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281 氷帝降誕
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12月1日。ラジオ番組の生放送を終えた鏡セアラは、息つく暇がなかった。
朝のトップニュースでは各メディアがムーンバレットの事務所解雇を報じていた。まずは本人たちに事の真相を確かめようと思ったが、リーダー南野歌奈は入院中。歌奈の病棟は携帯電話禁止エリアに指定されている。
ならば次は、朝丘恵か倉持里子のどちらかだが、朝丘とは連絡先を交換していない。里子とは、楽曲制作を円滑にするために連絡先を交換している。
セアラは里子に連絡しようと、スマホを取り出すーーが、画面には着信の表示。アポロニオスメンバー未琴シュウから電話がかかってきていた。緊急事態が起きた場合、すぐ連絡をするように命じていた。セアラはシュウとの通話を優先させた。
「もしもし。よほどの緊急事態じゃなきゃ、かけ直してくれる? 私はいまリコに聞きたいことがあるの」
慌てるセアラ以上に、シュウは慌てていた。いつもより早口になっている。
「緊急事態ですよ。うちの事務所、HDCグループに買収されました」
想定外かつ想定以上の報告に、セアラは思考のサーキットを停止させられた。
「……は? なんでよ? ウチの業績は順調でしょう? いま売ってどうすんのよ?」
「それがよくなかったみたいです。会社の利益、その半分以上がアポロニオスに依存しています。頼みの綱であるアポロニオスがなくなったらどうするんだ、と株主たちは不安になり、株を手放し始めたんです。そこをHDCグループは狙ってきたんです。あっという間に株を買われてしまいました」
「ーーまさか、昨日の?」
「ええ。誘拐事件の容疑者がキョージさんの母親という情報は、もうすでに出回っています。後々週刊誌報道が出れば、アポロニオスのイメージは悪くなりますからね」
馬鹿な、とセアラは拳を握る。鷹村千春の実名が大々的に世間に出たのは、今回が始めてだ。
離瀬夜京次が20年前に誘拐されたときは、それほど大きな事件として扱われなかった。ともすれば、京次の父、真一郎がメディアに圧力をかけた可能性もなきにしもあらずだが、それ以上に世間の興味がなかった。
ワールドツアー中にメディアが離瀬夜家の内紛を報じたときでさえ、千春の名前は匿名だった。いずれ調べられたら出てくる情報かもしれないが、それにしても情報が出回るのが早すぎる。
セアラは背筋が凍る。まさかと思い、シュウに尋ねる。
「会社の経営統合には、どれくらいかかると思う?」
「そうですねぇ……通常、3ヶ月から半年かかるのが普通ですが、あの南野恭子社長ですからね。それよりも早いスピードで行われると思います。たとえばーー1ヶ月ほどで」
「役員人事の情報は何か掴めてる?」
「買収の際、会社同士が秘密保持契約を結んでいますから、憶測でしかありません。それでもよろしいですか?」
「いいから、早く! 新社長は誰?」
「いま噂されているのはーー淵神利栄子氏です」
セアラは、ブースの外でこちらを見つめる淵神利栄子と目を合わせた。番組中に微笑んでくれた利栄子は、もういなかった。眉ひとつ動かさず、セアラを直視している。
「教えてくれてありがとう。またこちらからかけ直す」
セアラは電話を切ってブースを出た。そして眼前の利栄子と対峙する。憧れの存在であることすら忘れて、睨みを利かす。
「エリーさんですね。誘拐事件の容疑者、その素性をメディアにリークしたのは?」
「……想像にお任せするわ」
「否定はしないんですね……私に張り付いていたのは、このときのためですか?」
「私はいまやHDCグループの一員。さっきの放送でわかったでしょう? 恭子さんは人間の感情とビジネスの思考を完全に切り離せる人よ」
完全にハメられた、とセアラは鼻から息を出す。加湿器から出る水蒸気のように、勢いよく吐き出す。
セアラは誤解していた。 間桐涼と間桐真人の血縁関係を公表したのは、ただのイメージ戦略の一環だと思っていた。集客力アップのための宣伝に過ぎないと思っていた。
だが、違った。恭子の狙いはアポロニオスを買収先の会社から逃がさないため。独立を防ぐためだった。
「ここでHDCグループに反旗を翻せば、今度は間桐兄妹の不仲をメディアに流して、さらなるイメージダウンを狙う。従わないなら徹底的に潰すーーそういうことですね?」
「……それも、想像にお任せするわ」
もはや「想像に任せる」のフレーズは肯定と捉えていいだろう。本当なら、怒りに任せて利栄子の胸ぐらを掴みたいくらいだが、誰が見ているかわからない。セアラは興奮を必死に制御しながら、利栄子の前に一歩出た。
「ムーンバレットの件もそちらの策略ですか?」
「元よりメンバーと事務所の間で価値観の相違は生じていたし、3人は移籍先の事務所を探していた。くわえて、カナちゃんの狙撃事件が起きたことがきっかけで、事務所はいよいよ手に負えなくなった。そこに関しては、偶然としか言いようがない」
シュウの話によれば、経営統合のスピードはおよそ1ヶ月だと言った。ムーンバレットの解雇は12月末。あまりにも出来すぎている。もはや、ムーンバレットがHDCグループによって再編される事務所に所属することは決まっているとみていい。
