本人男性を素敵だと思ってくれるようなひとが知り合いにいたら是非とも紹介して欲しいーーそう懇切丁寧に頼み込んでおいた。
僕はあの有名な「白鳥の湖」のあらすじも知らないし、観たこともない。それでも「みにくいアヒルの子」は童話の中でも屈指の名作だと思っているし、それまで価値のないとされていた何かが、ある日突然輝きだして、皆が手のひらをクルンクルン返しまくるストーリーに大変感銘を受けた。
それくらい世間の評価なんてものは当てにならないし、多くの人の眼球は視界情報取得のために労力を費やされていて、真贋を見極められる人間なんてそうそういないのである。だから僕は過大評価も過小評価も嘆く必要はないと思うのだけど、ほとんどの人は自分から見て正当に評価されていないと判断するとストレスがたまるらしい。御愁傷様である。
以上の理由から、僕はHDCグループの採用面接だって落ちたところで構わないーーそう思っていたのだけど。
採用が決定してしまった。
HDCグループの経営戦略本部長にして取締役常務執行役員。
南野恭子さん。
そんな元女優という噂もある、とてもゴージャスでファビュラスな恭子さんの秘書として、僕は働ける運びになった。ちなみに僕はファビュラスの意味を知らないで使っていたので、調べてみた。
並外れて素敵な、とかそういう意味らしい。人を誉める際に迷ったら、とにかくファビュラスと言っておけば間違いない。
しかし、これはネイティブの英語に触れながらアメリカで発音を磨いた僕だからこそ実用的な方法かもしれないので、アールとエルの発音の違いがわからない初心者の人は、無闇に真似すると怪我をするかもしれない。僕なんてファビュラスな女性に散々口汚く罵られてきたので、いつもビクビクしながら返り討ちに遭わないことを願うばかりだ。
ともあれ、僕は前任者の芹沢育美さんから引き継ぎを行い、ついでに食事にも誘ったけれど、見事に断られた。
実にファビュラスな対応である。
久しぶりの日本で、僕の他人に対する距離感はかなりバグっていた。アメリカでは全然知らない人でも挨拶をしたり、その服いいね、などと誉め合うのは普通だったりしたのに、こちらに来ると「空気読めない」の一言でさらりと片付けられてしまう。もとより僕は空気なんて見えないものを、ましてや本でもないものを読もうとは思わないのだけど。
僕は不特定多数の人間にメッセージを発信しているわけじゃない。いま、そこにいる、僕の目の前にいる、あなただけに向かって話しかけているのだから。あなたを好きになることは罪だと周りに言われたって、僕があなたを好きになるのは誰にも止められないし、たとえ振られても傷つくのは僕だけだから、僕の情熱的な恋模様を温かく見守って欲しいものである。
そんないつもの感じで、のほほんと面接を受けていたら、僕は通知を待たずして、面接当日に即採用になった。
日本での仕事が晴れて決まったところで、僕は妹の涼に連絡をしようと思った。ところがなぜか涼のほうから連絡がきた。そこはさすがに兄妹だけあって、なんとなく僕の吉兆を感じ取ったのかもしれない。僕は涼からの電話に出た。
「もしもし、兄貴?」
「もしもし、よくわかったね?」
「……なにがわかったって?」
「僕の再就職先が決まったから祝ってくれるんだろ?」
「違うって。ねぇ、ニュース見た? バンタム級WBC、IBM統一王者の中谷潤人チャンピオンがスーパーバンタム級への転向を正式に発表したのよ! このままいけば本当にスーパーバンタム級の4団体統一王者にして日本ボクシング界の至宝、井上尚弥チャンピオンとの対決が現実味を帯びてきたのよ! 見たいようで見たくないようでやっぱり見たかった、夢の日本人対決が来年あたり観れるかもしれないのよ!」
ボクシングオタクが興奮しているだけだった。
アポロニオス内では話が合う人間がいないのか、むかしから涼はボクシングに関する話は僕としたがる。まあ、僕になら男勝りの趣味があっても引かれず、寛容に接してくれるという保険があるからかもしれないが。
「それはーーよかったね。それより僕に何か言いたいこと、いや、言うべきことがあるんじゃないか?」
「……ん、何かあったの?」
「HDCグループの常務取締役の秘書になった」
「ふーん、おめでとー」
涼は世界一心の込もっていない祝福メッセージを送る。僕が感情の機微を察知できない人間だと、妹はナメているのかもしれない。これは一度、兄の恐ろしさを叩き込んでやったほうが良いかもしれない。
とはいえ、実際リングの上でゴングを鳴らしてスパーリングをしたら、僕は間違いなく妹に負ける。ボコボコにされる。涼は3分12ラウンド、フルに闘えるスタミナと、類い希なるボクシングセンスを持っている。ジャブは鋭く刺すし、コンビネーションの種類も豊富だし、ボディーブローの威力には定評がある。
「もうちょっと喜ぶ演技くらいはできないのか? これからちょくちょく会えるんだし」
僕が不満げに言うと、涼は僕以上に不満げに言う。
「喜べるわけないでしょ。あーあ、これでうちの兄貴までムーンバレット側に取り込まれたか、って感じ」
「南野常務はムーンバレットの運営には関わってないぞ」