セアラは利栄子に訊く。
「どうやってカナを口説いたんです?」
「決まっているでしょう。あなたよ。セアラさんと同じ事務所に行けば、今度はなんのしがらみもなく、堂々とコラボ企画が出来る。今度こそ、自由と自己実現のために、音楽を表現できる」
「そのための生け贄が離瀬夜京次というわけですか?」
「最初から狙い打ちにしていた訳じゃない。未琴夫妻には真人くんが張り付き、あなたと京次くんには私が。あなた以外の誰かがボロを出せば、計画は進行する。そういう手筈だった」
セアラは愕然とする。淵神利栄子とは、常に巨大資本の反逆者だったはずだ。どんなに自分の身を削られようと、信念を曲げない反骨精神の象徴だったはずだ。
セアラが決して真似できない、光輝く太陽のような存在だったはずだ。いまの利栄子はまるで、覚悟を決めたときのセアラ以上に冷たい。セアラ以上に「氷の女王」の名が相応しい。
セアラはついに利栄子の胸ぐらを掴んでしまう。
「……あなたは……本当に、エリーさんなんですか? 私の憧れていた、淵神利栄子なんですか?」
利栄子は首を縦にも横にも振らなかった。事実だけを認める。
「私は敗北者よ。25年も抵抗したけれど、私のやり方では世界を変えられなかった。常に勝ち続けてきたあなたに、私の痛みはわからないでしょうね」
セアラは聞きたくなかった。利栄子のーーエリーの口から敗北宣言なんて聞きたくなかった。
利栄子はセアラの手を振りほどいて、言葉を返す。
「あなたこそ、ムーンバレットに感化され過ぎたんじゃない? ムーンバレットがアポロニオスになれないように、アポロニオスはムーンバレットにはなれない。今回の件だって、アポロニオスの方針に沿って、京次くんを早々に切り捨てていたら起きなかったこと。なのにあなたは、婚約者という情に引っ張られて、いつまでも京次くんを切り離せなかった」
セアラは閉口する。
ぐうの音も出なかった。京次と初めて夜を迎えた日、セアラは京次と約束した。いらなくなったら、自分を捨ててくれと頼まれた。母親が京次から和解金を受け取った時点で、手を打つべきだった。見切りをつけなければいけなかった。
利栄子は冷たく宣言する。
「新しくなる事務所に離瀬夜京次の居場所はない。何処でドラムを叩こうと勝手だけれど、アポロニオスに残留することは許されない」
あなたが京次くんと結婚するかどうかは、自由だけれど。
それじゃ、と利栄子は収録スタジオから出ていった。
ーー◆◆◆◆◆◆◆ーー
一方、新宿歌舞伎町では。
某ホストクラブから出てきたのは京次の継母、離瀬夜愛美だった。いつものように朝方まで飲み続け、愛美は送迎の車に乗り込んだ。
「家までよろしく」
愛美が運転手に行き先を告げる。だが運転手は愛美の指示に従わなかった。
「奥様、家には戻れません」
「あなた、私に逆らうつもり? 私を誰だと思ってるの? 私はリセヤ製薬の社長夫人で、これでも柊グループの一員なのよ?」
「その柊グループ総帥から呼び出しがかかっています。奥様はいまのうちに弁明の言葉をお考えになったほうが良いかと存じます」
それまでの酔いが一瞬で醒める。愛美は顔面蒼白になり、車から逃げ出そうとした。しかし扉は完全にロックされ、愛美が自ら車を降りることは許されなかった。
車の向かう先は、ヴォーフォルヴェルス本社ーー経済界のトップに君臨する柊小百合の待つ場所だった。
ーー◆◆◆◆◆◆◆ーー
「お久しぶりね、叔母様」
柊小百合は愛美の顔を見ていなかった。ワークチェアに座り、愛美に背を向けていた。オフィスの窓に反射した愛美を見ていた。
愛美もまた窓に反射する小百合の顔を見ていた。うっすらとした輪郭のない亡霊のような姿に、愛美は身体を震わせた。
「……ええ、久しぶりね。小百合さん」
「叔母様は一体いままで何をしてきたのかしら?」
「何をって……あなたにリセヤ製薬の動向を逐一報告してきたじゃない」
小百合は、外を飛ぶ鳥を眺めながら言う。私が愚かだった、と。
「叔母様はむかしから言われたことしか出来ないのよね。リセヤ製薬だけじゃなく、離瀬夜一族、もしくは元離瀬夜一族の監視も常にしなきゃダメじゃないの。その様子じゃ、まだニュースにも目を通していないようね」
愛美は慌ててバッグからスマホを取り出す。ネットニュースを見て、口元を手で押さえた。小百合は続ける。
「叔母様が鷹村千春をしっかりマークしていれば、私がアポロニオスの事務所を手に入れられたのに、その機会を逃してしまった。HDCに先手を打たれてしまった。もうロックアップ期間に入ってしまった」
「申し訳ないけど小百合さん……ロックアップ期間って何かしら? 私はリセヤ製薬でも会社の経営には関わってないから、わからないの」
「買収先の経営者に引き継ぎを行わせるために、会社に残ってもらう期間のことよ。つまり、HDCの人事はもう決まっていて、いまから柊の息がかかった人間を送り込むのは不可能ってこと」
「ヴォーフォルヴェルス社はアルストロメリアのAIがある限り、安泰でしょ? なんで音楽事務所なんか……」
「そのアルストロメリアを完璧なものにするために、鏡セアラの“声”が必要だったのよ。彼女の声を自由に使える“権利”が欲しかったのよ」
小百合の機嫌を大いに損ねていると、いまさらになって愛美は実感する。なんとか失いかけている地位を挽回しようと、スマホのニュースをスクロールする。
「な、なら、ムーンバレットの南野歌奈は? 事務所から契約を解除されたって」
「そちらもHDCが再編する新しい事務所に所属するのよ。叔母様がいま知ったような情報を、この私が知らないとでも?」
「そ……そうよね。あなたは柊一族の頂点だものね。これからは気をつけます」
「これから? これから叔母様は何をするというの?」
「ひ……引き続き、離瀬夜一族の監視を。これからはもっと注意深く……気を配るから」
愛美の言葉を聞いて、小百合は近くにいた秘書の男性にA3サイズの用紙を渡した。用紙を受け取った秘書は、それを愛美のもとまで運び、手渡す。
愛美が受け取ったのは離婚届だった。
夫の記名欄には「離瀬夜真一郎」の名前があり、証人2名の記名欄には「南野恭子」と「柊小百合」の名前があった。
愛美は小百合に尋ねる。
「これは……どういうこと?」
「離瀬夜が柊と手を切るという意味よ。そしてヴォーフォルヴェルス社と鏡セアラのCM契約も今年いっぱいでおしまい。この離婚届が受理されなければ、HDCは容赦なく叔母様の醜聞をメディアに垂れ流して、柊グループ全体のイメージが損なわれるってこと」
小百合は秘書を介さず、今度は数枚の写真を愛美の前に投げ捨てた。
「離婚届と一緒に送付されてきたわ」
写真には愛美がホストクラブで羽目を外している姿が赤裸々に写っていた。中には、男性と二人で宿泊施設から出てくる場面も。
「私の愚妹ですら、こんな過ちは犯さない。私は愚妹を無価値と断じてきたけれど、無価値であるがゆえに、私に迷惑をかけない。ゼロはゼロのまま。それに比べて叔母様は、生ゴミね。廃棄するまで悪臭を充満させる。そこにあるだけでマイナスにさせる」
ふた回りも年下の姪に怯えて、愛美は土下座した。床に額を擦り付けた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、小百合さん! 私に出来ることならなんでもするからーーお願い、私を見捨てないで!」
「私が叔母様を見捨てると思う? 私はそんなに狭量で慈愛の欠片もないように見える?」
いいえ、と愛美はブンブン首を横に振る。
「な……なら、助けてくれるの?」
「当たり前じゃない。叔母様は家族なのだから。だけどまずは、その離婚届に名前を書いてちょうだい。それがなければ、救える者も救えない」
「わかった! 書く! 書くから」
愛美はバッグから筆記用具を探す。しかし普段から一切会社経営には関わっておらず、遊び呆けていた愛美はボールペン1本持っていなかった。
小百合は顎だけを振って、秘書に命じる。秘書は胸ポケットに刺さっていたペンを愛美に渡した。
秘書は小百合の前ーー小百合は背中を向けているがーーに鎮座するデスクに手のひらを向けた。そこで書くように、と誘導した。愛美は緊張しながら小百合のデスクに近づく。デスクに離婚届を置いて、身を震わせながら必要な記述を済ましていく。
「書き終えたわ……それで私はどうしたら?」
「離瀬夜の家に戻り、最低限の荷物をまとめたら、教会に行ってもらう。そこにいる神父があなたを導いてくれるでしょう。叔母様のこれから住む場所を与えてくれるはずよ」
「……あ、ありがとう。小百合さん」
「いいのよ、叔母様。私は寛大なの」
オフィスから愛美が退出するなり、秘書は小百合に確認した。
「よろしいのですか? あれでも小百合様の叔母上ですよ」
「だからこそ、よ」
柊の血を引くのならば、小百合のためになんでもすると言うのなら、せめてーー価値ある食肉になってもらわなければ。
「私の気が済まない」
結局、最後の最後まで。
柊小百合が叔母の顔を見ることは一度もなかった。
ーー◆◆◆◆◆◆◆ーー
「あれ? リョウは?」
「気持ちを整理してくるって、出掛けました」
未琴シュウは冴えない表情で言う。そうか、と間桐真人はすんなり納得した。
真人はシュウと涼の住む部屋を訪れていた。お茶を淹れます、と言うシュウに対して、真人は図々しく注文する。
「お菓子ある?」
「クッキーくらいしかないですけど、いいですか?」
「プレーンのやつ? チョコチップ入ってると最高なんだけど」
「プレーンです。ほんのりバターの香りを楽しんでください」
真人は本棚の上に視線をやる。そこには真人の贈った花が花瓶に挿して飾ってあった。
「よかった。捨てられてなかった」
「今日贈られてきたら、捨てられていたかもしれませんよ」
紅茶をカップに注ぎながら、シュウはつっけんどんに言う。それはどうかな、と真人は不敵に笑みを浮かべる。挑発的な真人に、シュウは目を吊り上げた。
「リョウさんはお兄さんと違って感情があるんです。馬鹿にしないでください」
「馬鹿にしていないさ。むしろリョウを馬鹿にしているのは君じゃないか?」
「なんでそうなるんですか。僕はいつもリョウさんを心配してーー」
シュウが皆までいう前に、真人は言葉を重ねる。