「そーゆー意味じゃなくて。ほら、セアラのお兄さんが朝丘恵と付き合うことになったでしょ? だから兄貴もそのうち南野歌奈と付き合うんじゃないかと思って」
「見損なわないでもらおう。僕が南野歌奈に近づくために今回の職場を選んだとでも?」
「100パーセントじゃないにしろ、47パーセントくらいは、スターと知り合いになれるかもしれないーーそういう期待はあったでしょ?」
正直あった。涼はパーセンテージまでピタリと当てた。
僕は普通に誤魔化した。
「バカを言うもんじゃない。僕みたいにルックスも下の上みたいな男がいまをときめくスターが相手にしてくれるワケないじゃないか」
「ルックスは関係ないと思うけどな。たとえ下の中だとしても」
僕の見た目査定がワンランクダウンしていた。涼は神様よりも辛辣な評価を僕にくだした。最低ランクの下の下まであとひとつだ。
「とにかくーー僕から接点を持つのは難しいと思うから心配しないでくれ。南野常務の紹介で仕方なく仲良くなってから心配してくれ」
「ま、兄貴の人生だから好きにしてくれていいんだけとさ……」
涼は声のトーンに元気がない。
「何か言いたそうだな。言いたいことがあればハッキリ言ってくれ」
涼は間を置いて「なら言うけど……」と、僕に確認する。
「……もう身体が崩れるような危ない目には遭わないよね? よくわからない不思議な世界の住人とは関わらないよね?」
「当たり前だろ。僕はやっと、なんでもない普通の人間になれたんだ。超常現象や怪奇現象じみた世界とは関わりたくないよ」
僕は嘘をつかなかった。心の底からの本音を涼に告げた。
神様には感謝しているけど、もう二度と神様みたいな人とは関わりたくない。そういう特殊な人間に関わろうとするには、並大抵の覚悟がないとやっていけないし、自分の幸福なんて望む暇も隙もまったくなくなってしまう。
できれば、僕は僕なりのささやかな幸せと、家族と友人のために生きていきたい。
「それならいいの。どんなに惨めでも生きてさえいれば」
一見イイ台詞っぽいけど、僕がデフォで惨め設定なのは何故だろう。想像力豊かで優しい性格の人間が他人を心配すると、かえって他人を傷つけることがあるのだと、涼は僕に教えてくれた。
「そういう涼はどうなんだ? 彼氏候補とは上手くやれてるのか?」
「まあ、ぼちぼち」
「交際が始まったら早めに両親に紹介してやってくれないか? 僕がグチグチ言われる回数が少し減る。孫が欲しい。孫が見たいって。あれはほとんど孫ハラスメントだよ。お金と時間に余裕があれば訴えたいくらいだ」
「またバカなこと言って。ずっと好き勝手に生きてるからでしょ。うっとうしいのはわかるけど、父さんも母さんもずっと心配してたんだから」
「僕はそんなに信用ない?」
「ないわ。全然ないわ」
涼は笑いながら言った。不思議な感覚だった。知らない人のリアクションみたいだった。そういえば、僕は妹の笑い声さえ忘れるほど、涼と離れていた時間が長かった。
5年。
1825日。
43800時間。
1億5768万秒。
二度と会うことはないと思っていた。
こうして話している瞬間が訪れるなんて思っていなかった。
人生は本当に何が起こるかわからない。
僕は胸の中にあたたかい気持ちを感じ取り、涼に笑いかけた。
「ま、HDCグループの役員秘書になったことだけは報告しとくよ。アメリカの探偵助手よりは怪しくないしね」
「そうして。銃で撃たれる心配だけでもなくなるんだから」
「わかったよ。それで、今夜一緒にメシでもどうだ? 久しぶりに落ち着いて話したいし」
「それはゴメン。私は彼氏候補とデートなの」
「マスコミが追いかけないか?」
「大丈夫。セアラが婚約しちゃってからマスコミもやる気なくしてさ、アポロニオスの恋愛事情に興味なくなっちゃったの。まあシュウが完全回復していないから病人をつっつくやましさみたいなのもあるかもだけど」
「ネットニュースにはなってたぞ。アポロ・リョウ、献身的にシュウを支える姿にファンも涙ーーって」
「あまり美談にされても困るんだけどね。本当のことっちゃ本当のことだから否定もできないしーーというわけで、また今度ね」
「あいよ。じゃ、またな」
僕は電話を切り、とんでもないことに気づいてしまった。
日本に帰ってきたはいいが、日本に僕の友人と呼べるような人間はひとりもいなかった。
数分前である。できれば、僕は僕なりのささやかな幸せと、家族と友人のために生きていきたいーーなんてスカしていた自分が恥ずかしくなる。友だちいないのに。ぼっちなのに。
バーフォード警部は僕に優しくはなかったけれど、それでも数少ないーーいや、いまとなっては僕の唯一の友人だということを失念していた。
かといって、職場の人間とはまだ知り合ったばかりだし、恭子さんを誘うのは恐れ多いし、芹沢さんにはきっちりお断りをされている。
僕は街をそぞろに歩きながら、一人でも気軽に入れる店を探す。
その道中、僕は何やら困っていそうな男女の外国人カップルを見つけた。もしくは夫婦かもしれない。こういうとき、英語を使えてよかったと思う。
「ハロー。何かお困りですか?」
僕は男性に話しかける。男性はスマホの位置情報を見ながら、言う。
「ああ、どうしても行きたい日本食レストランがあってね。予約もしたんだが、場所がいまいちよくわからないんだ」