「リョウはもう子どもじゃない。しっかり自分の立場をわきまえている。僕たちがなんのために、離瀬夜京次さんを犠牲にしたのか、理解している。このまま下手に離瀬夜さんを庇い続ければ、アポロニオスに関わる全スタッフを路頭に迷わす。最善の道だと頭では理解できている。あとは感情を説得するだけ。おまけに、鏡セアラさんの幸せが完全に絶たれたわけじゃない」
シュウは深呼吸をして、冷静に思考する。悔しいけれど、真人の言う通りだった。アポロニオスというバンドはもはや4人のものだけではない。多くのスタッフが関わって運営している巨大資本だ。
当の京次には申し訳ない喩えになってしまうが、膿を出すには最適なタイミングだ。もしもセアラが京次と入籍してから母親の件で騒がれてしまえば、そんなに離瀬夜家と親密にしておきながら誘拐事件を防げなかったのかと、セアラはいらぬ非難を浴びる。
しかし京次が全ての責任をとってアポロニオスから脱退した後なら、メンバーでなくなってもなお、それでも京次への愛を貫くセアラは好印象。元よりセアラはセレブだし、離瀬夜家の財産目当てとは思われない。傷心の婚約者を支える女神になれる。
真人は、シュウの心がシステマチックに整理されていくのを感じた。出された紅茶を飲みながら、真人はシュウの本音を吐き出させようとする。
「僕は音楽的なことに関しては素人だけど、納得していない人間を見分けるのは得意なんだ。君、本当は京次くんに辞めてもらいたいと思っていたんじゃないか?」
シュウはクッキーの乗った皿を差し出しながら、真人の推測を否定する。
「僕は京次さんをアポロニオスの支柱だと思っています。あの人がいなければワールドツアーは完走できなかった」
「それは人間性やコミュニケーション能力の部分で、だろ。一番肝心な、ドラマーとしての離瀬夜さんには物足りなさを感じていたーーそうなんだろ、暴君の未琴シュウは?」
図星だった。シュウは代わりのドラマーを常に探していた。京次だけではなく、シュウはセアラよりも才能あるボーカリストも探していた。
シュウは否定せず、真人に尋ね返した。
「……いつから、気づかれていたんです?」
「僕と初めて会った日を覚えているかい? 10月5日の日曜日。そのときだ。僕はずっとアポロニオスのライブを配信で追っていたからね。実際の君を見て、落差を感じた」
メンバーに囲まれて話しているときのシュウは、笑みを絶やさず、充実しているように思える。だが真人が画面越しに見ていたベーシストの未琴シュウは、何かに懇願していた。助けてくれと悲鳴をあげているようだった。これでは物足りない。喉が渇いて仕方ない。もっと水を飲ませて欲しい。この渇きを癒してくれる才能と巡り合わせて欲しい。
このままでは、未琴シュウはいつか潰れてしまう。
真人には、そう見えたのだ。
「アポロニオスの鏡セアラ王朝は限界にきている。そろそろ君が王位を継ぐべきでは?」
「僕はセアラさんのおかげで、アポロニオスに入れたんですよ? そんな背中から刺すような真似はしません」
「義理や人情が大切だというのなら、そのヌルい考えこそ謀反だよ。セアラさんだって、そのつもりで君に目をかけているんだろ? 後継者として仕事を任せているんだろ? 遅かれ早かれってヤツなら、僕は早いほうが良いと思うよ。ちなみに、僕の妹は決断したよ。自分の作ったバンドの決定権、その全てをセアラさんに譲ったーー」
アポロニオスの王冠は常に強者に委ねられる。
真人に言われて、シュウは自分の甘さを知る。自分達が掲げていた理念の厳しさを知る。挫けたときに発破をかけるスローガンのように扱ってきた「言葉の重み」を知る。
真人はさらに追い討ちをかける。
「どのみち、HDCの傘下に入ったからには、それなりのディレクションが入る。縛りが入る。自由ではいられなくなる。君たちはいままで鏡セアラのブランドに守られてきた訳だが、今度はそうはいかない。スタッフの権利を全てこちらが握っているからね。このまま現状維持を続ければ、君たちはムーンバレットに突き放され続けるぞ」
「僕に操り人形になれと?」
「糸を手繰らなければ動かない人形など必要ない。必要なのは自律起動できる兵器だよ。それも、圧倒的な、ね」
シュウはすっかり自分の紅茶を淹れるのを忘れていた。手汗を握りながら、真人に尋ねる。
「……そちらの方針はある程度、理解しました。しかし腑に落ちません。南野社長はクルーズ船事業だけでなく、なぜエンターテイメントの業界にまで手を広げるんです? 噂では音楽業界だけでなく、俳優やイラストレーターなど、あらゆる才能を集めようとしているらしいじゃないですか」
「ごめん。具体的な計画は、まだ言う訳にはいかなくてね。けれど君は勘が良いみたいだから、少しだけ匂わせておくとしよう」
真人は紅茶をひとくち口に含み、香りを楽しみながら胃に送る。ぷはあ、美味しいね、と上機嫌になる。
「さきほどの君の言葉を借りるなら、南野社長は背中から刺すつもりなんだよ」
シュウは思わず震えた。つまりそれは、王冠の簒奪に他ならない。ふたりきりしかいないのに、シュウは声を潜めた。
「ライセンス契約している親会社から、あらゆる権利を奪い取るつもりですか? アメリカのHDCから」
「想像に任せるよ。ただ、新しい地平を切り開くには、まだまだ道は遠い。そのために、君たちの力を必要としている。よろしく頼むよ。未来の世界的プロデューサーさん」
ーーこの日より、未琴シュウの心には冷たい風が吹き始めた。
氷帝。