「ちょっと失礼」
僕は男性のスマホを見て、店の名前を確認。僕は実際に行ったことはないけれど、何度か動画では見たことがあった。
「これは隠れ家レストランとして有名な店ですね。看板もないし、ほとんど民家みたいなものなんですよ。よかったら案内しましょうか?」
「本当かい? よろしく頼むよ」
僕の提案に男性は快く頷き、自己紹介をしてくれた。
「私はテオドア・マクドナルド。こちらは妻のホリーだ」
「よろしく」
僕はマクドナルド夫妻ーー発音を良くするとマックダナル夫妻と握手を交わし、僕も自己紹介をする。
「僕はマコト・マギリです。マギリと呼んでください」
すると、テオドアさんが目を見開いて驚く。
「マギリ? もしかしてアポロニオスのリョウ・マギリの知り合いかい?」
「知り合いも何も、リョウは僕の妹です。さっきも電話してました」
「本当かい? すごい偶然があるもんだ。私はアポロニオスのリーダー、ミスーーいやミセス・セアラのボディガードなんだ」
オーマイガーである。外国人と話しているときだけ、使っても恥ずかしくないフレーズである。もっとも僕のゴッドはもういないのだが。
僕とマックダナル夫妻はアポロニオスのワールドツアーについて会話を弾ませながら、目的の店に到着した。
「ミスター・マギリ。きっとこれも何かの縁、一緒に食事でもどうだい?」
「そこは完全予約制で店主も生真面目なんです。一見さんはお断りなんです。気持ちは大変嬉しいのですが」
「ならせめて、連絡先を交換しても? このお礼をいつかさせてくれないかい?」
いいえお構い無くーーと、僕は格好つけて去りたかったけど、日本での友人ゼロという事実は僕の肩に重くのしかかっており、今後のことを考えたら是が非でも仲良くなりたかった。
僕はテオドアさんと連絡先を交換し、いつでもラインできる仲になった。やった。これで友だちひとりゲット。いや奥様のホリーさんを含めればふたりゲットだ。
「セアラさんが一番大事なのはわかりますが、うちのリョウも危なくなったら守ってやってください。ついでで良いので」
「オフコースだよ。彼女はーーミス・リョウはボスの一番信頼している人間だからね。何がなんでも守るさ」
「ありがとうございます。では、また今度」
「ああ、今日は助かったよ。じゃあまた、いずれ」
僕はマックダナル夫妻と別れて、またもや街をそぞろと歩く。これといった目的もなく散歩するのは、かなり久しぶりだ。
日本は平和だなあ、と僕は行き交う人々の笑顔を見ながらハッピーな気持ちで満たされていたら、全然ハッピーじゃないアンハッピーな音が聞こえた。
ガシャガシャン、とガラスが何度も割られる音だった。音の聞こえた方角を見れば、宝石店にマスクーー口を塞ぐマスクではなく、ホラー映画に出てくるような気味悪い怪物のマスクであるーーを被った人物たちが強盗をしていた。数は4人。身体のラインだけを見れば、おそらく全員が男性だ。
全員が黒っぽい服を着用していて、最初から計画的な犯行だと思われる。犯人のひとりはナイフで店員を脅し、残りの3人がショーケースを金槌で破壊し、宝飾品を次々袋に詰め込んでいく。
僕はーー悩んだ。
僕は前の雇い主からそこそこ武術は習っているし、相手が軍人や傭兵でない限り、制圧する自信はある。しかし妹の涼にも危ない事には首を突っ込むなと、ナイフの前に釘を刺されている。ひとりを制圧している間に後ろからプスリなんてされたら洒落にならない。
日本の警察の検挙率は世界でもトップクラスだし、この強盗さんたちが一生懸命なのはわかるが、はっきり言って絶対捕まる。逃走用に用意してあるだろうワゴン車のナンバーは僕が疾っくに記憶しているし、偽のナンバーでもあらゆる監視カメラが車の行方を追跡するだろうし、もう通行人は警察に通報しているし、僕が無理をする必要はないーーが。
こんなとき、僕の隣に神様がいたら。
見過ごしはしない。
現に刃物を突きつけられて怯えている店員さんがいる。泣いている人がいる。それを素通りしたら、なんのために助かった命なのかわからなくなる。
「はあ……僕は懲りないヤツだな」
僕は軽く首を回して、宝石店に向かおうとしたーーが、後ろから肩を叩かれる。僕が振り向くと、そこには金髪碧眼の白人女性がいた。黒いスーツを着た女性は微笑み「あなたは動かないで」と英語で言う。
二十代前半、僕とそんなに歳の変わらないだろうその女性は、僕を追い越して宝石店に向かう。
「なんだテメェ、動くな!」
突如店に入ってきた白人女性に、強盗は刃物を向けた。しかし女性は困ったように両手を挙げて、手のひらを天井に向ける。
「Oh, I can't speak Japanese」
そういや外国人にはなんて言葉で脅せばいいんだろ、と強盗が戸惑ったときだった。女性は強盗のナイフを持っていた右手を、自身の左手で外側に捻った。ナイフは落下。「イタッ!」などと、強盗は悲鳴をあげる。その間、女性は拳を握って、天高く振り上げてからーーまっすぐ強盗の頭に振り下ろした。中国拳法でいうところの「鉄槌」である。