後に未琴シュウの呼ばれる異名となるが、その未来は、まだ間桐真人しか知らない。
【氷帝降誕・了】
朝のトップニュースでは各メディアがムーンバレットの事務所解雇を報じていた。まずは本人たちに事の真相を確かめようと思ったが、リーダー南野歌奈は入院中。歌奈の病棟は携帯電話禁止エリアに指定されている。
ならば次は、朝丘恵か倉持里子のどちらかだが、朝丘とは連絡先を交換していない。里子とは、楽曲制作を円滑にするために連絡先を交換している。
セアラは里子に連絡しようと、スマホを取り出すーーが、画面には着信の表示。アポロニオスメンバー未琴シュウから電話がかかってきていた。緊急事態が起きた場合、すぐ連絡をするように命じていた。セアラはシュウとの通話を優先させた。
「もしもし。よほどの緊急事態じゃなきゃ、かけ直してくれる? 私はいまリコに聞きたいことがあるの」
慌てるセアラ以上に、シュウは慌てていた。いつもより早口になっている。
「緊急事態ですよ。うちの事務所、HDCグループに買収されました」
想定外かつ想定以上の報告に、セアラは思考のサーキットを停止させられた。
「……は? なんでよ? ウチの業績は順調でしょう? いま売ってどうすんのよ?」
「それがよくなかったみたいです。会社の利益、その半分以上がアポロニオスに依存しています。頼みの綱であるアポロニオスがなくなったらどうするんだ、と株主たちは不安になり、株を手放し始めたんです。そこをHDCグループは狙ってきたんです。あっという間に株を買われてしまいました」
「ーーまさか、昨日の?」
「ええ。誘拐事件の容疑者がキョージさんの母親という情報は、もうすでに出回っています。後々週刊誌報道が出れば、アポロニオスのイメージは悪くなりますからね」
馬鹿な、とセアラは拳を握る。鷹村千春の実名が大々的に世間に出たのは、今回が始めてだ。
離瀬夜京次が20年前に誘拐されたときは、それほど大きな事件として扱われなかった。ともすれば、京次の父、真一郎がメディアに圧力をかけた可能性もなきにしもあらずだが、それ以上に世間の興味がなかった。
ワールドツアー中にメディアが離瀬夜家の内紛を報じたときでさえ、千春の名前は匿名だった。いずれ調べられたら出てくる情報かもしれないが、それにしても情報が出回るのが早すぎる。
セアラは背筋が凍る。まさかと思い、シュウに尋ねる。
「会社の経営統合には、どれくらいかかると思う?」
「そうですねぇ……通常、3ヶ月から半年かかるのが普通ですが、あの南野恭子社長ですからね。それよりも早いスピードで行われると思います。たとえばーー1ヶ月ほどで」
「役員人事の情報は何か掴めてる?」
「買収の際、会社同士が秘密保持契約を結んでいますから、憶測でしかありません。それでもよろしいですか?」
「いいから、早く! 新社長は誰?」
「いま噂されているのはーー淵神利栄子氏です」
セアラは、ブースの外でこちらを見つめる淵神利栄子と目を合わせた。番組中に微笑んでくれた利栄子は、もういなかった。眉ひとつ動かさず、セアラを直視している。
「教えてくれてありがとう。またこちらからかけ直す」
セアラは電話を切ってブースを出た。そして眼前の利栄子と対峙する。憧れの存在であることすら忘れて、睨みを利かす。
「エリーさんですね。誘拐事件の容疑者、その素性をメディアにリークしたのは?」
「……想像にお任せするわ」
「否定はしないんですね……私に張り付いていたのは、このときのためですか?」
「私はいまやHDCグループの一員。さっきの放送でわかったでしょう? 恭子さんは人間の感情とビジネスの思考を完全に切り離せる人よ」
完全にハメられた、とセアラは鼻から息を出す。加湿器から出る水蒸気のように、勢いよく吐き出す。
セアラは誤解していた。 間桐涼と間桐真人の血縁関係を公表したのは、ただのイメージ戦略の一環だと思っていた。集客力アップのための宣伝に過ぎないと思っていた。
だが、違った。恭子の狙いはアポロニオスを買収先の会社から逃がさないため。独立を防ぐためだった。
「ここでHDCグループに反旗を翻せば、今度は間桐兄妹の不仲をメディアに流して、さらなるイメージダウンを狙う。従わないなら徹底的に潰すーーそういうことですね?」
「……それも、想像にお任せするわ」
もはや「想像に任せる」のフレーズは肯定と捉えていいだろう。本当なら、怒りに任せて利栄子の胸ぐらを掴みたいくらいだが、誰が見ているかわからない。セアラは興奮を必死に制御しながら、利栄子の前に一歩出た。
「ムーンバレットの件もそちらの策略ですか?」
「元よりメンバーと事務所の間で価値観の相違は生じていたし、3人は移籍先の事務所を探していた。くわえて、カナちゃんの狙撃事件が起きたことがきっかけで、事務所はいよいよ手に負えなくなった。そこに関しては、偶然としか言いようがない」
シュウの話によれば、経営統合のスピードはおよそ1ヶ月だと言った。ムーンバレットの解雇は12月末。あまりにも出来すぎている。もはや、ムーンバレットがHDCグループによって再編される事務所に所属することは決まっているとみていい。
セアラは利栄子に訊く。
「どうやってカナを口説いたんです?」