一撃。シングルブロー。ワンストライク。呼び方はなんでもいいが、女性は強盗を一発でノックアウトした。頭に拳を打ち下ろされた強盗は大の字になって倒れて、起きる気配がない。
女性はこれからオペを始めるみたいに両肘を曲げて、他の強盗たちに見せた。ただし、両手の拳は握られている。女性は優しく微笑むと、ぴっ、と右手と左手から人差し指だけを伸ばした。僕は思わず「おいおい……マジなのか……」と呟く。
女性は「金剛指」、もしくは「剣指」と呼ばれる構えで、指の力だけで残りの強盗を片付ける気である。強盗たちは、女性がただ者ではないと感じたものの、とはいえ非力な女性ーー3人がかりならなんとかなると思ったのだろう。一斉に女性に襲いかかった。
僕は強盗たちの無事を祈った。
先ほど女性が繰り出した「鉄槌」は、頭頂部にある「百会」という急所を突き、真下にある脳に衝撃を与える技である。脳にダメージを受けてしまえば、当然命の危機に関わることになるし、軽くても後々障害を残してしまう。下手をすれば命や後の健康的な生活を奪ってしまう。
倒れている強盗は、おそらく闇バイトかなんかに興味半分で参加したあまり、一生を棒に振ったのだ。
僕には女性の動きが速すぎて、何をしたのかまったくわからなかった。女性は強盗たちの胸あたりを数回突いただけで、動きを止めた。そしてまた、拳を上に振り上げてーー振り下ろす。ひとりずつ、頭に「鉄槌」を振り下ろしていく。あれは愛の鞭でもなければ、飴と鞭の鞭でもない。なりえない。愛情がない。極限まで鍛え上げられた肉体によって生み出された凶器だ。
4人全ての強盗を倒した女性は、何事もなかったかのように宝石店を出た。僕はつい拍手をしてしまい、女性に話しかけてしまった。
少し興奮状態だったこともあり、僕は普段よりも積極的な行動に出てしまう。
「あの、よろしければ一緒に食事でもどうですか? 僕にご馳走させてください」
すると女性は。
「よろしいですよ」
と微笑み、僕のナンパめいた誘いに応じてくれた。
それから女性と話してわかったことは、彼女はフランス出身で、25歳。
名前はベルナデット。
母国語のフランス語の他に英語や、いくつかの言語を話せるらしい。今は仕事で日本に滞在しているらしいが、日本語も習得したいと熱心な姿勢だった。
僕はベルナデットをベルと呼ぶくらいには仲良くなり、ベルもまた僕をマコトと呼ぶくらいには優しく接してくれた。
ようやく、僕に季節外れの春が到来したのかもしれなかった。
人生は何が起こるかわからない。
それゆえに、僕は幸せだった。
ーー彼女が裏社会で暗躍する秘密結社オーケストラの一員と知るまでは。
童謡の「森のくまさん」は日本語版だと優しいくまさんと女の子が出会うが、原曲だとワイルドなくまさんと男の子が出会う。
He says to me, “Why don't you run?”
クマは僕に言う。逃げなくていいのか?
“Cause I can see, you have no gun.”
見たところ、お前は銃を持っていないようだが?
ーーとまあ、歌詞ひとつとっても、これから西部劇でガンマンたちが撃ち合う前みたいな雰囲気を醸し出している。
僕が運命の出会いだと思って出会った彼女は人間じゃなかった。人々に恐怖を与える熊だった。
オーケストラ最高位メンバー、21人のひとり。
ナンバーⅩⅣ。
[節制]のベルナデット・ダシルヴァ。
コードネーム、花咲く森の道。
タロットにおいて、節制のカードは錬金術における「さらに上なるものへの転換」を表し、己の心と肉体を練磨せよと指し示す。
彼女は自ら厳しい戒めを自身に与える。武器は己の肉体のみ。
刃物はいずれ欠けるし、銃は弾を買うのに金がかかる。 この我が鋼の肉体こそが不滅だと信じて止まない。
彼女は 邪な欲望に身を任すことなく、現実の苦しみを乗り越え、苦難の荒野を駆け抜ける。いずれーー真理の門を叩くため。
あらゆる面で限りなく節制する。それが故に、施しは甘んじて受け入れてしまう弱い部分もある。理性では甘えてはいけないとわかっていても、現実には難しいと知っている。
だからこそ、僕の誘いを彼女は快く受けてくれたのだろう。
僕はまだベルナデット・ダシルヴァが狂暴な獣だと知らない。
僕の歩いている道は、花咲く森の途中である。
【ラヴェル/ボレロ & The Other Day, I Met a Bear・了】
もしも17歳の間桐真人に、いまの間桐真人が何かアドバイスできることがあるとすれば、人生は何が起こるか本当にわからないということかもしれない。
当初の予定通り、僕はアメリカ合衆国のメイン州ポートランドから帰国。懐かしき日本に帰ってきた。
アメリカを発つ前に、僕はそれなりに仲良くなったケビン・バーフォード警部に別れを告げに行った。しかしバーフォード警部は別れを惜しむことなく、涙の一滴も溢さず、たいそうご機嫌だった。
なんでも長らく疎遠だった元カノと復縁したらしい。
僕はアメリカ最後の夜に、バーフォード警部とバーフォード警部の元カノであり今カノのオデット・ムーアさんからディナーに誘われた。別段親交を深めたかったわけではないけれど、これも何かの縁だし、バーフォード警部の死にかけの表情を生き返らせた女性に興味があったからだ。
元バレリーナのオデットさんは背も高くて笑顔が素敵で、おそらく僕以外の男性から見ても、とても魅力的な女性だと思う。はっきりいって、バーフォード警部なんて事故物件に住む必要のない女性だった。
人生損してるとまで大袈裟な表現はさすがにしないけれど、いつもスカしているバーフォード警部と付き合う人生なんて、得しているとはゴマをすっても言えなかった。
全然関係ないけど、豚カツ屋さんで事前にめちゃくちゃすり鉢でゴマを潰すのに、結局全部ソースで食べちゃうから、あれってほとんど無駄な労働だよなって思うのは僕だけだろうか。
まあ、どちらにしろゴマをすることに関しては一家言あると評判の僕は、オデットさんを誉めつつ、僕のアピールもしつつ、バレリーナ友だちで可愛げがあって、僕のような素朴な日本人男性を素敵だと思ってくれるようなひとが知り合いにいたら是非とも紹介して欲しいーーそう懇切丁寧に頼み込んでおいた。
僕はあの有名な「白鳥の湖」のあらすじも知らないし、観たこともない。それでも「みにくいアヒルの子」は童話の中でも屈指の名作だと思っているし、それまで価値のないとされていた何かが、ある日突然輝きだして、皆が手のひらをクルンクルン返しまくるストーリーに大変感銘を受けた。
それくらい世間の評価なんてものは当てにならないし、多くの人の眼球は視界情報取得のために労力を費やされていて、真贋を見極められる人間なんてそうそういないのである。だから僕は過大評価も過小評価も嘆く必要はないと思うのだけど、ほとんどの人は自分から見て正当に評価されていないと判断するとストレスがたまるらしい。御愁傷様である。
以上の理由から、僕はHDCグループの採用面接だって落ちたところで構わないーーそう思っていたのだけど。
採用が決定してしまった。
HDCグループの経営戦略本部長にして取締役常務執行役員。
南野恭子さん。
そんな元女優という噂もある、とてもゴージャスでファビュラスな恭子さんの秘書として、僕は働ける運びになった。ちなみに僕はファビュラスの意味を知らないで使っていたので、調べてみた。
並外れて素敵な、とかそういう意味らしい。人を誉める際に迷ったら、とにかくファビュラスと言っておけば間違いない。
しかし、これはネイティブの英語に触れながらアメリカで発音を磨いた僕だからこそ実用的な方法かもしれないので、アールとエルの発音の違いがわからない初心者の人は、無闇に真似すると怪我をするかもしれない。僕なんてファビュラスな女性に散々口汚く罵られてきたので、いつもビクビクしながら返り討ちに遭わないことを願うばかりだ。
ともあれ、僕は前任者の芹沢育美さんから引き継ぎを行い、ついでに食事にも誘ったけれど、見事に断られた。
実にファビュラスな対応である。
久しぶりの日本で、僕の他人に対する距離感はかなりバグっていた。アメリカでは全然知らない人でも挨拶をしたり、その服いいね、などと誉め合うのは普通だったりしたのに、こちらに来ると「空気読めない」の一言でさらりと片付けられてしまう。もとより僕は空気なんて見えないものを、ましてや本でもないものを読もうとは思わないのだけど。
僕は不特定多数の人間にメッセージを発信しているわけじゃない。いま、そこにいる、僕の目の前にいる、あなただけに向かって話しかけているのだから。あなたを好きになることは罪だと周りに言われたって、僕があなたを好きになるのは誰にも止められないし、たとえ振られても傷つくのは僕だけだから、僕の情熱的な恋模様を温かく見守って欲しいものである。
そんないつもの感じで、のほほんと面接を受けていたら、僕は通知を待たずして、面接当日に即採用になった。
日本での仕事が晴れて決まったところで、僕は妹の涼に連絡をしようと思った。ところがなぜか涼のほうから連絡がきた。そこはさすがに兄妹だけあって、なんとなく僕の吉兆を感じ取ったのかもしれない。僕は涼からの電話に出た。
「もしもし、兄貴?」
「もしもし、よくわかったね?」
「……なにがわかったって?」
「僕の再就職先が決まったから祝ってくれるんだろ?」
「違うって。ねぇ、ニュース見た? バンタム級WBC、IBM統一王者の中谷潤人チャンピオンがスーパーバンタム級への転向を正式に発表したのよ! このままいけば本当にスーパーバンタム級の4団体統一王者にして日本ボクシング界の至宝、井上尚弥チャンピオンとの対決が現実味を帯びてきたのよ! 見たいようで見たくないようでやっぱり見たかった、夢の日本人対決が来年あたり観れるかもしれないのよ!」
ボクシングオタクが興奮しているだけだった。
アポロニオス内では話が合う人間がいないのか、むかしから涼はボクシングに関する話は僕としたがる。まあ、僕になら男勝りの趣味があっても引かれず、寛容に接してくれるという保険があるからかもしれないが。
「それはーーよかったね。それより僕に何か言いたいこと、いや、言うべきことがあるんじゃないか?」
「……ん、何かあったの?」
「HDCグループの常務取締役の秘書になった」
「ふーん、おめでとー」
涼は世界一心の込もっていない祝福メッセージを送る。僕が感情の機微を察知できない人間だと、妹はナメているのかもしれない。これは一度、兄の恐ろしさを叩き込んでやったほうが良いかもしれない。