「決まっているでしょう。あなたよ。セアラさんと同じ事務所に行けば、今度はなんのしがらみもなく、堂々とコラボ企画が出来る。今度こそ、自由と自己実現のために、音楽を表現できる」
「そのための生け贄が離瀬夜京次というわけですか?」
「最初から狙い打ちにしていた訳じゃない。未琴夫妻には真人くんが張り付き、あなたと京次くんには私が。あなた以外の誰かがボロを出せば、計画は進行する。そういう手筈だった」
セアラは愕然とする。淵神利栄子とは、常に巨大資本の反逆者だったはずだ。どんなに自分の身を削られようと、信念を曲げない反骨精神の象徴だったはずだ。
セアラが決して真似できない、光輝く太陽のような存在だったはずだ。いまの利栄子はまるで、覚悟を決めたときのセアラ以上に冷たい。セアラ以上に「氷の女王」の名が相応しい。
セアラはついに利栄子の胸ぐらを掴んでしまう。
「……あなたは……本当に、エリーさんなんですか? 私の憧れていた、淵神利栄子なんですか?」
利栄子は首を縦にも横にも振らなかった。事実だけを認める。
「私は敗北者よ。25年も抵抗したけれど、私のやり方では世界を変えられなかった。常に勝ち続けてきたあなたに、私の痛みはわからないでしょうね」
セアラは聞きたくなかった。利栄子のーーエリーの口から敗北宣言なんて聞きたくなかった。
利栄子はセアラの手を振りほどいて、言葉を返す。
「あなたこそ、ムーンバレットに感化され過ぎたんじゃない? ムーンバレットがアポロニオスになれないように、アポロニオスはムーンバレットにはなれない。今回の件だって、アポロニオスの方針に沿って、京次くんを早々に切り捨てていたら起きなかったこと。なのにあなたは、婚約者という情に引っ張られて、いつまでも京次くんを切り離せなかった」
セアラは閉口する。
ぐうの音も出なかった。京次と初めて夜を迎えた日、セアラは京次と約束した。いらなくなったら、自分を捨ててくれと頼まれた。母親が京次から和解金を受け取った時点で、手を打つべきだった。見切りをつけなければいけなかった。
利栄子は冷たく宣言する。
「新しくなる事務所に離瀬夜京次の居場所はない。何処でドラムを叩こうと勝手だけれど、アポロニオスに残留することは許されない」
あなたが京次くんと結婚するかどうかは、自由だけれど。
それじゃ、と利栄子は収録スタジオから出ていった。
ーー◆◆◆◆◆◆◆ーー
一方、新宿歌舞伎町では。
某ホストクラブから出てきたのは京次の継母、離瀬夜愛美だった。いつものように朝方まで飲み続け、愛美は送迎の車に乗り込んだ。
「家までよろしく」
愛美が運転手に行き先を告げる。だが運転手は愛美の指示に従わなかった。
「奥様、家には戻れません」
「あなた、私に逆らうつもり? 私を誰だと思ってるの? 私はリセヤ製薬の社長夫人で、これでも柊グループの一員なのよ?」
「その柊グループ総帥から呼び出しがかかっています。奥様はいまのうちに弁明の言葉をお考えになったほうが良いかと存じます」
それまでの酔いが一瞬で醒める。愛美は顔面蒼白になり、車から逃げ出そうとした。しかし扉は完全にロックされ、愛美が自ら車を降りることは許されなかった。
車の向かう先は、ヴォーフォルヴェルス本社ーー経済界のトップに君臨する柊小百合の待つ場所だった。
ーー◆◆◆◆◆◆◆ーー
「お久しぶりね、叔母様」
柊小百合は愛美の顔を見ていなかった。ワークチェアに座り、愛美に背を向けていた。オフィスの窓に反射した愛美を見ていた。
愛美もまた窓に反射する小百合の顔を見ていた。うっすらとした輪郭のない亡霊のような姿に、愛美は身体を震わせた。
「……ええ、久しぶりね。小百合さん」
「叔母様は一体いままで何をしてきたのかしら?」
「何をって……あなたにリセヤ製薬の動向を逐一報告してきたじゃない」
小百合は、外を飛ぶ鳥を眺めながら言う。私が愚かだった、と。
「叔母様はむかしから言われたことしか出来ないのよね。リセヤ製薬だけじゃなく、離瀬夜一族、もしくは元離瀬夜一族の監視も常にしなきゃダメじゃないの。その様子じゃ、まだニュースにも目を通していないようね」
愛美は慌ててバッグからスマホを取り出す。ネットニュースを見て、口元を手で押さえた。小百合は続ける。
「叔母様が鷹村千春をしっかりマークしていれば、私がアポロニオスの事務所を手に入れられたのに、その機会を逃してしまった。HDCに先手を打たれてしまった。もうロックアップ期間に入ってしまった」
「申し訳ないけど小百合さん……ロックアップ期間って何かしら? 私はリセヤ製薬でも会社の経営には関わってないから、わからないの」
「買収先の経営者に引き継ぎを行わせるために、会社に残ってもらう期間のことよ。つまり、HDCの人事はもう決まっていて、いまから柊の息がかかった人間を送り込むのは不可能ってこと」
「ヴォーフォルヴェルス社はアルストロメリアのAIがある限り、安泰でしょ? なんで音楽事務所なんか……」
「そのアルストロメリアを完璧なものにするために、鏡セアラの“声”が必要だったのよ。彼女の声を自由に使える“権利”が欲しかったのよ」
小百合の機嫌を大いに損ねていると、いまさらになって愛美は実感する。なんとか失いかけている地位を挽回しようと、スマホのニュースをスクロールする。
「な、なら、ムーンバレットの南野歌奈は? 事務所から契約を解除されたって」