とはいえ、実際リングの上でゴングを鳴らしてスパーリングをしたら、僕は間違いなく妹に負ける。ボコボコにされる。涼は3分12ラウンド、フルに闘えるスタミナと、類い希なるボクシングセンスを持っている。ジャブは鋭く刺すし、コンビネーションの種類も豊富だし、ボディーブローの威力には定評がある。
「もうちょっと喜ぶ演技くらいはできないのか? これからちょくちょく会えるんだし」
僕が不満げに言うと、涼は僕以上に不満げに言う。
「喜べるわけないでしょ。あーあ、これでうちの兄貴までムーンバレット側に取り込まれたか、って感じ」
「南野常務はムーンバレットの運営には関わってないぞ」
「そーゆー意味じゃなくて。ほら、セアラのお兄さんが朝丘恵と付き合うことになったでしょ? だから兄貴もそのうち南野歌奈と付き合うんじゃないかと思って」
「見損なわないでもらおう。僕が南野歌奈に近づくために今回の職場を選んだとでも?」
「100パーセントじゃないにしろ、47パーセントくらいは、スターと知り合いになれるかもしれないーーそういう期待はあったでしょ?」
正直あった。涼はパーセンテージまでピタリと当てた。
僕は普通に誤魔化した。
「バカを言うもんじゃない。僕みたいにルックスも下の上みたいな男がいまをときめくスターが相手にしてくれるワケないじゃないか」
「ルックスは関係ないと思うけどな。たとえ下の中だとしても」
僕の見た目査定がワンランクダウンしていた。涼は神様よりも辛辣な評価を僕にくだした。最低ランクの下の下まであとひとつだ。
「とにかくーー僕から接点を持つのは難しいと思うから心配しないでくれ。南野常務の紹介で仕方なく仲良くなってから心配してくれ」
「ま、兄貴の人生だから好きにしてくれていいんだけとさ……」
涼は声のトーンに元気がない。
「何か言いたそうだな。言いたいことがあればハッキリ言ってくれ」
涼は間を置いて「なら言うけど……」と、僕に確認する。
「……もう身体が崩れるような危ない目には遭わないよね? よくわからない不思議な世界の住人とは関わらないよね?」
「当たり前だろ。僕はやっと、なんでもない普通の人間になれたんだ。超常現象や怪奇現象じみた世界とは関わりたくないよ」
僕は嘘をつかなかった。心の底からの本音を涼に告げた。
神様には感謝しているけど、もう二度と神様みたいな人とは関わりたくない。そういう特殊な人間に関わろうとするには、並大抵の覚悟がないとやっていけないし、自分の幸福なんて望む暇も隙もまったくなくなってしまう。
できれば、僕は僕なりのささやかな幸せと、家族と友人のために生きていきたい。
「それならいいの。どんなに惨めでも生きてさえいれば」
一見イイ台詞っぽいけど、僕がデフォで惨め設定なのは何故だろう。想像力豊かで優しい性格の人間が他人を心配すると、かえって他人を傷つけることがあるのだと、涼は僕に教えてくれた。
「そういう涼はどうなんだ? 彼氏候補とは上手くやれてるのか?」
「まあ、ぼちぼち」
「交際が始まったら早めに両親に紹介してやってくれないか? 僕がグチグチ言われる回数が少し減る。孫が欲しい。孫が見たいって。あれはほとんど孫ハラスメントだよ。お金と時間に余裕があれば訴えたいくらいだ」
「またバカなこと言って。ずっと好き勝手に生きてるからでしょ。うっとうしいのはわかるけど、父さんも母さんもずっと心配してたんだから」
「僕はそんなに信用ない?」
「ないわ。全然ないわ」
涼は笑いながら言った。不思議な感覚だった。知らない人のリアクションみたいだった。そういえば、僕は妹の笑い声さえ忘れるほど、涼と離れていた時間が長かった。
5年。
1825日。
43800時間。
1億5768万秒。
二度と会うことはないと思っていた。
こうして話している瞬間が訪れるなんて思っていなかった。
人生は本当に何が起こるかわからない。
僕は胸の中にあたたかい気持ちを感じ取り、涼に笑いかけた。
「ま、HDCグループの役員秘書になったことだけは報告しとくよ。アメリカの探偵助手よりは怪しくないしね」
「そうして。銃で撃たれる心配だけでもなくなるんだから」
「わかったよ。それで、今夜一緒にメシでもどうだ? 久しぶりに落ち着いて話したいし」
「それはゴメン。私は彼氏候補とデートなの」
「マスコミが追いかけないか?」
「大丈夫。セアラが婚約しちゃってからマスコミもやる気なくしてさ、アポロニオスの恋愛事情に興味なくなっちゃったの。まあシュウが完全回復していないから病人をつっつくやましさみたいなのもあるかもだけど」
「ネットニュースにはなってたぞ。アポロ・リョウ、献身的にシュウを支える姿にファンも涙ーーって」
「あまり美談にされても困るんだけどね。本当のことっちゃ本当のことだから否定もできないしーーというわけで、また今度ね」
「あいよ。じゃ、またな」
僕は電話を切り、とんでもないことに気づいてしまった。
日本に帰ってきたはいいが、日本に僕の友人と呼べるような人間はひとりもいなかった。
数分前である。できれば、僕は僕なりのささやかな幸せと、家族と友人のために生きていきたいーーなんてスカしていた自分が恥ずかしくなる。友だちいないのに。ぼっちなのに。
バーフォード警部は僕に優しくはなかったけれど、それでも数少ないーーいや、いまとなっては僕の唯一の友人だということを失念していた。
かといって、職場の人間とはまだ知り合ったばかりだし、恭子さんを誘うのは恐れ多いし、芹沢さんにはきっちりお断りをされている。
僕は街をそぞろに歩きながら、一人でも気軽に入れる店を探す。
その道中、僕は何やら困っていそうな男女の外国人カップルを見つけた。もしくは夫婦かもしれない。こういうとき、英語を使えてよかったと思う。
「ハロー。何かお困りですか?」
僕は男性に話しかける。男性はスマホの位置情報を見ながら、言う。
「ああ、どうしても行きたい日本食レストランがあってね。予約もしたんだが、場所がいまいちよくわからないんだ」
「ちょっと失礼」
僕は男性のスマホを見て、店の名前を確認。僕は実際に行ったことはないけれど、何度か動画では見たことがあった。
「これは隠れ家レストランとして有名な店ですね。看板もないし、ほとんど民家みたいなものなんですよ。よかったら案内しましょうか?」
「本当かい? よろしく頼むよ」
僕の提案に男性は快く頷き、自己紹介をしてくれた。
「私はテオドア・マクドナルド。こちらは妻のホリーだ」
「よろしく」
僕はマクドナルド夫妻ーー発音を良くするとマックダナル夫妻と握手を交わし、僕も自己紹介をする。
「僕はマコト・マギリです。マギリと呼んでください」
すると、テオドアさんが目を見開いて驚く。
「マギリ? もしかしてアポロニオスのリョウ・マギリの知り合いかい?」
「知り合いも何も、リョウは僕の妹です。さっきも電話してました」
「本当かい? すごい偶然があるもんだ。私はアポロニオスのリーダー、ミスーーいやミセス・セアラのボディガードなんだ」
オーマイガーである。外国人と話しているときだけ、使っても恥ずかしくないフレーズである。もっとも僕のゴッドはもういないのだが。
僕とマックダナル夫妻はアポロニオスのワールドツアーについて会話を弾ませながら、目的の店に到着した。
「ミスター・マギリ。きっとこれも何かの縁、一緒に食事でもどうだい?」
「そこは完全予約制で店主も生真面目なんです。一見さんはお断りなんです。気持ちは大変嬉しいのですが」
「ならせめて、連絡先を交換しても? このお礼をいつかさせてくれないかい?」
いいえお構い無くーーと、僕は格好つけて去りたかったけど、日本での友人ゼロという事実は僕の肩に重くのしかかっており、今後のことを考えたら是が非でも仲良くなりたかった。
僕はテオドアさんと連絡先を交換し、いつでもラインできる仲になった。やった。これで友だちひとりゲット。いや奥様のホリーさんを含めればふたりゲットだ。
「セアラさんが一番大事なのはわかりますが、うちのリョウも危なくなったら守ってやってください。ついでで良いので」
「オフコースだよ。彼女はーーミス・リョウはボスの一番信頼している人間だからね。何がなんでも守るさ」
「ありがとうございます。では、また今度」
「ああ、今日は助かったよ。じゃあまた、いずれ」
僕はマックダナル夫妻と別れて、またもや街をそぞろと歩く。これといった目的もなく散歩するのは、かなり久しぶりだ。
日本は平和だなあ、と僕は行き交う人々の笑顔を見ながらハッピーな気持ちで満たされていたら、全然ハッピーじゃないアンハッピーな音が聞こえた。
ガシャガシャン、とガラスが何度も割られる音だった。音の聞こえた方角を見れば、宝石店にマスクーー口を塞ぐマスクではなく、ホラー映画に出てくるような気味悪い怪物のマスクであるーーを被った人物たちが強盗をしていた。数は4人。身体のラインだけを見れば、おそらく全員が男性だ。
全員が黒っぽい服を着用していて、最初から計画的な犯行だと思われる。犯人のひとりはナイフで店員を脅し、残りの3人がショーケースを金槌で破壊し、宝飾品を次々袋に詰め込んでいく。
僕はーー悩んだ。
僕は前の雇い主からそこそこ武術は習っているし、相手が軍人や傭兵でない限り、制圧する自信はある。しかし妹の涼にも危ない事には首を突っ込むなと、ナイフの前に釘を刺されている。ひとりを制圧している間に後ろからプスリなんてされたら洒落にならない。
日本の警察の検挙率は世界でもトップクラスだし、この強盗さんたちが一生懸命なのはわかるが、はっきり言って絶対捕まる。逃走用に用意してあるだろうワゴン車のナンバーは僕が疾っくに記憶しているし、偽のナンバーでもあらゆる監視カメラが車の行方を追跡するだろうし、もう通行人は警察に通報しているし、僕が無理をする必要はないーーが。
こんなとき、僕の隣に神様がいたら。
見過ごしはしない。
現に刃物を突きつけられて怯えている店員さんがいる。泣いている人がいる。それを素通りしたら、なんのために助かった命なのかわからなくなる。
「はあ……僕は懲りないヤツだな」
僕は軽く首を回して、宝石店に向かおうとしたーーが、後ろから肩を叩かれる。僕が振り向くと、そこには金髪碧眼の白人女性がいた。黒いスーツを着た女性は微笑み「あなたは動かないで」と英語で言う。