「そちらもHDCが再編する新しい事務所に所属するのよ。叔母様がいま知ったような情報を、この私が知らないとでも?」
「そ……そうよね。あなたは柊一族の頂点だものね。これからは気をつけます」
「これから? これから叔母様は何をするというの?」
「ひ……引き続き、離瀬夜一族の監視を。これからはもっと注意深く……気を配るから」
愛美の言葉を聞いて、小百合は近くにいた秘書の男性にA3サイズの用紙を渡した。用紙を受け取った秘書は、それを愛美のもとまで運び、手渡す。
愛美が受け取ったのは離婚届だった。
夫の記名欄には「離瀬夜真一郎」の名前があり、証人2名の記名欄には「南野恭子」と「柊小百合」の名前があった。
愛美は小百合に尋ねる。
「これは……どういうこと?」
「離瀬夜が柊と手を切るという意味よ。そしてヴォーフォルヴェルス社と鏡セアラのCM契約も今年いっぱいでおしまい。この離婚届が受理されなければ、HDCは容赦なく叔母様の醜聞をメディアに垂れ流して、柊グループ全体のイメージが損なわれるってこと」
小百合は秘書を介さず、今度は数枚の写真を愛美の前に投げ捨てた。
「離婚届と一緒に送付されてきたわ」
写真には愛美がホストクラブで羽目を外している姿が赤裸々に写っていた。中には、男性と二人で宿泊施設から出てくる場面も。
「私の愚妹ですら、こんな過ちは犯さない。私は愚妹を無価値と断じてきたけれど、無価値であるがゆえに、私に迷惑をかけない。ゼロはゼロのまま。それに比べて叔母様は、生ゴミね。廃棄するまで悪臭を充満させる。そこにあるだけでマイナスにさせる」
ふた回りも年下の姪に怯えて、愛美は土下座した。床に額を擦り付けた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、小百合さん! 私に出来ることならなんでもするからーーお願い、私を見捨てないで!」
「私が叔母様を見捨てると思う? 私はそんなに狭量で慈愛の欠片もないように見える?」
いいえ、と愛美はブンブン首を横に振る。
「な……なら、助けてくれるの?」
「当たり前じゃない。叔母様は家族なのだから。だけどまずは、その離婚届に名前を書いてちょうだい。それがなければ、救える者も救えない」
「わかった! 書く! 書くから」
愛美はバッグから筆記用具を探す。しかし普段から一切会社経営には関わっておらず、遊び呆けていた愛美はボールペン1本持っていなかった。
小百合は顎だけを振って、秘書に命じる。秘書は胸ポケットに刺さっていたペンを愛美に渡した。
秘書は小百合の前ーー小百合は背中を向けているがーーに鎮座するデスクに手のひらを向けた。そこで書くように、と誘導した。愛美は緊張しながら小百合のデスクに近づく。デスクに離婚届を置いて、身を震わせながら必要な記述を済ましていく。
「書き終えたわ……それで私はどうしたら?」
「離瀬夜の家に戻り、最低限の荷物をまとめたら、教会に行ってもらう。そこにいる神父があなたを導いてくれるでしょう。叔母様のこれから住む場所を与えてくれるはずよ」
「……あ、ありがとう。小百合さん」
「いいのよ、叔母様。私は寛大なの」
オフィスから愛美が退出するなり、秘書は小百合に確認した。
「よろしいのですか? あれでも小百合様の叔母上ですよ」
「だからこそ、よ」
柊の血を引くのならば、小百合のためになんでもすると言うのなら、せめてーー価値ある食肉になってもらわなければ。
「私の気が済まない」
結局、最後の最後まで。
柊小百合が叔母の顔を見ることは一度もなかった。
ーー◆◆◆◆◆◆◆ーー
「あれ? リョウは?」
「気持ちを整理してくるって、出掛けました」
未琴シュウは冴えない表情で言う。そうか、と間桐真人はすんなり納得した。
真人はシュウと涼の住む部屋を訪れていた。お茶を淹れます、と言うシュウに対して、真人は図々しく注文する。
「お菓子ある?」
「クッキーくらいしかないですけど、いいですか?」
「プレーンのやつ? チョコチップ入ってると最高なんだけど」
「プレーンです。ほんのりバターの香りを楽しんでください」
真人は本棚の上に視線をやる。そこには真人の贈った花が花瓶に挿して飾ってあった。
「よかった。捨てられてなかった」
「今日贈られてきたら、捨てられていたかもしれませんよ」
紅茶をカップに注ぎながら、シュウはつっけんどんに言う。それはどうかな、と真人は不敵に笑みを浮かべる。挑発的な真人に、シュウは目を吊り上げた。
「リョウさんはお兄さんと違って感情があるんです。馬鹿にしないでください」
「馬鹿にしていないさ。むしろリョウを馬鹿にしているのは君じゃないか?」
「なんでそうなるんですか。僕はいつもリョウさんを心配してーー」
シュウが皆までいう前に、真人は言葉を重ねる。
「リョウはもう子どもじゃない。しっかり自分の立場をわきまえている。僕たちがなんのために、離瀬夜京次さんを犠牲にしたのか、理解している。このまま下手に離瀬夜さんを庇い続ければ、アポロニオスに関わる全スタッフを路頭に迷わす。最善の道だと頭では理解できている。あとは感情を説得するだけ。おまけに、鏡セアラさんの幸せが完全に絶たれたわけじゃない」
シュウは深呼吸をして、冷静に思考する。悔しいけれど、真人の言う通りだった。アポロニオスというバンドはもはや4人のものだけではない。多くのスタッフが関わって運営している巨大資本だ。
当の京次には申し訳ない喩えになってしまうが、膿を出すには最適なタイミングだ。もしもセアラが京次と入籍してから母親の件で騒がれてしまえば、そんなに離瀬夜家と親密にしておきながら誘拐事件を防げなかったのかと、セアラはいらぬ非難を浴びる。
しかし京次が全ての責任をとってアポロニオスから脱退した後なら、メンバーでなくなってもなお、それでも京次への愛を貫くセアラは好印象。元よりセアラはセレブだし、離瀬夜家の財産目当てとは思われない。傷心の婚約者を支える女神になれる。
真人は、シュウの心がシステマチックに整理されていくのを感じた。出された紅茶を飲みながら、真人はシュウの本音を吐き出させようとする。
「僕は音楽的なことに関しては素人だけど、納得していない人間を見分けるのは得意なんだ。君、本当は京次くんに辞めてもらいたいと思っていたんじゃないか?」
シュウはクッキーの乗った皿を差し出しながら、真人の推測を否定する。
「僕は京次さんをアポロニオスの支柱だと思っています。あの人がいなければワールドツアーは完走できなかった」
「それは人間性やコミュニケーション能力の部分で、だろ。一番肝心な、ドラマーとしての離瀬夜さんには物足りなさを感じていたーーそうなんだろ、暴君の未琴シュウは?」
図星だった。シュウは代わりのドラマーを常に探していた。京次だけではなく、シュウはセアラよりも才能あるボーカリストも探していた。
シュウは否定せず、真人に尋ね返した。
「……いつから、気づかれていたんです?」
「僕と初めて会った日を覚えているかい? 10月5日の日曜日。そのときだ。僕はずっとアポロニオスのライブを配信で追っていたからね。実際の君を見て、落差を感じた」
メンバーに囲まれて話しているときのシュウは、笑みを絶やさず、充実しているように思える。だが真人が画面越しに見ていたベーシストの未琴シュウは、何かに懇願していた。助けてくれと悲鳴をあげているようだった。これでは物足りない。喉が渇いて仕方ない。もっと水を飲ませて欲しい。この渇きを癒してくれる才能と巡り合わせて欲しい。
このままでは、未琴シュウはいつか潰れてしまう。
真人には、そう見えたのだ。
「アポロニオスの鏡セアラ王朝は限界にきている。そろそろ君が王位を継ぐべきでは?」
「僕はセアラさんのおかげで、アポロニオスに入れたんですよ? そんな背中から刺すような真似はしません」
「義理や人情が大切だというのなら、そのヌルい考えこそ謀反だよ。セアラさんだって、そのつもりで君に目をかけているんだろ? 後継者として仕事を任せているんだろ? 遅かれ早かれってヤツなら、僕は早いほうが良いと思うよ。ちなみに、僕の妹は決断したよ。自分の作ったバンドの決定権、その全てをセアラさんに譲ったーー」
アポロニオスの王冠は常に強者に委ねられる。
真人に言われて、シュウは自分の甘さを知る。自分達が掲げていた理念の厳しさを知る。挫けたときに発破をかけるスローガンのように扱ってきた「言葉の重み」を知る。
真人はさらに追い討ちをかける。
「どのみち、HDCの傘下に入ったからには、それなりのディレクションが入る。縛りが入る。自由ではいられなくなる。君たちはいままで鏡セアラのブランドに守られてきた訳だが、今度はそうはいかない。スタッフの権利を全てこちらが握っているからね。このまま現状維持を続ければ、君たちはムーンバレットに突き放され続けるぞ」
「僕に操り人形になれと?」
「糸を手繰らなければ動かない人形など必要ない。必要なのは自律起動できる兵器だよ。それも、圧倒的な、ね」
シュウはすっかり自分の紅茶を淹れるのを忘れていた。手汗を握りながら、真人に尋ねる。
「……そちらの方針はある程度、理解しました。しかし腑に落ちません。南野社長はクルーズ船事業だけでなく、なぜエンターテイメントの業界にまで手を広げるんです? 噂では音楽業界だけでなく、俳優やイラストレーターなど、あらゆる才能を集めようとしているらしいじゃないですか」
「ごめん。具体的な計画は、まだ言う訳にはいかなくてね。けれど君は勘が良いみたいだから、少しだけ匂わせておくとしよう」
真人は紅茶をひとくち口に含み、香りを楽しみながら胃に送る。ぷはあ、美味しいね、と上機嫌になる。
「さきほどの君の言葉を借りるなら、南野社長は背中から刺すつもりなんだよ」
シュウは思わず震えた。つまりそれは、王冠の簒奪に他ならない。ふたりきりしかいないのに、シュウは声を潜めた。
「ライセンス契約している親会社から、あらゆる権利を奪い取るつもりですか? アメリカのHDCから」
「想像に任せるよ。ただ、新しい地平を切り開くには、まだまだ道は遠い。そのために、君たちの力を必要としている。よろしく頼むよ。未来の世界的プロデューサーさん」
ーーこの日より、未琴シュウの心には冷たい風が吹き始めた。
氷帝。
後に未琴シュウの呼ばれる異名となるが、その未来は、まだ間桐真人しか知らない。
【氷帝降誕・了】
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