二十代前半、僕とそんなに歳の変わらないだろうその女性は、僕を追い越して宝石店に向かう。
「なんだテメェ、動くな!」
突如店に入ってきた白人女性に、強盗は刃物を向けた。しかし女性は困ったように両手を挙げて、手のひらを天井に向ける。
「Oh, I can't speak Japanese」
そういや外国人にはなんて言葉で脅せばいいんだろ、と強盗が戸惑ったときだった。女性は強盗のナイフを持っていた右手を、自身の左手で外側に捻った。ナイフは落下。「イタッ!」などと、強盗は悲鳴をあげる。その間、女性は拳を握って、天高く振り上げてからーーまっすぐ強盗の頭に振り下ろした。中国拳法でいうところの「鉄槌」である。
一撃。シングルブロー。ワンストライク。呼び方はなんでもいいが、女性は強盗を一発でノックアウトした。頭に拳を打ち下ろされた強盗は大の字になって倒れて、起きる気配がない。
女性はこれからオペを始めるみたいに両肘を曲げて、他の強盗たちに見せた。ただし、両手の拳は握られている。女性は優しく微笑むと、ぴっ、と右手と左手から人差し指だけを伸ばした。僕は思わず「おいおい……マジなのか……」と呟く。
女性は「金剛指」、もしくは「剣指」と呼ばれる構えで、指の力だけで残りの強盗を片付ける気である。強盗たちは、女性がただ者ではないと感じたものの、とはいえ非力な女性ーー3人がかりならなんとかなると思ったのだろう。一斉に女性に襲いかかった。
僕は強盗たちの無事を祈った。
先ほど女性が繰り出した「鉄槌」は、頭頂部にある「百会」という急所を突き、真下にある脳に衝撃を与える技である。脳にダメージを受けてしまえば、当然命の危機に関わることになるし、軽くても後々障害を残してしまう。下手をすれば命や後の健康的な生活を奪ってしまう。
倒れている強盗は、おそらく闇バイトかなんかに興味半分で参加したあまり、一生を棒に振ったのだ。
僕には女性の動きが速すぎて、何をしたのかまったくわからなかった。女性は強盗たちの胸あたりを数回突いただけで、動きを止めた。そしてまた、拳を上に振り上げてーー振り下ろす。ひとりずつ、頭に「鉄槌」を振り下ろしていく。あれは愛の鞭でもなければ、飴と鞭の鞭でもない。なりえない。愛情がない。極限まで鍛え上げられた肉体によって生み出された凶器だ。
4人全ての強盗を倒した女性は、何事もなかったかのように宝石店を出た。僕はつい拍手をしてしまい、女性に話しかけてしまった。
少し興奮状態だったこともあり、僕は普段よりも積極的な行動に出てしまう。
「あの、よろしければ一緒に食事でもどうですか? 僕にご馳走させてください」
すると女性は。
「よろしいですよ」
と微笑み、僕のナンパめいた誘いに応じてくれた。
それから女性と話してわかったことは、彼女はフランス出身で、25歳。
名前はベルナデット。
母国語のフランス語の他に英語や、いくつかの言語を話せるらしい。今は仕事で日本に滞在しているらしいが、日本語も習得したいと熱心な姿勢だった。
僕はベルナデットをベルと呼ぶくらいには仲良くなり、ベルもまた僕をマコトと呼ぶくらいには優しく接してくれた。
ようやく、僕に季節外れの春が到来したのかもしれなかった。
人生は何が起こるかわからない。
それゆえに、僕は幸せだった。
ーー彼女が裏社会で暗躍する秘密結社オーケストラの一員と知るまでは。
童謡の「森のくまさん」は日本語版だと優しいくまさんと女の子が出会うが、原曲だとワイルドなくまさんと男の子が出会う。
He says to me, “Why don't you run?”
クマは僕に言う。逃げなくていいのか?
“Cause I can see, you have no gun.”
見たところ、お前は銃を持っていないようだが?
ーーとまあ、歌詞ひとつとっても、これから西部劇でガンマンたちが撃ち合う前みたいな雰囲気を醸し出している。
僕が運命の出会いだと思って出会った彼女は人間じゃなかった。人々に恐怖を与える熊だった。
オーケストラ最高位メンバー、21人のひとり。
ナンバーⅩⅣ。
[節制]のベルナデット・ダシルヴァ。
コードネーム、花咲く森の道。
タロットにおいて、節制のカードは錬金術における「さらに上なるものへの転換」を表し、己の心と肉体を練磨せよと指し示す。
彼女は自ら厳しい戒めを自身に与える。武器は己の肉体のみ。
刃物はいずれ欠けるし、銃は弾を買うのに金がかかる。 この我が鋼の肉体こそが不滅だと信じて止まない。
彼女は 邪な欲望に身を任すことなく、現実の苦しみを乗り越え、苦難の荒野を駆け抜ける。いずれーー真理の門を叩くため。
あらゆる面で限りなく節制する。それが故に、施しは甘んじて受け入れてしまう弱い部分もある。理性では甘えてはいけないとわかっていても、現実には難しいと知っている。
だからこそ、僕の誘いを彼女は快く受けてくれたのだろう。
僕はまだベルナデット・ダシルヴァが狂暴な獣だと知らない。
僕の歩いている道は、花咲く森の途中である。
【ラヴェル/ボレロ & The Other Day, I Met a Bear・了】
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